群臣
 
 貞観三年。仕(「草/仕」)平の住民馬周が長安へ旅行して、中郎将常何の家に泊まった。
 六月、壬午、旱が起こったので、文武の官へ政治の得失を言上するよう詔が降りた。だが、常何は無学な武人だったので何を言えば良いのか判らなかった。そこで、周が代わりに二十余條を陳述した。
 上は、これが見事だったので怪しみ、何へ聞いてみると、何は言った。
「これは臣が書いたのではありません。臣の客の馬周が、臣の為に描いてくれたものでございます。」
 そこで上は彼を召しだしたが、馬周がやってくるまで催促の勅使が数人やって来る程だった。謁見して数語語ってみて甚だ悦び、監察御史とするよう門下省へ命じ、旨の検校をやらせた。また、何常は人を見る目があると褒め、絹三百匹を賜った。
十二年、馬周は中書舎人となった。周は機知があり弁が立ち、中書侍郎の岑文本が、いつも称賛していた。
「馬君が事を論じると、類似の事例や古今の故事を引き合いに出し、要点を掴んで煩雑を削る。その文章は理を尽くし、一文字の増減もできない。これを聞くと靡々として、倦むことを忘れてしまうのだ。」 

  

 五年六月、甲寅、太子少師の新昌貞公李綱が卒した。
 ところで、周の斉王憲の娘は未亡人で子供もいなかったが、李綱は彼女を手厚く保護していた。綱が卒すると、彼女は父親へ対する礼儀で彼を葬った。 

  

 七年八月、乙丑、左屯衞大将軍焦(「言/焦」)敬公周範が卒した。
 上は御幸する時、常に範と房玄齢に留守を任せていた。範は、忠篤厳正な為人で、病気が重くなってからは外出もせずに、遂に内省にてみまかった。死ぬ時に、房玄齢と抱き合って、決別の言葉を述べた。
「再び聖顔を拝謁できないことだけが恨めしい!」 

  

 十一年六月、右僕射虞恭公温彦博が卒した。
 彦博は長い間政治の中枢にいたが、知りて行わないことはなかった。
 上は侍臣へ言った。
「彦博は、国を憂えていて精神をすり減らしきった。我は、彼が二年間休まずに励んでいたのを見ていた。あの時安逸にさせていれば、こんな夭折はしなかったものを!」 

  

 十二年、五月壬申。弘文館学士の永興文懿公虞世南が卒し、上は慟哭した。
 世南は外見は柔和だが、内は忠直な人間。かつて上は、世南には並外れた長所が五つあると称した。一は徳行、二は忠直、三に博学、四に文辞、五は書翰。 

  

 霍王元軌は読書好き。恭謹で自ら守り、軽薄なことをしなかった。徐州刺史になると、在野の士の劉玄平と庶民のつき合いをした。人が玄平へ王の長所を聞くと、玄平は言った。
「長所はない。」
 尋ねた者がいぶかしがると、玄平は言った。
「人は、短所があるから長所が見えるのだ。霍王は、短所がない。どうして長所を褒められようか!」 

  

 十三年、正月戊午、左僕射房玄齢へ太子少師が加えられた。
 玄齢は、十五年間重職に居り、息子の遺愛は上の娘の高陽公主を娶り、娘は韓王の妃となっていた。彼は満ちて溢れることを深く畏れ、上表して隠居することを請願したが、上は許さなかった。玄齢は固く請うて止まなかったが、詔してこれを却下し、職務に就かせた。
 太子は玄齢を拝礼しようと思い、儀衞を並べて彼を待っていたが、玄齢は敢えて謁見せずに帰った。人々は、彼の謙譲の美徳を褒めそやかした。
 玄齢は度支郎中(天下の租賦を掌握する官)が天下の利害へ繋がると考えていた。ある時欠員が生じたが、適切な人材が居なかったので、自らこれを行った。 

  

 同月、礼部尚書永寧懿公王珪が卒した。
 珪は性格が寛大で、自分の事はいつも後回しにしていた。令では、三品以上は皆、家廟を立てて三代を祭ることが許されていた。だが、王珪は貴くなってから長いのに、一人を祭っただけだった。これが法司から弾劾されたが、上は不問に処した。ただ、役人へ彼の廟を立てさせて、これを愧じいらせた。 

  

 初め、陳倉折衝都尉魯寧が法に触れて牢獄へ繋がれたが、自分の身分を恃んで陳倉尉の尉氏劉仁軌を漫罵した。仁軌は、これを杖で殴り殺す。州司は、この事実を上奏した。
 上は怒って、仁軌を斬るよう命じたが、なお怒りが解けず、言った。
「なんで縣尉ふぜいが、我の折衝を殺すのか!」
 そして、長安へ護送するよう命令を改め、これを面詰した。だが、仁軌は言った。
「魯寧が臣へ対し、百姓のくせに臣をこのように侮辱したのです。臣は実に、怒りの余りこれを殺しました。」
 彼の顔色も態度も自若としていた。
 魏徴が、傍らから言った。
「陛下は、隋が亡んだ理由をご存知ですか?」
 上は言った。
「何だ?」
「隋の末期には、百姓が強く、官吏を凌駕していました。魯寧などは、その類です。」(魯寧は、官職は折衝都尉だが、もともと陳倉の百姓だった。)
 上は悦び、仁軌を櫟陽丞へ抜擢した。
 十四年、上が同州へ御幸して狩りをしようとすると、仁軌は上言した。
「今年の秋は豊作ですが、まだ収穫は一、二割しか終わっていません。彼等を随従して狩猟を行いますと、道や橋も整備せねばならず、のべ一、二万人の労力が要り、農事の妨げとなります。どうかしばらく延期して、彼等の収穫が終わるまでお待ちください。そうすれば、公私共に助かります。」
 上は璽書を賜ってこれを嘉納し、仁軌を新安令に抜擢した。 

  

 十四年、十二月。上は、「右庶子張玄素が東宮に居た頃、しばしば諫争していた」と聞き、彼を銀青光禄大夫、行左庶子に抜擢した。
 太子がかつて宮中で鼓を撃った時、玄素は閣を叩いて切に諫めた。太子はその鼓を出し、玄素へ向かって、これを壊した。
 太子が長い間官属へ謁見しないでいると、玄素は諫めて言った。
「朝廷は、殿下が立派な人間に成長させようと、俊賢を選んで輔けとしたのです。今、一ヶ月余りも宮臣へ会われておられません。これでは、万分の一も輔けられないではありませんか!宮中には婦人がいるとはいえ、樊姫のように有能な女性がおるのですか。」
 太子は聞かなかった。
 玄素は若い頃刑部令史となった。かつて、上は朝臣へ対して尋ねたことがある。
「卿は隋の頃、どんな官職だったか?」
 その時、玄素は答えた。
「縣尉でございます。」
「尉となる前は、何だったか?」
「流外でした。」
 上は、なおも聞いた。
「流外の何だ?」
 玄素はこれを恥じ、閣を出てからは歩くこともできない有様。顔色は死人のように蒼白だった。
 諫議大夫猪遂良が言った。
「主君が臣下を礼遇するから、臣下は力を尽くすのです。玄素は寒微の出身ですが、陛下はその才覚を重んじ、抜擢して三品へ至り、世継ぎの輔翼と為したのです。なんで群臣の前で、その門戸を窮明してよいものでしょうか!宿恩を棄てて一朝の恥を為し鬱屈した想いをさせて、どうして節に伏し義に死ねと彼を責められましょうか!」
 上は言った。
「朕も、後悔している。卿の疏は我が心をいたく抉った。」
 遂良は、亮の子息である。
 孫伏伽と玄素は、共に隋の令史だったが、伏伽は人前でも、自分の過去について全く隠し立てしなかった。 

  

 十六年、十月丙申。殿中監郢縦公宇文士及が卒した。
 かつて、上が樹の下で止まり、その樹を愛でたところ、士及は追従してしきりとこれを褒めた。すると上は顔色を正して言った。
「魏徴はいつも、佞人を遠ざけるよう我へ勧めていた。我は佞人とは誰か知らなかったが、汝かもしれないと思った。今、果たしてそれが過ちではなかったと判ったぞ!」
 士及は叩頭して陳謝した。 

  

 十七年八月、庚戌、洛州都督張亮を刑部尚書、参与政治とし、左衞大将軍、太子右衞率李大亮を工部尚書とした。
 大亮は三職、宿衞両宮を兼任しながら恭倹忠謹で、宿直のたびに必ず明け方まで坐ったままだった。房玄齢は、これを甚だ重んじ、大亮には王陵や周勃の節義があるので大位へ就けるべきだと、事毎に称していた。
 大亮は、もともと龍(「广/龍」)玉の兵曹だった。後、李密に捕らえられた。この時、同輩は皆殺されたが、彼だけは賊帥の張弼に見込まれて釈放された。それから、二人は交遊するようになった。
 大亮が貴人になると弼を探し、その時の恩に報いようとした。弼は、その時将作丞だったが、名乗り出なかった。大亮はふとしたことでこれを知り、弼へ会って泣き、沢山の私財を弼へ贈ったが、弼は拒んで受け取らなかった。そこで大亮は、自分の全ての官爵を弼へ授けるよう上言した。すると上は、弼を中郎将へ抜擢した。
 時の人々は、大亮が恩に背かなかったことを賢として、弼が貪らないのを立派だと褒めた。 

  

 十八年三月、辛卯。左衞将軍薛萬徹を守右衞大将軍とした。上は、侍臣へ言った。
「今の名将は、ただ世勣、道宗、萬徹の三人のみ。世勣と道宗は大勝はしないかわりに大敗もしない。萬徹は、大勝しなければ大敗する。」 

  

 八月丁卯、散騎常侍劉自(「水/自」)を侍中とした。行中書侍郎岑文本は中書令、対し左庶子中書侍郎馬周は守中書令とする。
 文本は拝領した後、帰宅するとふさぎ込んでしまった。母が理由を尋ねると、文本は言った。
「勲功もなく旧知でもないのに、寵栄を妄りに蒙った。位が高ければ責任も重い。憂懼する所以です。」
 親賓が祝賀に来ると、文本は言った。
「弔いなら受けますが、祝賀は受けません。」
 文本の弟の文昭は校書郎となると、賓客を喜んだ。上はこれを聞いて気分を害した。かつてくつろいだ時に文本へ言った。
「卿が弟と深く付き合えば、卿にまで累が及ぶかもしれぬ。朕は地方官へ出したいのだが、どうかな?」
 文本は泣いて言った。
「臣の弟は、早くに父と死別し、老母が特に深く愛していまして、いまだかつて外泊さえしたことがないのです。今、地方官になったら、母は必ずその愁いで憔悴ます。弟がいなくなれば、老母もいなくなってしまいます。」
 そして嗚咽が止まらなかった。上はその想いを愍れみ、中止した。ただ、文昭を召しだして、厳しく戒めたので、ついに禍は起こらなかった。 

  

 十二月、辛丑。武陽懿公李大亮が、長安にて卒した。遺表にて高麗討伐の中止を請願する。家には米五杜と布三十匹しか残ってなかった。その代わり、幼くして孤児になって大亮に養われ、父を喪ったかのように悲しんだ親戚の者は十五人も居た。 

  

 二十年、三月。陜の人常徳玄が告発した。
「刑部尚書張亮は五百人も養子にし、術士公孫常と『自分の名は図讖に応じている』などと話していた。また、術士程公穎へ『わが肘に龍の鱗が出来た。胎児を挙行しても大丈夫か?』と尋ねました。」
 上は馬周等へ取り調べさせたが、亮は服しなかった。上は言った。
「亮には養子が五百人もいるが、彼等を何の為に養っているのか?造反する為ではないか!」
 そして百官へ議論するよう命じた。皆は、亮は造反したので誅殺するべきだと言ったが、ただ将作大匠李道裕だけは言った。
「亮の造反は、まだ具体化しておりませんので、死刑には当たりません。」
 上は長孫無忌と房玄齢を牢獄へ派遣して亮へ訣別の言葉を伝えた。
「方は天下の平、公と共にこれを執ってきた。だが公は謹まず、凶人と付き合って法へ陥った。もう、どうしようもない!公と訣別する。」
 己丑、亮と公穎を西市で斬り、その家を没収した。
 一年余りして、刑部侍郎に欠員が出来た。上が執政へ人選を命じると数人の候補が挙がったが、皆、上のお気に召さなかった。そこで、上は言った。
「朕に心当たりがある。かつての張亮の疑獄で、李道裕は『まだ造反は具体化していない』と言ったが、それは正しかった。朕は従わなかったが、今になって悔いている。」
 遂に道裕を刑部侍郎とした。

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