刑罰
 
 貞観元年十一月、丙午。上と群臣が、盗賊の根絶について論じた。ある者は、罰を重くして禁じようと請うたが、上は微笑して言った。
「民が盗賊になるのは、賦役が頻繁で重く、官吏が貪欲に奪い、飢えと寒さに切羽詰まって廉恥心に構っていられなくなったからだ。朕は奢侈を省いて費用を抑え、労役を薄くし、廉潔な官吏を登庸するつもりだ。民が衣食に余裕を持てるようになれば、盗賊にならずとも済む。なんで法を重くする必要が有ろうか!」
 これより数年の後、海内は平和で物資が溢れるようになり、民は道に落ちているものを拾わず、外出する時に戸締まりの必要もなく、行商人は安心して野宿ができるようになった。
 上はまた、侍臣へ言った事がある。
「主君は国に依り、国は民に依る。民から搾り取って主君へ奉仕するのは、自分の肉を削いで食べるようなものだ。腹は満ちるが身は倒れ、主君は富んで国が滅びる。だから人君の患いは外から来るのではなく、常に自分自身から出るのだ。だいたい、盛大にしようとすれば費用がかさみ、費用がかさめば賦が重くなり、賦が重くなれば民は堪らなくなり、民が堪らなくなれば国は危うくなり、国が危うくなれば主君は全てを失う。朕は常にこれを思う。だから、放埒にならないようにしているのだ。」
(訳者、曰く。)太宗皇帝も、その晩年は造営や御幸、外征を頻繁に行い、かなりな贅沢をしたようですけど。皇太子への遺言では、自ら反省してましたね。) 

  

 上は、多くの官吏が賄賂を受け取っていることを患い、近習達を使って密かに賄賂を贈らせ試してみた。すると、ある司門令史が絹一匹を受け取った。上はこれを殺そうとしたが、民部尚書の裴矩が諫めて言った。
「吏となって賄賂を受け取ったのなら、誠に死罪にあたります。ただ、陛下が人を使って受け取らせたのですから、これは人を法へ陥れるようなものです。いわゆる『これを導くに徳を以てし、これを整えるに礼を以てする』とゆう精神に悖るのではないかと恐れます。」
 上は悦び、文武の五品以上を集めて、彼等へ告げた。
「裴矩は官となって、面従しないでよく力争した。皆がこのようであってくれれば、何で治まらないことを憂えようか!」
 臣光、曰く。
 古人の言葉にある。君が明ならば臣は直となる、と。裴矩は隋の時は奸佞だったが唐になったら忠義を尽くした。だが、それは彼の人間性が変わったのではない。主君が自分の過失を聞いてむかっ腹を立てたら忠臣も奸佞に変わるし、君が直言を聞くのを喜んだら奸佞も忠臣に変わる。これで知れるのだ。君は表で臣は影に過ぎない。表が動けば、影もそれに従って動くのだ。 

  

 上が吏部尚書長孫無忌等と学士、法官等へ律令を定めるように命じた。これによって絞首刑等五十條が減刑されて右趾切断で済むようになったが、上はまだ罪が重すぎる事を嫌い、言った。
「肉刑は、廃止されて久しい。もっと軽い刑に代えよ。」
 すると蜀王法曹参軍の裴弘献が、三千里先の流刑地での三年間の労役に改めるよう請うた。詔が降りて、これに従う。 

  

 兵部郎中の戴冑は忠清公直なので、上はこれを大理少卿へ抜擢した。
 この頃、無能な人間でも偽りを並べ立てて推挙して賄賂を受け取る事が多かったので、上はその様な人間へ自首することを呼びかけ、自首しなければ死刑にすると表明した。それからすぐに、偽りが露見した人間が出たので上はこれを殺そうとしたが、冑は言った。
「この罪は、法に照らし合わせれば流罪でございます。」
 上は怒って言った。
「卿は、朕の信義を失わせてでも法を守らせるつもりか?」
 対して、冑は言った。
「敕は、一時の喜怒で出るものですが、法は国家が天下へ大信を布く為のものです。陛下は、推挙人に偽りが多いことを怒り、これを殺そうと欲されましたが、それが不可であることを知ったから法によって断罪した。そうであれば、小忿を忍んで大きな信義を残したと言えます。」
 上は言った。
「卿はよく法を執っている。朕には何の憂いもないな!」
 冑は、上へ対して堂々と法を主張することが何度もあったが、言葉は泉のように沸いて出て、上はいつもこれに従った。おかげで、天下から冤獄がなくなった。 

  

 愉(ほんとうは大里)令の裴仁軌が、雑徭として徴発された役夫達を自分の門番として私的に使った。上は怒り、これを斬ろうとしたが、殿中侍御史の長安の李乾祐が諫めて言った。
「法は、陛下が天下と共有する為に造ったものです。もはや陛下一人のものではありません。今、仁軌が軽い罪を犯したのに極刑にされては、人々は手足を動かすこともできなくなるのではないかと恐れます。」
 上は悦び、仁軌の死刑を取りやめて、乾祐を侍御史とした。 

  

 二年、二月、右驍衞大将軍長孫順徳が、人から贈られた絹を受け取ったのが暴露した。
 上は言った。
「順徳が本当に国家に益があるのなら、朕は彼と府庫を共有するものを。なんでこんな貪婪なことを行ったのか!」
 だが、なおも彼の軍功を惜しみ、これを罰せず、ただ殿庭にて絹数十匹を贈っただけに留めた。すると、大理少卿胡演が言った。
「順徳は法を曲げて財貨を受け取ったのです。その罪は赦すべきではありませんのに、却って絹を賜るとは、どうゆうことでしょうか?」
 上は言った。
「彼に人間らしい心があれば、刑を受けるよりも絹を受け取る方が余程屈辱が甚だしいぞ。愧をまるで知らないのならば、これは禽獣と同じだ。殺す程の事でもない!」 

  

 大理少卿の胡演は毎月、有罪となった囚人の名簿を造って上へ報告していた。
 三月、壬子、上は、今後大罪の者は、冤罪を少しでも減らす為に、中書省と門下省の四品以上の者及び尚書と共に協議せよと命じた。
 さて、囚人を引き出すと、その中に岐州刺史鄭善果がいた。上は、胡演へ言った。
「善果は有罪ではあるが、官品は卑しくない。どうして他の囚人達と一緒にして良かろうか。これ以後は、三品以上で罪を犯した者は、引き出さずに朝堂にて待たせるようにせよ。」 

  

 辰州刺史裴虔通は、隋の煬帝の古馴染みで特に寵任を蒙っていたのに、弑逆を為した人間である。それから時が流れ世も移り変わり、赦令も何度も出、幸いにして一族殲滅は免れた。しかし、このような人間を民の父母にはできないと、詔が降って除名され、驩州へ流された。
 虔通は、いつも「隋を滅ぼして大唐を勃興させたのは、この俺だ。」と吹聴しており、自分では大功臣のつもりだったので、たかが地方の刺史にしかなれなかったことを、不本意に思っていた。今回罪に落とされるに及んで、怨憤の余り死んでしまった。 

  

 秋、七月。宇文化及の仲間である莱州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、廣州都督長史唐奉義、隋武牙郎将元礼等を皆除名して辺境へ流した。 

  

 上が侍臣へ言った。
「古語にある。『赦は、小人の幸いで君子の不幸だ。』『一年に二回も大赦を行うと、善人は黙り込んでしまう。』と。雑草を養ったら稲が枯れるように、罪人を赦したら良民が害される。だから、朕は即位以来大赦を頻繁に行うことを望まなかったのだ。小人が大赦を恃んで軽々しく法を犯すようになることを恐れるからだ!」 

  

 交州都督遂安公壽が、貪婪が過ぎるとして罰せられた。上は、瀛州刺史廬祖尚が文武に秀で廉平公直な人柄なのを見込んで、朝廷へ呼び寄せていった。
「交趾(ベトナム)は長い間、悪辣な長官に苦しんできた。だが、卿なら鎮撫できる筈だ。」
 祖尚は拝謝して退出したが、やがて後悔し、古い病を理由に辞退した。上は杜如晦等を派遣してこれを諭した。
「匹夫でさえも、一言を重んじているのだ。ましてや既に朕の前で許諾したことを翻すのか!」
 だが、祖尚は固辞した。
 戊子、上は再び祖尚を呼び出して諭したが、祖尚は頑なに拒んだ。遂に上は大怒して、言った。
「我が命令を拒まれたら、政治ができぬぞ!」
 そして、朝堂にて斬罪とした。だが、後に悔いた。

 他日、上は侍臣と論じて言った。
「斉の文宣帝とは、どんな人間かな。」
 すると、魏徴が答えた。
「文宣帝は狂暴ですが、しかし人と言い争った時に相手に理があることが判れば、これに従いました。かつて、青州長史魏トを梁から呼び返して光州長史としたところ、魏トは赴任を拒否したことがありました。その時、楊遵彦がこれを上奏すると、文宣帝は怒り、これを呼び出して責めましたが、トは言いました。『臣は今まで大州を任されていて呼び返されたのです。その赴任先で努力もしましたし、過失もありませんでした。それなのに、今度は小州を与えられる。ですから、臣はこれを断ったのです。』文宣は遵彦を顧みて、言った。『筋が通っている。卿よ、これは赦そう。』これは、文宣帝の長所です。」
 上は言った。
「そうだ。先だって、廬祖尚は人臣の義を失ったが、朕がこれを殺したのは、暴虐が過ぎた。これを元に言うならば、朕は文宣に劣る主君だ!」
 そして、彼の子孫へ官位を与えるよう命じた。
 魏徴の容貌は並の人間と変わらなかったが、胆が太く知略があったので、どうどうと苦諫して主君の過ちを是正させる事が多かった。上が激怒することもあったけれど、徴は顔色も変えず、主君の威厳も形無しだった。
 ある時、上が塚へ詣って帰ってくると、魏徴は言った。
「人々は、『陛下が南山へ行こうとしている』と言い、厳重な装備もしたのに、とうとう行かれませんでした。どうしたのですか?」
 上は笑って言った。
「初めはそのつもりだったのだが、卿から叱られるのが恐くて、途中で止めたのだ。」
 上はかつて素晴らしい鷂(はしたか)を手に入れたので肩へとまらせていたが、徴がやって来るのを見ると、懐中へ隠した。この時、魏徴の上奏があまりに長かったので、鷂は懐中にて死んでしまった。 

  

 上は言った。
「奴隷が自分の主人の造反を告発したとする。これは上下の序列を破る行いだ。だいたい、単独では謀反はできない。必ず共犯者がいるから、どこからか告発してくる。なんで奴隷からまで告発して貰う必要があるだろうか!今後は、自分の主人を告発する奴隷がいても、聞く必要はない。即座に斬罪にせよ。」 

  

 三年、三月己酉、上が牢獄の囚人達の記録を閲覧した。
 囚人の中に劉恭とゆう人間がいた。彼は、首のあざが「勝」とゆう字になっていたので、「天下と戦っても勝てるぞ」と吹聴したところ、罪に当たるとして牢獄にぶち込まれたのだ。
 上は言った。
「もしも天が、天下を彼へ与えるのならば、朕が彼を殺すことはできない。もしも天命がないのなら、『勝』のあざでなにができようか!」
 そして、釈放してやった。 

  

 濮州刺史龍(「广/龍」)相壽が汚職を摘発されて解任された。彼は上がまだ秦王だった頃から、秦王の幕府に仕えていた人間で、今回、かつての縁故を自ら言い立ててたところ、上も彼との縁故の情に惹かれ、元の官職に復帰させようとした。すると、魏徴が諫めた。
「秦王のかつての近習達は、中外に大勢おります。彼等がそれぞれに私恩を恃んでしまったら、善人が懼れてしまいますぞ。」
 上は悦んでその諫言を納れ、相壽へ言った。
「我が秦王だった頃は、一府の主に過ぎなかったが、今は大位に居り、四海の主人となった。昔馴染みへ贔屓するわけには行かぬのだ。大臣がこのように言っている以上、朕が敢えて違うわけにはゆかぬ!」
 そして、地位は復旧しなかったが、帛を賜下した。相壽は涙を零して退去した。 

  

 四年、四月辛巳、詔が降りた。
「今後、訴訟した者が尚書省の判決に不服ならば、東宮へ申し出て、太子の裁決を仰げ。もし、それでも不服なら、上聞せよ。」 

  

 十一月、上が明堂鍼灸書を読んで、言った。
「人の五臓の系列は、殆ど背中にあるのだな。」
 戊寅、今後、囚人の背中を鞭打たないようにと、詔した。 

  

  五年、十二月。上が侍臣へ言った。
「朕は、死刑は非常に重大なことだと考えている。命令を三度覆奏させるのは、熟慮したいからだ。それなのに、役人の中には僅かの間に三回反覆して、形だけで終わらせてしまう者が居る。また、昔は死刑を執行するとき、君主は音楽を止め膳を減らして追悼した。朕の庭では常に音楽を演奏しているわけではないが、死刑が執行された日には酒も肉も食さないことにしている。今までそれを宣伝しなかっただけだ。また、百司の判決は、ただ法律にのみ依っている。酌量すべき事情があっても、法律を遵守することしか考えない。これで、どうして冤罪をなくすことができようか!」
 丁亥、制が降りた。
「死刑囚は、二日の内に五回覆奏し、諸州へ下ってから三度覆奏すること。死刑執行の日は酒肉を食してはならない。内教坊と太常で音楽を奏でてはならない。法に照らしたら死罪となるものでも、情緒酌量の余地がある者は、その事情を上聞せよ。」
 これによって、死なずに済んだ者が大勢出た。この五覆奏は、決定が下される前日と前々日、そして決定した日に三覆奏された。ただ、悪逆を犯した者は一覆奏のみだった。(隋代に十悪が制定され、その四番目に「悪逆」の項目があり、具体的には尊属殺人を指す。唐も、これを踏襲したようだ。) 

  

 上はかつて侍臣と裁判を論じた。
 魏徴が言った。
「煬帝の頃に盗賊が頻繁に起こった事がありました。帝は於士澄へこれを捕らえるよう命じました。士澄は、少しでも怪しい者は拷問にかけて牢獄へぶち込み、凡そ二千余人を捕まえました。帝は、全員殺すよう命じました。大理卿張元済は、その数があまりに多いことを怪しみ、試みに尋問してみたところ、本当の盗賊はたった五人だけで、残りは全て平民でした。しかし、元済は、遂にこれを上奏せず、二千人を悉く殺したのです。」
 上は言った。
「これは、ただ煬帝だけが無道だったのではない。その臣下達も不忠だったのだ。君臣がこのようになっては、どうして亡びずにおられようか!公等は、これを戒めとせよ!」 

  

 六年、十一月辛未、帝は自ら囚人の記録を見た。死刑囚を憐れに思い、来年秋に帰ってきて死刑を執行されることを条件に、彼等を家へ帰してやった。そして、天下の死刑囚も全て、一時帰宅させるよう敕した。ただし、期限が来たら、京師へ集まることが、その条件だった。
 この時放免された死刑囚は凡そ三百九十人。
 七年九月、期限が来ると、監督する者もいないのに、彼等は自ら朝堂へ集まって来て、一人も逃げだした者はいなかった。上は、彼等を皆赦した。
(このまま釈放してやったのか、それとも死罪を赦して数年の懲役にしたのか、どっちなのだろうか?少し気になったので新唐書の「刑法志」も参照してみましたが、判別つきませんでした。なお、この事件に関しては、欧陽春の「縦囚論」が、なかなか見事に批評してます。明哲な上にひねくれており、実に名文です。「文章軌範」に収載されていますので、一読をお奨めします。) 

  

 房玄齢等は、先に、律令を定めるよう詔を受けていた。十一年、正月。彼等は提案した。
「旧法では、別居している兄弟へは罪は及ばないのに、造反罪の時には縁座で死罪となっています。この時、祖父や孫は流刑に過ぎません。礼に據っても人情を論じても、これでは不備です。今、律を定め、祖父や孫同様兄弟も縁座は流罪としましょう。」
 これに従う。
 これ以来、旧法と比べて死刑が半減し、天下の人々は大いに喜んだ。
 玄齢等は律五百條を定め、刑名二十等を立てた。隋の律と比べて、大項目で九十二條減じ、死刑から流罪へ減刑になったものは七十二條、煩雑なものを削除したり、重罪から軽罪へ減刑したものは、数え切れないほどだった。また、令千五百九十余條を定めた。
 武徳の頃の制度では、太学では周公を先聖として、孔子をお相伴としていた。玄齢等は、周公は祭るだけにして、孔子を先聖とし顔回をお相伴とするよう建議した。また、武徳以来の敕格を削除して七百條のみを残し、これを頒布した。また、枷、丑(「木/丑」)、鉗、巣(「金/巣」)、杖、笞の罰を定めた。全て長さや幅まで制定した。
 張蘊古が死んでから、法官は罰しすぎることを戒めとするようになり、時に有罪のものを罰し損ねても、追加の刑罰を与えなかった。上がかつて大理卿劉徳威へ言った。
「この頃、刑罰の適用が少しばかり綿密になったようだが、何故かな?」
 すると、徳威が答えた。
「これは主上の責任で、群臣のせいではありません。人主が寛大を好めば寛大になりますし、急を好めば急になります。律令の文では、無罪のものを罰したら三等減りますが、有罪のものを無罪にしてしまったら五等減ります。いま、無辜の者を罰するよりも有罪の者を取り逃がす方が大罪になるのですから、各吏はそれを逃れようと、競って律文を深読みして罪を重く適用するようになったのです。これは誰からか教え諭されたのではありません。罪を畏れているのです。仮に陛下が、全て律によって断じたら、このような風潮は改まるでしょう。」
 上は悦んで、これに従った。これ以来、裁判は平允になった。 

  

 十二年、十二月。戴州刺史賈祟の領内で謀反や不敬などの大逆が十回も行われた、と、御史が弾劾した。上は言った。
「昔、唐、虞は大聖人で、天子とゆう貴い地位にあったが、それでも自分の息子を教化できなかった。ましてや祟は刺史となって、その民を彼等以上に教化できるものではないぞ!もしもこれを有罪にして罰したら、州県は領内の犯罪を隠すようになり、罪人を勝手に処分するようなことになってしまう。これからは、諸州に十悪を犯した者が居ても、刺史を弾劾してはならぬ。ただ、罪人のみを明察に糾し、法の通りに罰を与え、姦悪だけを粛清するよう勉めよ。」 

  

 十六年、正月辛未、死罪の者を西州へ流して民を増やし、流罪の者は守備兵としてこれを守らせた。各々罪の軽重によって、兵役の年限を変える。
 同月、天下の浮遊無籍の者を、来年の年末までに管理するよう、敕が降った。 

  

 七月、庚申、制した。
「今後、わざと不倶となった者は法によって罪を加え、賦役も免除しない。」
 隋末は賦役が重く、人々は往々にして自ら手や足を折り、これを「福手」「福足」と言った。この時代になっても、その遺風がまだ残っていたので、これを禁じた。 

  

 高祖が関へ入った時、隋の武勇郎将馮翊の党仁弘が二千余人を率いて、蒲阪にて高祖へ帰順し、京城まで随従した。やがて陜州総管となったが、大軍が東討した時、仁弘は兵糧の補給を欠かさず、南寧、戎、廣州都督を歴任した。
 仁弘には材略があり、至る所で著しい功績を建てたので、上は非常に有能だと評価した。ただ、性格は貪欲で、廣州都督から転任した後、訴訟を起こされた。取り調べると百余万の金をくすねていたことが判り、これは死刑に相当した。
 上は、侍臣へ言った。
「昨日、大理が仁弘を誅殺するよう五回目の上奏をした。朕は彼の首が切り落とされることを哀しみ、午後三時頃、裁定を撤廃するよう命じた。だが、どう考えても、彼が死刑を免れる道理がない。今、法を曲げて彼を助けることを、公等へお願いしたいのだ。」
 十二月、壬午朔、上は再び五品以上の物を太極殿の前へ集めて、言った。
「法は、人君が天から受けたもの。私心を以て信義を失ってはならない。今、朕は党仁弘への私情でこれを赦そうと欲した。これは法を乱す行いで、上は天へ背くことだ。であるから、南郊へ藁を布いて席とし、菜食をして、三日間、天へ謝罪しよう。」
 房玄齢等は皆、言った。
「生殺の権限は、人主が全て掌握しているものです。なんでそこまで自分を貶責なさるのですか!」
 上は許さなかった。そこで群臣は頓首して、せめて庭にて行い、時間も夜明けから日暮れまでで済ますよう、固く請うた。上は自ら詔を降ろし、自称した。
「朕には三つの罪がある。人を知るに不明だった。これが一つ。私情を以て法を乱した。これが二つ。善を善としながら賞せず、悪を悪としながら誅さなかった。これが三つ。だが、公等が固く諫めるので、要請に従おう。」
 ここにおいて、仁弘は庶民へ落とされ、欽州へ流された。 

  

 癸卯、上は驪山の温泉に御幸した。甲辰、驪山にて狩猟をする。上が山へ登ると、包囲に掛けている部分があったので、左右を顧みて言った。
「我が不備を見たのに罰さなければ、軍法が緩む。だが、これを罰すれば、我は高山から見下ろして、臣下のあら探しをしたことになる。」
 そこで、道が険しいと言い訳して、谷へ入り、これを避けた。
 乙巳、宮へ還る。 

  

  刑部が上奏した。
「反逆者の縁座で、兄弟が官位没収では軽すぎます。どうか死刑に改めてください。」
 そこで、八座でこれを議するよう敕した。議者は皆、言った。
「秦、漢、魏、晋の法では、反逆者は三族を皆殺しにしました。今、刑部の要請のようにするのが適宜です。」
 だが、給事中崔仁師が反駁した。
「太古では、父子兄弟の罪は互いに及ばなかった。なんで亡秦の酷法を手本にして、隆周の法典を変えるのですか!それに、父や子を誅殺すると脅せば、賊の心の足枷になります。それでさえ顧みない者が、なんで兄弟を愛しましょうか!」
 上は、これに従った。 

  

 かつて、上と隠太子、巣刺王とに溝ができた時、密明公は司空封徳彝へ贈り物をして、密かに両天秤を掛けていた。楊文幹の乱で、上皇は隠太子を廃立して上を立てようと思ったが、徳彝が固く諫めたので、中止した。この事は秘中の秘で上も知らなかったが、徳彝が死んだ後に、これを知った。
 十七年、十一月壬辰、治書侍御史唐臨が、その事を始めて追劾し、官位を格下げし爵位を奪うよう請うた。上が百官に議論させると、尚書唐倹等は言った。
「徳彝の罪が暴かれたのは死後のことですが、恩は生前に結ばれました。遍歴した衆官を奪うことは出来ません。ただ、贈官を降格し、諡を改めるようお願いいたします。」
 そこで賜官は格下げになり、諡を繆と改め、食実封を削るよう、詔した。 

  

 十九年、正月。滄州刺史席弁が収賄で有罪となった。二月庚子、朝集使が観ている中で殺戮せよと詔が降りた。 

  

 二十年、上は病気が完治しないので、軍国の機密の決裁を太子へ委ねた。
 かつて、上が未央宮へ御幸したとき、辟杖(前触れの兵士へ、露払いさせること)しながら進んでいると、帯刀した男が草むらの中に隠れているのを見つけた。上が詰ると、彼は言った。
「辟杖が来たのが聞こえたので、恐くて隠れ、見つからないように動かなかったのです。」
 上は引き返すと太子へ言った。
「この事を糾明したら、数人が死罪になる。汝は、すぐに逃がしてやれ。」
 また、かつて腰輿に乗った時、三衞が誤って御衣を払ってしまった。当人は恐れて顔面蒼白になったが、上は言った。
「ここには御史がいないから、見逃してやれるぞ。」 

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