太平公主の乱
 
 景雲元年(庚戌、710年)六月、李隆基が決起して韋氏を誅し、睿宗が即位する。
 己酉、衡陽王成義を申王、巴陵王隆範を岐王、彭城王隆業を薛王とする。太平公主へ実封を加え、一万戸とする。
 太平公主は沈着鋭敏で謀略が多い人間で、武后は自分に似ていると思った。だから諸子の中で愛寵を一身に受けていた。密謀に預かることも多かったが、武后の威厳を畏れていたので、権勢を執ろうとはしなかった。
 張易之の誅殺事件では、公主の力が大きかった。中宗の世では、韋后も安楽公主も彼女を畏れていた。また、太子と共に韋氏を誅する。大功を屡々立てたので、ますます尊重された。上はいつも彼女と大政を図り、彼女が入奏するごとに上は長時間座談した。ある時、太平公主が朝謁しなかった。すると、宰相がわざわざ彼女の第へやって来て、理由を尋ねた。
 宰相が事を奏上するたびに、上はすぐに尋ねた。
「これは、太平と議論したのか?」
 又問う、
「三郎の意見は聞いたのか?」
 そして、その後にこれを裁可するのだ。三郎とは、太子のことである。
 公主の要望は、上は全て叶えてやった。宰相以下の進退も、彼女の一言にかかる。それ以外の士の推薦や人事などは、数え上げることもできない。その権勢は人主を傾け、すり寄ってくる者で門前に市ができた。
 子息の薛祟行、祟敏、祟簡は、皆、王へ封じられた。田園は都近辺にあまねく広がる。諸々の素晴らしい器玩をかき集め、遠くは嶺・蜀から輸送者が道に数珠繋ぎになった。そして彼女の住んでいる屋敷は、宮掖のようだった。
 太平公主は、太子が年少なので軽く見ていたが、次第にその英武を憚るようになり、闇弱の者を立てて自分の権力を永続させようと考えるようになった。そこで、屡々流言を流した。
「太子は嫡長ではないから、立つのはおかしい。」
 十月己亥、浮ついた噂を断ち切るため、上は制を降して中外を戒諭した。
 公主は太子のやることを覗き、大小と無く必ず上へ告げ口した。太子の左右もまた、往々公主の耳目となったので、太子は非常に不安になった。 

 太平公主と益州長史竇懐貞等が結託して朋党を作り、太子を追い落とそうと謀った。韋安石も屋敷へ招いたが、安石は固辞して行かなかった。
 上はかつて、密かに安石を召して言った。
「朝廷の臣下達は、皆、東宮の子分になったと聞くが、卿はこれをしっかり調べてくれ。」
 対して、安石は言った。
「陛下は、どうして亡国の言葉を吐かれますのか!これは絶対、太平公主の謀略です。太子は社稷に功績があり、仁明孝友であること、天下周知です。どうか陛下、讒言に惑わされないでください。」
 上は驚いて辺りを見回し、言った。
「朕は知っておる。卿も口を慎め。」
 この時、公主が御簾の下で盗み聞きしていたのだ。以来、安石を陥れる噂が飛び交い、詮議に掛けられようとしたが、郭元振のおかげで免れた。
 公主はまた、かつて輦に乗って光範門内にて宰相を招き、東宮を変えるよう風諭した。皆は顔色を失ったが、宋景は抵抗して言った。
「東宮は天下へ大功があります。真の宗廟社稷の主です。公主はどうしてこの様なこと軽々しく言われるのですか!」
 景と姚元之は密かに上言した。
「宋王は陛下の元子、タク王は高宗の長孫。太平公主は彼等と手を組んで、東宮を追い落とそうとします。どうか宋王とタク王を刺史として地方へ出し、左、右羽林を岐、薛二王の指揮下から太子の直参へ移してください。太平公主や武攸既(「既/旦」)等は皆、東都へ安置してください。」
 上は言った。
「朕は、他に兄弟もなく、ただ妹の太平公主ただ一人が居るだけだ。なんで東都など遠いところへ置けようか!しかし、諸王は卿等の処理に任せよう。」
 そして、まず制を下した。
「諸王、フバは今後禁兵を指揮してはならない。現職の者は、他の官へ改める。」
 この頃、上は侍臣へ言った。
「ここ五日のうちに、宮殿へ乱入する兵が居ると、術者が予言した。卿等、朕の為に警備を厳重にせよ。」
 張説が言った。
「これは、東宮と離間させようとの讒言です。どうか陛下、太子を監国としてください。そうすれば、そんな流言はなくなります。」
 姚元之は言った。
「張説の言葉は、社稷の至計です。」
 上は悦んだ。
 二年二月丙子朔、宋王成器を同州刺史、タク王守禮をタク州刺史、左羽林大将軍岐王隆範を左衞率、右羽林大将軍薛王隆業を右衞率とする。太平公主は蒲州へ安置する。
 丁丑、太子を監国に命じ、六品以下の除官及び徒罪以下の裁断は太子の処分に任せる。
 太平公主は、姚元之や宋景の進言を聞き、大怒して、太子を責めた。太子は懼れ、元之と景が姑、兄の間を離間したので、極法にて罰するよう上奏した。
 甲申、元之を申州刺史、景を楚州刺史へ降格する。
 丙戌、宋王、タク王の刺史も中止された。 

 上が三品以上の群臣を召して、言った。
「朕はもともと万乗の貴など求めず、心静かに暮らしたかった。皇嗣や皇太弟に指名されたが、皆、辞退した。今、この位を太子へ伝えたいが、どうだろうか?」
 群臣は何も言わなかった。
 太子は右庶子李景伯を使者にして固辞したが、許さない。
 太平公主の腰巾着の殿中侍御史和逢堯が上言した。
「陛下はまだ御高齢ではありませんし、四海から仰ぎ頼られています。どうして早急に退位なさいますのか!」
 それで中止した。
 戊子、制が降りる。
「およそ、政事は全て太子へ処断させる。軍旅、死刑及び五品以上の除授は、まず太子と協議してから、その後に上聞せよ。」
 壬寅、天下へ恩赦を下す。
 五月、太子が位を宋王成器へ譲った。許さず。太平公主を京師へ呼び戻すことを請願した。これは許す。 

 壬戌、殿中監竇懐貞を御史大夫、同平章事とする。
 僧恵範は太平公主の威勢を恃み、民の資産を強奪していた。御史大夫薛謙光と殿中侍御史慕容旬(「王/旬」)が上奏してこれを弾劾する。公主は上へ訴えて、謙光を岐州刺史として下向させた。
 八月庚午、中書令韋安石を左僕射兼太子賓客、同中書門下三品とした。
 太平公主は、安石が自分の派閥に入らないので、虚名を以て祟え、その実権を奪ったのだ。
 九月庚辰、竇懐貞を侍中とした。
 懐貞は朝廷から退くごとに、必ず太平公主の第を詣でた。この頃、金仙、玉眞の二道観が修繕された。群臣の多くは諫めたが、ただ懐貞一人だけこれを勧めたので、実現したのだ。
 時の人々は言った。
「懐貞は、昔は皇后の阿シャだったが、今は公主の邑司となった。」
 十月甲辰、上が承天門へ御幸した。韋安石、郭元振、竇懐貞、李日知、張説を率いて制を宣し、責めて言った。
「政事や教化に欠けるところが多く、水旱が災いを為し、府庫はますます空っぽになり、僚吏は日毎に増える。朕の薄徳のせいではあるが、補佐役も又、才がなかった。安石は左僕射・東都留守、元振は吏部尚書、懐貞は左御史大夫、日知は戸部尚書、説は左丞として、全て政事をやめさせる。」
 そして、吏部尚書劉幽求を侍中、右散騎常侍魏知古を左散騎常侍、太子・事崔是を中書侍郎として、皆、同中書門下三品とした。中書侍郎陸象先を同平章事とする。
 皆、太平公主の意向である。
 象先は清浄寡欲で、崇高なことを言っていたので、時の人々から重んじられていた。是は私的に公主へ侍っていた。公主がこれを宰相としたがると、是は象先と一緒に昇格することを請うた。公主が断ると、是は言った。
「それならば、是も宰相にはなれません。」
 そこで公主は二人一緒に宰相とするよう上へ言った。上は是を宰相にしたくなかったが、公主が泣いて請うので、これに従った。
 先天元年(712)二月、蒲州刺史蕭至忠が、太平公主へ推薦を頼んだ。太平公主は刑部尚書へ引き立てる。彼の妹婿の華州刺史蒋欽緒が、彼へ言った。
「子の才覚で、どうして栄達できないことを憂えるのか!不正な手段で妄りに求めるな。」
 至忠は応じなかった。欽緒は退くと、嘆いて言った。
「我等は九代続いて卿となった一族なのに、一挙に滅亡するのか!哀しいなあ!」
 至忠はもともと高尚な人格だと評判だった。かつて、公主の邸宅の門から出た時に宋景と会った時、景は言った。
「異な所で蕭君と会ったものだ。」
 至忠は笑って言った。
「宋生の言う通りだ!」
 たちまち馬へ鞭打って去った。
 六月丁未、右散騎常侍武攸既が卒した。定王へ追封する。
 同月、岑羲が、節愍太子の乱の時に保護の功績があったとの理由で、癸丑、侍中となった。
 人相見が、同中書門下三品竇懐貞へ言った。
「公には刑厄がある。」
 懐貞は懼れ、官を辞職して安国寺の奴隷となることを請うた。敕がおりて、辞職を許す。
 七月乙亥、懐貞を左僕射兼御史大夫、平章軍国重事とする。 

  七月。彗星が西方に出た。軒轅を経て太微へ入り、大角へ至る。
 太平公主の命令で、術者が上へ言った。
「彗星は、旧を除き新を布く象徴です。又、帝座と心前星にも変事があります。以上の天文は、皇太子を天子に立てよと告げています。」
 上は言った。
「徳のある者へ位を伝えて、災いを避けよう。吾が志は決まっている。」
 太平公主及びその党類は”不可”と力諫したが、上は言った。
「中宗の時、群姦が専横し、天変がしばしば顕れた。この時朕は、災異へ対応する為賢子を選んでこれを立てるよう中宗へ請うた。ところが中宗は不機嫌となったので、朕は憂恐の余り数日食事も摂れなかった。彼の時にはこれを勧め、自分の時には実行できないなどとゆう事が、どうしてできようか!」
 太子はこれを聞くと、馳せ参じて謁見し、地面に身を投げ出して叩頭して請うた。
「臣は微功のおかげで序列を越えて世継ぎとなりましたので、恐懼してなりません。その上、陛下が理由も語らず大位を速やかに伝えようとしています。何故でしょうか?」
 上は言った。
「社稷が再び安泰となったのも、我が天下を得たのも、全て汝の力だ。今、帝座に災いがある。だから汝へ授け、禍を転じて福とするのだ。お前は何を疑うのか!」
 太子はなおも固辞すると、上は言った。
「柩を待って、その後に即位することだけが、孝子の道と思っているのか!」
 太子は泪を流して退出した。
 壬辰、位を太子へ伝えると制が降りた。太子は上表して固辞する。
 太平公主は、退位しても大政は自分で執るように上へ勧めた。上は太子へ言った。
「天下の重責に耐えかねて、汝へ位を伝えると思っているのか?昔、舜は禹へ禅譲した後も、なお自ら巡狩した。朕も位を伝えたとは言え、どうして国家を忘れようか!その軍国の大事は、共に考えようぞ。」
 八月庚子、玄宗が即位した。睿宗を尊んで太上皇とする。
 上皇は「朕」と自称し、命令は「誥」といい、五日に一度太極殿にて朝を受ける。皇帝は「予」と自称し、命令を「制」「敕」と言い、毎日武徳殿にて朝を受ける。三品以上の除授及び大刑政決は上皇が決め、それ以外は全て皇帝が決める。 

 初め、河内の人王居(「王/居」)は王同皎の陰謀に加担しており、亡命して江都で代書人をしていた。
 上が太子となるや、居は長安へ戻った。諸既(「既/旦」)主簿に選ばれたので、太子へお礼を言いに言った。居が廷中まで来ると、視線を上げてゆっくりと歩いた。宦官が言った。
「太子は御簾の内にいます。」
 居は言った。
「誰のことを太子と呼んでいるのだ?今は、ただ太平公主独りがいるだけではないか!」
 太子は、すぐに謁見して共に語った。すると、居は言った。
「韋庶人を弑逆なさったが、彼女には人心は服していなかったので、誅殺するのも容易だった。太平公主は武后の娘で凶猾無比、しかも大臣の多くは彼女の手下です。ですから居は密かに憂えているのです。」
 太子は引き寄せて同じ長椅子に座り、泣いて言った。
「主上の兄弟は、ただ太平公主一人。そんなことを言えば主上の心を傷つけるのが恐いのですが、言わなければ患は日々深くなります。どうすれば良いのでしょうか?」
「天子の孝は匹夫とは違い、宗廟社稷を安らげる事にあります。蓋主は漢の昭帝の姉で、幼いことから一緒に暮らしていましたが、罪が有ればなお誅しました。天下の為なら、どうして小さい節義を顧みれましょうか!」
 太子は悦んで言った。
「君には、寡人と遊んでくれる何の芸がありますか?」
「丹砂で煉丹を作るのと、諧謔を詠むことができます。」
 太子は上奏して彼を・事府司直とし、毎日共に暮らし、やがて太子中舎人とした。
 玄宗が即位するに及び、中書侍郎となる。
 この時、宰相の多くは太平公主の党類だった。劉幽求は右羽林将軍張韋(「日/韋」)と共に、羽林兵で彼等を誅殺しようと謀った。そこで、韋へ密かに上へ言わせた。
「竇懐貞、崔是、岑羲は皆、公主の引き立てで出世し、日夜陰謀を巡らせています。早く図らなければ、一旦事が起これば太上皇はどうして安泰でいれましょうか!どうか早く誅してください。臣は既に幽求と計略を定めました。ただ、陛下の命令を待つばかりです。」
 上は深く同意した。
 韋はその陰謀を侍御史登(「登/里」)光賓へ洩らした。上は大いに懼れて、すぐにその事実を暴露させた。
 丙辰、幽求を下獄する。役人が奏上した。
「幽求等は骨肉を離間しました。死罪に相当します。」
 上は幽求には大功があるので殺してはならぬと言った。
 癸亥、幽求を封州、張韋は峰州、光賓は粛(「糸/粛」)州へ流す。
 初め、崔是が襄州刺史だった頃、ひそかに焦王重福と手紙のやり取りをしており、重福は彼へ金帯を遣っていた。重福が敗れると、是は死罪となるべき所を、張説、劉幽求が弁護して免れたのだ。だが、是は太平公主の腰巾着になると、公主と謀って説の政事をやめさせ、左丞として東都を分司させた。幽求が封州へ流されると、是は廣州都督周利貞を風諭して、彼を殺させようとした。
 桂州都督王俊(本当は日偏)はその陰謀を知り、幽求を留めて遣らなかった。利貞はしばしば牒を出して幽求を求めたが、俊は応じない。そこで利貞は上聞した。
 是はしばしば幽求を遣るよう俊へ迫った。幽求は俊へ言った。
「公は執政を拒んで流人を保っている。こんなことをすれば無事では済まない。徒に連座するだけだ。」
 そして、廣州へ行くことを固く請うた。俊は言った。
「公のやったことで、朋友の交わりを断つべきではない。俊は公の為に罪に落ちても、恨むことはない。」
 ついに留めて遣らなかった。これ故に、幽求は死を免れたのだ。
 九月丁卯朔、日食が起こった。 

 太平公主は上皇の勢力を楯にして専横を振るい、上と仲が悪くなった。七人の宰相のうち五人まで彼女の息がかかっていた。文武の臣下の大半は彼女の派閥だった。
 開元元年(713)竇懐貞、岑羲、蕭至忠、崔是及び太子少保薛稷、ヨウ州長史新興王晋、左羽林大将軍常元楷、知右羽林将軍事李慈、左金吾将軍李欽、中書舎人李猷、右散騎常侍賈鷹(本当は、鳥ではなく月)福、鴻臚卿唐俊及び僧恵範等が廃立の陰謀を巡らせた。また、宮人元氏の陰謀で、赤箭粉の中に毒を入れた。(赤箭は、生薬の名前。毎日服用する滋養強壮剤。)晋は、徳良の孫である。元楷と慈は屡々公主の第へ行き来し、謀略を結んだ。
 王居が上へ言った。
「事は迫っています。速く発しなければなりません。」
 左丞張説は東都から人を派遣して佩刀を献上した。上洛して決行するとの意志表示だ。
 荊州長史崔日用は入朝して上奏した。
「太平公主の逆謀は昨日今日のことではありません。かつて陛下が東宮だった頃はまだ臣子でしたから、これを討伐するのなら、謀略を使わなければなりませんでした。しかし、今は既に大寶へ光臨しておりますので、ただ一枚の制書を下せば、誰が敢えて逆らいましょうか?万一悪党共が志を得たら、悔いてもどうして及びましょうか!」
 上は言った。
「まさしく、卿の言うとおりだ。ただ、上皇が驚動するぞ。」
「四海を安んじるのが天子の孝。もし姦人が志を得たら、社稷は廃墟となります。どうして孝を行えましょうか!どうか先に北軍を定め、その後に逆党を捕らえましょう。そうすれば上皇は驚動しないでしょう。」
 上は同意した。日用を、吏部尚書とする。
 七月。公主が今月の四日に乱を作る予定だと、魏知古が告げた。元楷と慈が羽林兵を率いて武徳殿へ突入し、懐貞、至忠、羲等が南牙で挙兵してこれに応じる、とゆうのが、その計画である。
 上は、岐王範、薛王業、郭元振及び龍武将軍王毛仲、殿中少監姜皎、太僕少卿李令問、尚乗奉御王守一、内給事高力士、果毅李守徳等と、これを誅殺する計略を定めた。
 守一は仁皎の子息。力士はバン州の人である。
 甲子。上は王毛仲へ使用していない厩馬及び兵三百余人を与え、武徳門から虔化門へ突入させた。元楷と慈を召して、まず斬り殺し、内客省にて鷹福、猷を捕らえて出、朝堂にて至忠、羲を捕らえ、皆、斬り殺した。
 懐貞は溝中へ逃げ込んで自ら首吊り自殺した。その屍を切り刻んで、「毒」と改姓する。
 上皇は変事を聞き、承天門楼へ登った。すると、郭元振が「皇帝は竇懐貞等を誅殺せよとゆう、前の誥を奉じただけで、他意はない」と、奏した。次いで、上が楼上へやって来た。そこで上皇は、懐貞等の罪状を書いた誥を下し、天下へ特赦を下した。ただし、逆人の党類だけは、赦さない。
 薛稷は万年の牢獄で死を賜った。
 乙丑、上皇は誥を下した。
「今後は、軍国政刑、全て皇帝の処分に従え。朕は平素の宿願に従い、無為で心気を養う。」
 この日、百福殿へ引っ越した。
 太平公主は山寺へ逃げ行った。三日後に出てきたが、家にて死を賜る。公主の諸子と党類が、数十人殺された。
 薛祟簡は屡々その母を諫めて鞭打たれていたので、特に死を免じられた。李の姓を賜下され、官爵も従来通りだった。
 公主の家を探ると、財貨が山積みされていた。珍物は御庫に等しかった。厩の羊や馬、田園が生み出す銭を没収したら、数年の歳入に匹敵した。恵範の家財も、また数十万緡あった。新興王晋の姓をレイ(「厂/萬」)と改める。
 初め、上が竇懐貞等らの誅罰を謀った時、崔是を召して腹心としようとしたが、是の弟のジョウが是へ言った。
「主上から問われたら、包み隠さず応えて下さい。」
 是は従わなかった。
 懐貞等が誅されてから、是と右丞盧藏用は、私的に太平公主へ侍った罪に問われ、是は竇州へ蔵用は瀧州へ流された。
 新興王晋は、刑に臨んで嘆いて言った。
「もともと、この陰謀を企てたのは是なのに、今、吾は死に是は生きる。冤罪ではないか!」
 立ち会った役人が宮人元氏を糾問したところ、元氏は是も陰謀に加担していたと自白したので、是は荊州にて死を追賜された。
 薛稷の子息の伯陽は主を娶っていたので、死を免れて嶺南へ流されたが、途上で自殺した。
 初め、太平公主とその仲間が廃立を謀った時、竇懐貞、蕭至忠、岑羲、崔是は皆、同意したが、陸象先一人不可とした。公主は言った。
「長を廃して少を立てたのだから、既に順ではありません。その上徳を失った。どうして廃立してはならぬのですか!」
 象先は言った。
「既に功績を建てたのです。罪を犯してこそ廃すべきです。今、実に無罪。象先は決して従いませんぞ。」
 公主は怒り、去らせた。 上は懐貞等を誅殺すると、象先を召し出して言った。
「冬の寒さに松柏を知ると言うが、真理だ。」
 この頃、公主の枝党を糾明しており、大勢の人間が連座されそうになったが、象先は正しい理屈を述べ、大勢の人間が全うした。だが、自ら吹聴したりしなかったので、この時には、誰も知らなかった。
 百官は、公主へ対して善を為したり悪を為したりした平素の行為で、あるものは降格され、ある者は出世し、人事は年内に片がつかなかった。
 丁卯、上は承天門へ御幸し、天下へ恩赦を下した。
 己巳、功臣の郭元振等を賞した。各々の手柄によって、官爵、第舎、金帛などを賜下する。高力士を右監門将軍、知内侍省事とする。
 話は遡るが、太宗が制を定めた時、内侍省には三品官を置かなかった。黄衣廩食し、門を守って命令を伝えるだけだった。天后は女主だったけれども、宦官は専横しなかった。中宗の時、へつらい者が増え七品以上の宦官は千余人に及んだが、緋色の衣を来ている者は、まだ少なかった。
 上が藩邸に居る頃、力士は心を傾けて奉仕した。上が太子になるに及んで、上奏して内給事にした。ここに至って、蕭、岑を誅した事で賞したのだ。
 この後、宦官は次第に増員して三千余人になり、三品将軍に叙任される者も増えてきた。緋、紫の衣も千余人に及ぶ。宦官の隆盛はここから始まった。 

王船山 曰く、(「読通鑑論」より、) 

 太平公主が、太子を危うくしようと陰謀を巡らせた。そこで宋景や姚元之は、太平公主を東都へ追い出そうと請願したが、睿宗は言った。
「朕の兄弟は、もう、ただ一妹しかいない。どうして遠い東都へ置くことができようか。」
 何とも悲しい言葉ではないか。
 武氏が唐の宗室を滅ぼそうとして、一族を平然と惨殺した。こうして高宗の子供は、ただ三人しか残らなかった。父は惰弱で子供達の命を保つことができず、母は残忍で彼等を殺すことを憚らない。更に、淫乱凶悪な韋氏と宗楚客が後を継いだ。殺されたのが中宗だけで済み、睿宗と公主が助かったのは、幸運だった。
「野に沢に、集まり伏せる屍にも、兄弟の身は尋ね寄る。(詩経、小雅「常棣」)」と言うのに、その兄弟が殺され尽くして、ただ二人だけしか残っていないのだ。詩にも「恐ろしい日には、汝と我と身を寄せ合う(小雅「谷風」)」とあるが、ましてや睿宗と公主は実の兄妹なのだ。
 だから、姚宋の言葉が社稷の為に的を得た計略で、睿宗がどんなに心を強く持ったとしても、どうして即決することができただろうか。
 公主はその一生を、どっぷりと悍戻の中に浸かって生きてきた。その耳は雌鶏の刻の声を聞き続け、その目は傾城の行動を観てきた。貞士でさえ貞を保つことができなかった時代だ。ましてや公主は婦人なのだ。彼女が宗室を蔑視し、人事権に横暴を振るったのは、朝章家法が確固として守られている時代の感覚で無節操に責め立てることなどできはしない。
 しかしながら、結局どうしようもなかったのだろうか?いや、そんな事はない。
 公主は太子を忌んでいたが、ただ心中に怒りを含んだだけで、行動を起こそうとはしていなかった。だが、僻地の長史に過ぎなかった竇懐貞が不軌の心を持ち、彼女の邪心を導いて徒党を結ばせるや、彼はたちまち出世して侍中となり、三品同様の権勢を持ち、左僕射平章軍国重事となった。ここにおいて崔是、蕭至忠、岑羲が競って諂い、公主へべったりとくっついて宰相となったのではないか。
 それなのに、李日知、韋安石は老いぼれてしまい、糺すことができなかった。劉幽求は孤立しても争い、流罪となってしまった。
 この時に於いて、姚宋は大臣の地位にあって、人々の期待を集めていたので、睿宗の密謀に預かることができたのだ。それならば、懐貞の悪を言い立て、是、羲、至忠の姦をやめさせようとするべきではないか。それなのに彼等は、公主の羽翼を削ろうともしないで、睿宗と共に艱難を乗り越えたたった一人の妹を早急に排斥して国法を糺そうとした。結局、睿宗は心を悼めて実行できず、群姦の計略は益々進んだのだ。
 懐貞、是、羲、至忠がいなければ、公主の悪は発する程膨らみはしなかった。それなのに、ただ公主を遠ざけるだけで群姦をそのままの地位に置いていたなら、テキフツ(古の諸侯の夫人が乗っていた車についている飾り)が蒲州を渡るやすぐに呼び返されてたちまち京師へ戻ってくることなど、どう転んでも間違いがない。
 睿宗が、公主を地方へ出すに忍びなかったのは、性として正しいことだし、情としてやむをえないことだ。又、艱難を共に乗り切った相手を思いやるのは義を忘れていないと言える。だが、懐貞などとゆう連中は、唐にとっては、九牛の一毛に過ぎないではないか。
 彼等には人心を繋ぐ徳望もなく、社稷へ対する勲功もない。流罪も罷免も投獄も処刑も、朝に命令が下りれば夕暮れには決行される。たった一枚の弾劾文さえあればよいのだ。姚宋は、何を憚ってやらなかったのか。
 遂には、睿宗の妹への恩は保つことができず、玄宗の叔母への孝は全うできず、公主は死を免れることができなくしてしまった。そして群姦は悪が満ちてしまってから始めて誅殺され、唐の社稷も汲々としてしまった。姚宋は、その咎を避けることなどできないぞ。
 唐初の習いとして、士・大夫は同業者として容認しあい、賢人と姦者が並び立ちながらも互いに邪魔をせず、たとえ天子から罪を得ようとも、僚友と怨みを結ぼうとはしなかった。宋景のような剛直な人間でさえも、この風潮からは免れなかった。ましてや元之如きの智で全を図るなど、望むべくもなかったのだ。 
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