楚の子文、成得臣を宰相とする。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の僖公の二十三年、楚の成得臣が、陳を討伐し、赫々たる戦果を挙げて帰国した。子文は、この功績によって、成得臣へ令尹(宰相)の位を与えた。
 子文は、長老達へ言った。
「私は、これで国を靖んじようと思っています。大功を建てながら高い位を与えられなければ、不満を持たずに済ませる者がどれだけ居るでしょうか。」 

 魯の宣公の十七年、晋侯が、卻克を使者として斉へ派遣した。卻克は、びっこだった。斉侯は、側室の女性達を帳の後ろに隠してその姿をのぞき見させたところ、女性達は大笑いしたので、卻克は激怒して退出した。
 帰国した卻克は、斉を討伐するよう晋侯へ願ったが、却下された。そこで、手勢だけでも率いて斉を攻撃したいと申し出たが、これも許されなかった。
 この頃、晋の范武子は隠居しようと考えていたので、息子へ言った。
「『喜びや怒りを巧く使う人間は少なく、大抵の人間は、喜怒に突き動かされる』と聞いたことがある。詩にも言うではないか。『君子が怒れば乱世は忽ち収まり、君子が恵んでも乱世は忽ち収まる。』と。喜怒を正しく用いれば、世の中の乱れを糺すことができるのだ。だが、下手な怒りは、世の中を益々混乱させる。卻克は斉へ対して復讐しようと躍起になっているが、これを遂げさせないと、国内でどんな八つ当たりをするか判らない。ちょうど、わしも隠居しようと思っていたところだ。お前は卻克に好きなようにやらせて、奴の怒りを消してくれ。」
 そして范武子は隠居し、卻克は執政となった。
 三年後、晋は多くの与国を率いて、斉と戦った。(鞍の役) 

  

(東莱博議) 

 欲望とゆうものは、限りなく多く、とても満たすことはできない。憤怒とゆうものは、鋭くすれば極めようがない。だから、欲望に対処する時には、これを塞ぐべきであって、限りなく求めて行くものではない。憤怒へ対するには、押さえ込むべきであって放埒に従うべきではない。自分が対処する時にそうするだけではなく、他人へ対しても、そうさせるように務めるべきである。
 ところが、ある者は言った。
「飢える者は、腹一杯食べたら満足するし、喉の渇いた者は水を飲んだら満足する。寒がっている者は着物を着れば満足するし、暑がっている者は水を浴びれば満足する。それと同様に、欲望を持った時は満たしてやればよいし、憤怒を持った時は、復讐させてやればそれで終わるではないか。そりゃ、自分の欲望は塞ぐべきであり、憤怒は押さえ込むべきかも知れないが、他人の欲望や憤怒は、多少の事で済むのならば叶えてやっても良いではないか。」
 ああ、この理論は欲望や憤怒へ対する理屈ではない。
 憤欲というものは、例えてみるなら火のようなものだ。火が怒るのを恐れて、その機嫌を取ろうと薪を与えてやったなら、ますます盛んに燃え上がってしまうではないか。憤欲というものは、例えてみるなら盗賊のようなものだ。盗賊を恐れて、彼の機嫌を取ろうと刃物を渡せば、却って被害が大きくなってしまう。薪は火を助け、刃物は盗賊を助け、権力は憤欲を助ける。これを助長させるものを与えて、これを鎮めようとする。こんな理が、どうして天下に通用するだろうか。 

 昔の聖王は権位を尊んて、天下へ示した。それは万世に亘る確固たる堤防を築こうと思ってのことである。
 人間、誰しも欲がある。誰しも憤怒がある。だが、憤欲が起こったところで、権力も地位もなければ、できることが限られて恣にすることができない。
 足を進めようとして踏みとどまり、手を挙げようとして押しとどめ、言葉に出そうとして呑み込み、その想いが生まれる端からもみ消して行く。限りなき貪欲や煽りたつ憤怒があっても、社会に横たわる権位に阻まれて、思いとどまってしまう。そして、思いとどまれば善に赴く者もいるのである。
 天下の人々が、挙って憤怒へ駆け込み、善へ還る事を知らなかったとしよう。だが、それでも聖王は彼等と争ったりはしない。ただ、権位の巨防を厳格にするだけだ。そうやって、憤怒する者から能力を取り上げ、手を下せないようにするのである。
 意趣返しをしたくてたまらないのに、できない。苦しんでいるうちに気は衰え力は怠り、道は窮して手段もなく、一人悄然と嘆息するしかなくなってしまう。このような場合、聖王は彼を善へ趨かせることができなかったのだが、彼自身、自ら善へ赴く以外方法がなかったのである。
 こう考えるならば、権位とゆうものは、まさしく憤欲を閉じる為に聖王が築き上げた堤防である。だが、その聖王が築き上げた堤防を、後の人間は憤欲を遂げるための資としてしまった。なんと相反することだろうか。 

 楚の成得臣が、陳を討伐し、赫々たる戦果を挙げて帰国した。子文は、この功績によって、成得臣へ令尹(宰相)の位を与えた。そうやって、彼の欲を塞ごうと思ったのだ。
 斉侯が晋の卻克を辱めた時、晋の范武子は隠居を申し出て、政権を卻克へ譲った。そして、卻克の斉へ対する怨みを遂げさせて、憤怒をなくそうとしたのである。
 ああ、令尹とゆう位が、どうして功績を賞する為の物だろうか。そして、晋数百年の社稷は、たかが二・三人の臣下の遺憾を逞しくさせる為の道具に過ぎないと言うのか!
 楚には、二人の令尹はいない。功績を建てた人間が成得臣ただ一人だけだったのは幸いだった。もしも数人の人間が大功を建てていたなら、子文は彼等へ一体何を与えたのか? 春秋の歴史を紐解くならば、大勢の人間が、他国から辱めを受けてきた。晋だけに的を絞って述べてみても、解楊が鄭に捕らえられ(宣公十五年)、韓起・羊舌キツが楚に挫かれた(昭公五年)ような事例が、卻克の事件と同時に起こったならば、晋の軍団は車を疲弊させ馬に汗かかせて西へ馳せ東へ逐い、天下あまねく駆け巡り、全ての臣下の恨みへ復讐して回ってから、ようやく矛を収めるつもりか?
 全く、子文や武子は考えが足りないにも程が在るぞ! 

 欲望を満たさせようとして却ってその欲を膨らませ、憤怒を散らさせようとして却ってその憤怒を張らせる。
 成得臣の欲望は位が上がると共に膨らんだ。彼は飽くことなく出陣し、陳を討ち、蔡を討ち、魯を討ち、鄭を討ち、衛を討ち、勝利を嗜んで止まない。そうやって貪り続けて大敵に遭い、城濮の戦役で敗北するに及んで、楚の軍団は壊滅し、己も命を落として天下の笑い物となったのである。もしも子文が彼に大権を与えなかったなら、成得臣が驕慢を遂げられずに怨望したとしても、単に刑罰の刀鋸を煩わすだけで済んだのである。楚の国威が失墜するまでには至らなかった。晋の文公に覇者の地位を独占されたりはしなかっただろう。城濮に従軍した西廣東宮若ゴウの兵卒達も、戦死しないで済んだのである。
 卻克の起こした鞍の戦役は、幸いにも戦勝したが、彼は怒りに任せて後難を思わず、斉侯の母親を人質に取ろうとまで言い出した。もしも魯や衛の諫めがなければ、戦勝で驕慢になった晋軍が、激怒した斉軍と再戦することになったのだ。一体どちらが勝っただろうか?そうやって敗北してしまったなら、その戦端を開いたのは范武子である。咎めを受けることになってしまうぞ。
 成得臣の欲望は、子文の地位を得て盛んになり、卻克の憤怒は武子の地位を得て伸びた。
 君子は他人の憤欲を見た時、救うことができなければ、力尽くで止めさせるものだ。なんで彼等へ力を貸してその悪を成就させてやったりするだろうか! 

 私はかつて、二人の言葉を味わってみた。
 武子は、「乱を止むる」の詩を誦したが、その意味を取り違えていた。これはまだ、深く責める事ではない。だが、子文が叔伯へ語った言葉は、何と過ちの甚だしいことか!
 曰く、
「私は、これで国を靖んじようと思っています。大功を建てながら貴任がなければ、不満を持たずに済ます者がどれだけ居るでしょうか。」と。
 だが、功績を建てた全ての人間へ悉く与えられる程、たくさんの爵位が存在するものではない。報酬に不満を持つ者は大勢いるものである。しかし、彼等全てが、不満に任せてたちまち動乱を起こし国を覆してしまおうと考えるとでも言うのか?そんな人間など、盗賊小人以外に居るわけがない。子文のこの言葉は、臣下全員を盗賊小人扱いしているものだ。
 子文がこんな事を言ったものだから、臣下が大功を建ててた時、主君は彼等が不満を持つのではないかと恐れ、却って屠戮を加えるようになってしまった。これは、「功績が我が身を殺す」と言うものである。
 何とか、臣下が満足する地位を与えられたとしてみよう。だが、これこれの功績を建てたからこれだけの地位を与えると言うのでは、その地位に相応しい人材であるかどうかは考えないことになる。無能な人間に上に居られては、その下の人間が苦しむだけだ。これは、「功績が地位を汚す」と言うものである。
 逆に、臣下の立場になって考えてみよう。既に大功を建てた人間は、自ら思うだろう。
”造反を疑われる立場になってしまった。”と。
 こうして、姦謀が生まれるのだ。これは、「功績が国を滅ぼす」と言うものである。
 一たび大功を建てれば、それは身の不幸、位の不幸、国の不幸である。そうなってしまうと、一体誰が大功を建てようと奮起したりするだろうか!
 詩に曰わく、
「誰が禍のきざはしを生んだ?今になっても、皆が苦しんでいる。」
 これこそ、子文の言葉に相応しい。 

  

(訳者、曰く) 

 この論文の前半は、「権位」を「法律」と言い換えても、意味が通る。
「欲しいものがあっても、他人のものを盗んだら法律で処罰されるから我慢する。他人を怨んでも、勝手に相手を傷つければ法律で処罰されるから、我慢する。」と。
 もし、「聖人が、憤欲を押さえつける堤防として法律を作り、これを厳格に守った。」と表現した場合、まっさきに思い出すのは、戦国末期の秦である。
 ここは、商鞅の法家思想によって、法治国家となり、結局、「私闘をすれば法律で罰され、戦争で手柄を建てれば法律で賞されるから、人々は、私憤で争うことには臆病になり、国家の為の戦闘では勇敢になった。」とゆう事になった。これこそ、本文で言うところの、「聖王は彼を善へ趨かせることができなかったのだが、彼自身、自ら善へ赴く以外方法がなかった」とゆうことではないか?
 その証拠に、後に、欧陽春も言っている。
「君子は信義を重んじているから馬鹿な真似をしないし、小人は法律に掣肘されて馬鹿な真似を我慢する。」(縦囚論)と。
 皆が、憤欲を恣にしてしまえば、社会は無法地帯となる。(盗みや殺人が日常茶飯事行われている社会を想像すれば、明白だろう。)だから、儒教では仁恕を旨とし、法家では、厳格な法律を提唱した。だが、仁恕の通じない小人もいる。そのような手合いを対象として論を立てた場合、朱子学者の呂東莱でも、その趣旨が法家思想に似てくるのは当然だろう。
 私から見れば、「変に意地を張らずに、あっさり『法律』と書いてしまえば理解しやすいのに。」と思ってしまうが、やはり朱子学者だった為、法家を蔑視してか「権位」とゆう言葉を使っている。まあ、その後の論との絡みもあるのかも知れないが。(ここを「法律」と変えてしまえば、権位のある人間は、法律を超越できるとゆう一面が露わになってしまう。かなり怖いけど、これは中国社会の現実かな?・・・・・やはり、私達には、法律絶対主義の方がしっくりくるようです。) 

 論文の後半については、深く考えた。
「功績を建てることが、身の不幸、社会の不幸、国の不幸」とゆうのは、中国史全般を通じて嫌になるほど思い知らされる現実です。これは、「臣下全員を盗賊小人扱いしている」から起こったことか?
 私は、実にその通りだと感動しました!
 中国の皇帝は、臣下達を盗賊小人扱いしている!だから、臣下が功績を建てたことが、身の不幸、社会の不幸、国の不幸となってしまうのだ!
 してみると、子文の言葉は正鵠を得ている。その実体を是認したこの言葉は、中国四千年の歴史を穢す通弊を表現したものである。
 だが、彼がもしもこの台詞を口にしなければ、中国史は全く変わったものになったのか?と考えれば、絶対にそうは思えない。この言葉は、ただ単に、心の中にわだかまっている想いを的確に表現しただけで、もしもこの言葉が遺されなくても、君主達はその想いを表現できないままに、同じ事を行ったとしか思えない。
 権力の座は、甘く、魅力的である。一度そこに座ったら、ただ、恐々として失う事のみを恐れる。その想いこそ、盗賊小人の想いである。歴代の皇帝達は、その想いで臣下達を見てしまったに違いない。
 非難すべき、そして戒めるべきはこの言葉ではない。主君達の胸の中に芽生えた盗賊小人の想いなのだ。