風俗
 
 貞観十一年(637)三月、 礼部尚書王珪の子の敬直が、南平公主を娶った。
 ところで、それまでは公主が下嫁する時には舅や姑へ婦礼で仕えることがなかったが、珪は言った。
「今、主上は欽明で、礼に則って行動されている。ところで、我が今回公主の謁見を受けるのは(「嫁に貰う」とゆうのを、皇帝を憚ってこのように言ったのか?)、我が家の誉れとするためではない。国家の美を成就するためだ。」
 そして、その妻と席へ就くとき、公主へは嫁としての作法通りの礼を執らせた。
 これ以降、公主も婦礼を行うようになったが、それは珪が始めたことである。 

  

 十二年正月、吏部尚書高士廉、黄門侍郎韋挺、礼部尚書令狐徳芬(「芬/木」)、中書侍郎岑文本が編纂していた氏族志が完成し、上納された。
 話は前後するが、山東の人士崔、盧、鄭の諸族は地元では気位が高く、一族の分家の末といっても他の族が婚姻を望んできたら、必ず多額の金を求めたり、あるいはその郷里を捨てて妄りに名族を潜称させたり、あるいは兄弟がズラリと並んでいるのを、妻の一族なのに見下したりした。上はこれを憎み、士廉等へ天下の譜諜をあまねく調べさせ、史書を研鑽して真偽を質しその昭穆を弁じさせ、甲乙を付けて忠賢を褒進し姦逆を貶退し、九等に分類させるよう命じた。
 士廉等が黄門侍郎崔民幹を第一とすると、上は言った。
「漢の高祖や蕭、曹、樊、灌は、全て庶民の出だが、卿等は今に至るも彼等を英雄賢人と崇めている。それは世禄が高いからか!高氏は山東に偏據し、梁や陳は江南に僻在したに過ぎない。その下に人物が居たとしても、所詮は地方政権だ。言うに足りんぞ!いわんや、彼等の子孫に才人功臣が輩出せず、官爵もないのになおも家柄が高いと傲然としてふんぞり返り、松や檀を売って金だけ稼ぎ、廉を棄て恥を忘れ人々のことを全く考えもしない連中が、何で貴ぶに足りるか!今、三品以上の臣下達は、徳行や勲労や文学で貴顕の官位へ登ったのだ。あの衰世の旧門など、まことに慕う価値がない!ましてや婚姻を求めれば多額の結納を求められた上になお小馬鹿にされてしまうなど、我には理解できん!今、このような世人の蒙昧を正し名を捨て実を取ろうと思っていたのに、卿等はなおも崔民幹を第一としたのか!これは我が官爵を軽んじて俗人の情に流れるとゆうことだぞ!」
 そして、今の朝廷の品秩を高下の帰順にして編纂し直すよう命じた。ここにおいて、皇族が第一となり、外戚がこれに次ぎ、崔民幹は第三に降格された。
 この氏族志にはおよそ二百九十三姓、千六百五十一家が記載されており、天下へ頒布された。 

  

 十三年八月。詔が降りた。
「身体髪膚は、敢えて毀傷しない。だが最近、訴訟するものは、あるいは自ら耳目を毀つ。今後犯す者がいれば、まず四十笞打ってから、その後に法に依って裁く。」 

  

 太史令傅奕は術数の書(ここでは、法術や医術あるいは博物学を指すと思えます)を一心に研究していたが、結局、どれも信じられなかった。遂には、病気になっても、医者も呼ばず薬も飲まなくなった。
 西域から来た僧が居て、呪術ができると吹聴していた。人を殺すことも、生き返らせることも自由自在だと。上は、飛騎の中から健康な者を選んで試させたが、看板に偽りはなかった。そこで奕へ知らせたが、奕は言った。
「それは邪術だ。『邪は正に勝てない』と聞く。彼に、臣を呪わせてください。その術は効きませんから。」
 上は僧へ奕を呪うよう命じた。奕は、初めは何ともなかったが、しばらくして、僧が、まるで何かから殴り倒されたかのように、突然昏倒した。そして、再び蘇生しなかった。
 又、バラモン僧が、仏の歯を持っていると吹聴した。どんな堅い物でもこれ以上ではない、と。物珍しさに、長安の士女が集まって、市のようになった。この時、奕は病気で伏せっていたが、その子息へ言った。
「我は、ダイヤモンドの話を聞いたことがある。物凄く固くて、どんな物でも傷つけることが出来る。ただ、羚羊の角は、これを破ることが出来るそうだ。お前は、行って、試してみなさい。」
 そこでその子は仏歯を見に行き、角を取り出して叩いたところ、仏歯は砕けたので、観る者はあきれた。
 奕は臨終にて、子息達へ仏教を学ばないように言った。享年八十五。また、魏、晋以来の仏教へ反駁した文書を集めて「高識伝」十巻を造り、世に流布させた。
(訳者、曰。)「術数」とゆうのは仙術、法術の類でしょうか?医学や薬学、博物学まで包含したのも頷けます。それにしても、ダイヤモンドが羚羊の角で砕けるのだろうか?司馬光の生きていた宋代には、多分、こんな話も信じられていたのでしょうね 

  

 十四年十二月。魏徴が上疏した。その大意に曰く、
「枢機に関わっている朝廷の群臣は、任務は重いのに、陛下の信頼は厚くありません。ですから人々は疑念を抱き、職務をお座なりにしています。陛下は大事には寛大ですが小罪には厳しく、叱責する時には愛憎に動かされています。
 大臣には大礼を委ね、小臣は小事を責めるのが、政治を行う道でございます。今、彼等へ委ねる職務は、大臣は重く、小臣は軽い。それなのに、事が起これば、小臣を信じて大臣を疑います。その軽い者を信じて重い者を疑い、治まることを求めても、どうしてできましょうか!大官に任じながら、その細かい過失を求めれば、刀筆の吏は聖旨に従って慣例を作り、文章を重ね法を弄び、その罪をでっち上げてしまいます。告発されてしまえば、被告が弁明すると、反省の色がないと言われ、何も言わなければ罪を認めることになり、進退窮まり自ら弁明もできません。禍を免れたいばかりに、矯偽が風俗となってしまいます!」
 上は、これを納めた。 

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