晋公護の最期
 
晋公護の専横 

 天嘉二年(561年)、北周は保定と改元する。
 晋公護が、都督中外諸軍事となり、諸々のことは大小となく、武帝へ奏上する前に晋公護へ奏上するようになった。
 四月、愍帝の子の康を紀国公に封じ、皇子の贇を魯公とした。贇は、李后の子息である。
 七月、皇伯父のを邵国公と追封し、その国は晋公護の子の會に継がせた。又、の弟の連を杞国公とし、章武公導の子の亮へ継がせた。連の弟の洛生を呂国公とし、晋公護の子の至へ継がせた。太祖の子の武邑公震を宋公として、世宗の子の実へ継がせた。 

 三年、五月。柱国の楊忠が、大司空となった。
 六月、柱国蜀国公尉遅迥が、大司馬となった。 

 四年、原州へ御幸していた武帝が、夜、長安へ帰ってきたので、人々は訝しがった。随伴していた梁躁公候莫陳祟は、親しい者へ言った。
「占い師に言わせると、今年は晋公の厄年だそうな。車駕が突然帰ったのは、きっと晋公が死んだのだろう。」
 この台詞が、暴露されてしまった。武帝は、諸公を集め、皆の前で候莫陳祟を詰問した。候莫陳祟は、惶恐して謝罪した。
 その夜、晋公護は候莫陳祟の屋敷へ兵を差し向け、自殺させた。 

  

視学 

 四月、武帝は視学を行おうと考え、太傅の于謹を三老とした。于謹は固辞したが、許さず、延年杖を賜下した。
 戊午、武帝は太学へ御幸する。
 于謹が太学の門へ入ると、武帝は門と屏の間で于謹を出迎えた。于謹はこれに答拝する。
 三老の席は、南向きに設えられた。太師の晋公護が階段を上って几を設けると、于謹は南向きに坐った。大司馬の豆廬寧が階段を昇って正面に立ち、武帝は斧(戸/衣)の間に西を向いて立った。
 役人が膳を持ってくると、武帝は跪いて醤豆を設けた。于謹の食事が終わると、武帝は自ら跪いて爵を授けた。
 膳席が撤廃されると、武帝は北面して立ち、教えを請う。于謹は席の後ろへ立ち、言った。
「木が縄を受けて真っ直ぐになるように、人も諫めに従って後、聖人になれるのです。明王が虚心に諫を納れて得失を知れば、天下は安泰です。」
 又、言う。
「食はなくせる。兵もなくせる。しかし、信だけはなくせない。願わくば、陛下よ。信義を守って失いなさいますな。」
 又言う。
「功績があれば必ず賞し、罪があれば必ず罰する。そうすれば、善を行う者は日々進み、悪を行う者は思い止まります。」
 又言う。
「言葉と行動は、立身の基礎。どうか陛下よ、三思して言い、九慮して行われませ。そうすれば、過失は起きません。天子の過失は日食や月食のように、全ての人へ知れ渡るのです。願わくば陛下、これを慎みなされ。」
 武帝が、再拝してこの言葉を受けると、于謹も答拝した。
 こうして禮は終了し、皆は退出した。
(三代以来、視学、養老、乞言の禮は、ただ漢の明帝と北周の武帝のみが行った。なお、このくだりの細かいディティールについては、辞書にも載っていない漢字が多用されており、半分程度しか理解できませんでした。上記の訳文は、かなりいい加減なものです。興味のある方は、原文をお読みください。陳紀三、文帝天嘉四年の12です。) 

  

武功 

 宕昌王梁彌定は、屡々北斉の辺境を侵していた。
 天嘉五年(564年)、北周の大将軍田弘がこれを討伐、滅亡させ、その地を宕州とした。 

 六年、二月。柱国の李穆を大司空、綏徳公陸通を大司寇とした。 

 十月、北斉は、函谷関城を通洛防と改称した。対して北周は、金州刺史賀若敦を中州刺史として、函谷を守備させた。
 賀若敦は才能を自負していた。しかし、同輩達が次々と大将軍になったのに、彼一人なれなかった。
 湘州の役(天嘉元年)で、彼の部隊は一人の損傷も出さずに撤退できた。この手柄で、”今度こそ大将軍”と思っていたのに、この辞令である。賀若敦は、思わず台使(勅使)へ恨み言を述べてしまった。それを聞いて、晋公護は怒り、賀若敦を呼び戻して自殺を命じた。
 死に臨んで、賀若敦は、息子の賀若弼へ言った。
「俺は、江南を鎮定してやろうと志したのに、とうとう果たせなかった。お前は、必ず俺の志を成就させろ。そして、な、俺は口が災いして死ぬ。お前は絶対にその轍を踏むな。」
 そして、錐を取り出すと、賀若弼の舌を突き刺し、その出血を、彼への戒めとした。 

 天康元年(566年)五月、吐谷渾の龍涸王莫昌が部落を率いて北周へ身を寄せた。その地を、扶州とする。 

 光大二年(568年)、燕文公の于謹が卒した。
 于謹は、勲功高く官位は重かったが、皇帝へ対しては恭順に仕えた。朝廷へ出仕する時にも、従者は二・三騎に過ぎなかった。朝廷で一大事が起こると、必ず彼と謀った。
 諸子へ対しては出しゃばらないことを教えたので、子息達も皆栄達した。 

 四月、達奚武が太傅、尉遅迥が太保、斉公憲が大司馬となった。 

 七月、随桓公楊忠が卒した。子息の楊堅が襲爵する。また、楊堅は開府儀同三司、小宮伯となった。 

 十二月、北斉の世租(武成帝)が崩御した。
 太建元年、北周は北斉の為に、正月の宴会を中止した。司會の李綸を弔問の使者として派遣する。 

  

晋公護の最期 

 北周の太祖は、北魏の丞相となった時に左右十二軍を作り、すべて丞相府の指揮下に置いた。その十二軍は、太祖が崩御すると、すべて晋公護の指揮下に入り、彼の命令がなければ動かなくなった。
 こうして晋公は、軍権を独占した。彼の邸宅には宮中よりも大勢の護衛兵に守られていた。彼の諸子や幕僚達は好き勝手に暴力を振るい、賄賂を貪る。士民は、これを患った。
 この頃、北周の武帝は韜晦して、これら全てに関与しなかったので、民はその心中を測りかねていた。
 そんなある日、晋公は稍柏太傅のユ季子へ尋ねた。
「天文はどうなっている?」
 すると、ユ季子は言った。
「大恩ある殿下へ、何をお隠しいたしましょう。この頃、変事が起こっております。殿下、どうか政権を陛下へお返しして、楽隠居を決め込まれてください。そうすれば、天寿を全うし、周公や召公のように褒め称えられ、子孫へ至るまで御国の藩塀となれるでしょう。しかし、そうしなかった時には、何が起こるか知れたものではございませんぞ。」
 晋公は、しばしうち案じてから言った。
「吾も、もともとそう思っていた。しかし、その好機がなかったのだ。」
 そうして、この旨を上疏した。
 ところで、衛公直は、もともと晋公護と昵懇だった。しかし、光大二年に陳へ攻め込んで敗戦した時に(詳細は、陳の「華皎の乱」に記載)官職を剥奪されて以来、晋公を怨んでいた。
 そうゆう訳で、衛公は武帝へ、晋公の誅殺を勧めた。武帝は、衛公や右宮伯中大夫の宇文神挙、内史下大夫の王軌、右侍上士の宇文孝伯等と共に、密かに謀った。
 武帝は、禁中で晋公に会う度に、兄へ接する時の礼儀をとっていた。太后も晋公へ座席を与え、武帝は其の傍らに立っているのが常だった。
 太建四年(572年)、三月。晋公が、同州から長安へ戻ってきたので、武帝は、文安殿にて謁見した。その後、晋公を含仁殿へ入れ、太后へ謁見させた。その途中、武帝は言った。
「太后は、もう御高齢なのに、酒が過ぎているのです。私は何度も諫めたのですが、なかなか。どうか、尊兄からも諫めてください。」
 そして、懐から”酒誥(周の成王が書いたとゆう、酒の戒めの文)”を取り出して、晋公へ渡した。
 晋公は、入室すると、太后の為に酒誥を読み上げた。それが読み終わらないうちに、武帝は背後から晋公を笏で殴りつけた。晋公が倒れたので、宦官の何泉へとどめを刺すよう命じたが、何泉は恐がって、実行できない。すると、隠れていた衛公が飛び出してきて、晋公を斬り殺した。
 宇文神挙らは、皆、外にいて、何が起こったのか知らなかった。
 武帝は、宮伯の長孫覧等を呼び出し、晋公を誅殺したことを告げた。晋公護の子息達(柱国の譚公會、大将軍リョ公至、祟業公静、正平公乾嘉)や弟達及び柱国の侯龍恩、大将軍侯萬寿、大将軍劉勇、中外府司録尹公正等を捕らえ、殺した。 

 ところで、晋公護が趙貴等を殺した時、侯龍恩の従兄弟の開府儀同三司侯植が侯龍恩へ言った。
「陛下は既に良いお年なのに、御国の実権は数人の人間が握っている。もしも彼等が誅殺されれば、社稷の危機のみならず、我が一族も縁座で滅びるかもしれません。」
 しかし、侯龍恩は従わなかった。
 侯植は、ある時、晋公へ言ったことがある。
「公は陛下の肉親で、社稷の重鎮で在らせられます。どうか誠意で王室を補弼し、伊尹や周公へ倣われてください。そうすれば、全国民の幸せでございます。」
 すると、晋公は言った。
「私はもとよりそのつもりである!」
 後、侯龍恩を諫めた言葉も晋公の耳に入り、晋公は侯植を忌んだ。侯植は心労の余り卒した。
 晋公が誅殺された後、侯龍恩や侯萬寿は皆、殺されたけれども、侯植の子孫だけは赦された。 

 斉公憲は、もともと晋公から親任されており、賞罰には全部関与し、その権勢は甚だ盛んだった。晋公が武帝へ言いたいことがあれば、斉公へ発言させていた。それへ対して武帝が難色を示したら、斉公が折衷案を出して何とかまとめていたのである。
 晋公が誅殺されると、斉公は冠を取って辞職を願い出たが、武帝はこれを励まし、晋公が扱っていた兵権などを彼へ与えた。
 衛公は、もともと斉公と仲が悪かったので、彼を誅殺するよう武帝へ勧めたが、武帝は許さなかった。 

 晋公護の世子の訓は、蒲州刺史だった。この夜、武帝は彼を呼びつけ、同州へ着いたところで自殺させた。
 昌城公深は突厥へ使者に立って、まだ帰ってきていなかった。そこで開府儀同三司宇文徳へ璽書を与えて突厥へ派遣し、昌城公を自殺させた。
 晋公の長史叱羅協や司農の馮遷他、晋公と親しかった者は、皆、除名された。 

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