封禅
 
 貞観五年、正月、癸未、朝集使の趙郡王孝恭等が、四夷が服属してきたので封禅をしたいと上表した。上は自ら不許可の詔を降ろした。
 十二月、己亥、朝集使利州都督武士獲(本当は、獣偏の代わりに尋。則天武后の父親。)等が上表して封禅を請うた。
六年、正月。文武官が、再び封禅を請願した。上は言った。
「卿等は皆、封禅を帝王の盛事と思っているようだが、朕の考えは違う。天下が安泰で資材も人手も足りていれば、封禅をしなくても、何の不名誉があろうか。昔、秦の始皇帝は封禅をし、漢の文帝はしなかったが、後世、文帝が始皇帝に劣る主君と評価されているのか!それに、天に仕え地を掃くのが祭だ。泰山の巓へ登って数尺の土を封じなければ、その誠敬を展べられないなど、とんでもない誤りだ!」
 だが、群臣は尚も請願して止まない。いつしか上もこれに従いたくなったが、魏徴一人、これを不可とした。
 上は言った。
「公は朕に封禅をさせたがらないのは、我が功績がまだ高くないからか?」
「高うございます!」
「それでは、徳がまだ厚くないからか?」
「厚うございます!」
「中国がまだ安定していないからか?」
「安定しております!」
「四夷が、まだ服属していないからか?」
「服属しています!」
「今年の稔りが豊作ではないからか?」
「豊作でございます!」
「符瑞がまだ顕れないからか?」
「顕れております!」
「それならば、どうして封禅をしてはいけないのだ?」
「陛下にはこの六者が揃っております。しかし、隋末の大乱の後で、人口はまだ少なく倉廩もまだ満ちておりません。車駕が東巡しますと、千乗の車や一万の騎兵が随従し、その労役は大変なもの、容易にはできません。それに陛下が封禅すれば、万国から人々を集めなければなりません。遠夷の君長達も付き従います。今、伊、洛から東は海、岱へ至るまで、炊煙は稀にしか挙がらず草木もはえないような土地もございます。ここへ狄・戎を引き入れるのは、彼等へ我が国の虚弱さを示すようなものです。ましてや遠くから来賓を招くのならば賞さなければ徳望をなくしてしまいます。その費用をはじき出すために、百姓達は何年間労役に苦しむのでしょうか。虚名を崇えて実害を受けるようなことを、どうして陛下はなされるのですか!」
 やがて、河南と河北の数州で大水が起こったので、封禅の件は沙汰止みとなった。
 この年、公卿以下、封禅を請願する者が相継いだ。上は、彼等を諭して、言った。
「昔から病気持ちだったが、高山へ登れば益々悪化するかもしれない。公等、もうこの件は口にするな。」 

  

 十一年、三月。群臣が再び封禅を請うた。上は、秘書監顔師古等へその礼を議論させ、房玄齢へ裁定させた。 

  

 十四年十月、甲戌。荊王元景等が、上表して再び封禅を請うたが、上は許さなかった。
 十一月丙子、百官が再び封禅を請願し、詔してこれを許し、更に緒儒に儀式の詳細を定めるよう命じた。太常卿韋挺等を封禅使とする。
 十五年、四月辛卯朔。来年二月に泰山を祀ると詔した。
 五月、壬申。并州の父老が闕を詣で、泰山にて封禅を行うよう上へ請願した。晋陽から帰ってきて、上はこれを許した。
 己酉、太微に彗星が出た。太子令薛頤が、まだ東封をしてはいけないと上言した。
 辛亥、起居郎猪遂良もまた、これを言った。
 丙辰、封禅を止めるとの詔が降りた。
 ところで、薛延陀の真珠可汗は、上が封禅すると聞いて臣下へ言った。
「天子が泰山で封禅を行えば、大勢の兵隊が随従するから、辺境の警備が薄くなる。この時なら思摩を取るなど、枯れ木をさらうようなものだ。」
 そして太子の大度設へ同羅、僕骨、廻乞(「糸/乞」)、靺鞨、習(「雨/習」)等の兵を動員させた。総勢二十万。漠南を渡り白道川へ屯営し、善陽嶺に據って突厥を攻撃した。
 俟利必可汗は防ぎきれず、部落を率いて長城へ入り朔州を保って、使者を派遣して急を告げた。
 十月癸酉、上は、営州都督張倹へ手勢及び奚、習(「雨/習」)、契丹の兵を率いてその東境を抑えるよう命じ、兵部尚書李世勣を朔州道行軍総管として、兵六万騎千二百で羽方へ屯営させ、右衞大将軍李大亮を霊州道行軍総管とし、兵四万騎五千で霊武へ屯営させ、右屯衞大将軍張士貴へ兵一万七千を与えて慶州道行軍総管として雲中へ出させ、涼州都督李襲誉を涼州道行軍総管として、西へ出させた。 

  

 二十年、十二月己丑。群臣が封禅するよう何度も請願したので、これに従った。羽衞を造って洛陽宮へ送るよう詔する。
 二十一年、正月丁酉、明年の仲春に泰山を祀ると詔した。社首を禅するなど、全て十五年の時の朝議の結果に従うことになった。
 八月、壬戌、薛延陀が降伏したばかりで、土木工事も屡々起こし、加えて河北に水害が起こったので、明年の封禅を中止する、と、詔が降りた。 

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