舟之僑、晋へ奔る。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の閔公の二年、カク公が犬戎の軍を破った。すると、舟之僑が言った。
「徳もないのにいい目に逢うのは、殃だ。いずれ禍が降りかかる。」
 そして彼は晋へ亡命した。
 後、舟之僑は城濮の戦役で晋の文公の戎右となったが、勝手に戦列を離れて帰国したので、文公から処刑された。 

  

(東莱博議) 

 天下の理に、物凄く怪しいものがある。
 九頭の牛を軽々と持ち上げられる人間が、秋毫を持つことができないとしたら、これは何とも怪しい話だ。百里先のものまで細々と見れる人間が、目の前の泰山を見ることができないとしたら、これは何とも怪しい話だ。同様に、乱世の禍を脱却できる人間が、治世の誅殺を免れなかった。これも何とも怪しいことではないか。 

 カク公が功績を建てた時、舟之僑は国が滅ぶ兆しを感じ取り、たったか晋へ亡命し、禍から逃れることができた。知恵者と言うべきだ。その舟之僑は、城濮の戦いで文公の戎右となったが、勝手に戦列を離れ、衆を棄てて帰った。晋の文公は、舟之僑を誅殺して国人への見せしめとした。
 ああ、カクを逃げ出す時は知恵者だったが、城濮で逃げ出した時は、愚者。これは一体どうしたことだ?
 カク公が禍を蒙ることは、知恵者でもなかなか判らない。しかし、晋の文公の法律を犯したら誅殺される事は、愚者でも知っている。舟之僑は知恵者でも判らないことを知っており、愚者でも知っていることが判らなかった。いったい、その理はどこにあるのだろうか? 

 これを釈明すると、こうゆう事だ。
 智恵を恃むのも、功績を恃むのと同様に、我が身を滅ぼす。
 カク公が滅んだのは、功績を恃んだせいだ。そして、舟之僑が死んだのは、自分の智恵を恃んだせいだ。 

 舟之僑は、カク公が滅亡することを予見し、見事に当てた。そして、自分の智恵に驕って増長したのだ。
「世の中に、俺ほど智恵の切れる男は居ないぞ。」と。
 その傲慢から、放埒に行動するようになり、猖狂妄行して、大戮を踏んだ。
 カク公は功績を恃み、舟之僑は智恵を恃んだ。両者が禍へ陥ったのは、同じ原因なのだ。一体どこが違うというのか。
 犬戎を破った時、カク公は自軍の戦勝を喜び、その一勝の中に国を滅ぼす兆しが芽生えたことに気がつかなかった。カク公が滅んだ時、舟之僑は自分の予言が的中したことを喜び、その一験の中に自分を殺す兆しが芽生えていたことに気がつかなかった。その福が、禍を生む原因なのだ。その智恵が、愚行を犯す原因なのだ。
 カク公は福を以て禍を招き、舟之僑は知恵を以て愚行を招いた。もしもカク公が功績を誇らず、舟之僑が智恵を恃まなければ、カクは滅びずに済んだし、舟之僑も死なずに済んだに違いない。
 先王が、天下を平定する功績を建てながらも、常に危亡の憂いをなくさなかったのは、自分の欲望を抑えていたのではない。功績を失わずに済ます為には、そうするしかなかったのだ。天下の俊才と称される人間が、匹夫匹婦の言う事によく耳を傾けるのは、韜晦しているのではない。自分の知恵を曇らさない為なのだ。
 似たような例を挙げよう。
 項梁は、秦軍を撃破して傲った。それを見た宋義は、必ず破れると予言し、その舌の根も乾かないうちに、果たして項梁軍は全滅してしまった。これによって、宋義の名声は楚国へあまねく広まった。懐王は、その知謀を奇として、彼を上将に抜擢した。だが、宋義は秦と戦いもしないうちに宴会に明け暮れ、項羽の手に掛かって殺されたのである。項梁が破れたのは、カクが滅んだのと同じだ。そして宋義が殺されたのは、舟之僑が誅殺されたのと同じなのだ。 

 凡そ、人々が他人の非を指摘する事は、しょっちゅうである。カク公が勝った時、舟之僑はその傍らにあって、これへ対してカニカクと言った。舟之僑の傍らを見れば、皆は彼の非をカニカクと口にしていただろう。項梁が傲った時、宋義はその傍らにあって、これへ対してカニカクと言った。宋義の傍らを見れば、皆は彼の非をカニカクと口にしていただろう。
 我は人を憂う事に夢中で、他の人が自分を憂えているのに気がつかない。我は人を料りながら、他の人が我を料っているのに気がつかない。これはなんとも、溜息をつくしかない。
 ああ、舟之僑や宋義の失敗へ対して、今の人間が、これを議論している。その、二人の失敗を議論している人間も、傍らの人々から議論されていることに気がつかないかもしれないのだ。 

  

(訳者、曰) 

 古文真宝とゆう文章集があります。「阿房宮の賦」なんか、大好きですね。
 秦は悲しむに暇非ずして、後の人是を悲しむ。
 後の人これを悲しみてこれに鑑ずんば、後の人は、更に後の人をして悲しまさしめん。
(秦は悲しむ暇もないほどあっけなく滅んでしまい、その栄枯盛衰の甚だしさに、後の人は胸を痛めるのだ。だが、その人々が、ただ悲しむだけで、これを手本として我が身の行いを正そうとしなければ、彼等自身が、更に後の人々の胸を痛ませることになるだろう)
 この論文の結びも、全く同じ趣旨でした。