孝武帝の治世
 
日食
 元嘉三十年(453年)、七月。日食が起こった。甲寅、直言を求める詔が降りた。又、精巧な細工や贅沢な装飾を省かせ、貴親が民間と利益を争うこと(商工業などの事業を行うこと)を禁止した。
 すると、中軍録参軍の周朗が上疏した。
「体の中に毒があったら、必ず、その場所をえぐり取ります。今、歴下城や城は守る意味がありません。中には、『胡は内紛で国力が衰退している。奴等を恐れる必要はない。』と言う人も居ますが、彼等は、我が国の方が疲弊しきっていることを知らないのです。今、孤城を虚しく守らせても、いたずらに財政を浪費するだけです。奴等にとって、三千の軽騎を動員して、春には麦を奪い秋には稲を奪い、水陸の交通を遮断するなど、実に容易いことですが、そのような手段を執られると、歴城は二年と経たずに干上がってしまい、民は悉く逃散してしまうでしょう。どうしてこの城を守り通すことができましょうか。羊で狼を追い払い、蟹で鼠を捕らえることなどできません。それは誰もが知っていることなのに、今、重車と弱兵で、肥馬と悍兵を追い払おうとしておられます。どうしてそれができましょうか。
 又、三年の喪は、天下の大礼です。漢代には、これを短縮いたしました。臣下の喪を縮めるのは宜しいでしょう。しかし、皇室の喪を縮めるのは、「乱」です。今、陛下は大孝を基盤に据えておられます。何とぞ、三年の喪を復活させ、長い間の過ちを正されて下さい。
 更に言います。天下を挙げて一人の皇帝を養っておりますのに、なんの不足が起こりましょうか?一個の金は百両に過ぎず、一年かけて作った美衣も一度に数枚しか着れません。それなのに、宝物をいくつもの箱にぎっしりと詰め込み、タンスの中を着物の山にして、どんな意味がありましょうか。宝物をいつでも見ている訳ではないし、着物を常に着ているわけでもない。これは、箱へ宝物を与え、タンスに着物を着せているようなもの。馬鹿らしい限りではありませんか!それに、華麗な装飾をやめて倹約を表しても、一度作られた華麗な技術はなくならず、民間へ流れて行きます。これでは、単に消費先が変わっただけではありませんか。庶民の趣味は、日毎奢侈に走り、今では車馬を見ても貴賤が判らず、冠服を見ても尊卑の区別が付きません。かつて美麗なものが造られたので、民はこれを知りました。宮中で一着の服を造れば、やがてその技術を庶民が学んでしまいます。侈麗の源は、じつに宮中にこそあるのです。(宋が滅ぶ寸前、やはり風俗はこのようであった。劉宋と趙宋と、二つの宋は同じ理由で滅ぶのである。嗚呼!)
 官を設ける時は、必要に応じて造るべきであり、人の為にポストを作るべきではありません。王侯は、職務が取れない程幼い時にも、強いてポストを作って仕官させますが、皇帝のご子息ならば、たとえ仕官していなくても、誰がこれを賤しいと言いましょうか?このような時には、ただ賓友と側近・教師を選ぶべきであります。『長史、別駕、参軍などをズラリと並べて従事させなければ貴くない』等という理屈がどこにありましょうか。
 人々は、失敗した人間を謗る事は好みますが、失敗した原因を考えようとしません。出世する人間を褒めますが、出世できた要因については考えません。謗る人々が皆愚か者だったなら、謗られた人間を抜擢しましょう。愚か者が挙って褒める人間が居たら、そんな人間は斥けましょう。こうすれば、毀誉褒貶が妄りに起こらず、善悪が分明になる筈です。
 だいたい、いつの世でも正しいことを口にする人間はいますし、直言を求める詔にしても、折に触れて出されています。しかしながら、泰平の世が続かず、昏危な御代が相継ぐのはどうしてでしょうか?その詔が、上辺だけで本心から出されることが少ないからです。」
 この書状が上奏されると、孝武帝の勘気に触り、周朗は、自ら辞任して官を去った。なお、周朗は、周橋(「皇太子劭、弑逆す」参照。義軍への参加にぐずつき部下から殺された。)の弟である。
 侍中の謝荘が上言した。
「詔には、『貴親が民間と利益を争うことを禁じる』と、ありました。これは、実に民意に叶っております。もしもこれを犯す者がいれば、制によって裁くべきであります。既に明詔が下った以上、法を無視してこれを容認するのは、信頼を失ってしまいます。臣の愚見を申すならば、大臣として碌を食む者が、それ以外の事業で民と利益を争うのは宜しくないと考えます。その適用について、もっとつまびらかな詔を下すべきでございましょう。」
 謝荘は、謝弘微の子息である。
 孝武帝は太祖の制度を数多く変更した。郡県の長官については、それまで六年毎に考課を行っていたが、これが三年毎に変更された。これ以来、宋の善政が衰えていった。
 
宗室は邪魔だ
 孝建元年(454年)、太傅の江夏王義恭の請願により、録尚書事を廃止した。
 もともと孝武帝は、宗室の強盛を憎んでおり、臣下達へ権力を与えることも望んでなかった。義恭は、孝武帝のその意向を知り、これを省くよう請願したのである。
 二年、江夏王義恭と意陵王誕が、王侯の車服、器用、楽舞制度等九箇条に亘って制限するよう上奏した。すると孝武帝は、更に追加して二十四箇条とするよう風諭した。例えば、南面して座ってはいけない、鹿廬形の剣を身に帯びてはいけない、王侯の内史・相等の幕僚達の呼称を従来の”臣”から”下官”に改称させる等々。そこで、二人は改めてこれを上奏し、それを裁可する旨、詔が降りた。
 三年、十一月。義恭が、太傅から太宰・領司徒へ進位する。
 
貨幣改鋳
 元嘉年間に鋳造されていた四朱銭は、それまでの五朱銭と同じ大きさで同じ造りだった。厚く大きく縁取りもある立派造りで、制作費用も四朱は掛かったので、民は偽造しようとしなかった。孝武帝は、即位すると孝建四朱銭を鋳造させた。これは形が小さく薄い上、縁取りも不完全な手抜きの造りだった。そこで、偽造貨幣が出回った。それまでの立派な貨幣を溶かし、それに鉛や錫を混ぜて偽孝建銭を造るのである。又、それまでの立派な銭を削り、薄小な銭にして使う者もいた。これがあまりに多すぎて、守宰も防止することができず、多くの守宰が、責任を追及されて誅殺されたり罷免されたりした。
 偽造貨幣は増え続け、貨幣価値が減少したので物価が上がった。これを患った朝廷は、孝建二年の春、薄小で縁取りのない銭は使用禁止としたので、民間では大騒動が起こった。
 孝建三年、始興郡公の沈慶之が建議した。
「民間の鋳造を許可しましょう。まず、郡県に銭署を設置し、貨幣を鋳造する者は、皆、ここに住ませます。そして、官吏の監視のもと、形を同一にした混じりけのない銭を造らせるのです。去年、新品の使用を禁止しましたが、それは暫定的な処置です。今後は、その新たな規格の銭を流通させます。鋳造する者には課税し、その上で偽造するものを厳しく取り締まりましょう。」
 すると、丹陽尹の顔竣が反駁した。
「五朱銭の軽重は、漢代に制定されており、魏・晋以降、変更されたことがなかった。だから物価も安定していたのであり、これを変更させたから、偽造貨幣が横行したのだ。今、去年の禁令を暫定的なものだと言ったが、もしも朝廷が貨幣を鋳造しなければどうなってしまうだろうか?鋳造の利益は大きく、私欲には限りがない。当然、偽造貨幣や削り取られた銭が横行して禁じようが無くなってしまう。挙げ句の果てには、新造貨幣が行き渡る前に、旧い立派な貨幣はスッカリ消え去ってしまうに違いない。
 今、禁止令は発布されたばかりである。それが行き渡らない内にすぐに廃止したのでは、聖慮の汲み取られようがないではないか。
 確かに、官庫が乏しいのは憂うべき事だが、たとえ民間に粗悪な銭が流通したからと言って、税収増に繋がるわけではない。民は豊かになるだろうが、官が乏しいことに変わりはない。だから、官庫が乏しくなった以上、奢侈贅沢を廃止し、節約倹約を推し進めるべきである。国を富ませるには、これ以上大切なことはない!」
 すると、別の意見が出た。
「銅が不足しているのです。二朱銭を造ったらどうでしょうか。」
 顔竣は言った。
「官庫が乏しいから、粗悪な銭を流通させる。天下の銅が少ないから、少額の貨幣を多数流通させて民の交易を盛んにさせる。しかし、私はそう巧く行くとは思わない。
 今、二朱銭を鋳造してみよう。そうしても官庫の乏しさは変わらない上、民間では姦巧が増大する。貨幣は壊されて跡形もなくなってしまうだろう。これを厳しく禁じても、利益が出ることならば、根絶させるのは難しい。一・二年も経たないうちに、救いようもない弊害へ陥ってしまう。今、民は四朱銭の改鋳に懲りているし、去年の禁令を恐れてもいる。そんな中で二朱銭を鋳造したら、市井は恐々としてしまう。少額貨幣の効果が挙がる前に弊害ばかりが先立ってしまい、挙げ句の果て、富商はますます富を蓄え貧民はもっと困窮することになってしまうぞ。」
 結局、二朱銭の鋳造も否決された。
 

 この年、金紫光禄大夫の顔延之が死んだ。顔延之の息子の顔竣は大出世したが、竣が何を贈っても彼は受け取らず、布を身に纏い茅葺きの家に住んだまま。外を行く時は年取った牛に乗り、中途で竣と逢っても道を避けて顔を合わせなかった。
 彼は常に顔竣へ言っていた。
「人付き合いを良くして、他人から後ろ指刺されてはいけない。」
 ある日、彼は朝早く顔竣の家へ行った。すると、その門の前は大勢の賓客で溢れ返っていたのに、竣はまだ起きてもいなかった。顔延之は怒って言った。
「お前は糞土の中から生まれて雲霞の上まで出世したというのに、こんなに傲慢になってしまった。これでは、先が見えるというものだ!」
 顔竣は、父親の死去に逢った翌月、丹陽尹をそのままにして右将軍に任命された。竣は固辞したが、孝武帝は許さなかった。
 この竣は、孝武帝が王だった頃からの幕僚だった。孝武帝は即位してから豪奢淫乱で好き勝手なことをやっていた。それに対して竣は、屡々懇切に諫めたので、だんだん孝武帝から疎まれていった。
 竣は自分の才覚に溺れており、他の誰よりも寵用されていると吹聴していたが、やがて自分の進言が次第に却下されるようになってくると、孝武帝から疎まれているのではないかと猜疑し始めた。そこで、孝武帝の心を試してみようと、大明元年、(457年)地方官としての出向を請願してみた。すると六月、竣を東揚州刺史とする旨、詔が降りた。これによって、竣は始めて懼れた。
 やがて、顔竣の母親が死去し、竣は喪を済ませてから都へ戻った。孝武帝は一応手厚く遇したが、竣は親しい人間へ恨み言ばかり述べ、或いは朝廷の得失を語った。
 大明二年、王僧達が誅殺されたが、この時王僧達は顔竣から讒されたのだと思いこみ、死ぬ間際に竣が語っていた朝廷誹謗を全て暴露した。竣は、この件で官職を罷免させられた。竣はいよいよ懼れ、孝武帝へ陳謝して命乞いしたが、それによって孝武帝は益々怒りをかき立てた。
 大明三年、意陵王誕が造反した。孝武帝は、顔竣が意陵王と内通したとして、彼の足を折った後、死を賜った。
 
賄賂横行
 孝武帝がまだ江州に居た頃、戴法興、戴明宝、蔡閑等を典籤としていた。やがて即位すると、彼等全員を南台侍御史兼中書通事舎人とした。大明二年、挙兵の時から謀略に参画していたことを理由に、彼等全員を県男を贈爵ただし、蔡閑は既に死んでいたので追賜の形を取った。
 この時、孝武帝は自ら政治を執っていたが、大臣を親任せず、腹心耳目を頼みとしていた。戴法興は古今の故事に精通していたので、特に寵愛された。又、巣尚之は文史に詳しいことを見込まれて、中書通事舎人に抜擢された。選授誅賞の大半は、この二人が関与した。遂に彼等は孝武帝の懐刀として飛ぶ鳥を落とす勢いとなった。
 戴法興も巣尚之も、賄賂を貪る人間だったが、彼等が推挙した人事は全て可決された。だから大勢の人々が彼等の家へ出向き、門前に市を為す程の賑わいぶりで、二人とも大金を蓄えた。
 ところが、吏部尚書の顧豈之は、戴法興等に頭を下げなかった。蔡興宗は顧豈之と仲が善かったが、その風節の峻厳さは嫌っていた。すると、顧豈之は言った。
「昔、辛比(魏の明帝の頃の人間)が言ったではないか。『我の人生は、我が努力のみにある。寵臣達と仲違いしたとて、たかが三公を逃す程度の事じゃないか。大丈夫が、どうして節義を曲げられようか!』と。」
 顧豈之は口癖のように言っていた。
「人には生まれつきの器が定まっており、智恵や力では如何ともしがたい。ただ、恭しく道を守るべきである。愚か者はそこに気がつかず、妄りに僥倖を求め、道を汚す。しかしながら、そんなことでは結局何も得られないのだ。」
 そして、その意向を弟子の原へ伝え、「定命論」を書かせた。
 
沈懐文
 大明五年、正月。義恭は瑞兆が出たと報告し、孝武帝は大いに喜んだ。孝武帝は、一族や功臣を次々と殺したので、(「南郡王の叛」「意陵王の叛」に記載予定)義恭は懼れ、卑屈なほどに媚び諂っていたのだ。この努力によって、遂に義恭は、孝武帝の世を生き延びることができた。
 孝武帝は、即位以来、諸弟達の権限を縮小し、次々と誅殺していたが、廣陵王を鎮圧した時、更に厳しくしようとした。すると、侍中の沈懐文が言った。
「漢の明帝は、自分の子息を弟たちと比較しませんでしたが、これは美談として語られております。陛下は、既に管、蔡の誅を天下に明示いたしました。この上は、どうか唐・衛の封を顕わしてください。(周の武王が崩御した後、弟の管叔と蔡叔が造反した。周公はこれを鎮圧した後、叔虞を唐に、康叔を衛に封じて周の藩塀とした。その故事に依る)」
 襄陽が鎮圧されると、太宰の義恭が孝武帝の意向を察知して請願した。
「諸王が造反しないよう、辺州の長官になどさせないようにしましょう。又、兵器は悉く取り上げ、賓客との往来も禁じるべきでございます。」
 だが、沈懐文が固く諫めたので、これは実現しなかった。
 沈懐之は、もともと顔竣や周朗と仲が善く、屡々直諫して、孝武帝の機嫌を損ねていた。ある時、孝武帝は言った。
「もしも竣が、孤から殺されると知っていたなら、あんなに直諫はしなかっただろうに。」
 沈懐文は黙り込んだ。
 かつて、謝荘が沈懐文へ言った。
「卿はいつも人と違ったことをしているが、それでは長くはないぞ。」
 すると、沈懐文は言った。
「私は幼い頃からこうだった。どうして一朝で変えられようか!人と違ったことをやりたいのではない。これは性分なのだ。」
 遂に孝武帝は、沈懐文を晋安王の幕僚として、廣陵へ赴くよう命じた。沈懐文は、娘が発病したことを理由に出立の延期を請願したが、その期限が過ぎても未だぐずついていた。大明六年、とうとう孝武帝は沈懐文を罷免し、十年の禁錮を言い渡した。すると沈懐文は、邸宅を売り払って故郷へ帰ることを望んだので、孝武帝は激怒して彼へ自殺を命じた。柳元景が寛恕を求めたが、孝武帝は受け付けず、遂に沈懐文を誅殺した。
 
孝武帝の為人
 孝武帝は群臣を狎侮する事を好んでいたので、太宰の義恭以下、皆が屈辱的な扱いを受けていた。臣下へ対して、「老いぼれ」「チビ」「デブ」「やせっぽち」「のっぽ」と呼び捨てることなど、日常茶飯事だった。また、一人の崑崙奴を寵用し、彼に群臣を杖打たせた。尚書令の柳元景でさえ、その杖を免れることはできなかった。ただ、蔡興宗だけは孝武帝から憚られていた。彼は、大明七年に吏部尚書となった。
 孝武帝は、殷貴妃を寵愛していた。彼女が死んだ後も、孝武帝は屡々群臣を率いて彼女の墓参りをした。ある時、孝武帝は言った。
「貴妃を悼んで慟哭しよう。一番悲しんだ者へは褒美を出すぞ。」
 すると、秦郡太守の劉徳願が、声を限りに慟哭し、涙も鼻水も垂れ流しながら大暴れした。劉徳願は、その褒美として豫州刺史に抜擢された。
 孝武帝は、知恵が回って決断力に優れ、博学で文章が秀麗だった。上奏文に目を通しても、常人が一枚読む時間で七枚は読んだ。騎射にも長けていたが、奢欲も限りなかった。
 東晋の創立時代は、朝宴は東堂と西堂の二ヶ所でしか行われていなかった。やがて、晋の孝孝武帝によって、清暑殿が建てられた。宋が建国しても増改築など無かったが、武帝は多くの宮殿を建て、しかもその内部は錦繍で飾り付けた。甚だしきは、江左代々の墳墓を取り壊し、その上に宮殿を築いた。この宮殿は、玉燭殿と名付けられた。又、寵姫や媚び諂う臣下達へ惜しげもなく恩賞をばらまいたので、孝武帝の時代に官庫は傾いた。
 侍中の袁豈が、高祖の質素倹約の徳について口を極めて述べたことがあったが、孝武帝は答えず、側近達へ言った。
「田舎者が。つまらんことを言いおって。」
 孝武帝の末年は、財利を貪り尽くした。刺史や地方長官の任期満了の時は、沢山の財宝を献上させた。終日酔い痴れ、醒めている時など滅多になかったが、緊急事態で奏上があると、即座に粛然として居住まいを整え、酒気などみじんも感じさせなかった。だから、内外の者は孝武帝を畏れ、風紀は弛緩しなかったのだ。
 大明八年、孝武帝は玉燭殿にて崩御した。  

訳者、曰 

 当初、私は皇帝を武帝と訳していましたが、宋の武帝は劉裕でした。劉駿は孝武帝ですね。訂正します。(ちょっと、まぎらわしい。) 

 ところで、この記述は、通鑑記事本末には記載されていません。魏の仏難や崔浩の処刑もカットされていましたが、どうも通鑑記事本末は戦争・造反・陰謀の記述が多く、平和な時代の政治については軽視しているようです。もしかしたら、何らかの考えがあって、それを編集方針にしたのかも知れませんが。いずれにしても、私が翻訳したいのは通鑑記事本末ではなく、資治通鑑です。本来の形では読みにくいので、編纂されている通鑑記事本末を翻訳しているに過ぎません。ここの部分、特に貨幣の改鋳や、死を顧みずに暴君を諫める忠臣達の姿をカットする気にはなれず、資治通鑑から抜粋して、私なりに編集しました。 

 さて、唐の後に中国を支配した「宋」では、諫争で誅殺された臣下は一人も居ません。おかげで、宋の時代の臣下達は、わりと自由に論争できたと言われています。この時代は逆ですね。特に、孝武帝が沈懐之へ言った台詞は圧巻です。
「もしも竣が、孤から殺されると知っていたなら、あんなに直諫はしなかっただろうに。」
 この一言は、この時代の百官の口を塞ぐには充分だったでしょう。百官達にその記憶が残っていれば、孝武帝が死んだ後も、皇帝へ対して放言できなかったのではないでしょうか。少なくとも、命が惜しい人間は口を塞ぐしかありません。
 時代ですね。
 劉宋に限らず、南北朝期全体を通じて、殺伐とした雰囲気があります。飽くことのない欲望と権力争い、それに伴う造反・下克上、そして口を塞いで生きて行く百官達。陳舜臣先生は、「この時代の歴史を読むと気が滅入る」と評されましたが、私も胸くそ悪くなったものです。
 ともあれ、孝武帝は遂にこの一言を発しました。これから、時代は益々殺伐として来るのでしょう。