東 莱 博 議

楚、随を侵略す。 二年の後、楚、随を敗る。

(春秋左氏伝)

 魯の桓公の六年。楚の武王が随を侵略した。(楚は自ら野蛮人と名乗っていた。中国人ではないから周王の臣下ではない。そうゆう理屈で、この時代にも゛王゛を名乗っていた。)
 これに対して随は、使者として少師を派遣した。すると、楚軍では闘伯比が楚王に言った。
「我々は関東制覇のために来たのです。しかし、大軍で威圧すれば、関東の諸侯連中は懼れ、協力して我々と対峙します。
 さて、随は関東では随一の大国で、この辺りの盟主です。もしも随が横暴になって周りの小国へ専横な振る舞いをすれば、関東の諸侯連合はバラバラとなります。
 幸い、少師は軽薄な男で、随候の寵臣。ここで我々が弱みを見せれば、奴はつけあがります。そして自国の武力に驕るでしょう。」
「しかし、随には季梁とゆう名臣が居る。そう巧くはいかんだろう。」
「ええ、今は何の役にも立ちません。しかし、少師を自惚れさせることは、後々布石として生きてきます。」
 武王は承諾し、軍を弱く見せかけて、少師を迎え入れた。

 少師は帰国すると、随侯へ迎撃を願い出た。随侯は許諾しようとしたが、季梁が言った。
「これは罠です。軍を弱く見せて我々を誘っているのです。楚は大国で、随は小国。勿論、古来から小国が大国を敗ったことはありました。しかし、それは小国が正道を歩み、大国が腐敗していた場合に限ります。
 正道を歩むとは、民衆へ忠義を尽くし、神を欺かないことです。主君が領民の利益を考える。これこそが主君の民へ対する忠義とゆうもの。神へ捧げる祝詞が正しい、それが神を欺かないとゆうことです。今、民衆は餓えているのに、主君独りが我欲を逞しくし、祝詞は真実を語っていない。我が国が正道を歩んでいるとは、私には思えません。」
「いや、神への生贄はきちんと捧げておるし、祝詞の言葉も規則通り正しく唱えている。神を欺いてなどおらんよ。」
「民は神の主人です。ですから、昔から聖人はまず領民を幸せにし、その後に神を祀ったのです。その為、生贄を捧げる祝詞には、『民の力がゆきわたる』『家畜が大きく、多くなっている』『穀物の稔りが豊かである』『上も下も嘉き徳を持っている』等の言葉が出てきます。今の我が国にとって、この言葉は真実でしょうか?」
 随侯は懼れ、よき政治を心がけた。そのおかげで、楚は随に手出しができなくなったのである。

 それから二年後、魯の桓公の八年。随では少帥が驕慢になった。そこで、楚の闘伯比が楚王に言った。
「随に隙ができました。今こそ討つべきです。」
 この年の夏、楚は諸侯を集めて盟約を結んだが、随は参加しなかった。楚王は使者を派遣してこれを責め、出陣して随を威嚇した。この時、季梁は随候に言った。
「盟約へ参加しなかった非礼を詫びましょう。そして許されなかったら戦う。この手順を踏めば、我が兵士は楚の横暴に怒り、楚の兵士は侵略戦争と明白な為、戦意をなくすでしょう。」
 しかし、少帥は言った。
「速戦あるのみ。愚図つくと敵が逃げてしまいます。」
 随候は少帥の進言を納れ、迎撃に出た。敵の布陣を見て季梁が言う。
「楚は左を尊びますから、楚王は左陣に居ます。そちらが精鋭兵でしょう。逆に右陣は弱兵でしょうから、そちらなら破れます。初戦で勝利して敵の戦意を削ぎましょう。」
 だが、少帥は言った。
「敵の王をやっつけなければ意味がありません。」
 随候は左陣へ突撃させた為、随軍は敗北した。逃げる随候を楚軍が追撃し、随候の右を守っていた少帥は戦死した。

 秋、随は和睦を申し入れた。楚王はこれを断ったが、闘伯比が言った。
「少帥が死んで、随の病根が無くなったのです。これでは随を滅ぼすことは困難です。」
 そこで、楚は和睦に応じた。

(博議)

 敵を破る為に謀略を巡らす名人は、敵に気づかれないように罠を張る。相手は実害を受けるまでそれに気がつかない。なんと奥の深いことか。
 終日奔走させられてもそれが敵の計略とは気がつかず、軍団が全滅し国が滅亡して始めてそれが謀略だったことに気がつくのである。巧妙な方法を使って必ず罠にはめる。敵は何もかも失ってからほぞを噛んでジタバタするけれども、もう遅い。これこそ最高の謀略だろうか?
 いいや、そうではない。例え敵を破った後でも、こちらの謀略を気がつかれるようではまだまだだ。
敵を破った後でさえもこちらの謀略には気がつかれないばかりではなく、数千年の後までも、こちらが勝った真の原因を掴まさせない。その様な謀略こそが天下の至深と言える。そして、闘伯比の謀略こそがそれである。
私は、闘伯比が謀略を巡らす件を読む度に必ず本を置き、その奥の深さに感嘆せずにはいられないのだ。

 世間の人々は、闘伯比の謀略について次のように批評している。
「季梁は正しさも、遂には少師への寵愛に勝てなかった。季梁の諫言もいつかは棄てられるし、少師の進言もいつかは採用される。その時を逃さなかった。」
 ああ、そんな批評では、闘伯比の老獪さを言い表すには全然足らない。
初め、随候が少師の進言を却下し季梁に従って善い政治を心がけたが、これを人々は「闘伯比の謀略には、まだ陥っていないな。」と批評する。しかし、そこが大きな間違いだ。この時既に、随候は闘伯比の張り巡らせた謀略に、どっぷりはまり込んでしまっていたのだ。
 これについて説明しよう。

「市街地に虎が出た。」と聞いた時、人々は笑うが、別々の三人の人間から同じ言葉を聞いたら信じずには居られないだろう。もしも、三人がグルになって一人を騙すとしたら、まずたいていの人間は引っかかる。この時、最初の人間は、信じられないと判っていながら伝えるのである。二人めもそうだ。二人とも、信じられないことが判っていながら馬鹿げた嘘をついたのである。
それは何故だろうか?
三回目になれば信じられるからである。
三人めの騙し方が巧かったわけではない。最初の二回は信じなかったが、それがあったからこそ、三回目に信じてしまった。言うなれば、最初の二回に信じなかったことが、三回目に信じた原因なのである。
 これが判れば、闘伯比の謀略の老獪さが判るだろう。
随候は、最初少帥の進言を拒んだからこそ、後に彼の進言を採ったのだし、最初季梁の諫言を採ったからこそ、後にこれを拒んだのである。

 季梁は、楚の人間でさえも評判になるくらいだから、随での名望は相当なものだっただろうし、随候からも憚られていたことは容易に想像がつく。恐らく、闘伯比はこう思ったのだろう。
「随候が、少師をいくら寵愛しているとは言っても、普段から憚っている季梁の言葉を俄に拒む筈がない。私の謀略を、一挙に行おうとしてもとても無理なことだ。しかし、もっと先まで読んでみよう。
 今、軍隊を弱く見せれば、あの少師は図に乗って迎撃を進言するに違いない。そうすれば、季梁のことだから、これを拒むばかりではなく、善い政治を心がけるよう諫言する。随候は日頃から憚っているので、その思いに半ば脅迫されるように、季梁に従い少師の進言を却下する。
 しかし、今回季梁の諫言に従って無事に済めば、随候の心は緩み、いずれは警戒しすぎたことを馬鹿らしく思い始めるだろう。その時事が起これば、季梁が諫言したとて、話半分に聞いてしまうに違いない。
 随で頼もしいのは季梁一人。随候が季梁の諫言に従わなくなれば、後日の我々の挙兵を、誰が防げるだろうか。」

 けだし、やむを得ない状況に迫われて日頃憚っている人間の言葉に無理して従うというのは、とりあえずそれに従ったに過ぎないとゆうのが人情である。二度目になったらどうしてこれに従うだろうか。やむを得ない状況に迫られ日頃寵愛している人間の言葉を無理して拒むというのは、なんとか拒めたに過ぎないとゆうのが人情である。二度目になったらどうしてこれを拒むだろうか。
 憚っている人間に無理して従うとゆうのは、従ってはいるが心に不満を持つものだ。寵愛している間の言葉を無理して拒むというのは、拒んではいても忍びない思いが心に残るものだ。随候の不平の念は、季梁の諫言に従った時に生まれ、数年の間に日々蓄積していった。この時に及んで、どうして季梁の諫言が採られようか。随候の忍びない思いは、少師の進言を拒んだ時に生まれ、数年の間に日々蓄積していった。この時に及んで、どうして少師の進言を拒めようか。つまり、季梁の諫言に従った時にこれを拒む気持ちが生まれ、少師の進言を拒んだ時にこれに従う気持ちが生まれた。
 随候が善い政治を心がけた時、随の人々は国を挙げて交々祝賀しあい、主君の゛納諫の明゛を賞賛したことだろう。だが、正にこの時、自分の張った罠に陥ったと、闘伯比は一人ほくそ笑んでいたのだ。
随を破る陥穽(おとし穴)を数年前に兆し、随を破る功績を数年後に収める。闘伯比の謀略の、何と巧妙なことか!

 私はかつて、この闘伯比の謀略について、思いを巡らせてみた。
 まず、弱軍の偽りで、少師の欲を掻き立て、少師の請願を借りて季梁の諫言を引き出し、季梁の名声を借りて随候に畏怖を抱かせ、献策の却下を借りて少師への慚愧を起こさせ、少師への寵愛を借りて季梁の策を阻ませた。
少師の心に毫末の毒を置き、その毒が一国の君臣全てを染め上げ、自ら勝ち自ら負け、自ら起き自ら倒れ、自ら与え自ら奪う。車輪のように機械のように、動き回って少しの間も休まない。そして闘伯比自身は端座拱手し、随が徐々に腐って行く有様を平然と眺め、好機に全てを奪い去った。
この事件の一部始終を著述したとしても、読者はこの端倪に気がつかないだろう。ましてや実際にその罠に堕ちた当事者達が、どうしてそれと判っただろうか。

 それならば、このように巧妙な罠を仕掛けられたとき、どうやって防ぐことができるだろうか?

 対策はある。
それは、「燃えやすいものが何もなければ、烈火も玉を焼くことができず、健康そのものの体だったら、疫病も犯せない。」とゆう事だ。

 闘伯比は、数年がかりで随を腐らせたのだ。にもかかわらず、大勝に乗じてこれを滅ぼそうとはせず、結局随は存続した。勇躍随を破りながら、滅ぼす時に急に怖じ気づいたのだろうか?それとも、あれだけ見事な謀略を張りながら、その詰めで稚屈になったのだろうか?
いや、そのどちらでもない。少師が死んでしまったから、随の腐敗が進まなくなったのだ。
 嗚呼、主君の身近に小人が仕えているとゆうのが腐敗の根源。この根元が残っている限り、例え主君が諫言に従ったとしても喜ぶに足りない。逆にこの根元が除かれたなら、大敗北を喫しても憂うに足りない。それ、国君を補佐する者よ、禍の根元である小人を除くことに務めなさい。

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