祖逖の北伐。

 范陽の祖逖は、若い頃から大志を抱いていた。
 司州の主簿だった時、同僚の劉昆(「石勒、河朔に寇す。」参照)と共に寝ていると、真夜中に鶏が鳴いた。これは凶兆で、戦乱が起こる前触れであると言われていたが、祖逖は劉昆を蹴起こして言った。
「これは悪声ではない。(戦乱の世の中になると、いくらでも出世できる。)」
 そうして、大喜びではね回った。

 やがて、八王の乱が激しさを増し、夷狄が跋扈するようになると彼は疎開して江を渡った。
 愍帝の建興元年(313年)。左丞相の琅邪王叡(後の元帝、この時既に江東に基盤を築いていた。)は、彼を軍諮祭酒に任命した。その時、祖逖は京口に住んでいたが、健児達を煽動して、司馬叡へ上言した。
「現在の晋室の戦乱は、無道な主君の所業に庶民の怒りが爆発した訳ではありません。宗室が互いに権力を争い、その疲弊につけこんで、戎狄が乱入してきたに過ぎないのです。
 今、庶民達の多くは土地を離れて流浪し、賊徒から酷い目にあわされ続け、遂に奮起して、自助努力に目覚めました。大王がこの戦乱を糺す為に将軍を出陣させようと思し召されるのなら、私のような者に義勇兵を募らせて兵力となさって下さい。そうすれば、全国各地の豪傑達が、風に靡くように応じてくるでしょう。」
 しかし、琅邪王には北伐の意志はなかった。そこで、祖逖を奮威将軍、豫州刺史とし、千人分の食い扶持と布三千びきを与えただけで、鎧や刀剣は給与しなかった。自分で調達しろとゆう訳である。
 祖逖はこれらの物資を手に、百余家の有志達と共に長江を渡った。
 その渡江の途中、船縁を叩いて、彼は誓った。
「この祖逖が中原を恢復できなければ、あたかもこの長江のように、行ったきりで二度と戻っては来ないぞ!」
 長江を渡ると、淮陰に腰を落ち着け、兵器を鋳造する傍らで兵卒を募り、二千余人をかき集めてから、進軍した。

 さて、そこいら辺りでは、張平と樊雅が、各々数千人の流民を手下にして、焦に砦を構えていた。琅邪王が彼等を丞相に任命する使者を派遣したところ、二人とも帰順した。
 祖逖は蘆州に駐屯すると、参軍の殷乂を彼等の許へ派遣した。殷乂は、張平のことを心中では軽視していたので、その屋敷を見ていった。
「これは厩舎にすれば良いな。」
 また、大かく(足のない鼎。)を見て言った。
「これを溶かせば兵器を作れる。」
 張平はムッとした。
「これは帝王のかくだ。天下が治まった時、民を統べるために用いる。何で潰せようか。」「卿は我が身を守ることさえできないのに、ただかくだけを大切にするのか!」
 張平は激怒して、即座に殷乂を斬り殺させると、警備を厳重にして守りを固めた。
 祖逖はこれを攻撃したが、一年余りも攻略できない。そこで、張平麾下の武将謝浮を抱き込んで、張平を殺させた。
 祖逖は、進撃して太丘に陣を布いた。樊雅は猶も焦城に籠もって、祖逖と対峙している。祖逖はこれを攻撃して勝てなかったので、南中郎将の王含に援軍を頼んだ。王含は、参軍の桓宣に五百の兵を与えて派遣した。
 祖逖は桓宣に言った。
「卿の信義は有名だ。樊雅達を説得してくれないか。」
 そこで、桓宣は使者として、単身で樊雅の許へ赴き、言った。
「祖豫州は、劉聡や石勒を滅ぼす為に、卿の助力を望んでおります。前回、殷乂が軽薄に振る舞ったが、あれは豫州の真意ではなかったのです。」
 そこで、樊雅は祖逖の許へ赴いて降伏した。

 こうして、元帝の建武元年(317年)、祖逖は遂に焦城へ入城した。
 石勒は、すぐに石虎を派遣し、焦城を包囲させた。すると、王含は再び桓宣を援軍として派遣したので、石虎は撤退した。祖逖は桓宣を焦国内史と為した。

 六月、既に晋王となっていた司馬叡が、天下に檄を飛ばした。
「石虎は兵を率いて河を渡り、天下を蹂躙している。今、琅邪王の褒等九軍に精鋭兵三万を与え、水陸四道から進撃させる。志のある者は、祖逖の指揮下へ入れ。」
 だが、やがて褒を建康へ呼び戻した。

 さて、蓬陂に砦を構えていた陳川は、陳留太守と自称していた。祖逖が樊雅を攻撃した時、陳川は麾下の将軍李頭を援軍として、祖逖の許へ派遣した。
 李頭は力戦し、屡々戦功を建てたので、祖逖は彼を厚く遇した。それで、李頭は屡々嘆じたのである。
「ああ、豫州が主人だったら、俺は死んでも構わない。」
 陳川は立腹し、李頭を殺した。すると、李頭と仲の善かった馮寵が、部下を率いて祖逖の許へ帰順した。陳川は益々怒り、豫州へ攻め込むと、諸郡を荒らし回った。祖逖は迎撃してこれをうち破った。
 大興二年(319年)、四月。陳川は領地の浚儀ごと、石勒へ降伏した。
 祖逖は、蓬陂の陳川を攻撃した。すると、石勒は石虎に五万の兵を与え、これを救援した。祖逖は浚儀にて石虎と戦って敗北。梁国まで撤退した。
 石勒は更に、桃豹の軍を蓬陂へ派遣したので、祖逖は淮南まで退却した。

 石虎は陳川の領民五千世帯を襄国へ移住させ、桃豹には陳川の旧城を守らせた。
 この城は、祖逖麾下の将軍韓潜も守備していた。結局、桃豹はこれの西台を占拠し、韓潜は東台を占拠した。桃豹は南門から、韓潜は東門から出入りし、各々厳重に警備して、四旬に亘って睨み合った。
 さて、桃豹の陣には兵糧が不足していた。そこで、祖逖は土嚢をあたかも米俵のように見せかけて、千余人の人夫に運び込ませた。そして、数人の男に米俵を運ばせ、彼等を路上で休息させた。桃豹の兵がこれを襲撃すると、彼等は米俵を棄てて逃げ出した。米俵を獲得した桃豹は、山と運び込まれた土嚢を全て兵糧と思いこみ、敵方の豊富な物資に懼れてしまった。
 後趙は、驢馬千頭の兵糧を、桃豹へ送った。これを護送する将軍は劉夜道。祖逖は、その輜重隊を韓潜と馮鉄に攻撃させ、物資を悉く奪った。
< 遂に、桃豹は夜に紛れて遁走し、東燕城へ逃げ込んだ。

 祖逖は韓潜を封丘まで進軍させ、桃豹に迫った。馮鉄は陳川の城を占拠し、祖逖自身は擁(正しくは、手偏がない。)丘を鎮守した。(三カ所とも陳留郡)
 祖逖軍は屡々出兵して後趙軍と戦った。すると、後趙の砦から逃げ出して祖逖軍へ帰順する兵卒が後を絶たなかった。こうして、後趙の国境での勢力が、次第に衰弱していった。

 さて、話は変わるが、趙固・上官巳・李矩・敦黙は、互いに攻撃しあっていた。祖逖はこれを和解させようと思い、使者を派遣して禍福を説いた。彼等は得心し、揃って祖逖の麾下へ入った。

 三年、七月。詔が降り、祖逖は鎮西将軍に昇進した。
 祖逖は、軍中にあっては将士と苦楽を共にし、農桑を奨励し、帰順した者は慰撫し、疎遠な者や賤しい者とでも誠意を以てつきあった。
 河上には、民が作った自衛団が沢山あった。もともと、彼等は後趙へ人質を送っていたのだが、こうなると、祖逖の許へも人質を送って来た。彼等は後趙の軍事機密なども密告してくれたので、祖逖は勝ち戦が多かった。こうして、黄河以南は、次第に後趙へ背いて晋へ帰順するようになったのである。

 祖逖は、兵を練り穀物を蓄えた。河北攻略の為である。後趙王の石勒にとって、これは頭痛の種だった。そこで、石勒は、幽州にある祖逖の墓を盛大に作り直し、墓守を置いて毎日整備させた。そして祖逖へ書を送ると、通商を求めた。祖逖は返書は送らなかったが、通商は認めた。この貿易によって、祖逖は十倍の利益を獲得できた。
 ここで、ちょっとした事件が起こった。祖逖の牙門の童建が、新蔡内史の周密を殺して、石勒の許へ降伏したのである。ところが、石勒は、童建を斬ると、その首級を祖逖のもとへ送ってきた。
「吾は、造反した臣下や罪人などを、深く憎む。吾へ対して悪逆を働こうが、将軍対してへ悪逆を働こうが、悪行は悪行だ。」
 これには、祖逖も感激した。
 これ以後、後趙から祖逖のもとへ逃げ込む者を、彼は受け入れなくなった。そして諸将にも、後趙の民へ乱暴を働くことを禁じた。こうして、領国の国境付近にも、安寧な日々が訪れた。

 四年、七月。尚書僕射の戴淵が征西将軍、都督司・兌(「亠/兌」)・豫・へい・よう・冀六州諸軍事、司州刺史に任命され、合肥の鎮守を命じられた。
 戴淵は、確かに呉では人望があり、才能もあったが、将来への広い展望がなかった。しかも、自分が苦労して河南の土地を経略したのに、後からノコノコ現れた男にその権限が委ねられ、自分は彼の下に甘んじなければならなくなったので、怏々として楽しまなかった。それに加えて、戴淵が赴任したのは北伐の為ではなく、王敦への牽制の為だと判り(詳細は「王敦の乱」に記載)、憤然としてしまった。
 逆徒を一掃する為に、君臣一丸となって戦わなければならない時に、宮廷内では二派に分かれて権力を争う。これでどうして戎狄を追い払うことができるだろうか!
 祖逖は、自分の悲願が所詮は夢物語だったと悟り、憤懣の挙げ句床に就いてしまった。
 九月。祖逖は、擁丘にて卒した。
 豫州の住民は、男も女も、まるで親と死別したかのように悲しみ、焦・梁地方には、沢山の祠が建てられた。
 王敦は、造反を考えてから久しかった。ただ、強大な兵力で河南に割拠した祖逖を憚っていたのだ。彼が死んだと聞き、忌憚が無くなった。

 十月。弟の祖約が平西将軍、豫州刺史に任命され、祖逖の部下を引き継いだ。だが、祖約は兄と違って部下を慰撫しなかったので、人心はだんだん離れていった。
 さて、李産は、彼等兄弟と同じ范陽の生まれだった。彼は戦乱の中で祖逖のもとへ疎開してきたが、祖約に造反の意志があることを看破した。そこで、彼は一族へ言った。
「北方は戦乱のまっただ中。だから、こんな所まで逃げてきたが、それは一族を守りたかったからだ。だが、今、祖約を見ると、造反を考えているようだ。これは身の振り方を早めに決めないと、不義の立場へ陥ってしまう。目先の利益を追っかけて、長久の策を忘れてはいけない。」
 そうして、子弟十余人と共に、故郷へ帰って行った。後、李産親子は慕容儁に仕える事となる。

 祖逖が死んだ後、後趙は屡々侵略するようになった。
 永昌元年(322年)、十月。後趙は襄城・城父の二県を抜いて焦を包囲した。豫州刺史祖約はこれを撃退できず、寿春まで退却した。後趙は遂に陳留を奪還し、梁・鄭辺りが、再び戦禍に見舞われることとなった。

 

(訳者曰)

 王船山(明時代の儒学者で、陽明学の大家。)がその著書「読通鑑論」で、祖逖について論じた文が二つあった。
 その一つでは彼が李頭を厚遇したことを、礼に背くと非難していた。
「李頭は陳川の部下なのだから、彼が優秀だと思ったら、彼を厚く遇するよう陳川に頼むのが筋道だ」と言うのである。

 道理で言えばその通りだ。しかし、なかなか難しいことで、現場にあったなら、それが悪いとも考えずに厚遇するのではあるまいか?
 これを現実に例えると、「他の部署の人間から仕事を手伝って貰った時、その部署の長は本人を褒めてはならない。あくまで、彼を褒めるよう彼の上司に頼まなければ組織が乱れる。」と言うことか。
 何ともまだるっこい話であり、これで組織が乱れたなら、部下に疑念を抱いた他部署の上司(祖逖の話では陳川)が一番屑だと判断するのが当然だろう。
 しかしながら、「まだるっこさをおして、李頭を厚遇するよう陳川に頼んだとしたら、筋道として正しいのだから、より素晴らしい行いだった」と言われたら、それはその通りだ。そして、そのように行動すれば祖逖の北伐はもっと成果が上がったに違いない。

 私は陳川を擁護しないし、祖逖を非難もしない。しかし、祖逖のその行動を惜しみはするのである。