震畏四知

 

 後漢の楊震は、茂才(科挙の名、秀才と同じ)に推挙され、順々に出世して遂に荊州刺史となった。その後、東莱の太守に任命されたので、東莱郡へ向かう途中、昌邑とゆう場所を通った。
 その時の昌邑令は王密。この男は、かつて楊震が荊州刺史だった時、茂才に推挙した人間だった。王密は、大恩ある楊震が自分の任地に来ていると知り、挨拶に来た。そして深夜、懐からこっそりと金十斤を取り出して、楊震へ贈った。すると、楊震は言った。
「私は君の人格を見込んで推挙したのに、君は私の人格を見くびっている。」
「まあまあ、夜も遅く、誰も知る人はいませんから。」
「天が知っている。神が知っている。私が知っているし、君も知っている。知る者が居ないなどとんでもない!」
 王密は恥じ入って退出した。
 楊震は清廉潔白な人間で、内緒の贈り物など、絶対に受け取らなかった。それで、子や孫は粗食に甘んじ馬車も持てないほどの暮らしぶりだった。楊震の知り合いはこれを見かね、子孫の為に生活の基盤を造ってやれと助言したが、楊震は言った。
「清白な官吏の子孫とゆう誉れを遺してやるのだ。それが最高の遺産ではないか。」
 その後、安帝の時に太尉となったが、中常侍(宦官)に讒言され、卒した。

 

 乗去三惑

 

 後漢の楊乗、字は叔節。楊震の子供である。桓帝の時、太尉となり、朝廷に問題が起こる度に忠を尽くして進言し、その多くは採用された。
 楊乗は酒を飲まず、また、妻も早くに失ったが、遂に再婚しなかった。そして、どこへ行っても、清廉潔白だと評判になる。
 ある時、彼は言った。
「私は三つの物に惑わされない。酒と色と金だ。」

 

 訳者、曰く

「天知る、神知る、我知る、子知る。」これが有名な、「楊震四知の戒め」である。現在では、「天知る、地知る、己知る。」とゆう言葉が有名だが、これも「四知の戒め」のアレンジに過ぎない。
 このような父親に育てられると、子供も同類になってしまうものだろうか?それにしても、「三不惑」は真似したくない。大体、再婚して子供をたくさん作るのは、儒教では認められていた筈なのだが・・・・。