宗教・学問
 
 武徳九年(丙戌、626年)九月、太宗皇帝の詔が降りた。
「民間に、妄りに妖祠を立ててはならない。また、卜筮の正術ではない、その他の雑占は、悉く禁じる。」 

  

 同月、上が弘文殿に四部書二十余萬巻を集めた。殿側に弘文館を設置し、天下の文学の士虞世南、猪(ほんとうは衣偏)亮、姚思廉、欧陽詢、蔡允恭、蕭徳言等を精選して、本官はそのままに学士を兼任させ、毎日交代で詰めさせた。朝廷での政務の合間に内殿へ引き入れ、先人の言動や商権政事について講論させ、時にはそれが夜中まで続いた。
 また、三品以上の子孫を取って弘文館学士とした。 

  

 十二月、上は傅奕を召して食事を賜り、言った。
「汝が前に奏上した事(「玄武門の変」の前、太宗が天下を取ると上奏した。)は、我を禍へ追い込んだようなものだった。しかし、それに懲りることなく、今後卿が天文の変化を見て予知することがあったら、全て上奏してくれ。」
 上は、かつて奕へ言ったことがある。
「仏の教えは玄妙で、師と仰ぐに足りる。卿一人、どうしてその理を悟らないのか。」
 対して、奕は言った。
「仏は、胡の中のケツとも言うべき者で、あの土地の人間を誑かしました。中国でも邪悪な人間は老荘の玄談を取り妖幻の言葉で飾り立て、愚俗を欺くのに用います。民にとって益がなく、国に害があります。臣は悟らないのではありません。鄙びているから学ばないのです。」
 上は得心した。 

  

 貞観二年、上は言った。
「梁の武帝の君臣は、ただ苦行や空寂のみを語り合っていた。其の挙げ句、侯景が乱を起こした時には、百官は馬に乗ることさえできなかった。元帝は、周の軍隊に包囲されても、なお老子を講釈していた。百官は軍服を着てこれを聞いたとゆう。これにらは深く戒めるに足りる。朕が好むのは、ただ堯、舜、周、孔の道である。鳥に翼が要るように、魚に水が要るように、これを失えば死んでしまう。ほんの暫しの時間でも無くせない物だ。」 

  

 五年、春、正月、詔して僧・尼・道士を呼び寄せ父母を拝した。
 同月、役人達が、皇太子の元服を二月の吉日に行うよう上表し、併せてその為の兵備儀杖を請願した。すると、上は言った。
「東方の耕作が忙しい。十月に行うが良い。」
 すると、少傅の蕭禹が上奏した。
「陰陽に依れば、二月の方が良いのですが。」
 上は言った。
「吉凶は人にある。もしも陰陽によって動き礼儀を顧みなければ、吉を得ることができるか!正しいことを行えば、吉は自ずからやってくる。農事こそ、最優先だ。失ってはならない。」 

  

 十一月丙子、上が圜丘を祀った。 

  

 七年、直太史ヨウの人李淳風が霊台の候儀制度が疎略で、ただ赤道があるだけだと上奏し、渾天黄道儀も整備するよう請願し、これを許されていた。
 癸巳、これが完成したと報告した。
(天文学の観測器具でしょう。暦を作ったり、天候を予測する為に必要な器具を整備したとゆうのは判りますが、今まで設置していた器具と今回整備した器具の各々の用途=「この頃の天文技術の水準」については、どなたかに解説して欲しいものです。) 

  

 十一年三月。房玄齢、魏徴が、新しく編纂した新礼百三十八編を上納した。
 丙午、詔してこれを行う。 

  

 十二年、三月辛亥。著作佐郎トウ世隆が、上の文章を集めて記録として残すよう表請した。すると、上は言った。
「朕の辞令のうち民に有益なものは、史書がこれを記録するから、不朽となるぞ。無益なものなら、これを集めて何の役に立つ!梁の武帝親子や陳の後主、隋の煬帝は皆、後世へ文集を遺したが、それが滅亡を救ったのか!人主となったら徳政がないことを患う。文章など何だ!」
 そして、遂に許さなかった。 

  

 十四年二月、丁丑、上が国子監へ御幸し、釈奠を観、祭酒孔穎達に孝経を講釈させた。祭酒以下諸生高弟へ至るまで、各々帛を賜下した。
 この時、上は天下から名儒を大いに徴発して学官とし、屡々国子監へも御幸し、彼等へ講釈させた。一大経を明らかに出来る以上の能力を持つ学生は、皆、官吏とした。学舎を千二百間増築し、学生を二千二百六十人増員した。屯営の飛騎へも博士を給し、彼等へも経を教え、経典に精通した者は進級させた。ここにおいて学者が四方から京師へ雲集し、遂には高麗、百済、新羅、高昌、吐蕃の諸酋長が子弟を派遣して国学へ入れさせるようになり、聴講生は八千余人に及んだ。
 上は、学説が多すぎるし文章が煩雑なので、孔穎達や諸儒へ五経を選定させ、これを”正義”と名付け、学者へ習わせた。
 乙未、近世の名儒梁の皇甫侃、猪(ほんとうは衣偏)仲都、周の熊安生、沈重、陳の沈文阿、周弘正、張譏、隋の何妥、劉玄(「火/玄」)等の子孫を捜して仕官させるよう詔が降りた。 

  

 十四年十一月、甲子朔。冬至だった。上は南郊で祀った。
 この時、戊寅暦では、癸亥を朔(旧暦の一日)としていた。宣義郎李淳風が上表した。
「古暦では、日は子半で起きております。しかし今年の甲子朔の早朝が冬至でした。ですから、もとの太史令傅仁均が少し減らして子初を朔としました。この誤差は三刻です。天文との乖離を使って、暦を改定いたしましょう。」
 衆議は、仁均が朔の微差を定め、淳風が精密に校正したので、淳風の建議に従うよう請い、これに従った。
(暦と天候が合わなくなったので、暦を作り直したとゆうことは判るのですが、詳細がまるで判りません。専門的な知識を持っている人にしっかりと翻訳して欲しい一文です。) 

  

 丁卯、礼官が、五月に高祖の父母の服齊衰を加え、嫡子婦は期に服し、嫂、叔、弟妻、夫兄、舅は皆小功に服するよう請願し、これに従った。
(これも、葬儀の礼法に関わっているのでしょう。私には詳細不明です。”期””小功”は、期間、もしくは礼法を指すのでしょう。”齊衰”は葬礼の格式でしょうか?) 

  

 上は、近世の陰陽雑書に俗説や偽りが多いとして、太常博士呂才と諸々の術士に、世間に流布する価値のあるものを鑑定させ、四十七巻とした。
 十五年、三月己酉。書は完成し、これを上納する。
 才はこれらの全てに序文を書き、経史の感性で問い質した。その宅経の序文に言う、
「近世の巫術は、氏姓を妄りに五姓に分け、張や王等を商とし、武やユ等を羽となし、諧韻を真似ている。その中で、柳を宮と為し趙を角と為すのは、何と不明なことか。この両者は一つの姓から出ているのに、宮と商に分けている。あるいは、二字の姓も微羽(半音)に入れていない。これは即ち、昔のことをまるで勉強せず、義理も判らない者の所業である。」
 また、禄命の序文に言う。
「禄命の書(生年月日による占い)は、大勢の人間が的中したと言っており、人々もこれを信じている。しかし、長平にて四十五万人が穴埋めになった時、全ての人間が三刑を犯したとは伝わっていない。漢の光武帝が中興した時、南陽の人士が大勢貴族となったが、彼等は全て六合だったのか!今また、同じ年の同禄の生まれで、貴賤が天地ほどに隔たっている者がいる。命も胎も同じなのに、長寿と夭逝がいる。歴史上の人間が禄命通りの人生を送ったのなら、魯の荘公は貧賤で、貧弱な体つきで、ただ長寿を得るだけだった筈。秦の始皇帝は、官爵がなく、放縦に禄を得、奴婢は少なく、その人生は初めは何も持たないのに、最後には裕福になる。漢の武帝と後魏の孝文帝は、共に官爵がない。宋の武帝は禄にも長命にも恵まれず、ただ長男があるだけで、次男は夭折する。だが、実際の彼等の人生はどうか?これらは皆、禄命が著しく外れた実例である。」
 葬の序文に言う。
「孝経に言う。『その宅兆を卜し、これを安置する。』そもそも、墓穴が完成した後、霊魂は長く休めるものだ。だが、世の中が移り変わり、水がわき出たり石が落ちてきたりしたら霊魂の永眠を妨げてしまう。しかし、このようなことは事前に知ることが出来ない。だから、これを亀甲や筮竹に尋ねるのだ。最近ではこれが誇張され、あるいは歳月を選び、あるいは墓田の相を見て、一つでも手落ちがあると命に関わると言われている。だが、礼を按ずるに、天子、諸侯、大夫はそれぞれに埋葬するまでの月数が決められている。これは、古人は埋葬する年月を選ばなかったとゆうことだ。春秋の一節にある。『九月丁巳、定公を葬るが、雨が降って埋葬できなかった。戊午、日が西に傾いた頃、埋葬できた。』これは、埋葬の日を選ばなかったとゆうことだ。鄭で簡公を葬る時、司墓の室が路にかかっていた。これを壊せば朝に葬れるが、壊さなければ日中になってしまう。この時、子産は壊さなかった。これは、埋葬の時間を選ばなかったのだ。昔は、皆、国都の北の兆域に埋葬していた。これは地を選ばなかったのだ。今、葬書は、子孫の富貴貧賤、長寿夭折は、全て卜葬に起因すると言っている。ところで子文は令尹となって三度やめさせられた。柳下恵は士師となって三度退けられた。だが、彼等はその度に先祖の墓を移設したわけではない。だが、野俗がこの理を知らぬのにつけこんで妖巫が妄言し、遂に親が死んだら埋葬する土地を選んで官爵を願い、もがりの時には埋葬する日時を選んで財利を謀るようになってしまった。あるいは、『辰の日には泣いてはいけない』と言われれば、親族はニッコリとして弔問客へ対する。あるいは、『同属は墓穴へ臨むのを忌む』と言われれば、遂には吉事に着る服を着て、自分の親を送りもしない。教を傷つけ礼を破る。これ以上に甚だしいものはない!」
 術士は皆、この言葉を憎んだが、識者は皆、正論だと言った。 

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