隋の大業元年(605年)、契丹が営州へ来寇した。
 通事謁者韋雲起へ、突厥と共にこれを攻撃するよう命じる。啓民可汗は二万騎を動員した。
 韋雲起は全軍を二十に分けて四道から進軍した。各陣営は、それぞれ一里離れていたので通信ができなかった。そこで、太鼓が聞こえたら進み、角笛が聞こえたら止まり、公使でなければ馬を走らせてはならない、と取り決めた。ある乞(「糸/乞」)干(突厥の官位名。下士官くらいに相当するか?)が規約を破ったので、首を斬って全軍へ示した。おかげで突厥の将帥は韋雲起へ入謁する時、膝行して進み、敢えて仰ぎ見る者は居なくなった。
 もともと契丹は、突厥に臣従しており、両者の関係はおおむね良好だった。突厥達は、契丹の領域へ入ると、「柳城へ高麗と交易に行く。」と吹聴した。これはもちろん、韋雲起の命令である。韋雲起は、「真実を告げる者は斬る」と厳命したのだ。
 こうして、契丹が防備をしない間に、その本陣の五十里ちかくまで接近した。そこから契丹を急襲し、男女四万人を捕らえた。男達は皆殺しとし、女子供と畜産の半分は突厥へ賜下し、残りを戦果に凱旋した。
 煬帝は大いに喜び、百官を集めて言った。
「韋雲起は突厥を使って契丹を討った。その才覚は文武を兼ねている。」
 そして、治書侍御史に抜擢した。

 唐の武徳五年(622年)十月、契丹が北平へ来寇した。

 乞(「糸/乞」)主の曲據は衆を率いて唐へ帰順していた。その土地は玄州となり、曲據は刺史となって営州都督へ隷属していたのだが、貞観二十二年(648年)四月己未、契丹が、この事で曲據を侮辱した。

 十一月、庚子。契丹の帥窟哥と奚の帥可度者が、部族を率いて帰順した。契丹部を松漠府として窟哥を都督とする。又、その別帥達稽等の部を肖(「山/肖」)落等九州とし、おのおのその辱乞(「糸/乞」)主を刺史とした。
 奚部を饒楽府とし、可度者を都督とする。又、その別帥阿會等の部を弱水等五州とし、おのおのその辱乞主を刺史とした。
 辛丑、営州に東夷校尉の官を設置した。

 顕慶五年(660)五月戊辰、定襄都督阿史那徳賓、左武候将軍延陀梯眞、居延州都督李合珠を共に冷并(「山/并」)道行軍総管として、各々手勢を率いて叛奚を討伐させた。併せて、尚書右丞崔餘慶へ三部の兵を束ねさせた。やがて奚は使者を派遣して降伏した。
 更に、樞賓等を沙磚道行軍総管とし、契丹を討伐させた。契丹の松漠都督阿卜固を捕らえて東都へ送る。

 延載元年(694年)臘月、室韋が造反した。(胡三省注、室韋は契丹の一族である。南に住む者を契丹、北に住む者を室韋と言う)右鷹揚衞大将軍李多祚を派遣し、これを撃破する。

 萬歳通天元年(696)五月壬子、営州契丹松漠都督李盡忠と帰誠州刺史孫萬栄が、挙兵して造反した。営州を攻撃して、都督の趙文歳(「歳/羽」)を殺す。
 盡忠は、萬栄の妹の夫である。二人とも、営州城の側に住んでいた。
 文歳は強情で気まま、契丹が餓えても賑給を加えず、酋長を奴僕のように扱っていた。だから、二人は怨んで造反したのだ。
 乙丑、左鷹揚衞将軍曹仁師、左金吾衞大将軍張玄邁、左威衞大将軍李多祚、司農少卿麻仁節等二十八将へこれを討たせた。
 七月辛亥、春官尚書梁王武三思を楡関道安撫大使とし、姚壽を副官にして契丹へ備えさせる。
 李盡忠を李盡滅、孫萬栄を孫萬斬と改名する。
 盡忠は、無上可汗と自称して、営州を占拠した。萬栄を前鋒として、近隣を攻略させる。向かう所は次々と降伏し、旬日で兵力は数万になった。更に進軍して檀州を包囲したが、清辺前軍副総管張九節がこれを撃退する。
 八月、夾(「石/夾」)石谷にて、曹仁師、張玄邁、麻仁節が契丹と戦った。
 話は遡るが、契丹が営州を破った時、唐兵を数百人捕らえ、これを地下牢へぶちこんでいた。唐軍が進攻してくると聞くと、守牢の習(「雨/習」)へ愚痴をこぼさせた。
「我等の家族は飢えと寒さで死にそうだ。官軍がくるのを待って降伏するだけだ。」
 やがて、契丹は捕虜を引きだし、糠の粥を食べさせて慰労して言った。
「お前達を養おうにも、食糧がない。さりとて、汝等を殺すにも忍びない。今、解き放ってやるから、そうそうに立ち去れ。」
 そして、彼等を釈放した。
 捕虜達は幽州へ着くと、その有様を具に語った。それを聞いた諸軍は、先を争って進軍した。
 廣鹿(「鹿/章」)谷で、虜は、老弱を派遣して唐軍を迎え入れ、降伏させた。また、老牛や痩馬を道端へ故意に放置した。
 敵の窮状を喜んだ仁師等三軍は、歩兵を捨て、騎兵のみで先へ進む。そこへ、契丹の伏兵が横合いから攻撃した。彼等は飛索で玄邁、仁節を絡め取って生け捕りとする。戦死した唐の将兵は山谷を埋め、脱出できた者はほとんどいなかった。
 この戦いで、契丹は軍印を得た。そこで彼等は牒を偽造し、玄邁等に署名させた。その牒は、総管の燕匪石、宗懐昌等へ伝えた。
「官軍が賊を破った後に営州へ到着した者は、軍将ならば斬り、兵なら叙勲しない。」
 匪石等は牒を得ると、寝食も取らずに営州へ駆けつけた。士も馬も疲弊した所を、中途で契丹軍の伏兵が襲撃したので、唐軍は全軍が潰滅した。
 九月、制が降りた。
「天下の囚人や庶士の家奴で驍勇な者がいれば、官が買い取り、これを徴発して契丹を撃つ。」
 また、山東近辺の諸州に初めて武騎団兵を設置した。同州刺史建安王武攸宜を右武威衞大将軍、充清辺道行軍大総管として、契丹を討たせた。
 右捨遣陳子昴を攸宜府参謀とする。彼は上疏した。
「天下の罪人を赦免し、諸々の奴を募って兵卒に充て契丹を討撃するとの制が降りましたが、これは勝利を急ぐ計略で、天子の兵ではありません。それに、この頃は刑獄が平穏で罪人は少なく、奴隷の多くは怯弱で戦争に慣れておりません。喩え彼等を募集しても、使い物になりません。ましてや今、天下の忠臣義士は万分の一も使ってはいないのです。契丹など小敵。わが国の命令に手を拱いて従うことしかできない相手です。なんで罪を赦免し奴隷を贖うような真似をして、国の大礼を損ないますのか!この策は、天下へ示してはならないと、臣は愚考いたします。」
 同月、突厥の黙啜が太后の子となることを請い、併せてその娘へ婚礼を求め、河西を挙げて降伏し、その部衆を率いて御国の為に契丹を討伐することを申し出た。
 太后は、豹トウ衞大将軍閻知微、左衞郎将摂司賓卿田帰道を派遣して黙啜へ左衞大将軍、遷善可汗の冊を授けた。知微は立徳の孫、帰道は仁會の子息である。
 十月辛卯、契丹の李盡忠が卒し、孫萬栄が代わって部下を統率した。突厥の黙啜は、その隙に乗じて松漠を襲撃し、盡忠と萬栄の妻子を捕らえて去る。太后は、黙啜の称号を進めて頡跌利施大単于、立功報国可汗とした。
 孫萬栄は、敗残兵をかき集め、契丹の国力は再び強くなった。別働隊の駱務整、何阿小を前鋒とし、冀州を攻め落とす。刺史の陸寶積を殺し、吏民数千人を屠る。又、瀛州を攻撃したので、河北は震駭した。
 太后は制を降ろして彭澤令狄仁傑を魏州刺史に起用した。前の刺史独孤思荘は契丹が攻めて来ることを畏れ、百姓を全員城内へ駆り立てて、守備を修めていた。だが、仁傑が赴任するや、彼等を全て農業へ戻して、言った。
「賊は、まだ遠くにいる。何で民をここまで患わせるのか!万一賊が来たら、吾が自らこれに当たる。」
 百姓は大いに悦んだ。
 この時、契丹の来寇に際して、軍書が山と積まれた。夏官郎中の夾(「石/夾」)石の姚元祟は、流れるように分析し、それが皆、条理に適っていた。太后はこれを奇才として、夏官侍郎とした。
 神功元年(697)三月。東夾谷にて、清辺道総管王孝傑と蘇宏暉等将兵十七万人が孫萬栄と遭遇し、戦った。
 孝傑が力戦すると契丹は退却したので、これを追撃する。そのうちに、崖へ出てしまった。契丹軍は迂回して逆襲した。宏暉は逃げ去り、孝傑は崖から墜落して死んだ。唐軍は大敗し、将士もほとんど戦死する。
 管記の洛陽の張説が早馬で報告した。太后は、孝傑へ官爵を贈った。また、宏暉はこの責任で斬り捨てるよう命じて使者を派遣したが、その使者が到着する前に、宏暉は功績を建てて罪を免除された。
 武攸宜は漁陽へ陣取っていた。そこへ孝傑の敗戦が報告されたので、軍中はびびってしまって進軍しようとしなかった。契丹は勝ちに乗じて幽州へ来寇し、城邑を攻め落とし、吏民を掠殺した。攸宜は将を派遣して攻撃したが、勝てなかった。
 四月癸未、右金吾衞大将軍武懿宗を神兵道行軍大総管として、右豹トウ衞将軍何迦密と共に兵を与えて契丹を攻撃させた。
 五月、癸卯、また、婁師徳を清辺道副大総管、右武威衞将軍沙託(ほんとうは口偏)忠義を前軍総管として、二十万の兵を与えて契丹を攻撃させた。
 武懿宗の軍が趙州へ到着した時、契丹の将駱務整が数千騎を率いて冀州へ迫っているとの報告を受けた。懿宗は懼れ、南へ逃げたがった。すると、ある者が言った。
「虜には輜重がなく、道々掠奪をして軍資に充てています。兵を揃えて拒守したなら、奴等は必ず散り散りになりますので、そこへ突撃すれば、大功を挙げられます。」
 懿宗は従わず、撤退して相州へ據った。夥しい軍資器杖を捨てて行く。
 契丹は、遂に趙州を屠った。
 孫萬栄は、王孝傑を破ると柳城の西北四百里に険阻な地形を利用して城を築いた。そして老弱婦女や捕獲した器杖資財を城内へ留め、妹婿の乙冤羽にこれを守らせ、自身は精兵を率いて幽州へ入寇した。
 この時、突厥の黙啜が背後を襲撃することを恐れ、五人の使者を黒沙へ派遣して、黙啜へ言った。
「我は既に王孝傑の百万の軍を撃破し、唐人の肝を潰した。この好機に乗じて、可汗と共に幽州を奪いたいのだ。」
 使者は、三人が先行した。黙啜はこの話に大喜びで彼等へ緋袍を賜った。
 残る二人が遅れて到着すると、黙啜は彼等が遅かったのを怒り殺そうとしたので、二人は言った。
「死ぬ前に、一言言わせて下さい。」
 黙啜が聞いてやると、彼等は契丹が背後からの襲撃を恐れているとゆう実情を話した。黙啜は前の三人を殺し、彼等へ与えた緋袍は二人へ賜下して、道案内とした。
 こうして突厥は兵を発した。契丹の新城を取り、捕虜とした涼州都督許欽明を殺して天を祭る。そのまま新しく築いた城を包囲し、三日で陥す。捕虜は全て帰国させた。また、乙冤羽は使者として、これを萬栄へ報告させた。
 この時、萬栄は唐軍と対峙していた。軍中はこの知らせを聞いて大いに動揺した。奚人は、萬栄へ叛く。神兵道総管楊玄基が契丹の前軍を襲撃し、奚軍は背後を撃つ。こうして契丹の将何阿小を捕らえた。
 萬栄軍は大いに潰れ、軽騎数千で東へ逃げた。そこを、前軍総管張九節が道にて襲撃した。萬栄は切羽詰まり、その奴隷と共に路(「水/路」)水の東まで逃げた。林の下で休息し、嘆いて言う。
「今、唐へ帰順したいが、罪は既に大きい。突厥へ行っても殺され、新羅へ行っても殺される。どうすれば良いか!」
 六月甲午、奴隷は萬栄の首を斬って降伏した。
 萬栄の首は四方館門へ梟された。その余衆や奚、習(「雨/習」)は皆、突厥へ降伏した。
 辛卯、契丹が平定したばかりなので、河内王武懿宗、婁師徳及び魏州刺史狄仁傑へ、道を分けて河北を安撫するよう制が降りた。
 懿宗は、とても残酷だった。契丹に脅迫されて従っていた民が帰順してきたが、懿宗は、皆、反逆者と見なして生きたまま彼等の肝を剔り取った。以前、何阿小は殺人が好きだったので、河北の人々は言い合った。
「二人の何は、大勢の人を殺す。」(懿宗は河内王で、発音が「何」と似ている)
 七月庚午、武攸宜が幽州から凱旋した。
 武懿宗が、「賊に従った河内の百姓は、悉く一族誅殺にしましょう。」と奏上した。すると左捨遣王求禮が庭で反駁した。
「彼等は元々軍備を持ってなかった。武力では賊に勝てないので、生き延びる為に一時服従しただけです。どうして叛国の心がありましょうか!懿宗は数十万の強兵を擁しながら風を望んで撤退し、賊徒を勢いづかせました。その上、罪を草野の庶民達へ押しつけようとしています。臣に言わせれば不忠です。まず懿宗を斬って、河北の民へ謝ってください!」
 懿宗は反駁できなかった。
 司刑卿の杜景倹も上奏した。
「彼等は皆、脅されただけです。どうか赦してやってください。」
 太后は、これに従った。

 契丹の将李楷固は、 索・騎射・槊が巧く、敵陣へ突入した時は、まるで烏の群の中で暴れ回る隼のようで、誰もがなぎ倒された。黄鹿(「鹿/章」)の戦役では、張玄遇も麻仁節も彼にしてやられた。又、駱務整もまた契丹で将となり、しばしば唐軍を破った。
 孫萬栄が死ぬと、二人とも来降した。役人は、彼等の降伏が遅すぎたことを責め、一族殲滅を請うた。すると、狄仁傑が言った。
楷固等は驍勇絶倫。そのうえ主人には力を尽くして仕えました。ですから、我等の為にも、必ず力を尽くしてくれます。もしも彼等を徳で慰撫すれば、我等の役に立ちます。」
 そして、彼等を赦すよう上奏した。
 狄仁傑と親しい者は、皆、これを止めたけれども、仁傑は言った。
「いやしくも国に利益があるのなら、なんでわが身を顧みようか!」
 太后は、彼の意見を容れ、彼等を赦した。
 又、彼等へ官位を与えるよう請うと、太后は楷固を左玉今衞将軍、務整を右武威衞将軍に任命した。彼等へ契丹の残党を攻撃させ、悉く平定した。
 久視元年(700年)七月。契丹の捕虜を含枢殿にて献上する。
 太后は、李楷固を左玉今衞大将軍、燕国公として、武氏の姓を賜下した。公卿を召集して宴会を開き、狄仁傑へ杯を挙げて言った。
「公の功績じゃ。」
 これを賞しようとしたが、仁傑は言った。
「これは陛下の威霊と、将帥が力を尽くしたおかげです。臣に何の功績がありましょうか!」
 賞を固辞して、受けなかった。

 

 趙文歳の失政以来の動乱により、幽州の東の漁陽城が唐と契丹との境界となった。

 

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