宋の明帝
 
明帝の治政 

 元嘉以前は、中書侍郎や舎人は、名門の一族しかなれなかった。
 宋の太祖の頃、始めて寒人の秋當が登庸された。世祖は更に士庶を混ぜ、巣尚之や戴法興が登庸された。
 明帝が即位すると、下賤の民が大勢登極された。遊撃将軍阮佃夫、中書通事舎人王道隆、員外散騎侍郎楊運長などは政治に参与し、その権勢は皇帝に準じ、かつての巣、戴を凌駕していた。阮佃夫は特に放埒で、少しでもその意向に逆らった人間には、たちどころに報復が加えられた。賄賂も平気で貪り、絹二百匹程度では返書も寄越さない。その邸宅は諸王よりも豪華で、妓楽の装服は宮人をも凌いだ。朝士も貴賤も、皆、彼と好を通じたし、彼の僕隷は官位を貰った。単なる御者でさえ、虎賁中郎や員外郎となる有様だった。 

 泰始六年(470年)、皇太子妃を定めた。大赦を下し、百官から献上物を出させる。始興太守の孫奉伯は、琴と書物しか献上しなかったので、明帝は激怒して毒薬を賜下したが、やがて赦した。 

 六月、明帝は大宴会を催し、裸の婦人を参列させた。すると、王皇后は扇で顔を覆ったので、明帝は怒って言った。
「庶民は貧しい!今、彼等と共に皆で楽しんでいるのに、お前一人だけなぜ目を逸らすのか!」
 すると皇后は言った。
「楽しむのなら、やり方もございましょう。王公の女性が参列しているこのような席で裸の婦人を出して笑いを取るとゆう法がありますか!庶民の楽しみとゆうのは、雅とは異なります。」
 明帝は激怒し、皇后を残して退席した。
 皇后の兄の景文が、これを聞いて言った。
「后の実家には何の力もなく、後ろ盾にもなれないとゆうのに、このように剛正でいられるのか!」 

 諸王だった頃の明帝は、寛大穏和で令名があり、世祖からも可愛がられていた。即位した当初は、晋安王の賊党も宥め、才能に従って抜擢して旧臣のように扱っていた。だが、晩年になると、猜忌忍虐となり、迷信深くもなった。諱や言語・文筆の忌が多くなり、使用を禁止して婉曲な表現を強制する言葉がたくさんでき、これに触れて罪に落とされる者も大勢居た。
 この頃、淮・泗での出兵で官庫は底を尽き、内外の百官は俸禄を減らされていた。しかし、宮中の生活は豪奢となり、新しい器用は、予備品を含めて三十枚作られる有様。奸佞な人間を登庸したので、賄賂は横行した。
 明帝には子供がなかったので、諸王の姫が孕んだら宮中へ差し出させた。それで男児が生まれたら、母親を殺し、子供は自分の寵姫の養子とするのである。 

  

皇弟殲滅 

 泰始七年頃になると、明帝は衰弱してきた。太子は幼弱だったので、諸弟を深忌するようになった。 

 南徐州刺史の晋平刺王休裕は、最初江陵の鎮守を命じられていたが、貪婪残虐で程度を知らない人間だった。そこで明帝は彼を建康に留めて任地へ赴かせず、実際の治政は行府州事に執らせた。
 そうゆうわけで、休裕は皇帝と会う機会が多かったが、彼は剛腹で頑固者だったので、明帝の意向に逆らうことが一再ならずあった。それで、明帝の心の中には不満が積もっていった。又、将来的に牽制できなくなることも憂慮し、機会を掴んで処刑しようと考えるに至った。
 二月、休裕は明帝のお供で雉狩りに出かけた。そろそろ日が暮れかかる頃、休裕を取り巻いていた者共が、かねての明帝の命令に従って、休裕を馬から突き落とした。その上で殴り殺し、叫んだ。
「驃騎将軍が落馬なさったぞ!」
 明帝が駆けつけてきて、上辺は驚いたようなふりをして医者を呼んでこさせたが、休裕は既に息絶えていた。一行は、輿を持ってきて、休裕の亡骸を宮殿へ運び込んだ。
 休裕には司空が追贈され、礼法に従って埋葬された。 

 建康の民の間に、噂が流れた。
「荊州刺史の巴陵王休若には貴相がある。(いずれ皇帝になるのではないか)」
 明帝は、この噂を休若へ伝えたので、休若は憂懼した。
 戊午、休裕の後任として、巴陵王休若が南徐州刺史に任命された。だが、ここの政治は行府州事が執り行っているので、休若は朝廷へ呼び戻されることとなる。休若の腹心の将佐は、「生きて帰れない」と言い合った。そして、中兵参軍の王敬先が休若へ言った。
「陛下は猜疑心が強くなり、宮廷の百官は兢々としている有様。そして、殿下の名声は海内に知れ渡っています。今、詔を受けて入朝すれば、生きて帰ることはできません。今、荊州には十余万の武装兵が居ますし、領土は方数千里。天子となって姦臣を排除し、境土を保つこともできます。剣を賜って臣妾を悲嘆にくれさせ、埋葬さえも許されないのと、どちらがましでしょうか!」
 休若は、もともと謹厳で臆病な人間だったので、偽ってこれを許した。そして、王敬先が退出するとこれを捕まえ、明帝へ事情を伝えて誅殺した。 

 晋平刺王が殺されると、建安王休仁は益々不安になった。 
 明帝は、近習の楊運長等と共に、自分の死後の事について図っていた。楊運長等は、明帝が崩御した後に建安王が政権を握ると自分たちの出番が無くなることを慮っていたので、明帝の猜疑心を陰に陽に煽り立てていた。
 やがて、明帝の病状が重くなると、内外の人望は建安王へ集まった。主書以下の官人達は、建安王との好を強めようと、引きも切らずに東府へ押し寄せる有様だった。それを聞いて明帝は、益々建安王を憎んだ。
 五月、建安王が謁見すると、明帝は言った。
「今夜は尚書の下省へ泊まって、明朝早く来るように。」
 そしてその夜、建安王のもとへ毒薬を贈った。
 建安王は罵って言った。
「陛下は、誰のおかげで天下を取れたのか!孝武帝は兄弟を次々と誅殺して、遂に子孫を絶えさせてしまった。今、お前も同じ事をする。宋の国祚も長くはないぞ!」 

 休仁が死ぬと、巴陵王休裕は益々不安になった。彼は温厚な性格で人々から慕われていたので、明帝は猜疑し、殺した。 

 こうして、明帝は諸兄弟を次々と殺したが、桂陽王休範だけは凡庸な性格だったので誅殺を免れた。 

  

呉喜の誅殺 

 かつて、呉喜が会稽を討伐した時、彼は明帝へ言った。
「尋楊王子無房や諸賊帥を捕らえ、皆殺にしてみせましょう。」
 だが、実際に敵を破ると、呉喜は子房を生け捕りにして都へ送り、顧深等を赦した。明帝は、呉喜が大殊勲を建てたので不問にしていたが、心の中にはわだかまりを残していた。
 やがて晋安王を誅殺した後、呉喜は荊州を平定に向かったが、この時略奪を行い、多くの宝物を着服した。(「晋安王の乱」の「乱の平定」参照。ここの記述には、呉喜が略奪したことは記載されてないし、呉喜の人柄から考えて、かなり違和感がある。後世の捏造か否かは判別不能です。) 

 泰始七年、「蕭道成が魏へ走ろうとしている」と讒言する者が居た。そこで、明帝は蕭道成へ、銀の壺に入れて封印した酒を賜ったが、その時、呉喜を使者とした。蕭道成は懼れ、亡命しようとしたが、呉喜は真心で説得し、かつ、自らその酒を飲んで見せた。そこで、蕭道成はようやく酒を飲んだ。呉喜は朝廷へ帰ると、蕭道成の潔白を保証した。(「宋略」では、これによって呉喜は罪を得たことになっている。そうだとすれば、明帝は蕭道成を「魏へ亡命した裏切り者」にする為に、毒の入ってない酒を仰々しく賜下したことになる・・・・。あり得る話だ。呉喜が自ら進んで毒味して、その計略をぶち壊したのなら、殺したくなるわけだ。) 

 七月、ある者が、呉喜を讒言した。呉喜が有能で人望を得ていることは明帝も知っていたので、彼が幼帝へ対して牙を剥くことを懼れ、死を賜った。
 明帝は、劉面等へ詔を下した。
「呉喜は狡猾で周到な人間。人の心を手玉に取る術に長じている。大明年間に、数千人の流民共が県邑を攻撃して官長を殺したことがあった。この時、劉子尚が三千の武装兵を率いても攻めあぐねたのに、孝武帝が呉喜へ数十人を与えて説得に向かわせると、賊徒共は降伏してきた。人心を幻惑する奴の能力は、これ程に怖ろしいのだ。
 晋安王が造反した時も、奴はたった三百人を率いて三呉を平定した。破岡から海へ至るまでの十郡は、全て奴が清掃した。『呉喜が来た』と聞くだけで、百姓は雲を霞と逃げ出したのだ。三呉の人情を余程強く掌握していない限り、こうはいかない。これを以ても、奴の本心明白ではないか!奴は自分の名声を固めながら、国を簒奪する機会を狙っていたのだ!
 たとえば人が病気になったとしよう。寒気が来たときには散石で体を資けるが、熱気を帯びてしまえば、そのような薬は取り除かなければならない。
 朕は彼の大功を忘れたわけではない。形勢としてやむをえなかったのだ。」
(胡三省は評した。「このようなやり方で人を使っては、臣下は命を守れないではないか。なんで力を尽くそうか!」と。
 全く、この言葉は酷い。なにをかいわんや!) 

  

蕭道成  

 蕭道成が朝廷へ召集された。朝廷では大臣が次々と粛清されていたので、彼と親しい人間は入朝を止めたが、蕭道成は言った。
「諸卿は何と物が見えないのだ!陛下は、太子が幼いので弟達を殺しているだけだ。他人には関わりがない!今はただ、速やかに召集に応じるだけ。グズグズと遅滞しては、必ず疑われてしまうぞ!それに、骨肉で殺し合うとゆうのは、国を守るやり方ではない。禍難はまさに起きようとしている。今は、諸卿等と力を尽くすだけだ!」
 入朝すると、散騎常侍・太子左衛率に任命された。 

  

虞愿 

 明帝は、もとの住居を改築して、寺にした。「湘宮寺」と名付ける。これは、明帝が始めて封じられたのが湘東王だったからだ。この寺は、非常に壮麗に造られた。
 ある時、新安太守の巣尚之が謁見すると、明帝は言った。
「卿は湘宮寺を見たか?これこそ、朕の大功徳。遣った金も半端じゃないぞ。」
 この時、傍らに侍っていた通直散騎侍郎の虞愿が言った。
「それは、百姓が妻や子を売った金で作られた物。もしも仏が知ったなら、慈しみ悲しんで憐憫嗟嘆する筈です。仏へ対してこれ程の罪はありません。何が功徳ですか!」
 居並ぶ者は、皆、顔色を失った。明帝は怒り、虞愿をつまみ出させた。虞愿は追い出されたが、平然としていた。 

 明帝は棋が好きだったが、とても下手だった。虞愿は言った。
「棋は、堯が自分の息子の丹朱を教育する為に創ったものです。人主が好むものではありません。」
 明帝は激怒したが、虞愿は彼が湘東王だった時からの旧臣だったので、特に赦した。 

  

(訳者、曰く) 

 明帝の廟号は太宗。唐の太宗や宋の太宗、あるいは漢の太宗(文帝)など、治世に最も功績のあった主君へ贈られる廟号である。明帝の行跡を見ると、とてもそうは思えない。
 大体、宋の皇帝は、総じて猜疑心が強く、一族や功臣を次々と粛清して行くような人間ばかりだった。明帝も、大勢の能臣を猜疑心から誅殺した。休仁や休裕を誅殺した経緯は、平凡社の「資治通鑑選」に、割と詳細に訳出されているし、訳していて気が滅入ってくるので割愛した。クドクドと同じ事を書かなくても、「優秀な人間だから、死後のことが気になって誅殺した」の一言で済む事なのだ。ただ、誅殺される人間の、死に臨む態度は一人一人違うし、「似たような事だから歴史に残さなくても良い。」とゆうものでもない。しかし、訳すのが、精神的に辛いのだ。
 いずれ、丁寧に翻訳するかも知れませんが、取りあえず置いておいて、先へ進みます。