宋の文帝、恢復を図る(その一)
 
宋出陣  

 宋の文帝は、即位以来、河南恢復の宿願があった。 

 元嘉五年(428年)、魏は、夏王の赫連昌を捕らえた。しかし、夏では赫連定が立って独立を保った。(詳細は、「魏、夏を滅ぼす」に記載。) 

 元嘉七年(430年)、三月。文帝は河南攻撃を決意し、右将軍到彦之へ五万の武装兵を与えた。又、安北将軍王仲徳とコン州刺史竺霊秀へは水軍を与えて黄河を遡らせ、驍騎将軍段宏には精騎八千を与えて虎牢関へ向かわせた。更に、豫州刺史劉徳武と長沙王義欣が後続となった。長沙王は、劉裕の甥である。
 出陣に先立って、殿中将軍田奇を使者として魏へ派遣し、魏帝へ告げた。
「河南は、もともと宋の領土である。侵略を受けてからそのままになっていたが、今、旧領を奪還する。しかし、河北を侵略するつもりはない。」
 魏帝は激怒して言った。
「我が生まれた時から、河南は我が領土だ。そんな道理がどこにある!来るなら来て見よ!」
 魏の南辺の諸将が、魏帝へ請願した。
「宋の大軍が、今にも押し寄せて参ります。どうか、三万の兵を下さい。奴らが来る前にこちらから襲撃を掛け、その鋭気を挫いて見せましょう。」
 そして、国境付近にいる流民達が敵の道案内となるのを防ぐ為に、彼等を皆殺しとすることも、併せて請願した。魏帝が公卿に協議させると、皆、それを当然の処置と考えた。だが、崔浩は言った。
「いけません。南方は湿潤な土地で、これから夏に入ります。そうなれば草木は鬱蒼とし、酷暑は体にまとわりつきます。慣れない我等は疫病にやられてしまうでしょう。こちらから進軍してはいけません。
 それに、連中は既に警備を厳重にして、城の守りも固めております。遠征して持久戦となれば、兵糧の輸送が心配です。だからといって、軍を散らして略奪を行えば、各個撃破されてしまいます。今、出撃しても、その利益は何もありません。それよりも、敵が遠征して来るのを待って、迎撃するべきです。
 近年、朝廷の群臣や西北の守将は陛下と共に遠征して、夏を平定し柔然を討ち、その戦利品として、美女や珍宝を山のように得ることができました。その風聞を聞いた南辺の諸将達が、これに倣って私財を肥やそうと思っているのです。彼等の私欲に従えば、国家の計略に破綻を来たします。そんな提案には従ってはなりません。」
 そこで、魏帝は南辺諸将の請願を却下した。
 すると、諸将は再び上表した。
「南寇は、既に来襲いたしました。我々の兵力では防ぎ切れません。幽州の精鋭兵を援軍として派遣して下さい。又、多数の軍艦を造って、章(「水/章」)水に回して下さい。」
 公卿は皆言った。
「請願の通りに。又、晋から亡命しました司馬楚之、魯軌、韓延之等へ兵を与えて宋の人間を招聘させましょう。」
 すると、崔浩が言った。
「それは良策ではありません。司馬楚之等は、宋の朝廷が畏忌しています。幽州の兵卒は天下の精鋭です。そして軍艦を多量に造る。すると、彼等はこう思うでしょう。
『魏は、司馬氏を立て、国家の総力を挙げて立ち向かう。これは、きっと我等を滅ぼして、司馬氏を皇帝とする傀儡政権をうち立てるつもりだ。』と。
 そうなれば、奴等は国を挙げて震え上がり、家存亡の時とばかり、全力を尽くして戦って来ます。奴等が全ての精鋭兵を動員し、決死の覚悟で攻めて来れば、南辺諸将の戦力では支え切れません。今、公卿が力尽くで宋を滅ぼそうとなさるなら、速やかに行うことです。少しの遅滞も許されません。それこそ、『虚声を張って実害を招く。』とゆう事態に陥ってしまいます。
 司馬楚子等を動かせば、奴等は必ず全力を挙げて来るのです。そして、司馬楚子は利に走る小人です。彼等に招聘させても、軽薄無頼の人間しか寄って来ません。そんな連中を集めても、大功を建てられる筈がありません。ただ、徒に国家の戦禍を大きくするばかりです。」
 だが、魏帝は納得しなかったので、崔浩は言った。
「今、天の時は奴等にはありません。揚州には害気が在ります。庚午に先に出る者は必ず失敗します。火星が翼・軫にある時は、乱を起こしても失敗しますし、金星が出る前に出陣する者は必ず敗れます。日食で昼も暗い時に事を起こすものではありません。(こんな事、本気で言ったのだろうか?私が陰陽道に精通していたら、もっと尤もらしく翻訳できたでしょうが、「どうせこの程度のことしか言ってない」位の気持ちで適当に翻訳しました。)
 そもそも、国を興す主君は、まず人事を修め、次いで地の利を取り、最後に天文を観ます。ですから、万挙して万事が成就するのです。劉義隆(宋の文帝)の国は建国したばかり。人心は未だ一致協力しておりませんし、災変が屡々起こり天の時に逆らっております。その上、川は渇水の時期で軍艦を操りにくい。これでは地の利も活かせません。天地人の三者に逆らっております以上、この挙行は必ず失敗します。」
 だが、魏帝は衆言に逆らえず、冀・定・相の三州へ三千艘の軍艦を造るよう命じ、幽州の兵卒を河上に結集させて敵に備えた。
 六月、司馬楚子を安南大将軍とし、琅邪王に封じ、穎川へ屯営させて宋に備えた。 

  

河南占領 

 到彦之は淮から四水へ入ったところで、船に水がしみ込み、軍足が遅くなった。一日わずか十里しか進めないていたらくだったが、四月から七月まで掛けて、なんとか須昌へ到着した。
 魏帝は、河南四鎮(金庸、虎牢、滑台、高傲)の兵力が少ないと判断し、黄河の北岸まで撤退するよう、諸軍へ命じた。この命令に従って、高傲、滑台、虎牢の守備兵は撤退し、洛陽も引き払われた。又、魏帝は大鴻臚の杜超を都督三州諸軍事に任命し、陽平王へ進爵させ、業で総指揮を執らせた。杜超は、密太后の兄である。
 到彦之は、朱修之に滑台を守らせ、尹沖に虎牢を守らせ、建武将軍杜驥に金庸を守らせた。杜驥は、杜預の玄孫である。そして、宋軍の本隊は潼関まで進軍した。
 こうして司州とコン州は全て奪還された。諸軍の将兵は皆大喜びだったが、王仲徳ひとり、憂いを含んで言った。
「我等が迂闊に喜んでいると、必ず敵の計略に落ちるぞ。胡虜は仁義こそ足りないが、狡智には余りある。今、奴等は一矢も交えずに砦を放棄したが、それは兵力を温存し、後に総力を挙げて来襲する為だ。やがて黄河の水が凍り付いたら、その時こそ大軍が来襲する。どうして憂えずにおれようか!」 

 八月、魏帝は冠軍将軍安頡に、到彦之を攻撃させた。到彦之は、姚聳夫を差し向けたが、敗北。大勢の死者を出した。
 又、魏帝は征西大将軍長孫道生を河上へ派遣し、到彦之と対峙させた。 

  

宋、夏同盟 

 九月、夏王定が、弟の謂以代に魏の鹿城を攻撃させた。魏の平西将軍隗帰等がこれを撃退し、万余人を殺した。謂以代は逃げ去った。
 そこで、夏王は自ら数万人を率いて鹿城の東で隗帰を攻撃した。この時、弟の上谷公社干と廣陽公度洛孤を留めて平涼を守らせ、宋へ使者を派遣した。
「河北を平定したら、恒山を境界に、宋と我が国で東西に分割しましょう。」
 これを聞いた魏帝は、夏討伐軍を起こした。すると、ある臣下が言った。
「劉義隆の兵が、なお、河中におります。これを棄てて西へ進めば、その虚に乗じて奴目が河を渡るかもしれません。最悪、夏を滅ぼせず、山東を失うことにもなりかねません。」
 そこで、魏帝は崔浩へ尋ねた。すると、崔浩は言った。
「劉義隆と赫連定は遙か離れて同盟を結び、共にこの国を窺っております。ですが、劉義隆は赫連定の進軍を望み、赫連定は劉義隆が進むのを待っており、互いに自ら進もうとはしておりません。
 劉義隆が河中に留まりましたが、そこから二道に分かれて東は冀州、西は業を狙うようならば、陛下自らが出向かわねばならないと思っていました。しかし、奴等はそうは動いておりません。一カ所に数千ずつの兵を配置した陣営を、東西二千里にわたって連ねております。この陣形は、河を守るためのものです。奴等に河を北渡する気はありません。
 赫連定は僅かに根が残っているに過ぎません。一押しすれば必ず倒せます。赫連定を滅ぼした後、東へ進んで潼関へ出て、前方へ席巻すれば、劉義隆は震え上がって退却するでしょう。どうか、お疑いにならないで下さい。」
 魏帝は、遂に統萬へ進み、そこから平涼へ向かった。以後、魏帝は夏攻略を指揮することとなる。(詳細は、「魏、夏を滅ぼす」に記載。) 

  

魏軍反撃 

 到彦之と王仲徳は、黄河沿いに守備兵を置いて、東平へ帰った。
 魏の安頡は、委粟津から黄河を渡って、金庸を攻撃した。
 金庸は、壊れた城壁などが長い間放置されたままで、兵糧の備蓄も少なかった。守将の杜驥は城を棄てて逃げ出したかったが、罪に問われることを恐れてぐずついていた。すると、そこへ姚聳夫が千五百人の部下を率いてやって来た。
 話は遡るが、劉裕が後秦を滅ぼした時、後秦にあった巨大な鐘を江南へ移設しようとしたて、洛水へ落としてしまった。今回、姚聳夫はその鐘を引き上げてくるよう、文帝から命じられていたのだ。
 杜驥は姚聳夫へ言った。
「金庸城の修理は完璧だ。兵糧もたっぷりとある。ただ、人間が足りないのだ。だから、加勢してはくれぬか。貴殿と共に敵を蹴散らして、大功を建てようではないか。鐘を引き上げるなど、それからでも遅くはないぞ。」
 姚聳夫は同意したが、いざ金庸城へやって来てみると、とてもじゃないが、守ることなどできはしない。話が違うとばかり、引き返した。そこで、杜驥もとうとう城を棄てて逃げた。
 安頡は洛陽を抜き、宋の将士五千人を殺した。
 杜驥は、帰ると文帝へ言った。
「臣は命を捨ててでも、金庸を守り抜こうと決意しておりました。ですが、姚聳夫が城までやって来ながら逃げ出した為、城内の志気が一気に喪失し、どうしようもなくなったのでございます。」
 文帝は激怒し、姚聳夫を誅殺した。姚聳夫は、偏裨(将軍の補佐役)の中では誰も及ばないほど勇健な武将だった。 

  

宋軍退却 

 魏の河北の諸軍は、七女津に結集した。到彦之は、これが南渡することを恐れ、裨将の王蟠龍を派遣して敵の船を奪わせようとしたが、杜超等に撃退され、王蟠龍は戦死した。
 安頡と龍驤将軍陸侯は、虎牢を攻撃し、これを抜いた。尹沖と栄陽太守崔模は魏に降伏した。 

 十一月、宋は、檀道済を征南大将軍・都督諸征討諸軍事に任命し、魏を攻撃させた。 

 甲午、魏の叔孫建と長孫道生が黄河を南渡した。
 洛陽や虎牢が陥落し諸軍は相継いで敗走したと聞いた到彦之は、退却したくなった。すると、殿中将軍垣護之が書簡で諫めた。
「昔人は、連年の戦闘で大勢の部下を失い兵糧が欠乏しても、なお肝太く戦い、軽々しい退却を肯りませんでした。ましてや、今、青州は豊作で、済水の流れは確保し、士馬は休養をたっぷり取っており、我が軍の威力には何ら欠けるところもありません。それなのに滑台を虚しく放棄し、成業を座したまま失うなど、それでどうして朝廷受任の旨に適いましょうか!」
 しかし、到彦之は従わなかった。垣護之は、垣苗の子息である。
 到彦之が、船を焼き払って逃げようとしたところ、王仲徳は言った。
「洛陽は陥落し、虎牢も守れなかった。だが、これは自然の勢ではないか。虜は、まだ我々から千里も離れているし、滑台には強兵がいるのだ。それなのに船を焼き払って逃げ出せば、士卒は必ず離散する。ここは船を済水へ向け、馬耳谷へ入って善後策を講じるべきだ。」
 到彦之は、もともと目の病に罹っていたが、それが悪化した。また、将士達に疫病が流行ったこともあり、とうとう兵を纏めて船で移動することとした。こうして、宋軍は済水へ入った。だが、歴城まで到着すると、船を焼いて鎧を棄て、徒歩で彭城へ向かった。 

 竺霊秀は須昌を棄て、湖陸へ南走したので、青・コン州は大騒動となった。魏の叔孫建がこれを攻撃し、竺霊秀は大敗した。叔孫建は、五千人からの敵を殺した後、范城へ戻った。 

 長沙王義欣は、彭城を守っていた。彼の将佐は、魏の大軍に聞き怖じし、彭城を棄てて都へ帰るよう勧めたが、義欣はこれを却下した。 

 魏軍は済南を攻撃した。済南太守蕭承之は、数百人を率いてこれを待ち受けた。
 魏の大軍がやってくると、蕭承之は城門を開けるよう命じた。部下は皆、言った。
「敵は大軍、我等は小勢。それなのに、そこまで敵を軽んじるのですか!」
 すると、蕭承之は言った。
「今、援軍も期待できず、我が軍は危急の時だ。この時に弱味を見せれば、必ず皆殺しとなってしまうぞ。ここは強気で押すしかない。」
 魏軍は、伏兵を疑い、引き返した。蕭承之は、蕭道成の父親である。 

 魏は、叔孫建を都督冀、青等四州諸軍事に任命した。 

 宋は、長沙王義欣を豫州刺史に任命し、寿陽を鎮守させた。
 この頃、寿陽の土地は荒れ、民は離散し、城郭はあちこち壊れて盗賊が横行していた。だが、義欣が適宜に統治した為、境内は安んじ、民は落ちている物さえ拾わなくなった。やがて城郭も完備し、遂には盛藩となった。用水路も、長い間壊れっ放しだったが、義欣は堤防を整備し、黄河の水を引き込んだ。おかげで、万余頃の田圃が潤い、旱害の憂いもなくなった。 

  

事後処理 

 今回の敗戦の責任で、到彦之と王仲徳は裁判に掛けられ、官職を罷免させられた。竺霊秀は、敗戦の科で誅殺された。又、垣護之は北高平の太守に抜擢された。彼が到彦之へ宛てた意見書が文帝の目に止まり、文帝はこれを大いに嘉した為である。 

 到彦之が出征する時、宋には武器も攻具も多量に備蓄していたが、これらを全て棄てて逃げ帰った為、武器庫はスッカリ空っぽになってしまった。
 ある日、文帝は、群臣と宴会を開いた。この宴会には、宋へ降伏して来た人間を同席させていたのだが、その席で文帝は尚書庫部郎の顧深へ尋ねた。
「官庫に兵器はどれくらいあるか?」
 尋ねてしまって、文帝は失言だったことに気がついた。この時、顧深は咄嗟にそれと気がつき、跪いて答えた。
「十万人分はあります。」
 文帝は大いに喜んだ。顧深は、顧和の曾孫である。 

  

滑台陥落 

 八年、正月。檀道済は滑台救援に向かった。魏の叔孫建と長孫道生が、これを防ぐ。
 寿済にて、宋軍は魏の安平公乙栴眷の軍と遭遇した。檀道済は寧朔将軍王仲徳と驍騎将軍段宏を率いて奮戦し、敵を大破した。そのまま高梁亭まで転戦し、魏の済州刺史悉煩庫結を斬った。(王仲徳は、昨年末に免官されたが、もう戦線に復帰している。前年の遠征でもそれ程の醜態は曝していなかったし、妥当な処置だと思います。)
 二月、檀道済等は済上まで進軍した。二十余日で、前後三十余回も魏と戦い、かなり高い勝率を挙げた。
 宋軍が歴城まで来ると、叔孫建が反撃に出た。彼は、軽騎を縦横に使い、宋軍の兵糧を焼き払って行った。これが図に当たり、檀道済軍は糧食が欠乏してしまって進軍できなくなった。そうゆう訳で、安頡と司馬楚之は滑台攻略に専念することができた。 滑台を守る朱修之は、数ヶ月堅守したが、兵糧が欠乏し、ついに兵卒は鼠を捕まえて食べるところまで追い詰められた。
 辛酉、遂に滑台は陥落し、魏軍は朱修之と東郡太守申謨を捕らえ、万余人を捕虜とした。申謨は、申鐘の曾孫である。
 檀道済等は食糧が尽き、歴城を引き払って退却した。すると、魏へ降伏した兵卒が、その内情をつぶさに密告したので、魏軍は追撃を掛けた。宋軍の兵卒は恐惶をきたし、潰走寸前となった。そこで檀道済は、夜のうちに土を積み上げ、その上を米で覆わせた。翌朝、魏軍が宋の陣地を見ると、兵糧が山積みされている。そこで、降伏した兵卒が妄言を吐いたと思い、これを処刑した。
 この時、檀道済軍は兵力が少なく、追撃する魏軍は大軍だった。檀道済は、兵卒に武装させ、自分は白服で輿に乗り、ゆっくりと進んだ。それを見た魏軍は、伏兵を恐れ、敢えて迫ろうとしない。こうして、檀道済は全軍無事に退却できた。 

  

魏軍凱旋(付、王恵龍) 

 庚戌、安頡等が捕虜を引き連れ、平城へ凱旋した。魏帝は、朱修之の節義を嘉し、宗室の女性を娶せた。
 宋の文帝は、今回の討伐軍を出動させる時、到彦之等へ戒めていた。
「もしも北国が兵を動かせば、その軍が到着する前に黄河を渡れ。もしも動かなければ、お前達も彭城に留まって動いてはならぬ。」
 今回、捕虜にした宋兵の口からこの話を聞き、魏帝は公卿へ言った。
「朕ははじめ、崔浩の策を用いようと考えていたが、卿等が驚愕して固く諫めたのだ。だいたい、武将達は皆、韜略では誰にも負けぬと誇っているが、結果を見てみれば、誰もが彼に及ばないではないか。」
 やがて、司馬楚子が上疎した。
「諸方は、ほぼ片が付きました。今こそ大挙して宋を討つ時でございます。」
 だが魏帝は、連年戦闘続きだったことを理由に、これを却下し、司馬楚子を呼び戻した。後任の栄陽太守には、王恵龍が抜擢された。
 王恵龍は、それから十年間農業と兵卒の訓練に励み、その名声が轟いた。やがて、人々は彼の名声を慕って来るようになり、彼の許へ帰順する民は万家を越えた。宋の文帝は、彼を魏帝に猜疑させようと、反間工作を行った。
「王恵龍は、功績に比べて官位が低すぎるので不満を持ち、宋軍を引き入れて司馬楚之を捕らえ、造反しようと企んでいる。」
 この噂を聞いた魏帝は、王恵龍へ書を賜った。
「劉義隆は、将軍のことを猛虎のように恐れ、このような小細工を始めた。そんなことは朕にはお見通しだ。つまらん風聞など、気にすることはない。」
 そこで、文帝は刺客として呂玄伯を送り込んだ。報酬は、封戸三百男と絹千匹。そこで、呂玄伯は王恵龍のもとへ降伏し、大切な話があるからと人払いを願った。だが、王恵龍は不審を抱いて呂玄伯の体を改めたところ、果たして、懐から尺刀が見つかった。呂玄伯は殺してくれと頼んだが、王恵龍は言った。
「互いに、その主人の為にやったことだ。」
 すると、側近達が諫めた。
「宋の陰謀は続いております。彼奴を殺さなければ、益々激しくなりますぞ。」
 だが、王恵龍は言った。
「人の死生は天命だ。なんであの程度の男から殺されようか。それに、我は仁義を以て接しているのだ。憂えるものなどない。」
 遂に、呂玄伯を釈放した。
 六月、魏帝は宋へ使者を派遣して通婚を求めたが、文帝は却下した。