焦王の乱
 
 景雲元年(710年)六月、睿宗即位。
 さて、韋后が朝廷へ臨んでいた頃、吏部侍郎鄭音が江州司馬へ降格させられた。
 彼はひそかに均州まで行き、刺史焦王重福及び洛陽の人張霊均と、挙兵して韋氏を誅しようと謀ったが、決起する前に韋氏は敗北した。
 重福は集州刺史となったが、出発前に霊均が重福へ言った。
「大王は嫡長、天子になって当然です。相王には功績がありますが、正統な血統ではありません。東都の士庶は、皆、王が来るのを願っています。もし、洛陽へ潜入して左右の屯営兵を発して留守を襲撃殺害し東都へ據れば、それこそ天意に従うとゆうもの。その後に西方陜州を取り、東は河南北を取れば、天下など指先で靡きますぞ。」
 重福はこれに従った。
 霊均は密かに音と結謀し、数十人の仲間を集めた。
 この頃、音は秘書少監から元(「水/元」)州刺史へ左遷されたが、洛陽でグズグズして重福を待ちながら、制の草稿を作る。その内容は、重福を皇帝として、中元克服と改元し、上を尊んで皇季叔とし、温王は皇太弟、音は左丞相知内外文事、霊均は右丞相・天柱大将軍知武事、右散騎常侍厳善思を禮部尚書知吏部事とする、とゆうもの。
 重福と霊均は偽って駅に乗り東都へ向かい、音は先回りしてフバ都尉裴巽の屋敷で重福の到着を待った。
 洛陽の県官は、その陰謀を、微かに聞いた。
 八月庚寅、県官が巽の第へ行き、尋問した。重福がもうすぐ到着すると聞くと、県官は駆け出して留守へ報告した。群官は皆逃げ隠れたが、洛州長史崔日知独りだけ、衆を率いて迎え撃った。
 留台御史李邑は天津橋にて重福に遭遇する。従者は数百人だけ。そこで屯営へ逃げ帰り、告げた。
「焦王は先帝から罪を得た人なのに、今、理由もなく都へ入ってきた。これは謀反だ。君等は、功績を建て富貴になる時だぞ。」
 また、東都皇城へ諸門を閉鎖させた。
 重福はまず左、右の屯営へ向かい、矢を射た。矢は雨のように降る。そして左掖門へ取って返し、留守兵を取ろうとしたが、門が閉じているのを見て、激怒して焼き払うよう命じた。火が燃え上がる前に、左屯営の兵が迫ってきた。重福は追い詰められて上東門から逃げ、山谷へ隠れた。
 翌日、留守は兵卒を大勢繰り出して捜索した。重福は水路へ赴いて溺死した。
 日知は、日用の従父兄である。この功績で、東都留守を拝受する。
 鄭音は容貌醜く髭モジャだった。敗北すると、髭を剃って婦人の服を着て、車の中へ隠れた。捕まって尋問を受けると、震え上がって何も喋れなかった。張霊均は毅然としており、音を顧みて言った。
「こんな人間と事を起こしたら、敗北するのが当然だ!」
 音等は皆、東都の市で斬られた。
 音はもともと来俊臣に諂って出世した。俊臣が誅されると張易之に諂った。易之が誅されると韋氏へ諂った。韋氏が敗北すると焦王重福へ諂ったが、遂に一族誅殺となった。
 厳善思は死を免じられて静州へ流された。 

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