宋の文帝、恢復を図る(その二)
 
 小康 

 元嘉九年(432年)、五月。文帝は魏へ使者を派遣した。六月、魏の太武帝が宋へ使者を派遣した。
 この年、魏の北燕攻撃が本格化し、十三年、魏は北燕を滅ぼした。(詳細は「魏、北燕を滅ぼす」に記載。)
 十年、二月。魏の太武帝が宋へ使者を派遣して通婚を求めたが、文帝は断った。十二月、太武帝は再び使者を派遣した。
 十四年、文帝は魏へ使者を派遣し、通婚の話を始めたが、文帝の娘が崩御したので、この話は沙汰止みとなった。
 十六年、魏が北涼を攻撃して滅ぼした。(詳細は「魏、北涼を滅ぼす」に記載。)
 十八年と二十一年にも、太武帝は宋へ使者を派遣した。 

 二十二年、六月。文帝は魏討伐について協議した。
 十一月、魏は六州の精騎二万を動員して、淮・泗以北を略奪し、青・徐州の民を河北へ連行した。 

  

何承天の上表文 

 二十三年、二月。太原の顔白鹿という男が、私的な用事で国境を越えて魏へ入ったところ、魏の兵に捕まり殺されそうになった。顔白鹿は、咄嗟に嘘をついた。
「青州刺史杜驥様の言いつけで、内通の使者としてきたのです。」
 そこで、魏の役人は、顔白鹿を平城へ護送した。
 太武帝は大喜びで言った。
「杜驥は、我が外戚だ!」(太武帝の母親は杜氏である。)
 そして、杜驥への書簡を崔浩に書かせた。又、永昌王仁と高涼王那に兵を与え、杜驥を迎えに遣り、冀州刺史申括の住む歴城を攻撃させた。
 この変事を聞いた杜驥は、歴城へ救援を派遣したが、魏軍はコン、青、冀州を荒らし回り、清東まで行って帰った。大勢の民が殺され、北辺は大騒動となった。
 宋の文帝はこの事態を憂慮し、群臣を集めて諮問した。すると、御史中丞の何承天が上表した。
「凡そ、匈奴に備えるには、二策しかありません。そして、武臣は討伐しろと言い、文官は講和を叫ぶのです。
 今、衛青や霍去病の功績を見直してみましょう。民が増え、野に穀物が山積みするほど豊かな国力を背景に、十万の精鋭兵を動員しても、奴等を一挙に殲滅することはできませんでした。我等が奴等を追撃して報復しようとしても、連中は軽騎の足を頼って逃げるだけ。合戦を肯りません。ですから巨万の富を浪費しても、奴等に何の打撃も与えられないのです。報復の軍を起こしても、何の得るところもありません。これは末策です。それに対し、辺境の警戒を厳重にする。これこそが長計といえましょう。
 今度は、曹操と孫権が覇を争った時を見てみましょう。彼等は互角の才能を持ち、互いに敵と認めていましたが、両雄とも江・淮の土地には数百里にも亘って、民を住まわせませんでした。何故でしょうか?それは、国境付近は耕作できるような土地ではないからです。ですから、互いに堅牢を築き、野原を空にして、敵の来襲を待ち受けていました。武器を整え兵を訓練して、遠征で疲れ切った敵の疲労に乗じようと考えたのです。
 民を保全し、国境を守る策は、これでございます。要点をかいつまみますと、次の四つに纏められます。
 第一は、国境付近の住民を、内地へ移住させること。今、青、コンの旧民や新たに帰順した冀州の民は、国境付近に三万家ほど住んでおります。これらを全て大見山の南へ移住させ、内地を満たすのです。
 第二は、屯田兵です。多くの城を築き、そこへ民を移住させ、彼等のある程度の生活は官費で面倒を見ます。そして、春夏には耕作させ、秋冬には砦へ入れて訓練します。敵が来襲しても、一城に千家の民が居れば、二千からの兵士を召集できます。その他の足弱も、軍鼓を打たせたり、物見をさせたり、使い道はあるでしょう。そうすれば、三万の敵を防げます。
 第三は、牛や車を全て官で管理すること。千家の生活を考えるなら、耕作用の牛は五百匹を下りませんし、五百両からの車が使われます。いざという時には、これらを全て徴発し、車は鉤で連ねて防壁として使います。
 第四は、練兵。二千人の兵士達を、平素から鍛えておきます。弓や鉄器で製造が間に合わないものは、官から支給し、常に充実させます。そうすれば、数年の間に、軍備は整いましょう。
 この近辺の軍団を、清・済まで移動させれば、その軍費は莫大なものとなり、大勢から怨嗟を受けます。そのようなことは、とても得策とは思えません。」 

  

阿諛追従 

 文帝は中原攻略を望んでいたので、迎合して寵遇されようと考える群臣達は、争うように謀略を献上していた。中でも、彭城太守の王玄謨は最も進言が多かった。
 ある時、文帝は言った。
「玄謨の進言を読むと、まるで、匈奴を討って狼居胥で神を祀った霍去病のような業績を、朕に建てさせるつもりで居るようだ。」
 すると、御史中丞の袁淑が言った。
「陛下は、今に趙も魏も席巻なさいます。臣は千載一遇の時代に生まれました。どうか陛下、泰山にて封禅をなさいませ。」
 文帝は大いに悦んだ。ちなみに、袁淑は、袁耽の息子である。 

  

魏の来寇 

 二十七年、二月。魏の太武帝が入寇しようとして、梁川で大がかりな狩猟を行った。これを聞いた文帝は、淮・四の諸郡へ命じた。
「もし、魏が小競り合いを挑んだら、各々堅守せよ。大挙して攻めてきたら、民を擁護して寿春へ戻れ。」
 辺域では偵察を出したが、敵の動きが掴めないうちに、魏の太武帝が、自ら十万の兵を率いて押し寄せてきた。その大軍に、南頓太守の鄭昆と穎川太守の鄭道隠は、城を棄てて逃げた。
 この時、豫州刺史の南平王鑠は、左軍行参軍の陳憲を懸瓠城へ派遣した。それでも、懸瓠城の兵力は千人に未足りなかった。
 太武帝は、懸瓠城を包囲し、昼夜を分かたず攻め立てた。彼等はたくさんの高楼を造って城の間近まで持って行き、そこから矢を射降ろしたので、城内には、矢が雨霰と降り注いだ。城内では、戸板を背負って移動する有様だった。
 魏軍は、楼車へ大鉤を取り付け、これで城壁に引っ張り、南城を破壊した。すると、陳憲は城の内側にひめがきを造り、外には立木の柵を設けて敵を防いだ。
 魏軍は、濠を埋め立てて、兵卒が城壁へよじ登った。それでも陳憲は気力を振り絞って号令を掛ける。兵卒達も奮起して、一人で百人に当たる奮戦ぶりだった。こうして、敵方へ一万以上の打撃を与えたが、城内の兵も、過半数が戦死した。 

 三月、文帝は迎撃の軍を起こす為、内外百官の棒給を三分の一カットした。 

 太武帝は、永昌王仁へ万余の兵を与え、占領した六郡の住民を汝陽へ強制連行させた。文帝は、彭城を鎮守する武陵王駿へ、これの襲撃を命じた。
 命令を受けた駿は、まず、百里以内の領土から馬を徴発し、千五百匹を得た。そこで、全軍を五軍に分け、劉泰之、垣謙之、藏肇之、尹定、杜幼文、程天祚等にこれを統率させて、汝陽へ直接攻め込んだ。
 汝陽では、敵はてっきり寿春から攻め込んでくると思いこんでいたので、彭城方面には警戒を強いていなかった。これに対して劉泰之等は、密かに行軍して、いきなり襲撃を掛けた。汝陽の魏軍は不意を衝かれて大敗し、三千人が戦死。劉泰之等が、敵の輜重を焼き払ったので、魏軍は散り散りに逃げ出し、連行されていた住民達は、皆、東へ逃げ帰ることができた。
 だが、魏軍は、斥候を出して、敵方には後続がないと判明したので、引き返してきて戦った。すると、まず垣謙之が退却したので、宋軍は驚き乱れ、潰走した。劉泰之は戦死し、藏肇之は溺死、程天祚は捕らわれた(翌年、彼は脱出して宋へ戻って来る)。無事に逃げ出せたのは残る三将の他、士卒九百人、馬四百匹だけだった。 

 太武帝の懸瓠城包囲は四十二日に及んだ。文帝は南平内史の藏質を寿春へ派遣し、安蛮司馬の劉康祖と共に懸瓠救援へ向かうよう命じた。これに対して太武帝は、殿中尚書乞地真に、迎撃させた。だが、藏質はこれを撃破。乞地真を斬り殺した。劉康祖は、劉道錫の従兄弟である。 

 四月、太武帝は退却し、平城へ戻った。
 宋では、武陵王駿が、安北将軍から鎮軍将軍へ降格。垣謙之は誅殺され、尹定・杜幼文も、それぞれ罰を受けた。又、陳憲は龍驤将軍、汝南・新蔡二郡太守となった。 

  

北伐論議 

 六月、文帝は北伐を考えていた。丹陽尹の徐湛之や吏部尚書江湛、彭城太守王玄謨などが、これを勧めた。
 左軍将軍の劉康祖が文帝へ言った。
「既に歳も押し迫っております。来年までお待ち下さい。」
 すると、文帝は言った。
「北方に住んでいる民は、野蛮人の苛政に苦しんでいる。これを助けなければ義が廃れる。それに、兵隊を進駐させたまま一年も待たせれば、彼等の志気も萎えてしまうぞ。そんなことはできん。」
 太子歩兵校尉の沈慶之が、文帝を諫めた。
「我等は歩兵。奴等は騎兵。まともでは戦えません。あの檀道済でさえも、二度の出陣で功績を建てることができませんでしたし、到彦之は失敗して逃げ帰りました。今、王玄謨等をこの両将と比べて、どちらが優れていると思われますか?軍備力でも、今ではあの頃ほどの威容がございません。このまま北伐しても、恥を重ねるだけでございます。」
 だが、文帝は言った。
「前回の失敗には、それなりの理由があったのだ。檀道済は、魏を滅ぼしてしまえば自分の存在価値が無くなり、帰って基盤を弱めてしまうと考えてわざと勝たなかったのだし、到彦之は中途で発病しただけだ。それに、北虜が恃みとしているのは、ただ馬だけではないか。今年は雨が多く、どこの川もたっぷりと水を湛えている。我等が大船団を差し向けて、威風堂々遡って行ったら。高傲などは戦わずに逃げ出すだろうし、滑台のようなちっぽけな要塞など、すぐにでも抜ける。この二つの要塞を占拠し、そこに蓄えてある穀物を民へ解放したなら、住民は我等の味方だ。虎牢、洛陽は根本から動揺する。そんな状態で奴等が河を渡って攻めて来るなら、いと容易く虜にして見せようぞ。」
 だが、沈慶之は引き下がらず固く諫めたので、文帝は徐湛之と江湛を呼び出して、彼を説得させた。だが、沈慶之は言った。
「国を治めるというのは、家を治めるようなもの。耕作については奴隷に尋ね、紡績については婢へ尋ねることです。ですが、今、陛下は戦争をしようと言うのに、青白い書生と共に計画を練られる。これでは失敗するに決まっております!」
 それを聞いて、文帝は爆笑してしまった。
 皇太子の劭や護軍将軍の蕭思話等も諫めたが、文帝は従わなかった。
 この動きを知った魏の太武帝は、文帝へ親書を送った。
”我々両国は、長い間修好していたが、それに飽きたらずに我が辺境の民を誘っていたのは貴殿の方ではないか。だからこの春、我は南巡して我が民を取り返したのだ。今、貴殿が我が国を攻めると聞くが、好きなようにするが良い。この平城まで来るというのなら、我も又揚州まで出向く。互いの領土を交換するのも、また、良かろう。ただ、貴殿は既に五十。しかも、今まで親征などしたことがなかったのに、その激務に耐えられるか?ましてや我々のように馬の上で成長した人間と互角に戦うつもりか!今、貴殿へ贈る物がないが、せめてもの心づくしとして猟馬十二頭と薬を贈ろう。ここまで来るのに道程は長い。この馬を使うが良い。水や土が合わなければ、この薬を使って療養することだ。” 

出陣、〜緒戦の勝利 

 七月、宋で詔が降りた。
「虜は、懸瓠にて野望が頓挫したとはいえ、その野獣のような欲望は、未だに変わらない。これを放置してはならない。ところで、近年、河朔・秦・擁華の戎狄が、我等への帰順を表明した。彼等は、我等を慕い、密かに我が軍を迎え入れる準備をしている。また、蠕々からも密使が来て、我等との同盟を求めている。我々が挙兵したら、呼応して椅角の形を造ってくれよう。今こそ、出陣の時である。寧朔将軍王玄謨、太子歩兵校尉沈慶之、鎮軍諮議参軍申旦は、水軍を率いて黄河へ入り、青・冀二州刺史蕭斌の指揮下へ入れ。太子左衛率藏質と驍騎将軍王方回は許・洛へ行き、武陵王駿・南平王鑠と共に挙兵し、東西から敵を攻撃せよ。梁、南・北秦三州刺史劉秀之は隴を掻き乱し、江夏王義恭は彭城から出陣せよ。」
 この大遠征軍編成の為、上は王公・妃主及び朝士・牧守から下は富裕な庶民に至るまで、各々金帛・雑物を献上して国用を助けた。又、兵力が不足したので、青・冀・徐・豫・二コンの六州から民を徴発した。子供が三人いたら一人を、五人いたら二人を徴兵するという「三五民丁」である。揚子江沿岸の五郡の民は廣陵へ集結させ、淮河周辺の三郡は于台へ集結させた。又、腕に覚えのある者を中外から募集し、これに合格した者には厚く恩賞を賜った。 

 建武司馬の申元吉が高傲へ進軍すると、魏の守将王買徳は城を棄てて逃げた。蕭斌が、麾下の崔猛に楽安を攻撃させると、魏の守将張淮之もまた城を棄てて逃げた。そこで、蕭斌と沈慶之は高傲を占拠し、王玄謨に滑台を攻撃させた。 

 宋の随王誕は、派兵して弘農を攻撃させた。これを率いる将軍は、中兵参軍の柳元景、振威将軍尹顕祖、奮武将軍曾方平、建武将軍薛安都、略陽太守龍(「广/龍」)法起等である。
 随王の麾下に龍(「广/龍」)李明とゆう七十過ぎの参軍がいた。彼は関中の出身だったので、長安へ入って民を煽動してくる事を申し出、誕はこれを許可した。龍李明は、まず廬氏へ向かった。すると、廬氏の趙難とゆう男が彼を迎え入れ、た。そこで、龍李明が士民を説得して廻ると、大勢の人間がこれに応じた。これらを背景に、柳元景等は進軍した。
 南平王鑠は胡盛之、梁垣を長社へ向かわせた。魏の守将魯爽は、城を棄てて逃げた。魯爽は、魯軌の子息である。更に、南平王麾下の王陽児は魏の豫州刺史僕蘭の軍を撃破。僕蘭は虎牢へ逃げた。南平王は安蛮司馬の劉康祖を梁垣の援軍として派遣し、虎牢へ向かわせた。 

 宋の進攻を聞いた魏の臣下達は、援軍を派遣して黄河近辺の穀帛を守るよう進言したが、太武帝は言った。
「まだ、馬が肥えておらず、天機は熟していない。今、出陣しても良い結果には成らないぞ。もしも敵が進軍してきたら、ひとまず陰山まで避難せよ。我等は元々羊皮を着ていた。綿帛など不用だ!十月になれば、自然に落ち着く。」 

  

滑台の攻防 

 九月、太武帝は自ら滑台救援に向かった。留守中は、皇太子晃を柔然に備えさせ、呉王余には平城を守備させた。庚子、魏は州郡から五万の兵卒を徴発し、諸軍へ振り分けた。
 王玄謨軍は志気盛んで、軍備も整っていたが、主将の王玄謨は貪婪で残虐な人間だった。彼等が滑台を包囲してみると、城内には茅葺きの家が多かったので、部下が火矢を使って焼き払うよう乞うと、王玄謨は言った。
「あれは、俺の財宝だ。なんで焼き払うのか!」
 ぐずついている間に、住民は家を処分し、穴を掘って避難した。
 この時、河・洛の民は争うように穀物を献上し、毎日千人からの若者が兵卒として入隊を志願してきた。だが、王玄謨はそれらを全て私蔵した。ある時など、彼は民間人から大梨八百をたかり取ったが、これによって衆望は一気に萎えてしまった。
 城を包囲して数ヶ月経ったが、落とせない。そのうち、魏の援軍が来ているとゆう報告が入った。部下達は、車の車輪を外して即席の陣営を造るよう進言したが、王玄謨は却下した。(これは戦争の常道だが、それを却下したのは、この時から既に逃げ出す腹づもりだったのだろう。)
 十月、太武帝は方頭へ到着した。関内侯の陸真は太武帝の命令を受け、滑台城内へ忍び込んで援軍が近いと宣伝すると共に、敵の布陣を探って戻ってきた。
 乙丑、太武帝は河を渡った。号して百万。軍鼓の音は天地をもどよめかせた。王玄謨は怖じ気ついて逃げだし、魏軍はこれを追撃して万余人を殺した。王玄謨軍は散り散りとなり、器械は山積みのまま放置されてた。
 話は前後するが、王玄謨は鍾離太守の垣護之へ百艘の舟を与えて先鋒とし、石済に陣取らせていた。これは滑台から西南百二十里の場所にある。魏軍の来寇を知った垣護之は、書状を書いて、王玄謨へ急攻を勧めた。その文に曰わく、
「昔、武帝(劉裕)が廣固を攻撃した時でさえ、甚大な被害を受けました。ましてや今の危急に於いて、兵卒の負傷や疲弊など、どうしてかまっておられましょう!全力を挙げて攻め立てて、滑台を攻略するべきです!」
 だが、王玄謨は従わなかった。(もしも滑台を攻略しても、魏帝の軍が到着した時、王玄謨には後続の援軍がないのだから、全く無意味だ。この案は、却下するのも当然である。)
 王玄謨が退却す時、慌てふためいており、垣護之へ報告する暇がなかった。魏軍は王玄謨の戦艦を奪ったので、鉄鎖を三重にしてこれへつなぎ合わせ、河へ張り巡らせて垣護之の退路を断った。だが、この時黄河の流れが急だったので、垣護之は急流を利して下り、鉄鎖に阻まれる毎に、斧で断ち切って進んだ。これには魏軍も手が出せず、結局、彼は一艘の船を失っただけで生還できた。
 蕭斌は、沈慶之へ五千の兵を与えて王玄謨救援を命じたが、沈慶之は言った。
「王玄謨の軍は疲弊しきっておりますし、敵は迫っています。数万の軍ならば役に立ちましょうが、小軍を出しても無意味です。」
 だが、蕭斌は断固として派遣した。
 王玄謨が逃げ帰ると、蕭斌はこれを誅殺しようとしたが、沈慶之は固く諫めた。
「天下に武名高い魏主が、百万の軍で攻めてきたのです。どうして王玄謨の手に負えましょうか!それに、将軍を自ら殺して我が軍を弱体化させるなど、良策ではありません。」
 そこで、蕭斌は王玄謨を赦した。
 蕭斌が高傲を固守しようとすると、沈慶之は言った。
「今、青・冀州には大した兵力がありません。ここで窮城を守り通しても、敵が通過して東方を攻撃したら、清から以東は敵に奪われてしまいます。そうすればこの城は孤立してしまうではありませんか。それでは、かつて滑台を固守した朱修之の二の舞になってしまいます。」
 すると、そこへ勅使がやってきて、決して退却しないよう蕭斌へ命じた。そこで、蕭斌は諸将を集めて軍議を開いた。皆は詔を遵守するよう言ったが、沈慶之は言った。
「出陣した以上、将軍が専断するべきです!詔は遠方から出ており、現場のことが判りません。節下は一范増を使いこなすこともできずに、虚しく会議を開かれるのか!」
 それを聞いて、蕭斌も皆も笑った。
「沈公は学問がおありだの。」
 すると、沈慶之は声を荒らげて言った。
「皆の衆は古今に精通しているかも知れないが、下官の耳学問の方がましですぞ。」
 結局、蕭斌は王玄謨に高傲を守らせ、申旦と垣護之を清口へ置いて、自身は主力を纏めて歴城まで退却した。 

 閏月、魏の太武帝は、諸将をいくつかの部隊へ分け、別々のルートを取らせた。永昌王仁は、洛陽から寿陽へ向かった。尚書の長孫眞は馬頭へ向い、楚王建は鍾離へ向かった。高涼王那は青州から下丕へ向かった。そして太武帝は、東平から鄒山へ向かった。
 十一月、太武帝は鄒山へ到着し、宋の魯郡太守崔邪利を捕らえた。
 ここには、秦の始皇帝が刻ませた石碑があった。太武帝は、これを倒させると、太牢の格式で孔子を祀った。
 楚王建は、清から西へ進軍し、蕭城に屯営した。歩尼公は清から東へ進み、留城に屯営した。
 宋の武陵王駿は、参軍の馬文恭へ兵を与えて蕭城を攻撃させたが、撃退された。
 江夏王義恭は軍主の稽玄敬を留城へ差し向けた。そこで、歩尼公は苞橋へ向かい、清西へ渡ろうとしたが、沛県の民が苞橋を焼き払ってしまった。そして彼等は夜中に林の中で軍鼓を盛大に打ち鳴らしたので、魏軍は「宋の大軍が攻撃してきた」と大混乱を来たした。彼等は、先を争うように苞水を渡ろうとしたので、大勢の魏兵が溺死した。 

  

弘農の攻防 

 閏月、随王の派遣した諸軍が、廬氏へ入城した。そして、県令の李封を斬り、趙難を県令に任命した。
 龍法起は、趙難の配下を道案内として弘農へ進攻し、これを抜いた。魏の弘農太守を捕らえる。薛安都が弘農を占領し、龍法起は更に潼関へ向かって進撃した。
 十一月、文帝は柳元景を弘農太守に任命した。柳元景は、薛安都と尹顕祖を龍法起のもとへ派遣して陜を攻撃させ、自身は後方で租税を督促した。
 陜城は堅固な城で、宋軍はこれを攻めあぐねた。そのうち、魏の洛州刺史張是連提が二万の軍を率いて陜の救援に駆けつけてきたので、宋軍はこれを迎撃した。
 魏軍は騎兵が縦横に駆け巡り、宋軍は手も足も出ない。とうとう、薛安都は激怒して、自身の鎧や兜、馬の武具までも脱ぎ捨てて、怒髪天を衝く勢いで、単騎、敵陣へ突入した。身軽になったその出で立ちで、薛安都は暴れ回り、向かうところ敵がない有様。魏兵は弓を射るが、当たらない。このようにして、薛安都は敵の別将四人を殺し、大勢の敵兵を傷つけた。
 日暮れ時になって、宋の別将魯元保が函谷関から駆けつけてきたので、魏軍は一旦退却した。
 ところで、柳元景は、副将の柳元怙に二千の兵を与えて、薛安都の救援に向かわせていた。この夜、それが到着したが、魏軍は気がつかなかった。
 翌日、薛安都等は城の西南に陣を布いた。曾方平が薛安都へ言った。
「今、前方には悍敵がおり、後方には堅城がある。今日こそ覚悟の決め所。もしも卿が進まないなら、俺は卿を殺す。俺が怖じけついたら、卿は俺を斬ってくれ。」
「よくぞ言った。その通りだ!」
 こうして合戦が始まった。すると、そこへ柳元怙が軍鼓を鳴らして突撃してきた。その整斉とした旗指物に、魏軍は大いに驚き乱れた。薛安都は、身を挺して奮撃する。流れる血潮は肱に凝固し、矛がへし折れながらも、なおも進んで暴れ回る。宋軍は一斉に奮い立った。明け方から日暮れまでの戦いで、魏軍は大いに潰れた。宋軍は張是連提及び三千余人を斬り殺した。河へ向かって逃げ出して溺死した魏兵は数知れず。二千余人が降伏した。
 翌日、柳元景が到着すると、降伏した者共へ言った。
「お前達はもともと中国の民なのに、今、虜の為に力を尽くし、力屈して降伏した。どうゆう了見か?」
 すると、皆、口々に言った。
「虜は我々を駆り立てて戦わせました。突撃しないと、一族誅殺されるのです。その上、後方から差し迫る騎馬隊に踏み倒され、戦う前に死んでしまう兵卒まで大勢いたことは、将軍達もご覧になられたとおりです。」
 諸将はそれでもおさまらず、彼等を皆殺しにしようと乞うたが、柳元景は言った。
「今、王の軍が北伐を開始した。まず、仁行を宣伝しなければならない。」
 そして、彼等を全て釈放した。魏兵は、万歳を唱えて去って行った。
 甲午、陜城は陥落した。
 龍法起の一軍が潼関を攻撃すると、魏の守将は城を棄てて逃げたので、龍法起はこれへ入城した。すると、関中の豪族達が、次々と蜂起し、四山(関中は四面を山に囲まれている)のキョウや胡まで、兵糧を持って帰順してきた。
 だが、この時既に王玄謨は敗北しており、魏の太武帝の軍は宋国内まで進軍していた。この実情を基に、文帝は、柳元景の軍だけが敵国深く進軍するのは良くないと考え、彼等の召還命令を出した。柳元景は、薛安都を殿として襄陽まで退却した。文帝は、柳元景を襄陽太守に任命した。 

  

魏の進寇 

 魏の永昌王仁は、懸瓠城と項城を攻撃し、共に抜いた。文帝は、魏軍が襄陽まで進軍することを懼れ、劉康祖を召還した。永昌王は、八万騎を率いてこれを追撃し、尉武まで進んだ。
 劉康祖が率いる兵力は八千。副将の胡盛之は険阻な山道を通って襄陽へ逃げ込むよう進言したが、劉康祖は怒って言った。
「以前は黄河まで出向いたが、敵と遭遇できなかった。それが、今、敵の方からノコノコとやって来たのだ。なんで逃げるのか!」
 そして、車の車輪を外し、これを連ねて陣を造らせ、全軍へ命じた。
「振り返る者は首を斬る。退く者は足を斬る!」
 魏軍は、四面からこれを攻撃した。宋の将士は、皆、命を捨てて戦った。
 戦いは、明け方から真昼まで続き、万余の魏兵を殺した。流れる血はくるぶしまで浸す。劉康祖は十ヶ所もの傷を負ったが、益々意気盛ん。しかし、魏軍は全体を三軍に分け、代わる代わるに攻め立てた。 日暮れ時になって、風が出てきた。そこで魏兵は、草を使って、宋の陣を焼き払おうとした。劉康祖は、これを消し止めようと指揮したが、その最中、流れ矢が首に当たって落馬して死んだ。宋兵の戦意は一気に喪失し、遂にこの軍は潰れた。魏軍はこれを掃討し、殆ど殺し尽くした。 

 南平王鑠は、左軍行参軍の王羅漢に三百の兵を与えて尉武を守らせていた。魏軍が攻めて来ると、皆は林に逃げ込んで守ろうと提案したが、王羅漢は言った。
「ここを守れと、命令を受けたのだ。去ることはできん。」
 魏軍が攻撃してくると、王羅漢は捕まってしまった。魏軍は、彼の首に鎖を付けて衛兵にこれを持たせたが、王羅漢は夜半に衛兵の首を斬り、鎖を抱いて于台へ逃げた。 

 魏の永昌王仁は、更に進んで寿陽へ迫り、馬頭と鍾離を焼き払った。宋の南平王鑠は、城を固守する。 

  

彭城問答 

 魏軍は、蕭城へ入った。ここは、彭城から十余里しか離れていない。彭城には、兵力はあったが、兵糧が少なかった。そこで、宋の太尉の江夏王義恭は城を棄てて南へ帰ろうと考えた。
 ところで、歴城には兵が少ないが、多量の兵糧が備蓄されている。そこで、沈慶之は献策した。
「函車で車陣を造り、精鋭兵を外翼として、二王(江夏王義恭と武陵王駿)と妃女を守りながら歴城へ向かいましょう。又、兵力の一部は蕭思話へ与えて、彭城へ留めて守らせましょう。」
 だが、太尉長史の何昴は鬱洲へ逃げることを提案した。そこから海路を使って京師へ帰ろうとゆうのだ。
 江夏王義恭は、既に逃げることを決めていたが、このどちらを採るかで議論が分かれ、終日決まらなかった。この時、沛郡太守の張暢が言った。
「歴城や鬱洲へ逃げると言われていますが、下官には納得できません!今、この城中の食糧が乏しいのに百姓が逃げ出さないのは、城門が厳しい警戒で閉ざされていればこそ。彼等は逃げようにも逃げられないのです。ですから、もしも我が軍が動き出せば、彼等は勝手に逃げ出してしまいます。一体、どうやって連れて行くつもりですか!確かに、この城中には食糧は乏しいのですが、今日明日にでも底をついてしまうわけではありません。どうしてわざわざ危難の道を選ばれますのか!もしも移動なさるというのなら、下官は首を斬り、その血で公の馬の蹄を汚しますぞ。」
 すると、武陵王駿も義恭へ言った。
「叔父上は総統になられたのですから、その去就は天下が注視しております。それに、道民(駿の幼い頃の字)は、この城を預かった身の上です。城を棄てて逃げ出せば、どうして陛下へ顔向けができましょうか。我が命はこの城と共にあります。それは張長史と同じです。」
 そこで、江夏王義恭は移動を中止した。 

 壬子、魏の太武帝が彭城へ到着した。彭城城の南には戯馬台とゆう丘があったが、魏の太武帝はここに陣取って、城内を見下ろした。
 前回、馬文恭が敗北した時、隊主のカイ応が、魏に降伏していた。魏の太武帝は、そのカイ応を小市門へ派遣し、酒と甘蔗を求めさせた。すると、武陵王駿はこれを与え、代わりに駱駝を求めた。翌日、魏の太武帝は尚書の李孝伯を使者として南門へ派遣し、義恭へは貂の革袋を、駿へは駱駝とラバを与え、伝言させた。
「魏の太武帝は、安北(武陵王駿は、もともと安北将軍。この時点では鎮軍将軍に降格されているが。)と謁見したいと申しております。ですから、跪いて我がもとへおいでなさい。そうすれば、この城を攻撃したりしません。なのに、この物々しい警戒ぶり。何で好きこのんで苦難の道を選ばれますのか!」
 そこで駿は、門を開けて彼と応対するよう、張暢へ命じた。
 暢は、李孝伯へ言った。
「魏主の想いは判りました。ですが、悔しいかな人臣に外交の専断権はありませんので、跪くことができないのです。この城の警戒が厳重なのは、辺境の常。何の不思議もございません。」
 魏の太武帝が柑橘と博打道具を求めると、彭城方はこれを与えた。魏の太武帝は代わりの品を賜下し、更に楽器を求めた。すると、義恭が言った。
「我々は戦いに来ている。楽器の持ち合わせはない。」
 李孝伯は暢へ尋ねた。
「どうして門を閉じ、跳ね橋を揚げているのですか?」
 暢は答えた。
魏の太武帝はまだ布陣しておらず、その部下は長旅で疲れ切っておりましょう。二王は、それを知っております故、我が十万の精鋭が勝手に飛び出さないよう城門を閉じたのです。どうかゆっくりと御休息をとられて下さい。その上で、戦場にて正々堂々戦いましょう。」
「『来訪者は、主人の礼に従う(春秋左氏伝、隠公の十一年より)』と申しますぞ。そこまでのお気遣いは無用です。どうぞ城門を開け、勝手に攻撃なさって下さい。」
「いえいえ、昨日の来訪を見ると、とても貴公方に礼があるとは見えませんでしたので。」
 魏の太武帝の使者がやって来て言った。
「我が君は、太尉と安北将軍をご招待いたしましたのに、どうして使者を派遣なさらないのですか?真心を尽くしてはいないかもしれませんが、我が君の器量、老少、その為人をご覧下さい。将佐が駄目ならば、官位の低い者でも宜しいのです。」
 そこで、二王の命令を受けて張暢が応対した。
魏の太武帝の才覚については、久しく噂で承っております。それに、李尚書自らが使者としてこられました。もう、魏の太武帝の為人は、もう十分に存じ上げました。これ以上、敢えて使者を派遣する必要もございません。」
 そこで、再び李孝伯がやって来て言った。
「王玄謨は、凡才。南国はどうしてこんな人間を抜擢して、わざわざ敗戦に来られたのか?我々は、国境を越えてはるばると七百余里も来ましたのに、我が君は未だに抵抗らしい抵抗一つ受けていないのです。あなた方が恃みとしていた天険の鄒山にしても、崔邪利はすぐに逃げ隠れ、諸将は武器を逆さまにして降伏して参りました。我が君は彼等を赦し、部下としてここに従えているのです。」
 張暢は言った。
「王玄謨は、単なる偏将。確かに才があるとは言えませんが、単なる先鋒に過ぎません。我等の後続の大軍が到着する前に黄河が凍り付き、魏の太武帝の軍が進軍して参りました。ですから、王玄謨は夜陰に乗じて退却したのです。崔邪利の敗戦など、我が国にとっては痛くも痒くもございません!それとも、魏の太武帝は数十万の大軍を率いて、たかが崔邪利の一軍を破ったことを自慢なさるのか!魏の太武帝の軍が国境を越えて七百里進みながら、我が軍が抵抗しなかったのは、太尉や鎮軍の神算聖略です。その用兵の機微は、ここでは語ることはできません。」
魏の太武帝には、この城を包囲するつもりがありません。南下して瓜歩山(建康から、北方四十キロほどの地点にある山)へ参ります。我等は、江湖の水で喉の渇きを潤したいのです。」
「それは貴公方のご判断。ですが、虜が揚子江の水を飲めるとしたら、動き始めた天道は止まりませんぞ。」
 この頃、不思議な童謡が流行っていた。それは、「虜が揚子江の水を飲み、仏貍(魏の太武帝のこと)は卯年に死ぬ」とゆうものだった。だから、張はこう言ったのだ。(ちなみに、この年は寅年である。)
 張暢が、雅やかな姿勢をあくまで崩さなかったので、李孝伯一行は、思わず嘆息してしまった。
 立ち去る時、李孝伯は、暢へ言った。
「張長史、どうか御自愛下さい。今、貴女は目の前に居られるのに、敵味方に分かれておりますので、その手を執ることさえできないことが、恨めしゅうございます。」
「貴公も御自愛を。やがて我が国が天下を掃討し、貴公が宋朝へ帰ってくることができましたら、今日を交際の始まりと致しましょう。」
 魏の太武帝は彭城を攻撃したが、落とせなかった。
 十二月、魏の太武帝は兵を率いて南下した。魏の中書郎魯秀は廣陵へ、高涼王那は山陽へ、永昌王仁は横江へ進んだ。その途中の土地は全て魏軍に制圧され、城邑の住民は、皆、風を食らって逃げ散った。 

 戊午、建康に戒厳令が布かれた。翌日、魏軍は淮上へ到着した。 

  

于台の軍備 

 文帝は、輔国将軍藏質に一万の兵を与えて彭城救援を命じていた。その藏質の軍が于台へ到着した時、魏の太武帝は既に淮を通過していた。そこで藏質は、冗従僕射の胡祟之と積弩将軍藏澄之を東山へ、建威将軍毛煕祚を前浦へ陣取らせ、自身は城南へ屯営した。
 乙丑、魏の燕王談が、胡祟之等を攻撃し、三つの陣営は全て敗北した。だが、藏質は兵を擁したまま、救援には駆けつけなかった。この日の夕方、藏質の軍も壊滅した。藏質は輜重や器械を棄てて于台城へ逃げた。この時、彼に従う兵隊は、わずか七百人だった。 

 話は遡るが、滑台に駐屯した王玄謨は、江・淮地方を全く警戒していなかった。そこへ、沈璞が于台太守として赴任して来たが、彼はこの地方が要衝であると考え、城壁を修繕し、兵糧や矢石を蓄えた。だが、この時、彼の僚属はこれに反対し、朝廷も守備が厳重すぎると非難していた。
 やがて、魏軍が南下してくると、江・淮の守宰達の多くは城を棄てて逃げ去った。沈璞へも建康へ帰るよう勧める者がいたが、沈璞は言った。
「虜が、この城を小城と侮って通過するなら、懼れる必要はない。もしも総力を挙げて攻めてくるのなら、その時こそ御国の御恩に報いる時。そして、主君らにとっては出世の好機だ!何で逃げ去らねばならんのか!かつて、王尋・王邑は百万の軍で昆陽を攻撃し、諸葛恪は二十万で合肥を攻撃したが、それこそ彼等の敗因だった。大軍で故事路を包囲したら敗北することは、過去の事例から明らかである。」(訳者、曰。本朝にては、楠正成の赤坂・千早城がある。鎌倉幕府の主力軍がこれを包囲している間に全国で造反軍が勃発し、結局、鎌倉幕府は滅亡した。小城に執着して大軍で包囲するなど、その大兵力を遊兵とさせることになるし、大軍になるほど兵糧の消耗も激しい。滅亡するのも当然だ。)
 この言葉に、衆人の動揺も落ち着いた。そこで、沈璞が兵卒を集めると、二千の精鋭が揃った。沈璞は言った。
「これだけ居れば十分だ。」
 やがて、敗北した藏質が于台城へ向かって逃げてくると、衆人は沈璞へ言った。
「虜敵がこの城を見逃すならば、大兵力はいりません。攻めてくるなら籠城するべきですが、狭い土地に人間ばかり多くても、却って食い扶持が無くなり患いとなります。それに、敵が大軍で我等が寡勢なのは誰もが知っていることです。もしも藏質が敵を撃退してこの城を全うしたら手柄を全部奪われてしまいますし、藏質が都に逃げ帰るつもりなら、この城の武器や舟を洗いざらい奪って行くでしょう。これはまさしく疫病神。城門を閉じて入城を拒みましょう。」
 すると、沈璞は嘆いて言った。
「虜敵はこの城を落とせない。俺が保証する。逃げ出すなどとんでも無い。それよりも、考えて見よ。虜敵の残忍暴虐なこと、古今未曾有。民がどれ程苦しんでいるか、諸君等がその目で見ているではないか。捕虜となってさらわれて行き、一生奴隷となった者でさえ、運が良いといった有様だ。藏質軍が烏合の衆とはいえ、どうしてこれを懼れずにいるだろうか!必ず我等と力を合わせて敵と戦ってくれる。いわゆる、『一つの舟で嵐に遭えば、胡人と越人でさえ力を合わせる。』というものだ。今、我等の兵力が多ければ、敵は速やかに退却するし、少なければゆっくりと居座る。手柄を独占する為に、虜敵をいつまでもここに留めるつもりか!」
 そして、城門を開いて藏質軍を迎え入れた。藏質は城中に兵糧が豊富なのを見て、大いに喜んだ。皆は揃って万歳と叫び、沈璞と共に于台城を守った。
 さて、魏軍が南へ攻め込んだ時、兵糧の備えが少なかった。だから、彼等は略奪によって兵糧を得ていたのだ。だが、淮を過ぎる頃になると、民は逃げ隠れるようになり、十分な食糧を得ることができなくなった。こうして、彼等は兵糧の不足に悩み始めた。
 そんな時、于台には兵糧がたっぷりと蓄えられていると聞いたので、魏軍は、これを襲撃して、やがて北へ帰る時の兵糧としようと考えた。だが、于台城は一揉み攻めても落とせなかった。そこで韓元興に数千の兵を与えてこの城と対峙させ、主力軍は南下を続けた。こうして、于台はますます守備を固めた。 

建康騒乱  

 甲午、魏の太武帝は瓜歩まで進んだ。そこで民の家屋を壊したり葦を伐り採ったりして多くの筏を造り、揚子江を渡ると宣伝した。
 建康はパニックに陥り、内外に戒厳令が布かれた。丹楊郡(建康のある郡)内では、若い男全員が徴発され、王公以下の子弟も全て戦役に動員された。領軍将軍劉遵考等が、これらの兵を率いて、全ての要津を守った。上は于湖から下は蔡州へ至るまで、軍艦を並べて陣営とし、その陣列は六七百里も続いた。皇太子の劭は石頭へ出向き、水軍全てを統率した。丹陽尹の徐湛之は石頭倉城を守り、吏部尚書の江湛は領軍を兼任して軍事処置を一任された。
 文帝は石頭城へ登り、顔中憂いを湛えた有様で江湛へ言った。
「北伐については、賛同する者が少なかったのに、敢行したのだ。今日、士民がこれだけ苦しんでいるのを見ると、慚愧に耐えない。予の過ちだ。」
 又、言った。
「檀道済さえいきておれば、胡馬にここまでさせなかったものを!」
 文帝は、莫府山へ登って形勢を見たり、魏の太武帝や魏の王公の首に封爵の懸賞をかけたりした。また、人を募って無人の村々へ酒を置かせ、魏軍へ毒を飲ませようともしたが、それらは全て空振りに終わった。
 魏の太武帝は瓜歩山に道を穿って、その上に仮の行在所を造った。
 ところで、太武帝は河南の水が体に合わなかったので、駱駝に河北の水を背負わせて持参していた。ここに至って、その駱駝や名馬を文帝へ贈り、和を求めると共に魏と宋の皇室同士で通婚する事を申し込んだ。
 文帝は、奉朝請の田奇を使者として、種々の珍味を贈った。太武帝は、これを食し、又、贈られた酒も飲もうとしたので、側近がソッと耳打ちした。
「毒が仕込まれているかもしれません。」
 しかし、太武帝はそれを聞き流し、手を挙げて天を指さし、ついで孫を指し示して、田奇へ言った。
「吾が遠路はるばるここまで来たのは、一身の功名の為ではない。民を安んじる為に二国間で永く姻援を結ぼうと思ってのことだ。もし、宋が娘をこの孫へ娶せるならば、吾は我が娘を武陵王へ娶らせよう。そうすれば、これ以後、南へ兵を向けることはない。」
 田奇が戻ってきてこれを報告すると、文帝は皇太子の劭を始め群臣を集めて協議させた。皆はこれを呑もうとしたが、江湛が言った。
「戎狄には、親子の情などありません。婚姻しても無意味です。」
 これを聞いて、皇太子劭は江湛を怒鳴りつけた。
「今、三王(江夏王義恭、武陵王駿、南平王鑠)は危難の中で歯を食いしばっているのだ。異議を唱えるなどもってのほか!」
 怒髪天を衝かんばかりの勢いだった。これで一座はお開きとなり、群臣は退出した。皇太子劭は、剣を持った者や近習達に江湛を退出させた。江湛は何度も転びそうになりながら、引き立てられて行った。
 皇太子劭は、又、文帝へ言った。
「北伐では敗辱を受け、あまつさえ数州が敵に蹂躙されました。この上は、江湛と徐湛之を斬って、天下に謝罪するべきでございます。」
 すると、文帝は言った。
「いや、北伐は朕の意志だった。江湛と徐湛之は、たまたま、朕と意見が同じだったに過ぎん。」
 この一件によって、皇太子劭と江湛・徐湛之は仇敵となってしまった。また、魏は、遂に通婚することができなかった。 

  

魏軍退却 

 二十八年。魏の太武帝は、瓜歩山上で、群臣達と大宴会を開き、論功行賞を行った。そして、揚子江に沿って、盛大に篝火を焚いた。これを見て、太子左衛率の尹弘が文帝へ言った。
「このようなことをするのは、きっと退却するつもりです。」
(北朝の兵卒は、退却する時に、南朝からの追撃を恐れて、わざと松明を燃やして攻撃する振りをしたのである。尹弘は北朝の軍情を知っていたので、これを看破した。)
 果たして、魏軍は民を略奪すると、廬舎を焼き払って退却した。 

于台の攻防 

 帰還する魏軍が迫ってくると、江夏王義恭は、高傲は守りきれないと見切りを付け、王玄謨を呼び戻した。魏軍はこれを追撃し、遂に高傲を奪った。
 魏の太武帝は、于台へ着くや、藏質へ酒を求めた。これに対して藏質は、尿を樽に詰めて贈った。太武帝は怒り、于台城を包囲した。
 魏軍は、于台城の周囲に城壁を造ったが、これは一晩で完成した。次に、彼等は東山の土石で濠を埋め立て、君山に浮き橋を造って、水陸の道から于台を遮断した。
 ここに及んで、太武帝は藏質へ手紙を書いた。
「これから派遣する兵卒は、我が国人(拓跋氏の故郷である北方の人間)ではない。丁零や胡やテイ、キョウの人間だ。卿が彼等を殺したとて、我は痛くも痒くもない。却って、賊徒の処分ができて手間が省けるというものだ。」
 すると、藏質は返事を書いた。
「先の手紙は、汝の奸悪を悉く暴露した。なるほど、獣の足を恃んで国境を侵す人間に相応しい言葉だ。ところで、かつて王玄謨が東へ退き、申坦が西へ向かった真意を、汝は気がついているのか?汝も童謡を聴いているだろう。卯年を翌年に控えていたので、両名はわざわざ道を開け、汝に揚子江の水を飲ませたに過ぎないのだ。天の予言は、人力の及ぶところではない。そして、今年こそ卯年である。寡人は、お前を滅ぼせと天の命令を受けたのだ。もしも汝が戦乱の最中に殺されれば幸いである。幸薄ければ、生きながらにして鉄の鎖に縛り付けられ、驢馬の上にさらしものとなって建康へ送られるだろう。我はもとより命を捨てている。もしも天地に神霊がなく、汝の前に力屈したら、五体を切り刻まれようと、なお、聖恩へ対して申し訳が立たない。だが、汝の知識が衆人に優れようと、苻堅に勝っていると思うのか!さあ、四方から兵卒を結集し、心おきなく我を攻めよ。決して逃げるな!兵糧が少ないのなら申し出よ。恵んでやろう。」
 太武帝は激怒し、鉄のベッドを造らせると、その上に鉄の針を並べさせた。
「あの城を落として藏質を捕らえたら、この上に座らせよ。」
 藏質は、太武帝の手紙を魏の兵卒達へばらまいて、宣伝した。
「仏貍は、お前達のことをこのように扱っているのだぞ。汝等も中国の民だろう。なんで自殺行為を看過するのだ?なぜ、禍を転じて福としないのか!」
 更に、前年の文帝の懸賞文も添えた。
「仏貍の首を斬った者は、食邑万戸の侯爵に封じ、布・帛各々万匹を賜下する。」
 魏軍は衝車(丸太を載せた車。この丸太で城壁を突き崩す。)を次々とぶつけてきたが、城壁が堅かったため、土塊がパラパラと落ちてくるだけだった。
 遂に、魏軍は肉弾戦へ移った。兵卒達は次々と城壁へ飛びついてよじ登ってくる。先の者が墜落しても、後の者が城壁へ飛びつき、引き退く者は居ない。藏質軍は次々と攻撃し、一万以上の敵兵を殺した。魏兵の死体は積み重なり、城壁へ届く有様だった。
 このようにして一ヶ月余り猛攻を加えたが、于台城を落とすことはできなかった。この頃、魏軍には疫病が流行り始めた。又、不穏な噂も流れてきた。
「宋軍は、水軍を動員し、それは海から淮を遡ってここまで押し寄せてきているぞ。」
「我等の帰路を断てと、文帝が彭城へ命令したそうだ。」云々。
 二月、太武帝は城攻めの道具を焼き払い、退却した。
 于台の人間が追撃しようとすると、沈璞は言った。
「我が兵は少ない。籠城はできるが、追撃することはできんよ。だが、舟を整備して、河を渡る姿勢は見せよう。奴等は追撃されることを懼れ、ますます逃げ足を早めるだろう。」
 藏質は、沈璞を城主として、この勝利を全国へ宣伝しようとしたが、沈璞は固く断り、功績を全て藏質へ譲った。これを聞いた文帝は、沈璞のことを益々嘉した。
 魏軍は、彭城を通過した時、江夏王義恭はその大軍を懼れ、敢えて攻撃しなかった。諸将は追撃を請うたが、義恭が禁じて許さなかったのだ。その翌日、文帝からの急使が到着し、総力を挙げて魏軍を攻撃するよう命じた。だが、その時には、魏軍は既に遠くへ去っていた。
 この戦役で、魏軍は南コン、徐、コン、豫、青、冀の六州を蹂躙し、大勢の民を殺した。若者達を斬り殺し、赤子は杭に刺し貫き、遊び半分に虐殺を繰り返す。彼等が通過した郡県は、寸土も余さず深紅に染め抜かれてしまった。翌春還ってきた燕は、林の中に巣を造ったという。又、魏の士馬も半分以上死んでしまった。
 文帝は、軍が出征する度に命令を下し、交戦の時まで詔を出した。宋の将軍は進軍にぐずつき、自分で決断しなかった。そうかと思うと、江南から出征した若者達は、軽々しく進軍して戦った。これ故に、敗北したのである。この戦役によって、村々は荒廃し、元嘉の政にも翳りが生まれた。 

戦役終焉 

 癸酉、魏軍の来寇に遭った民へ、慰問品が賜下され、彼等の租税が免除された。
 甲戌、太尉の江夏王義恭が、驃騎将軍・開府儀同三司へ降格となった。
 戊寅、魏帝が黄河を渡った。
 辛巳、鎮軍将軍の武陵王駿が、北中郎将へ降格となった。
 壬午、文帝が瓜歩山へ御幸した。この日、戒厳令が解かれた。
 三月、乙酉。文帝が宮殿へ還った。
 己亥、魏帝が、平城へ還った。宗廟へ報告し、降伏した民五万余家を近畿へ住ませた。 

 ところで、魏帝が彭城を通過した時、使者を派遣して城中へ伝言していた。
「食糧がなくなったから去る。この麦が熟する頃、再びやってくるぞ。」
 もはや、その麦も熟している。義恭は麦を棄てて、民を砦の中へ移住させようと言い出した。すると、鎮軍録事参軍王孝孫が言った。
「虜は、もう来れません。これからのことを考えましょう。それに、もし来襲したとしても、そんなことはできません。民衆を城の中へ入れるのならば、この春の日ですから、麦がなくても山菜を採れますが、砦へ入れたらたちどころに餓死してしまいます。それが明白ですから、民は必死で抵抗します。どうして制御できましょうか!民を城へ入れるのでしたら、敵が来襲してからでも、麦を焼き払うことができます。」
 皆は黙りこくっていたが、張暢が言った。
「王孝孫の言い分には、採るべき所があります。」
 この時、武陵王駿の傍らに侍っていた鎮軍府典籤の董元嗣が言った。
「王録事の意見に従うべきです。」
 別駕の王子夏も言った。
「彼の言うとおりです。」
 すると、張暢は言った。
「王子夏を処罰して下さい。」
 それを聞いて、武陵王駿は言った。
「何故だ?王別駕は何も罪を犯していないが?」
「麦を焼いて民を移住させるというのは、国家の重大事です。王子夏は国家の要職にありながら、この大事件に一言も意見を述べませんでした。それが、元嗣の意見をきいた途端、それに賛同したのです。この大事に及んでさえ、側近におもねる。それで御国へご奉公できましょうか!」
 王子夏も董元嗣も恥じ入ってしまった。移住の件は、沙汰止みとなった。 

 蛇足ながら、魏の太武帝は元嘉二十九年の二月に死んだ。寅年である。わずか二ヶ月の違いではあるが、予言は外れた。 

  

(訳者、曰) 

 魏軍は、兵糧が尽きて帰国した。急を要して十分な準備を整えなかったのか、機動力を重視して敢えて持ち運ばなかったのか。それとも、連年の戦争で、(その詳細は、冒頭に記述した)国内の兵糧の備蓄が尽きてしまったていのか。いずれにしても、一気に南朝を滅ぼしてしまうほどの国力は持っていなかったのだろう。通婚を求めたのは、案外一時の優勢に乗じて宋を属国扱いしようと考えただけかも知れない。してみると、江湛の進言も、あながち非難するべきではなかったと言えるだろう。ただ、発言した人間にメチャメチャ問題があっただけである。
 ところで、もしも魏軍が占領した土地土地で領民を巧く招撫したならば、そこそこの兵糧が集まったのではないか?そうなれば、その後の展開も、もっと違ったものになっただろう。それなのに彼等は、征服地で残虐の限りを尽くした。夏を滅ぼした時に、その豪勢な宮殿を見て夏王を非難した太武帝が、ここではこのような振る舞いをした。「人は、遠くのものは見えるけれど、自分のまつげが見えない」とは、正しく真理ではないか。