隹(「目/隹」)陽の戦い。
 
 開元十四載(755)、十二月。碌山は封常清軍を撃破すると、張通儒の弟通晤を隹陽太守として、陳留長史楊朝宗と共に胡騎千余を与え東方を後略させた。
 ここは、南へ通じる道である。江・淮は、天下の米所。賊軍は隹陽を取ったら更に南下して、江淮の食糧を奪取できる。逆に、官軍がここを抑えている限り、兵糧は確保できるとゆう要所である。
 郡県の官の多くは風を望んで降伏したり逃げ出したりした。ただ、東平太守嗣呉王祗、済南太守李随は起兵して拒んだ。祗は韋(「示/韋」)の弟である。賊に従わない郡県は、全て呉王を盟主した。
 単父尉賈賁は吏民を率いて南下し、隹陽を攻撃し、張通晤を斬る。賊将李庭望は兵を率いて東へ向かおうとしていたが、これを聞くと敢えて進軍せずに、退却した。
 至徳元載(756)正月、李随が隹陽へ到着した。兵力は数万。丙辰、随を河南節度使とし、前の高要尉許遠を隹陽太守兼防禦使とする。
 濮陽にて義勇軍が決起し、済陰を攻め抜く。賊将ケイ超然を殺す。
 同月、南陽節度使を設置し、南陽太守魯Qを任命した。嶺南、黔中、襄陽の子弟五万人を率いて葉北へ布陣し、安碌山へ備える。Qは、薛愿を穎川太守として防禦使を兼任させ、龍(「广/龍」)堅を副使としたと上表した。愿は、もとの太子瑛の妃兄、堅は玉の曾孫である。 

 二月、上は、呉王祇を霊昌太守、河南都知兵馬使とした。
 焦郡太守楊萬石が郡を以て安禄山へ降伏した。彼は眞源令の河東の張巡へ長史となって賊軍を迎え入れるよう迫った。巡は眞源へ至ると、吏民を率いて玄元皇帝廟にて哭し、討賊の起兵をした。吏民数千人が喜んで従う。巡は兵千人を厳選して西進し、ヨウ丘へ至り、賈賁と合流した。
 これ以前に、ヨウ丘令令孤潮は県を以て賊へ降伏していた。賊は彼を将として襄邑にて隹陽の救援軍を東撃させた。彼等は官軍を破り、百余人を捕らえてヨウ丘に抑留した。潮は、これを殺す前に、李庭望と会見しようと、彼のもとへ出向いた。その間に、ヨウ丘の民は守者を殺した。潮は妻子を棄てて逃げた。賈賁は、その間にヨウ丘へ入れた。その兵力は二千。
 潮は賊の精鋭兵を率いてヨウ丘を攻撃した。賁は出陣して戦ったが、敗北して死んだ。張巡は力戦して賊軍を撃退する。そこで賁の部下も吸収して、自ら呉王の先鋒使と称する。
 三月乙卯、潮は賊将李懐仙、楊朝宗、謝元同等四万余の兵力で、再び城下へ進軍した。衆は懼れ、怖じけついてしまった。巡は言った。
「賊軍は精鋭だから、我等を軽く見ている。今、出撃してその不意を撃てば、奴等は必ず驚き潰れる。賊の勢いをまず挫けば、城を守ることができるぞ。」
 そして、千人を率いて城へ乗る。自ら千人を率いて数隊に分け、門を開いて突撃する。巡は士卒に率先して賊陣へ飛び込んだ。人馬は蹴散らされ、賊は遂に退いた。
 翌日、賊軍は再び城を攻める。城を包囲するように百の砲台を設置し、城外の防御施設は全て壊した。(中国の「砲」は投石機。大砲ではない。大砲は「炮」と言う。)巡は城の上に木の柵を立てて、これを拒んだ。 賊は蟻のように城壁にへばりついてよじ登る。巡は油で湿らせた藁束を燃え上がらせて投げ降ろしたので、賊は登れなかった。巡は、時には賊の隙を窺って出兵して攻撃し、あるいは夜襲を掛けて、敵陣を潰した。
 六十余日で、大小三百余戦。官軍は食事中も鎧を脱がず、傷も癒えぬ間に再び戦う。賊は遂に敗走した。巡は勝ちに乗じて追撃し、胡兵二千人を捕らえて帰る。軍声は大いに振った。
 戊辰、呉王祇が謝元同を攻撃した。元同は逃げる。この功績で、陳留太守、河南節度使を拝受する。 

 四月、魯Qがシ水の南へ柵を立てた。安禄山の将武令c、畢思シンがこれを攻める。
 五月丁巳、魯Qの軍は潰滅し、逃げて南陽を保った。賊軍は、これを包囲する。
 太常卿張自(「土/自」)は夷陵太守のカク王巨に勇略があると推薦した。上は呉王祇を呼び戻して太僕卿とし、巨を陳留・焦郡太守、河南節度使とし、嶺南節度使何履光、黔中節度使趙国珍、南陽節度使魯Qを指揮させる。国珍はもとショウ柯の夷である。
 戊辰、巨は兵を率いて藍田から出て南陽へ赴いた。賊はこれを聞き、包囲を解いて逃げた。 

 令狐潮が再び兵を率いてヨウ丘を攻撃した。
 潮と張巡は古馴染みだった。城下にて、まるで平生のように互いの苦労をねぎらい合った。そのまま、潮は巡へ説いて言った。
「天下のことは去った。足下は一体誰のために、危城を堅守するのか?」
 巡は言った。
「足下は平生忠義を以て自認していたが、卿の挙動のどこに忠義があるのか!」
 潮は慚愧して退いた。
 六月、哥舒翰率いる官軍が、安禄山の本隊に大敗北を喫した。玄宗は京師を逃げ出す。
 令狐潮のヨウ丘包囲は続く。相守ること四十余日、朝廷とは連絡が取れなかった。潮は、上皇が既に蜀へ御幸したと聞いて、書を以て巡を招く。ヨウ丘には六人の大将が居て、官位は皆、開府や特進だった。彼等は巡へ、”兵勢が敵わないし上皇がどこにいるかも判らないので、賊へ降伏した方がよい”と言った。巡は、上辺は許諾する。
 翌日、堂の上に天子の画像を設け、将士を率いてこれへ挨拶した。人々は、皆泣いた。そこで巡は六将を前へひきだして大義を以て責め、これを斬った。士の心はますます励んだ。
 城の中では矢が尽きた。巡は藁人形千余体を作り、黒衣をかぶせて、夜半、城下へつり下げた。潮の兵は争ってこれを射る。しばらくして藁人形だと気が付いたが、その時には数十万の矢を奪われていた。
 その後、また、夜間に人が城から降りてきた。賊は笑って備えもしない。ところが今度は決死隊五百人だった。彼等は潮の陣営へ突撃した。潮軍は大いに乱れ、塁を焼いて逃げる。張巡軍は十余里追撃した。
 潮は慙愧し、兵を増員して包囲した。
 巡の命令で、郎将雷萬春が、城上から潮へ呼びかけた。賊の弩がこれを射る。顔に六矢が当たったけれども、萬春は動かない。潮は、これは木人形かと疑ったが、試みに尋ねてみて人間と知り、大いに驚いて遙かに巡へ言った。
「雷将軍を見て、足下の軍令を思い知った。だが、天道をどうするつもりか!」
 巡は言った。
「君は人倫さえも知らない。なんで天道を知れるのか!」
 それからすぐに出撃し、賊将十四人を捕らえ百余級の首を斬る。賊は夜のうちに逃げ兵を収めて陳留へ入った。以来、賊軍は敢えて出撃しなくなった。
 この頃、賊軍歩騎七千余が白沙渦へ駐屯していた。巡は夜襲を掛けてこれを大いに破る。帰る途中桃陵にて賊兵四百余と遭遇し、これを悉く捕らえた。その衆を分別して、為(「女/為」)、檀及び胡兵は全員斬った。そして、脅されて従軍していた栄陽、陳留の兵は、皆、釈放して仕事に帰らせた。
 旬日の間に、万余戸の民が、賊を去って帰順した。 

 李庭望が、蕃、漢二万余人を率いて寧陵、襄邑を攻撃した。 夜、ヨウ丘城から三十里の所に布陣する。張巡は短兵三千人を率いてこれを襲撃した。大いに破って、大半を殺獲した。 庭望は軍を収めて夜逃げした。 

 十月甲申、令狐潮、王福徳が歩騎万余を率いて、またヨウ丘を攻めた。張巡は出撃し、これを大いに破って数千級の首を斬る。賊は逃げ去った。 
 

 十二月、安禄山が派兵して穎川を攻撃した。城中は兵が少なく備蓄もなかったが、太守の薛愿と龍堅は総力を挙げて拒み守る。城の周り百里の住居や材木は全て切り尽くす。
 だが、一年しても救援は来なかった。禄山は、阿史那承慶を援軍に派遣し、これを攻める。昼夜死闘すること十五日、城は落ちる。賊は愿と堅を捕らえて洛陽へ送った。禄山は洛浜の氷の上に縛り上げて、凍死させた。 

 十二月、令狐潮が万余の衆を率いてヨウ丘城北へ布陣した。張巡はこれを攻撃して大いに破る。賊は遂に逃げた。
 令狐潮、李庭望はヨウ丘を攻撃したが、数ヶ月も下らなかった。そこで杞州を設置し、ヨウ丘の北へ城を築いてその糧道を絶った。賊は数万人が常駐した。張巡の兵力はわずか千余だったが、戦えば必ず勝った。
 河南節度使カク王巨は彭城へ駐屯し、巡を先鋒使とする。
 この月、魯、東平、済陰が賊の手に落ちた。賊将楊朝宗は馬歩二万人を率いて寧陵を攻撃し、巡の後方を断とうとした。巡は遂にヨウ丘を捨てて寧陵を守って敵を待った。ここで始めて、巡は陽太守許遠と対面した。
 この日、楊朝宗が寧陵城の西北へ到着した。巡、遠はこれと戦う。昼夜通して数十合。大いに破る。万余級の首を斬り、流れる屍はベンの流れを堰き止めた。賊は、兵を収めて夜間に逃れた。
 敕がおり、巡は河南節度副使となった。巡は、将士が功績を建てたので、カク王巨のもとへ使者を派遣して、無記名の辞令と賜を請うた。巨は、ただ折衝と果毅の辞令三十通を与えただけで、賜物は与えなかった。巡は書を遣って巨を責めたが、巨は遂に応じなかった。 

 二年正月、安禄山の子息の安慶緒が、禄山を殺した。慶緒は、尹子奇をベン州刺史、河南節度使とした。
 甲戊、子奇は帰、檀及び同羅、奚の兵十三万で陽へ赴く。許遠は張巡へ急を告げた。巡は寧陵から兵を率いて隹陽へ入る。巡には三千の兵があり、遠と合流して六千八百人となった。
 賊軍は全兵力で城へ迫る。巡は将士を激励して昼夜苦戦する。ある日など、一日で二十合にも及んだ。十六日で賊将六十余人を捕まえ、士卒二万余を殺す。衆の志気は倍増した。
 遠が巡へ言った。
「遠は臆病で、戦争になれていません。公は知勇兼備、遠は公の為に守りますから、公は遠の為に戦ってください。」
 これ以後、遠はただ軍糧を手配し戦具を修備し、中にいて応接するだけとなった。戦闘の作戦や指揮は全て巡が行う。賊は遂に夜間に逃げ出した。
 三月、尹子奇が再び大軍で隹陽を攻撃した。張巡は将士へ言った。
「吾は国の恩を受けた。守るものは、ただ正しく死ぬことだけだ。ただ、諸君が身命を捨てて草野に散っても、それに報いる何の褒賞も与えられない。それを思うと胸が痛むのだ。」
 将士は皆、感激して奮戦を請うた。巡は遂に、牛を殺して士卒へ大いに振る舞い、全軍で出陣した。賊は、兵力が少ないのを見て、これを笑う。巡は、旗を執って諸将を率い賊陣を直撃する。賊は大いに潰れた。将三十余人を斬り士卒三千余人を殺して数十里追う。
 翌日、賊は再び軍を合わせて城下へ進軍した。巡は出て戦う。昼夜数十合。屡々敵の鋒を挫く。だが、敵の包囲は緩まなかった。
 尹子奇は増兵してますます急に隹陽を攻めた。
 張巡は、夜中に軍鼓を鳴らし、隊伍を整えてあたかも出撃のように装う。賊軍はこれを聞いて、明け方まで警備を続ける。夜が明けると、巡は軍鼓を止め、兵を寝かせた。賊兵が、飛楼の上から城内を見下ろしても、怪しいところがなかったので、遂に賊軍も武装を解いて休息した。すると巡と将軍南霽雲、郎将雷萬春等十余将が、各々五十騎を率いて門を開けて出撃し、賊営へ突入した。子奇の間近まで迫ったので、営中は大混乱に陥った。賊将五十余を斬り、士卒五千余人を殺す。
 巡は子奇を射ようとしたが、顔を知らなかった。そこで一計を案じ、藁を削って矢として射た。その矢に当たった者は、巡の矢が尽きたと思って喜び、子奇のもとへ走り込んでありのままを告げた。それを見て子奇の居場所が分かったので、巡は南霽雲に射させた。それは子奇の左目に当たり、彼はほとんど捕らえられる寸前だった。
 五月、子奇は軍を収めて撤退した。 

 山南東道節度使魯Qは南陽を守る。賊将武令c、田承嗣が相継いでこれを攻めた。城中は食糧が尽き、鼠一匹が数百銭となり、餓死者がゴロゴロ転がった。
 上は宣慰しようと、宦官将軍曹日昇を派遣したが、包囲が厳しすぎて入城できなかった。日昇は単騎で突入して使命を果たそうと請うたが、襄陽太守魏仲犀は許さない。そんな時、顔眞卿が河北からやって来て、言った。
「曹将軍は万死も顧みずに陛下の命令を果たそうとしているのに、なんで阻むのですか!もしも達成できなくても使者が一人死んだだけ。達成できたら城中の心が固まるのです!」
 日昇は十騎と共に突撃した。賊はその鋭さを畏れ、敢えて近づかなかった。
 城中は皆、望みが絶えたと言い合っていたが、日昇を見るに及び、大いに喜んだ。
 日昇はまた、彼等の為に襄陽へ行って食糧を取り、千人に運ばせて城へ入れた。賊は遮れなかった。
 Qは包囲されること一年、昼夜苦戦したが、とうとう力尽きて支えきれなかった。壬戌夜、城を開くと残りの兵卒数千人を率いて包囲陣へ突撃、これを突破して襄陽へ逃げた。承嗣はこれを追撃したが、転戦二日、ついに勝てずに帰った。
 この頃、賊は南下して江、漢を侵略したかったのだが、Qがその喉元を抑えていたので、南夏は保全されたのだ。 

 七月。河南節度使賀蘭進明が高密、琅邪に勝ち、賊二万余人を殺す。
 八月、鎬へ河南節度、采訪等使を兼任させ、賀蘭進明と代えた。 

 七月壬子、尹子奇がまた数万の兵を徴発して隹陽を攻撃した。
 もともと、許遠は城中へ六万石の兵糧を蓄えていた。だが、カク王巨はその半分を濮陽、済陰の二郡へ給付した。遠は固く争ったが、力及ばなかった。済陰は、兵糧を得ると城ごと叛いた。
 隹陽は、ここに至って兵糧が尽きた。将士への配給は、米倉から一日一合。これへ茶や紙、樹皮などを混ぜて食べた。対して賊軍は糧道を確保していたので、敗戦してもまた徴兵できた。隹陽の将士は死んでも増援がない。諸郡からの救援米も来なかった。士卒は消耗して千六百人となる。それも皆、飢えと病気で戦闘できない状態。遂に、賊に包囲されてしまった。張巡は守具を修備してこれを拒んだ。
 賊の雲梯は、まるで虹のようにそそり立っている。精鋭兵二百人をその上に置き、これを城のそばまで押して行き、城壁の上から突入しようとする。巡はあらかじめ城壁に三つの穴を穿っておいた。雲梯が近づいてきたら、一つの穴から大木を出す。その先には、鉄の鉤が付いており、これで引っかけて後退できなくした。別の一穴から出した木で抑えつけて、前進できなくする。最後の穴から出した木は、先に鉄の籠が付いており、火が盛んに燃えさかっていた。雲梯は半ばから折れ、梯上の兵卒は遂に焼け死んだ。
 賊は又、鉤車を造った。この鉤が城上の棚閤へ引っかかると、車で引っ張り、棚閤は次々崩れ落ちて行く。巡は大木の先に鎖を付け、その先に大きな環をつけたものを準備し、その環に鉤を引っかけた。鉤車は動けなくなる。敵が動けなくなった車を捨てて別の車へ代えたら、鉤を抜いて捕らえた車を城の中へ入れる。そして鉤頭を切断して、その車を使って敵を追い散らした。
 賊は、今度は木馬を造って城を攻めた。巡は、溶かした金属を濯ぎ掛けて攻撃部分を溶かした。
 更に賊は、城の西北の隅に土嚢を積み上げた。そして柴を石段として城を登ろうとした。巡はこれと戦わなかったが、夜毎に密かに松明や乾かした藁をその中へ投げ入れた。こうして十余日間積み上げていたが、敵は遂に気が付かなかった。そして、大軍を出して攻め込もうとした時に、順風に乗って火を付けた。築山は大いに燃え上がり、賊軍は味方を救うこともできない。この火は二十余日も燃え続けた。
 巡の対応は、即興で敵の弱点をついたので、敵はその知謀に感服し、敢えて攻めようとしなくなった。遂に、城外に三重の壕を掘って、木柵を立てて守備を固めた。巡もまた、内側に壕を作って、これを拒んだ。
 八月、隹陽の士卒は死傷が続き、残りはわずか六百人となった。張巡と許遠は城を二分して守った。巡は東北を守り、遠は西南を守る。彼等は士卒同様、紙茶を食べながらも、降伏しなかった。
 賊士が城を攻めに来ると、巡は順逆の道で彼等を説得した。往々にして彼等は賊を棄て、来降した。巡の為に死ぬまで戦った者は合計二百余人もいた。
 この時、霊昌太守許叔冀は焦郡、尚衡は彭城、賀蘭進明は臨淮にいた。しかし、皆、兵を擁するだけで救援には来なかった。
 城中は日々弱ってくる。巡は、臨淮へ急を告げようと、南霽雲へ三十騎を与えて包囲突破を命じた。霽雲が城を出ると、賊軍数万が行く手を遮る。霽雲はその衆の中へ突入し、馬を馳せながら左右へ射まくる。賊衆は靡かされ、わずか二騎を失っただけで突破した。
 臨淮へ到着して進明と会うと、進明は言った。
「今日の隹陽は、存亡も判らない。兵を出しても意味がないぞ!」
 霽雲は言った。
「もしも隹陽が落ちたなら、霽雲は自殺して大夫へ詫びましょう。それに、隹陽が陥落したら、次は臨淮の番です。毛と皮が合わさって強くなるようなものではありませんか。どうして救わずにいれましょうか!」
 進明は霽雲の勇壮を愛し、これを強いて留め、食事と音楽を準備して霽雲を坐らせた。霽雲は慷慨し、泣きながら言った。
「霽雲が来る時、隹陽の人間は一月余り何も食べていなかった。霽雲が一人だけ美食しようにも、喉を通らない。大夫は強兵を擁しながら坐して隹陽の陥落を観ている。共に助け合う想いがないのが、どうして忠臣義士の所業だろうか!」
 そして、指を一本囓り落として進明へ示し、言った。
「霽雲は主将の意向を伝えることができなかった。ここに指を一本留めさせてくれ。帰ったら、そうやって真情を示したことを報告する。」
 座中の人々は、幾人も泣き濡れた。
 霽雲は、進明に出陣の意志がないことを察し、遂に去った。寧陵へ至って、城使廉坦と歩騎三千人を率いる。
 閏月戊申夜、霽雲は隹陽の包囲へ突入し、戦いながら進む。城下に至って大いに戦い、賊営を壊す。死傷者の他、わずか千人を得て、入城した。
 城中の将吏は、救援がないことを知り、皆、慟哭する。賊は援護が絶えたことを知り、ますます急に囲む。
 房官が相だった頃、賀蘭進明が河南節度使となったことを憎み、許叔冀を進明の都知兵馬使として、共に御史大夫を兼務させた。叔冀は自ら麾下の精鋭を恃み、また、官位も進明等と同等なので、彼の節制を受けなかった。だから、進明は敢えて援軍を出さなかった。巡や遠の功名に妬いたのではなく、叔冀から襲撃されることを懼れたのだ。
 子奇は陽を包囲し続けた。城中は食糧が尽き、城を棄てて東へ逃げようと協議した。張巡と許遠は謀った。
陽は、江、淮の関だ。もしもここを棄てて去ったら、賊は必ず勝ちに乗じて長躯する。そうなれば、江、淮をなくす。それに、我等は飢えきっている。逃げても行き着けまい。昔は、戦国諸侯でさえ互いに救け合っていた。ましてや、同国の軍隊だぞ!堅守して彼等を待つべきだ。」
 茶も紙も尽きて、遂に馬を食べた。馬が尽きると雀を捕り、鼠を捕まえた。雀鼠も尽きると、巡は愛妾を出して、殺して士へ食べさせた。その後、城中の婦人を全て食べた。その後は男子と老弱。人々は、絶対に生き延びられないと判っていた。だだ、誰一人として叛く者はいない。残る兵卒は、わずか四百。
 十月癸丑、賊が城壁に登った。将士は病で戦うこともできない。巡は西へ向かって再拝して言った。
「臣の力は尽きました。城を全うすることができず、生きている間は陛下の御恩へ報いられませんでした。死んだ後は、必ずや悪鬼となって賊を殺しますぞ!」
 城は遂に落ち、巡も遠も捕らえられた。尹子奇が巡へ問うた。
「君は戦いのたびに歯を食いしばり、歯が全部砕けてしまったと聞くが、どうしてそこまで戦ったのか?」
「吾が志は賊を呑んでいた。ただ、力が足りなかったのだ。」
 子奇は、刀で彼の口を抉って見た。彼の歯は、わずか三、四本しか残っていなかった。子奇は、義として彼を生かしておきたかった。だが、その部下は言った。
「彼は節を守る者です。我等の味方には、絶対になりません。それに、彼は士の心を掴んでいました。これを殺さなければ、後々患いとなります。」
 そこで、南霽南、雷萬春等三十六人と共に、全員斬った。
 巡は死んでも顔色は変わらず、いつものように晴れやかだった。許遠は生きたまま洛陽へ送った。
 巡が陽を守った当初、兵卒はわずか一万人だった。城中に住んでいる者も数万人だったが、巡は一度見て姓名を問うと、その後は絶対に見忘れなかった。前後して大小四百余戦して、賊卒十二万人を殺す。
 巡の用兵は、古法の戦陣には依らず、各々の将へ思うように戦わせた。ある者が理由を問うと、巡は言った。
「今、胡虜と戦うに、奴等の陣立ては雲合鳥散、変化して定まらない。数歩の間にも情勢は変わる。それへ対して、瞬時に適宜な対応をしなければならない。これでは、大将に諮問してから動いたのでは間に合わない。兵の変化を知る者は、そんなやり方は使わない。だから吾は、兵士には将の意向を知らしめ、将には士の情を理解させ、手が指を使うように、適宜な場所へ向かわせているのだ。将と兵が相習えば、人々は自分で戦う。それでよいではないか!」
 起兵してから後、器械や武器は皆、敵の物を奪って使い、自分で造ることがなかった。
 戦いのたび、将士があるいは退却すると、巡は戦塵の中に立って将士へ言った。
「我はここを離れない。お前達は、我が為に帰って、戦いに決着をつけてくれ。」
 将士は敢えて帰る者は居らず、死戦して遂には敵を破るのだ。
 また、誠意を以て人と接し、疑ったり隠したりすることがなかった。敵に臨んだら変化に応じ、奇策を無窮に出した。号令は明確で、賞罰は正しく、衆と甘苦寒暑を共にした。だから、部下達は争って死力を尽くした。
 張鎬は陽の危急を聞くと急行し、浙東、浙西、淮南、北海諸節度及び焦郡太守閭丘暁へ、共に戦うよう檄を飛ばした。しかし、暁はもともと傲慢で、鎬の命令を受けなかった。
 鎬が到着したのは、陽が陥落した三日後だった。鎬は暁を呼び出すと、杖で殴り殺した。
 ところで、九月には郭子儀が長安を恢復していた。官軍は更に進軍する。十月、陳留の人が尹子奇を殺して郡を挙げて降伏した。陽陥落の十日後だった。 

(訳者、曰く)かつて筑摩書房から出版された世界古典文学全集に、韓愈が収載されていた。その第十三巻に、「御史中丞張巡の伝のあとがき」があり、私はこれで始めて張巡を知った。
 南霽雲が賀蘭進明に失望して去る際、城を出ようとする時に、矢を引き抜いて仏塔を射た。
「私は、戻ったら賊軍を破り、きっと賀蘭進明も滅ぼしてやる。この矢はその証だ」と。
 そして、敵に捕らえられて降伏を強制された時、張巡から「不義に屈するな」と言われると、笑って答えた。
「一つやり残したことはあるが、閣下の言葉だ。私は死んで見せましょう。」
 このようなエピソードの他、許遠への論評など、非常に印象に残る一文だった。大きな図書館には所蔵されていることと思う。興味のある方へは一読を勧める。 

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