前趙、秦隴を平定す。

 

 懐帝の永嘉元年(308年)、三月。晋朝廷は、南陽王模を征西大将軍、都督秦・よう・梁・益四州諸軍事とし、長安を任せた。
 やがて、関中は飢饉や疫病が流行り、盗賊が横行した。司馬模はこれを鎮圧できなかったので、太傅の司馬越(八王の一人で、この時の権力者)は、司馬模では長安を任せられないと見限った。

 五年、司馬越は、司馬模を呼び戻して司空に任命すると発表した。
 すると、将軍の淳于定は、この召還令に応じないよう司馬模へ吹き込み、司馬模はこれに従った。そして、世継ぎの司馬保を平西中郎蒋として上圭(正しくは「圭/里」)の鎮守とさせるよう上表したが、秦州刺史の裴苞がこれを拒んだ。そこで、司馬模は帳下都尉の陳安を差し向けてこれを攻撃した。
 裴苞は敗北して安定へ逃げ、安定太守の賈足がこれを受け入れた。

 七月、司馬模は牙門の趙染に蒲坂守備を命じた。趙染は馮翊太守を求めたが、司馬模はこれを拒んだので、彼は腹を立て、部下を率いて漢へ降伏した。漢の主君劉聡は、趙染を平西将軍に任命した。
 八月、劉聡は趙染と安西将軍劉雅に二万の兵卒を与えて司馬模を攻撃させた。河内王の劉燦(劉曜の嫡男)と、始安王の劉曜が大軍を率いて後詰めとなった。
 潼関の戦いで、趙染は司馬模を撃破し、長躯下圭まで進軍した。涼州の将北宮純は長安から部下を率いて漢へ降伏した。
 漢の軍団は長安を包囲した。司馬模は淳于定に出撃させたが、撃退された。そうこうするうち、司馬模の兵糧が底を尽き、士卒は離散。司馬模は遂に漢へ降伏した。
 趙染は司馬模を劉燦のもとへ送った。
 九月、劉燦は司馬模を殺した。
 この頃、関西は飢饉で、白骨が野原を覆い、生き延びた庶民は百人に一・二人とゆう有様だったのだ。
 劉聡は、劉曜を車騎大将軍、よう州牧として中山王に封じ、長安の鎮守を命じた。又、王彌を大将軍として、斉公に封じた。

 司馬模が死んだ後、息子の司馬保が南陽王を襲爵したが、愍帝の建興三年(315年)、2月。司馬保が相国となった。
 司馬保は陳安に千余人の兵卒を与えて造反したきょう族を討伐させた。
 司馬保の陳安への寵愛は極めて厚かったので、司馬保麾下の将張春から嫉妬された。張春は、陳安に謀反の心があると讒言したが、司馬保は聞き流した。
 遂に、張春は刺客を放って陳安を襲わせた。陳安は傷を負ったが、どうにか隴城へ逃げ込むことができた。

 元帝の大興元年(318年)、三月。焦嵩と陳安が挙兵して上圭へ迫った。
 司馬保は、張寔のもとへ急を告げた。張寔は金城太守の竇濤に二万の兵を与えて派遣した。
 ところが、この軍が新陽まで来た時、愍帝の崩御と、司馬保の帝号潜称の野望が判明した。そこで、破きょう都尉の張先が張寔へ言った。
「南陽王は皇族としては傍流のくせに、君父が全て賊に殺されたとゆう大いなる恥辱を忘れ、欲に駆られて皇帝位へ即くことを考えております。必ず失敗するでしょう。それに対して、琅邪王は嫡流に近く、人格者だと評判です。いずれ、天下はこのお方のものとなるでしょう。」
 張寔はこれに従い、牙門の蔡忠を建康へ派遣して、ご機嫌を窺った。
 この頃、琅邪王は既に即位していた(元帝)。しかし、張寔は江東の年号を用いず、建興の年号を継続した。

 二年、四月。南陽王保は、晋王と自称した。建康と改元して百官を設置し、張寔を征西大将軍、開府、儀同三司とした。
 陳安は秦州刺史と自称して、漢へ帰順し、その後、成へ帰順した。
 この年、上圭は大飢饉で、庶民達は困窮していた。陳安の軍は迫っているが、これでは戦いにならないので、張春は司馬保を奉じて南安の祁山へ移住した。張寔は韓璞へ五千の兵を与えて派遣し、司馬保を救援した。陳安が綿諸まで退いたので、司馬保は上圭へ戻った。
 すると、幾ばくも経たないうちに陳安が再び来寇した。そこで、張寔は宋毅を派遣して救援した。陳安は再び退却した。

 十二月、屠各の路松多が起兵し、新平、扶風の領土ごと司馬保へ帰順した。司馬保は、楊曼・王連に陳倉を、張豈・周庸に陰密を、路松多に草壁を押さえさせたので、秦・隴のてい・きょうが大勢呼応した。
 趙帝の劉曜は、諸将にこれを攻撃させた。しかし勝てなかったので、遂に自ら出陣した。
 三年、正月。劉曜が陳倉を攻撃した。王連は戦死。楊曼は南ていへ逃げた。
 劉曜は更に進撃して草壁を抜き、路松多は隴城へ逃げた。
 司馬保は懼れ、桑城へ移住した。
 張春は司馬保を奉じて涼州へ逃げようと謀った。張春は麾下の将軍陰監を派遣して将兵を迎え入れ、上辺は護衛すると唱えながら、実際は受け入れを拒絶した。

 閏三月。張春と楊次は別将の楊謄と仲違いした。そこで張春は、楊謄を誅殺するように司馬保へ勧め、又、陳安攻撃を請うた。司馬保は二つとも却下したので、張春と楊次は共謀して司馬保を監禁し、殺した。
 司馬保は肥満体で、その体重は八百斤。寝ることと読書が好きだったが、優柔不断な男だった。それ故、このような末路を辿った。
 司馬保には子供がなかったので、張春は宗室から司馬瞻を選んで世子とし、大将軍と称した。
 これによって、司馬保の大勢の部下が四散し、万余人が涼州へ逃げ込んだ。
 陳安は、劉曜へ司馬瞻攻撃を勧めた。劉曜は陳安を大将軍として司馬瞻を攻撃させ、これを殺した。
 張春は包干へ逃げた。陳安は楊次を捕らえ、司馬保の棺の前で斬り、司馬保を祀った。
 陳安は、上圭にて、司馬保を天子の礼で葬った。諡は元王。

 永昌元年(322年)、二月。劉曜は親征して楊難敵を攻撃した。楊難敵は迎撃したが破れ、退却して仇池に籠もった。
 仇池の諸てい・きょう及び司馬保の宿将楊謄や隴西太守梁員は、劉曜へ降伏した。劉曜は隴西の一万余世帯を長安へ移住させ、更に仇池を攻撃した。
 ところが、対峙している最中、軍中へ疫病が流行った。劉曜も又被病したので、退却を決意する。しかし、退却中追撃されたらたまらない。そこで、光國郎将王廣を派遣し、楊難敵に禍福を説き、帰順を勧めた。楊難敵が趙の藩塀となることを承諾したので、劉曜は、”仮黄鉞、都督益・寧・南秦・涼・梁・巴六州・隴上、西域諸軍事、上大将軍、益・寧・南秦三州牧、武都王”の称号を与えた。
 さてこの時、秦州刺史陳安は、劉曜へご機嫌伺いに出かけたが、劉曜は病気を理由に謁見を拒絶した。陳安は怒り、劉曜は病死したと言い立てて、略奪して帰った。
 この時、劉曜の病はかなり重症で、馬輿に乗って帰る程だった。趙軍では、呼延寔を殿として、輜重を守らせていたが、陳安はこれを攻撃して略奪し、呼延寔へ言った。
「劉曜は既に死んだのだ。お前は誰に仕えるつもりか?俺とお前で国を興そうじゃないか。」
 すると、呼延寔は怒鳴った。
「お前は既に寵を受けながら、たちまち造反するような男だ。自分の能力を顧みて、王となれる器量と思うのか?俺の見立てでは、お前など数日のうちにさらし首となるだろうよ。国を興すなど片腹痛い!つべこべ言わずにサッサと殺せ!」
 陳安は怒ってこれを殺し、呼延寔の長史の魯憑を参軍とした。
 更に、陳安は、弟の陳集に三万の兵を与え、劉曜を追撃させた。しかし、趙の衛将軍呼延瑜が迎撃してこれを斬り殺した。

 上圭へ帰った陳安は、一軍を派遣して開城を攻撃し、これを抜いた。これによって、隴上のてい・きょうは皆、陳安へ帰順した。その手勢は十余万。かくして、陳安は「大都督、よう・秦・涼・梁四州牧、涼王」と自称し、趙寡を相国に任命した。
 魯憑は陳安の前で慟哭した。
「私は、貴方が死ぬところを見たくありません!」
 陳安は怒った。
「こいつを斬れ。」
「ここで死ぬのは私の本分。しかし、我が頭は上圭市の城門へ懸けてください。趙が陳安を斬るところを観る為に!」
 遂に、魯憑は処刑された。
 この話を聞いて、劉曜は慟哭した。
「賢人は衆望を集める。陳安は賢人を求めなければ行けない時なのに、却って多くの賢人を殺している。そんな男には何もできんよ。」

 休屠王の石武が、趙へ降伏した。趙は、石武を秦州刺史として、酒泉王に封じた。

 明帝の太寧元年(323年)、六月。陳安は、前趙の征西将軍劉貢を南安で包囲した。休屠王の石武が桑城から上圭へ赴き、劉貢と合流して陳安を攻撃して大いにうち破った。
 陳安は敗残兵八千騎をかき集めて隴城へ逃げた。
 七月、劉曜は自ら出撃し、隴城を包囲した。又、別働隊には上圭を包囲させた。陳安は出撃したが敗北してしまった。
 趙の右将軍劉幹は平襄を攻め、これを破る。隴上の諸県は、悉く趙へ降伏した。
 陳安は麾下の将軍楊伯支と姜沖児に隴城を守らせ、自らは精鋭を率いて囲みを突破し、陜中へ逃げた。劉曜は将軍の平先に追撃させた。
 陳安は左手で七尺の大刀を操り、右手には丈八の蛇矛を振り回す。近づく敵は刀と矛で切り伏せ、瞬く間に五・六人を倒した。そして敵が遠ざかれば右左へ弓を射ながら逃げた。しかし、平先も強者。彼は飛ぶように駆けつけると、陳安と戦った。
 三合にして陳安は、蛇矛を奪われてしまった。折しも日が暮れており、雨が甚だしくもあったので、陳安は馬を棄て、側近と共に山中へ逃げた。趙兵も山中へ入り陳安を探し回ったが、見つけ出せなかった。
 翌日、陳安は将軍の石容を派遣して、趙兵の様子を窺わせた。だが、彼は趙の輔威将軍呼延青人に捕らえられてしまった。呼延青人は陳安の所在を知ろうと、石容を拷問にかけたが、彼は喋らない。遂に、呼延青人は石容を殺した。
 雨が上がってから、呼延青人は陳安を探し、遂に捕らえて、斬り殺した。
 陳安は、将士を良く慰撫し、甘苦を共にしていた。陳安が死ぬに及んで、隴上の人は彼を慕い、「壮士の歌」を作った。
 隴城では、楊伯支が姜沖児を斬って趙へ降伏した。又、圭でも別将の宋亭が趙寡を斬って降伏した。
 劉曜は秦州の豪族楊氏と姜氏の二千世帯余りを長安へ移住させた。てい・きょうは、皆人質を送って降伏した。劉曜は、きょうの酋長姚戈仲を平西将軍に任命し、平襄公へ封じた。

(補注)

 司馬保の死因について、「晋書」では病没と記されている。