政治
 
 隋末の動乱期に豪傑が並び起ち、衆を擁して土地を占拠し、互いに戦い合った。唐が強大になると、軍閥が次々と帰順してきた。この時上皇は、州県を分割して彼等へ与えた。そうゆうわけで、州県の数は開皇、大業の頃と比べて倍増してしまった。
 州県が倍増すると、民へ対して官吏が増える。上はこの弊害を改革しようと考え、貞観元年、二月、省の大併合を命じ、山川の地形に合わせて全国を十道に分けた。一は関内、二は河南、三は河東、四は河北、五は山南、六は隴右、七は淮南、八は江南、九は剣南、十は嶺南。 

  

 上は公卿へ、国を長く保つ方策を尋ねた。すると、蕭禹が言った。
「三代は封建制で長く続きましたが、秦は孤立して速やかに滅びました。」
 上はこれに同意した。こうして、封建制度についての議論が始まった。
 当初、上皇は宗室を強くして天下を鎮定しようと考えていた。だから、故皇の再従や三従弟まで王に封じた。ましてや自分の兄弟の子息なら童子でも王に封じたので、王が数十人も生まれた。
 上は、暇な折に群臣へ尋ねた。
「宗室の子ばかりを封じるとゆうのは、天下の利かな?」
 すると、封徳彝が言った。
「前世では、ただ皇子と兄弟だけを王に封じ、それ以外は大功がなければ王になれませんでした。上皇は九族に敦く睦まれましたので、宗室を大勢封じました。両漢以来、こんなに多いことはありません。 爵命は尊いものですから、たくさんの人間を労役として与えなければなりません。これは、天下へ至公を示すことになりませんぞ!」
 上は言った。
「その通りだ。朕が天子となって百姓を養っているのは、我が宗族を百姓へ養わさせる為ではないのだ!」
 十一月、庚寅、宗室の郡王を、すべて県公へ降格した。ただ、功績有る数人のみは例外的に降格しなかった。
 この年、皇子長沙郡王恪を漢王に、宜陽郡王祐を楚王へ進爵した。 

  

 隋の頃の官吏の推薦は、十一月に始めて春に終わった。だから推挙する人々は、期限に迫られるのを患っていた。ここにいたって、吏部侍郎の劉林甫が、いつでも人を推挙できるように上奏したのが裁可され、人々はその便宜を喜んだ。
 唐の建国当初は、乱世の後のことなので、仕官するのを嫌がる士大夫が大勢居り、役人が不足した。省符を各州へ配る人間や、州府や詔の使者などは、赤牒で徴発した人間を使用することも多かった。ここに至って、それを悉く廃止し、各省へ官吏を選ばせ、七千余人を集めた。林甫は、それらの人間を才覚に従って振り分けたが、各々適所に納まったので、人々はその手腕を褒め称えた。
 上が、房玄齢へ言った。
「官は適宜な人材を得ることが大切なのだ。大勢いればよいとゆうものではない。」
 そして、省を併合するよう房玄齢へ命じた。官吏は文武を合わせて六百四十三人だけ残した。 

  

 二年、六司侍郎を設置して、六尚書の副官とした。併せて、左右の司郎中を各一名設置する。
 己亥、制を降ろした。
「今より、中書、門下及び三品以上が入閣して議論するときは、必ず諫官を従え、過失があったらすぐに諫めさせるようにせよ。」 

  

 九月。丙午、老齢で退職した文武官が参朝する時は、現職の時の官品の上位に置くことにした。 

  

 上は言った。
「朕の為に民を養うのは、ただ都督と刺史だ。朕はいつも彼等の名前を屏風に書いて、坐伏の間にもこれを観ている。彼等の任官中の善悪の事績を聞けば、名前の下に書き留めておき、黜陟の参考としている。県令は、一番民に近い官職だ。人を良く選ばなければいけない。」
 そして内外の五品以上の官吏へ、県令を任せられる人材を推挙させた。 

  

 故事では、およそ軍国の大事は中書舎人が各々所見を執り、その名を署名する。これを五花判事と言った。中書侍郎、中書令がこれを審判し、給事中、黄門侍郎がこれを比較する。
 貞観三年、三月。上は、始めて旧制を復活させた。これによって、失政は少なくなった。 

  

 四年、八月、丙午、詔が降りた。
「今、服装は官位によって差がない。今後は三品以上は紫の服、四品・五品は緋色の服、六品・七品は緑色の服、八品は青の服とせよ。なお、婦人はその夫と同色を着せよ。」 

  

 初め、上は群臣へ封建制度について議論するよう命じた。すると魏徴が論じた。
「もしも諸侯を封建したら、卿大夫は自分の収入を上げるために、必ず重税を課します。また、京畿から上がる賦税は少なく、畿外からの税収でまかなっているのが現状です。もしも畿外をことごとく国邑に封じてしまったら、経費が不足します。また、燕、秦、趙、代といった諸国は夷と隣接しています。外敵が侵入したとき、彼等の兵力だけでは撃退は困難かも知れません。」
 礼部尚書領軍将軍百薬は論じた。
「国祚の長短は天命です。ですから、堯、舜のような大聖は国の守りを固めず、他の賢人へ国を譲りました。秦・漢は微賎な性格ですからこれを拒もうと喘ぎ、結局防ぎきれなかったのです。いま、功臣や一族の子孫へ皆封土を与えたなら、数世代の後、彼等は驕淫自恣になってしまい、互いに戦争して滅ぼしあってしまうでしょう。これでは民は一番苦しんでしまいます。守令を選び任せるべきです。」
 中書侍郎顔師古は論じた。
「王の封土は、全ての諸子へ分割相続させて各封土が大きくならぬようにし、それらの領土の間には州県を混在させて諸侯同志が隣接しないようにします。そうして相互に維持させて各々国境を守らせ、協力同心させたならば、京室を扶けることができるでしょう。官僚は省司に選用させ、法令以外には勝手な刑罰を作らせず、朝貢礼儀はしっかりした様式を成文化しておく。このようにすれば、万世憂いはありません。」
 五年、十一月、詔が降りた。
皇家の宗室及び勲賢の臣は、鎮藩部を作り子孫へ伝えよ。重大な理由がなければ黜免してはいけない。所司は明文化し、等級を定めて上聞せよ。」 

  

 新令には三師官がなかった。六年二月、丙戌、上は詔して特にこれを設置した。 

  

 八年、正月。上は、大臣を諸道へ派遣して、地方官達を査定させたかったが、適切な人材がいなかった。李靖が魏徴を推薦すると、上は言った。
「徴には我が過失を指摘補整して貰わねばならぬから、一日として側を離せないのだ。」
 そして、靖と太常卿蕭禹等およそ十三人へ天下へ分行するよう命じた。
「長吏の賢不肖を察し、民間の疾苦を問い、老人へ礼を尽くし、窮乏したものを救済し、志得ないものを抜擢し、俾使の行ったところは朕が観たかの如くせよ。」 

  

 同年、中書舎人李高輔が上言した。
「地方官の卑品は、俸禄を貰っていません。飢えや寒さに迫られたら、なんで清白を保てましょうか。今、官庫はようやく満ちてきました。彼等へ俸禄を与えるべきです。その後に汚職を禁じ、厳格な罰を与えることにしましょう。また、密王元暁等は皆、陛下の弟です。帝子が諸叔へ拝礼して、叔が皆答礼するべきです。昭穆の序列が乱れておりますので、礼を以て訓諭するべきでございます。」
 書が上奏され、上はこれを善とした。 

  

 九年、七月辛亥、詔が降りた。
「国は草創したばかりで、宗廟の制度がまだ不備である。今回遷附するので、礼官へ詳議させよ。」
 諫議大夫朱子奢が三昭三穆を立てて太祖の位を空けないよう請うた。ここにおいて太廟を増築して弘農府君及び高祖並びに旧神主四体で六室とした。
 房玄齢等は、涼の武昭王を始祖とするよう議したが、左庶子の于志寧は、武昭王は王業の始まりではないから始祖としてはいけないと議し、上もそれに従った。 

  

 十年、上は言った。
「法令は、屡々変えてはならぬ。頻繁に変えれば煩わしく、官長は全てを記載することができない。また、前後に矛盾が有れば、吏が姦を為すことができる。今からは法を変える時には、つまびらかに慎んで行え。」 

  

 同年、統軍を折衝都尉、別将を果毅都尉と改称した。
 およそ十道へ六百三十四府を設置した。関内には二百六十一の府があり、これは全て諸衞と東宮六率へ隷属させる。上府の兵は千二百人。中府は千人、下府は八百人。三百人を団とし、団には校尉がいる。五十人を隊とし、隊には正がいる。十人を火とし、火には長がいる。
 兵卒毎に武装や食糧の規定数があり、これは各人で揃え官庫へしまっておき、征行があれば支給する。二十才で兵となり、六十で退役する。騎射が巧い者は越騎となり、その他は歩兵とする。毎年季冬に、折衝都尉が部下を教練する。馬が必要な者は官から代金を貰って市場で買う。宿衞にあたる者は当番制で、遠い者は回数が少なく、近い者は多いが、一回は一ヶ月で交代する。 

  

 十一年、六月己未。詩腹州都督荊王元景等二十一王は、任命されている刺史を子孫へ世襲させると詔した。
 戊辰、功臣長孫無忌等十四人を刺史とし、世襲させた。
 彼等は皆、重大な理由がない限り、罷免させない事とした。
 貞観十三年、左庶子の于志寧が古今の事例を元に、宗室や群臣へ刺史を襲封させるのは久安の道ではないと上奏した。そこで上は上疏して論争するよう命じた。
 侍御史馬周が上疏した。その大意は、
「堯、舜の父親でさえ、丹朱や商均のような息子を持ちました。子孫とゆうだけで刺史にしますと、万一驕慢や暗愚の者がいましたら、大勢の庶民がその殃を蒙り、国家はその害を受けます。これを断絶させようとしたら子文の治の余慶に背きますが、留めようとしたら欒黶の悪の余殃があります。
(子文の治;楚で闘椒が造反したので、荘王は若ゴウ氏を滅ぼした。しかし、彼等の祖の子文が祖で善い政治をしたことを想い、「子文の家系が断絶したら、どうやって善を勧められるのか!」と言って、縁者に家を継がせた。 欒黶の悪;秦伯が士鞅へ尋ねた。「晋の大夫の中では、誰が最初に亡ぶかな?」「欒氏です。欒黶の残虐は甚だしゅうございます。ですが、彼の代はまだ保つでしょう。亡ぶのは息子の盈の代です。むかし、周の民が召公を慕ったように、晋ではまだ武子の遺徳が残っており、一族とゆうだけで慕っています。ましてや欒黶は、武子の子息ですから。ですが、欒黶が死んだら盈が善行を施す前に欒黶の悪業への怒りが爆発してしまうでしょう。」;共に、出典は左伝)
 ですが、その害毒が百姓の怨みとして溜まってしまえば、死んでしまった臣下への恩愛を棄てるしかないのは明白です。これは、彼等への愛が、却って彼等を害することになります。ですから、彼等へは封戸だけ与え、才覚のある者へのみ、それに見合った官職を授けましょう。そうすれば彼等は蒙った大恩を福禄として子孫へ流せます。」
 司空、趙州刺史長孫無忌等は知行国へ下向することを願わず、上表して固辞した。
「恩を承って以来、恐々として薄氷を踏むような心地で、宗族も釜ゆでを目前にしたように憂慮しております。三代の封建は、朝廷に全国を統べる力がなかったから、これを利としたのです。ですからこの頃は、礼楽節文は王の自由になりませんでした。両漢は諸侯を廃止して太守を設置しました。過去の弊害を除去して、時宜に合わせたのです。今、臣等の為に再び封建を復興されようとしておられますが、これが聖朝の綱紀を紊乱する事を懼れます。のみならず、後世我等に不肖の子孫が出ましたら、あるいは邦憲に抵触し、自ら一族を誅殺させてしまうかもしれません。世代を越えた褒賞が、根絶の禍を招くのです。どうか哀れんで下さいませ。お願いでございます。既に出した詔を撤回し、我等へ性命の恩を賜ってください。」
 無忌は、また、嫁の長楽公主にも取りなしを頼み、かつ、言った。
「臣は荊棘を背負って陛下へ仕えました。今、海内は統一され平寧になりましたのに、なんで我等を外州へ棄てられますのか!これは左遷に他なりませんぞ!」
 上は言った。
「土地を割いて功臣を封じるのは古今の通義であり、公等の子孫が朕の子孫を補佐して共に万代まで栄えることを願っていたのだ。だが、公等は怨望を発した。朕が、どうして公等の封を強要しようか!」
 二月庚子、詔を降ろして刺史の世封を停止した。 

  

 十二年、十一月丁未。はじめて左、右の屯営飛騎を玄武門へ置き、諸将にこれを指揮させた。又、馬を速く走らせる者、力が強い者、驍健な者、騎射の巧い者を選んで百騎と号し、駿馬に乗らせて虎革を として、御幸の時に付き従わせるようにした。 

  

 十三年、二月戊戌。尚書が上奏した。
「この頃の陛下の近習達の人選は、あるいは侍児や歌舞のような微賎の者で礼訓を蔑視し、あるいは縁座で官奴となって恨み骨髄に滲みている人間ばかりになっています。これからは、後宮や東宮の内職に欠員が出ましたら、良家の才人や徳人を選んで補填し、礼を納めさせますよう。官奴や微賎の人で補充してはなりません。」
 上は、これに従った。
(「掖庭の選」が不明だったのですが、文意から「近習」と推測しました。宦官ではなくて、皇帝や皇太子の御学友のような人々を指すのではないでしょうか) 

  

 従来、諸州の長官は年の初めに自ら貢物を京師まで持ってきていた。これを朝集使とか、考使とかと言っていた。ところが、京師には彼等の邸宅がなかったので、宿屋などで商売人達と雑居するしかなかった。
 十七年、上は彼等の為に邸宅を作らせた。 

  

 十九年、吏部尚書の職務を代行していた中書令馬周が、四時選が煩雑なので従来通りの十一月に人選して三月に終わる形式に戻したいと請願した。これに従う。
(元年に劉林甫が四時選に変えた時は、「人々はその便宜を喜んだ」と評していたのに、わずか十八年でまた、元の形式に戻ってしまった。もう少しつっこんだ論評が欲しいところです。) 

  

 二十年、正月丁丑。大理卿孫伏伽等二十二人を六條として四方を巡察させ、その報告で刺史、県令以下大勢が貶黜された。ところが、それらの人々のうち、闕を詣でて冤罪だと訴える者が相継いだので、上は猪遂良へ事情を聴取させ、上自らが裁決した。その結果、二十人が抜擢されたが、死罪となったものは七人。流罪以下罷免までの者は数百千人に登った。 

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