太宗皇帝   皇子時代
 
 武徳四年(己卯、621年)
 上は、秦王の功績が絶大なので、前代の官位では、どれもこれも彼の功績を称するには役不足だと考え、特に天策上将を設置し、その位は王公の上とした。
 冬、十月。世民を天策上将として、司徒、陜東道大行台尚書令を兼任させ、二万戸を増邑した。天策府を開府させ、官属を設置する。
 斉王元吉を司空とした。
 世民は、海内が平定されて行くので、宮西に館を開き、四方の文学の士をに集めた。出張教師として、王府属杜如晦、記室房玄齢、虞世南、文学猪(ほんとうはころもへん)亮、姚思廉、主簿李玄道、参軍蔡允恭、薛元敬、顔相時、諮議典籖蘇勗、天策府従事中郎于志寧、軍諮祭酒蘇世長、記室薛収、倉曹李守素、国子助教陸徳明、孔穎達、信都の蓋文達、宋州総管府戸曹許敬宗等を本官兼任で文学館学士とした。彼等を三番に分けて、交代で泊まらせ、珍膳を提供してとても手厚く礼遇した。
 世民は、朝廷や公事の暇を見つけては館中を訪れ、学士達と文籍について討論し、時には深夜になって泊まって行くこともあった。また、庫直の閻立本へ像を書かせた。猪亮は、その画へ「十八学士」と名付けた。士大夫で、文学館へ選ばれる者を、時人達は「瀛州へ登った。」と言った。
 允恭は大寶の弟の子、元敬は収の従子、相時は師古の弟、立本は毘の子息である。
 杜如晦は、始めは秦王の府兵曹参軍となったが、すぐに陜州長史となった。この頃、秦王府の幕僚が外官へ回されることが多く、世民はこれを患っていた。すると、房玄齢が言った。
「他の人間は惜しむに足りませんが、杜如晦だけは王佐の才です。大王が四方を経営したいのなら、如晦がいなければなりません。」
 世民は驚いて言った。
「公の言葉通りなら、失ってしまうところだった。」
 そして、杜如晦を府属とするよう上奏した。
 杜如晦は、玄齢と共にいつも世民の外征に従軍し、帷幄にて参謀していた。軍中には多くの問題が起こったが、杜如晦はどれも流れるように裁いていった。
 世民が敵軍を破り城を落とすごとに、将佐達は争って寶貨を奪い合ったが、房玄齢だけは人物を見つけて幕府へ連れ帰った。また、将佐の中で雄略のある者は、玄齢は必ず深く情誼を結んで、世民の為に死力を尽くさせた。世民の命令で、玄齢が事を奏上するごとに、上は感嘆して言った。
「玄齢が我が子の為に事を陳情する時、千里を距てているのに、まるで息子と面談しているようだ。」
 李玄道は、かつて李密に仕えて、記室となっていた。李密が敗北すると、その官属は皆王世充の捕虜となった。他の者達は殺されるのではと懼れており、明け方まで寝付かれなかった。だが、玄道だけは自若として言った。
「死生は天命だ。憂えたら免れるとゆうものではないぞ!」
 人々は、その識量に感服した。 

  

 上の晋陽での起兵は、全て秦王世民のはかりごとだった。この時、上は世民へ言った。
「もしも事が成就したら、天下は全て汝から貰った物。汝が太子となるべきだ。」
 だが、世民は拝礼して、辞退した。
 上が唐王となるに及んで、将佐はまた、世民を世子とするよう請うた。上もその気になったが、世民が固辞したので、沙汰止みとなった。
 太子の建成は、寛簡な性格で酒色や狩猟を喜び、斉王元吉は過失が多かったので、どちらも上から寵愛されていなかった。
 武徳五年、世民の功名は日々盛んになってゆく。上はいつも建成に代えて太子にしようと思っていた。建成は内心不安で、元吉と共謀して世民を失脚させようと、各々人を引き込んで党友を樹立した。
 上は晩年、寵姫が増え、小王は二十人にも及んだ。その母親達は、自分達の地位を固めようと、競って長子と結託した。建成と元吉は、自分の想いを曲げて諸妃嬪へ取り入った。彼等は、阿諛追従や贈賄など、あらゆる手段で上へ媚びを求めた。この時期、彼等と張ショウ、や尹徳妃が姦通しているとの噂まで流れたが、宮廷の深窓のことで、真実は判らない。
 この頃、東宮、諸王公、妃主の家及び後宮の親戚達は、長安で勝手放題に法を破っていたが、役人は何もしなかった。世民は承乾殿に、元吉は武徳殿後院に住んで居り、彼等は上台や東宮と昼夜行き来していたが、誰も禁じなかった。太子や二王が上台へ出入りする時は、皆、馬に乗って弓刀を持っており、まるで普通の家を行き来するような有様だった。太子の令と、斉王や秦王の教が詔を無視して出されたので、役人達はどれに従って良いか判らず、ただ、新しいおふれに従った。
 世民は太子や斉王と違って妃嬪へ取り入らなかったので、諸妃嬪は争って建成や元吉を褒め、世民を譏った。
 世民が洛陽を平定すると、上は、隋の宮人を選閲させたり府庫の財物を没収させたりする為に、貴妃等数人を洛陽へ派遣した。すると貴妃達は、私的に世民へ取り入って、財貨を求めたり、親戚の就官運動を行ったりしたが、世民は言った。
「ここにある寶貨は、既に全ての目録を上へ送っている。また、官職は賢才や功績を建てた者へ与えるべきものだ。」
 そして、全て拒否した。これによって、ますます怨みを買った。
 世民は、淮南王神通の功績を認めて数十頃の田を賜下した。ところが、上は、張ショウ、がお気に入りで、彼女の父親へ、土地を賜下するとの手敕を下した。しかし、神通は、既に自分が貰ったものだと言って、土地を与えなかった。すると、張ショウ、は上へ訴えた。
「妾の父へ田を賜るとの敕をいただきましたのに、秦王がこれを奪って神通へ与えてしまったのです。」
 上は遂に怒りを発して世民を責めた。
「我が手敕が、お前の教より劣るのか!」
 他日、左僕射裴寂へ言った。
「あいつは長い間、外で戦争をしていた。その間に書生からあれこれ吹き込まれ、すっかり別人になってしまった。」
 尹徳妃の父親の阿鼠は驕慢専横な男だった。ある時、秦王府属の杜如晦がその門の前を行き過ぎていると、阿鼠の家童数人が襲いかかり、如晦を馬から引きずり降ろしてその馬を奪い、あまつさえ如晦の指を一本折って言った。
「てめえ、我が門の前を馬に乗ったまま行き過ぎるとは、一体何様だ!」
 これを知った阿鼠は、世民が上へ訴えることを恐れ、先手を打って徳妃へ上奏させた。
「秦王の近習が、妾の家で狼藉を働いたのです。」
 上はまた怒り、世民を責めた。
「おまえの近習は、我が妃嬪の家でさえ狼藉を働くのだ!ましてや庶民には何をしているか!」
 世民はありのままを伝えて弁護したが、上は信じなかった。
 世民は、宮中の宴会へ侍って諸妃嬪と対するたびに、太穆皇后が若死にして上が天下を取る姿を見ることができなかったことを思い、涙を流すことも屡々だったが、上はそれを見て不愉快だった。そこで、諸妃嬪達は、共謀して世民を讒言した。
「海内は幸いにして無事ですし、陛下も御壮年。ですからみんなで楽しもうとしていますのに、秦王だけは涙を流しています。きっと、妾達を憎んでおられるのですわ。これでは陛下万歳の後、妾達母子は必ず秦王から受け入れられず、遂には皆殺しとなってしまうでしょう!」
 そして、みんなして泣き崩れ、更に言った。
「皇太子は仁孝です。陛下が妾達母子を託してくださいましたら、きっと無事でしょう。」
 上は、彼女達を思って悲しそうだった。
 そんなこんなで、上は皇太子を替える気がなくなり、建成や元吉を寵愛し、世民を疎んじるようになった。
 太子中允王珪と洗馬魏徴は、太子へ説いた。
「秦王の功績は天下を覆っており、中外から信奉されています。陛下は、ただ年長とゆうだけで東宮へ住まれていますが、海内を鎮服させる大功がありません。今、劉黒闥は敗残兵の寄せ集まりで、その兵力も一万もおりませんし、資糧も欠乏しています。大軍で臨めば、枯れ木を蹴散らすようなもの。殿下自ら功名を建て、山東の豪傑達を招き寄せれば、その地位も安泰になるでしょう。」
 そこで太子は行軍を請願し、上はこれを許した。
 珪は、支(「支/頁」)の兄の子である。 

  

 七年、六月、壬戌。慶州都督楊文幹が造反した。その経緯は次の通り。
 斉王元吉が太子建成へ、秦王世民を除くよう勧めて言った。
「兄が手ずから刃に掛けなさい!」
 世民は上に随従して元吉の第へ御幸した。元吉は護軍の宇文寶を寝内へ伏せ、世民を誘おうとしたが、建成は仁厚な性格なので、これを止めた。元吉は、憤って言った。
「兄貴の為にやるのだぞ。俺に何の得があるのだ!」
 建成は、長安及び四方から、勝手に驍勇の士二千人を募り、東宮の衞士にした。永林の左右に分けて屯営させ、これを「長林兵」と称した。また、右虞候率の可達志をひそかに燕王李藝の元へ遣り、幽州突騎三百を連れてこさせ、東宮の諸坊へ置いた。東宮の警備を補強するためである。だが、これらのことが密告され、上は建成を召しだして責めた。可達志は 州へ流す。
 楊文幹は、かつて東宮の宿衞で、建成とはとても親密だったので、私的に壮士を募り、長安へ送っていた。
 上が仁智宮へ御幸するとき、建成には留守を命じ、世民と元吉は自分に随従させた。建成は、元吉へ世民を処分させようと、言った。
「安危の計は、今年決するぞ。」
 又、文幹へ甲を送る為、郎将爾朱煥と校尉橋公山を派遣した。だが彼等はタク州へ行くと、「変事が起こった」と上奏し、太子が文幹へ挙兵させて表裏相応じるのだと告げた。また、寧州の人杜鳳挙が宮へ行って建成の行状を伝えた。
 上は怒り、他のことにかこつけけて、自ら詔を書いて建成を行在所へ呼び付けた。建成は懼れ、敢えて赴かない。太子舎人徐師 は城に據って挙兵するよう勧めた。・事主簿趙弘智は低い身分の者が着る服や車を使い、従者も連れずに出頭して謝罪するよう勧めた。
 結局建成は、仁智宮へ赴くことにした。六十里も進まないうちにその官属を全員毛鴻賓堡へ留め、十余騎のみで上へ謁見し、平身低頭謝罪した。身を震わせ地へ平伏して、殆ど気絶せんばかりだった。だが、上の怒りは解けず、この夜、建成を幕下へ置き、麦飯を食わせた。そのかたわら、殿中監陳福へ守りを固めさせ、司農卿宇文穎を派遣して文幹へ急いで来るよう命じた。
 穎は、慶州へ着くと、事実をありのままに語った。遂に文幹は造反したのである。上は、左武衞将軍銭九隴と霊州都督楊師道を派遣して、これを撃たせた。
 甲子、上は秦王世民を呼んで、これを謀った。すると、世民は言った。
「文幹は、小僧っ子です。敢えて狂逆を行ったのですから、既に府僚に捕らえられているか殺されてしまっているでしょう。もし無事でも、一将を派遣すれば討伐できます。」
 だが、上は言った。
「そうではないぞ。文幹の造反は建成へ連なっているから、これに呼応する者が多いかも知れないのだ。汝が自ら討伐するべきだ。帰ってきたら、汝を太子に立てよう。隋の文帝は自分の子息を誅殺したが、我にはそんな真似はできない。建成は、蜀王に封じよう。蜀の兵卒は脆弱だ。後日彼が汝の臣下になれたならば、汝は彼を保全してやれ。だが仕えることができなかったならば、汝は容易にこれを取れるぞ!」
 仁智宮は山中にある。だから上は、盗賊が乱入することを恐れ、夜、宿衞を率いて南から山外へ出した。数十里進むと、東宮の官属が後へ続いてきた。そこで三十人を一隊として、それぞれ兵に包囲させた。翌日、再び仁智宮へ戻る。
 世民が出陣すると、元吉と妃嬪かわるがわるに建成の赦免を請うた。封徳彝もまた、建成のために外の営を解いた。上の決意は遂に翻り、建成を京師へ戻して留守をさせた。ただ、兄弟が不睦だったことのみを責め、罪は太子中允王珪、左衞率韋挺、天策兵曹参軍杜淹へ押しつけ、彼等を 州へ流した。廷は、沖の子息である。
 洛陽が平定した時、杜淹は長い間仕官できなかったので、建成へ仕えようとした。房玄齢は、淹の為人を狡猾と見ていたので、彼が建成を教え導いたらますます世民にとって不利になると恐れ、世民と相談して天策府へ引き入れたのだった。
 七月、楊文幹が寧州を襲撃し、落とした。吏民を掠め、これを駆り立てて百家堡へ據る。
 秦王世民の軍が寧州まで進軍すると、文幹の党類は、皆、潰れた。
 癸酉、文幹は麾下から殺され、その首が京師へ送られた。宇文穎を捕らえ、誅殺する。 

  

 七月、ある者が、上へ説いた。
「突厥が屡々関中へ来寇するのは、子女玉帛が全て長安にあるからです。もしも長安を焼き払って、ここを都にしなければ、胡の来寇は自然と止むでしょう。」
 上は、同意した。そこで中書侍郎宇文士及へ南山を越えて樊・登(「登/里」)の地へ行かせ、ここへ遷都しようと考えた。
 太子建成、斉王元吉、裴寂は皆、その策に賛成した。蕭禹(「王/禹」)等は、それが不可だと判っていたが、敢えて諫めなかった。秦王世民は、諫めて言った。
「戎狄が患となるのは、古来からのことです。陛下は聖武で龍興して中夏を光宅としました。精騎は百万、征伐へ向かえば敵がありません。なんで胡が辺境で騒ぐからといって、即座に遷都してこれを避けるのですか。四海の羞、百世に笑いを取りますぞ!あの霍去病は漢の一家臣に過ぎませんでしたが、それでも匈奴を滅ぼしてやろうとゆう志を持っていました。ましてや臣は忝なくも藩国を授かっています。どうか数年の帰還をください。そうすれば、頡利の首を闕したへ持ってきましょう。もしもできなければ、それから遷都しても遅くありません。」
 上は言った。
「善し。」
 建成が言う。
「昔、樊會(「口/會」)は十万の衆で匈奴の中を横断しようとしましたが、秦王の言うことは、これと同じではないですか!」
 世民は言った。
「形勢が異なり、用兵も違う。樊會など小豎、何で言うに足りるか!十年と経たないうちに、必ず漠北を平定する。虚言ではない!」
 上は、遷都を中止した。
 建成と妃嬪は、共に世民を讒言して言った。
「突厥は屡々辺患を為していますが、収穫を得ればすぐに引き返します。秦王は寇を防ぐとゆう名分に仮託して、実は兵権を全て握り、簒奪をしようとしているに違いありません!」
 上が城南で狩猟をし、太子、秦、斉王が、皆、随従した。上は、三人の子息に得物比べをするよう命じた。建成は、胡馬を持っていた。よく肥えていて、飛び跳ねるのが好き。太子はこれを世民へ授けて言った。
「この馬は、すごい駿馬だ。数丈の溝でも跳び越える。弟は乗馬が巧いから、これに乗って試してみな。」
 世民がこれに乗って鹿を追うと、馬が飛び跳ね、世民は数穂先へはね飛ばされた。馬が起ったら、世民は又、これに乗る。これを再三繰り返して、世民は宇文士及を振り返り、言った。
「彼は、我を殺すつもりか。だが、死生は天命。何で傷つけることができようか!」
 これを聞いた建成は、妃嬪へ讒言させた。
「秦王は、自ら言いました。『自分には天命がある。天下の主となるまでなんで犬死にしようか!』と。」
 上は大怒し、まず建成と元吉を呼び寄せ、その後に世民を呼び寄せて責めた。
「天子は自ずから天命がある。智力で求められるものではない。汝は何で性急にこれを求めるのだ!」
 世民は冠を取り、頓首して裁判に掛けるよう請うたが、上の怒りは解けなかった。すると、そこに役人がやって来て突厥の入寇を告げたので、上は顔つきを改め、世民を慰労して冠をつけさせ、彼と突厥について謀った。
 閏月、己未、世民と元吉へタク州の兵を率いて突厥を拒むよう詔が降りる。上は蘭池にて餞をした。
 上は、盗賊などが来寇する度に世民へ討伐を命じたが、事が平定すると猜疑が益々甚だしくなった。 

  

 八月、壬申、突厥が忻州へ来寇した。
 丙子、并州へ来寇し、京師に戒厳令が布かれた。
 戊寅、綏州へ来寇、刺史の劉大倶がこれを撃退した。
 この時、頡利、突利の二可汗が国を挙げて入寇し、南上へ陣営を連ねた。秦王世民が、兵を率いてこれを拒む。
 たまたま関中に長雨が続き食糧の運搬が途絶えたので、士卒は遠征に疲れ切ってしまい、器械もそうとうにくたびれた。朝廷や軍中は、これを憂えた。
 世民は、タク州にて虜と遭遇し、兵を指揮して戦おうとした。
 己卯、可汗は萬余騎を率いて城西へ至り、五隴阪に陣取ったので、将士は震え上がった。
 世民は、元吉へ言った。
「今、虜騎は陵へ寄りかかっている。ここで怯を示してはいけない。これと一戦するべきだ。汝は、我と共に来れるか?」
 元吉は懼れて言った。
「虜の形勢は見ての通り。何で軽々しく出撃できようか。万一不利になったら、悔いても及ばないぞ!」
 世民は言った。
「汝が出撃しないなら、我一人でも行く。汝はここに留まって見ていろ。」
 世民は、騎兵を率いて虜の仁まで駆けつけ、彼等へ告げた。
「国家と可汗は和親した。何でその約定に背いて我が領地へ深く入り込んだのだ!我は秦王だ。可汗よ、勇気があるなら一人で出てきて我と戦え。もし大勢で来るのなら、この百騎で相手してやる。」
 頡利はこれを測らず、笑って応じなかった。
 世民は更に前進し、騎兵を派遣して突利へ告げた。
「汝は、かつて我と同盟を結び、危急の時は助け合った仲だ。それが今回は兵を率いて相攻め合う。なんと香火の情(神仏の前で誓いを立てるとき、香火を立てる。)の無いことか!」
 しかし、突利も又応じなかった。
 世民は更に前進し、溝水を渡ろうとした。頡利は、世民が軽々しく前進するのを見、また、「香火」の言葉を聞き、突利と世民が実は手を結んでいるのではないかと疑い、使者を派遣して世民を止めて言った。
「王よ、河を渡られるな。我に他意はない。ただ王との盟約を固めたいだけだ。」
 そして、兵を引いて少し退却した。
 この後、シトシトとした雨は益々甚だしくなったので、世民は諸将へ言った。
「虜が恃みとしているのは、ただ弓矢だけだ。今、雨足は益々強くなっている。これでは筋も膠も緩んでしまい、弓を使うことはできない。今の奴等は、翼の折れた飛鳥も同然。我等は屋内で暖かい物を食べ、刀も槊も研いでいる。逸を以て労を制するとはこの事だ。この機に乗じなければ、また何を待とうか!」
 そして夜半、密かに軍を出し、雨を冒して進んだ。突厥は、大いに驚く。
 世民は、また使者を派遣して突利へ利害を説いた。突利は悦び、言いつけに従った。
 頡利は戦いたがったが、突利は不可とした。そこで突利とその夾畢特勒の阿史那思摩を世民の元へ派遣して、和親を請うた。世民は、これを許した。思摩は、頡利の従叔である。
 これによって突利は世民へ将来を託そうと、兄弟の契りを請うた。世民も又、恩を以てこれを撫でようと思い、盟約を結んで去った。
 庚寅、岐州刺史柴紹が杜陽谷にて突厥を破った。
 壬申、突厥の阿史那思摩が入見した。上は彼を御長椅子まで登らせて慰労した。
 思摩の容貌は、胡に似ていて、突厥には見えなかった。だから處羅可汗は、彼が阿史那の種ではなのではないかと疑っていたので、處羅と頡利の世を通じて常に夾畢特勒であり、ついに兵を動員できる身分にはなれなかった。入朝の後、和順王の爵位を賜る。
 丁酉、左僕射裴寂を突厥へ使者として派遣する。

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