始畢可汗
 
  大業五年(609年)、煬帝は西巡して吐谷渾を討った。(詳細は、「吐谷渾」に記載。)
 この時、西突厥へ使者を派遣して、處羅可汗を大斗抜谷へ招いたが、西突厥の国人達が行きたがらなかったので、處羅可汗は適当な口実を作って行かなかった。煬帝は激怒したが、その時は打つ手がなかった。
 七年、西突厥の酋長射匱が通婚を求めたので、裴矩が上奏した。
「處羅可汗が入朝しないのは、強大な国力を恃んでいるのです。ですが、経略を使ってあの国を分裂させれば、国力は弱くなり、制圧し安くなります。射匱は、都六の子息で、達頭の孫で、代々可汗となっていた家柄ですが、今は零落して處羅可汗へ附属しています。ですから、我が国の援助を貰おうと、使者を派遣して来たのです。これは厚く礼遇して、大可汗へ任命するべきでございます。そうすれば突厥は二分して、どちらも我が国へ臣従するでしょう。」
 煬帝は言った。
「公の言うとおりだ。」
 そこで煬帝は使者と謁見し、處羅可汗の不順を述べ射匱が善へ向かったのを褒め、大可汗へ任命すると共に、處羅可汗討伐を命じた。通婚については、その後に返答することにし、桃竹白羽箭一枚を射匱へ賜下して言った。
「これは、早い方がよい。この矢のように、早く実行せよ。」
 使者は帰国したが、その途中で處羅可汗へ捕まった。だが、彼はこれを騙して、何とか逃げ出した。
 射匱は返答を聞いて大喜びで、即座に挙兵して處羅可汗を攻撃した。處羅可汗は大敗し、妻子を捨てて逃げだ。處羅可汗へ従う兵は数千人。彼等は東へ逃げ、高昌の片隅の時羅漫山に立て籠もった。
 高昌王の麹伯雅が、これを報告した。そこで煬帝は裴矩と向氏を派遣し、入朝するよう説得させた。
 十二月、處羅可汗は来朝し、臨朔宮にて煬帝と謁見した。煬帝は大喜びで、手厚く持てなした。宴席にて、處羅可汗は首を項垂れ入朝が遅かったことを詫びた。煬帝はこれを温和な言葉で慰め、山海の珍味や美女の舞、盛大な音楽を催した。その素晴らしさは耳目を眩ませるばかりだったが、處羅可汗は終始怏々としていた。
 八年、煬帝は羅可汗の部族を三つに分けた。一つは、處羅可汗の弟の闕度設へ老弱の民一万余を与えて会寧へ住ませる。もう一つは、特勒の大奈へその他の者を率いて楼煩へ住ませる。そして處羅可汗は五百騎を率いて巡回するよう命じた。處羅可汗へ、葛婆那可汗の名と厚い恩賜を賜下した。 

 九年、隋で楊玄感の乱が起こった。群盗が全国的に発生してくる。
 この頃、始畢可汗の勢力が次第に強くなってきた。そこで裴矩はこの勢力を二分しようと、皇室の娘を始畢可汗の弟の叱吉設へ嫁がせ、可汗にさせようとした。しかし、叱吉設は辞退した。これを聞いて始畢可汗は次第に隋を怨むようになった。
 始畢可汗の臣下には史蜀胡悉とゆう知謀の士がおり、彼は始畢可汗のお気に入りだった。裴矩は、交易をしようと偽って史蜀胡悉を馬邑へ誘い出し、殺した。そして、始畢可汗へは伝えた。
「史蜀胡悉は、可汗を裏切って来降してきたので、斬り殺しました。」
 しかし始畢可汗は事実を知り、以来入朝しなくなった。
 十一年、八月。煬帝は北塞を巡狩した。
 戊辰、始畢可汗は数十万騎を率いて乗輿を襲撃しようと計画した。しかし、これを知った義成公主が使者を派遣して変事を伝えた。壬申、車駕が雁門へ入った。斉王東が後軍として享県を確保する。
 癸酉、突厥が雁門を包囲した。雁門の皆は恐慌を来す。民家を壊して防御の道具を造る。城中には兵民合わせて十五万人。食糧は二十日分しかなかった。雁門郡には四十一の城があったが、そのうち三十九が陥落。持ちこたえているのは雁門城と享城のみだった。
 突厥は、猛攻を加えた。矢は、御前にも降り注ぐ。煬帝は大いに懼れ、趙王杲を抱いて、目が腫れ上がる程泣きじゃくった。
 宇文述が、煬帝へ勧めた。
「精鋭数千騎を率いて包囲を突破しましょう。」
 だが、蘇威は言った。
「守りに徹すれば、まだまだ充分余力があります。軽騎での戦いは、向こうの得手とするところ。陛下は万乗の主ですぞ。軽々しく動いてはなりません!」
 樊子蓋も言った。
「陛下、この程度の危機で僥倖を求めてオタオタしては、ますます事態が悪化して、悔いても及ばない羽目に陥りますぞ!ここは固く守って敵の鋭気を挫き、四方へ使いを出して援軍を待つべきです。陛下自らが士卒を撫循し、二度と遼征伐を行わないと諭し、厚い褒賞を約束するなら、必ずや皆は奮い立ちます。憂うる物などありません!」
 皇后の弟の、内史侍郎蕭禹が言った。
「突厥の風俗としては、可敦も軍事に関与します。それに、陛下の娘の義成公主を外夷へ嫁がせたのは、奴等が大国の後ろ盾を望んだからではありませんか。一介の使者を派遣して、この行動が無益だと伝えれば、奴等も考え直すでしょう。また、遼征伐を中止して突厥へ専念すると詔を出せば、兵卒達の志気は揚がります。」
 虞世基もまた、厚い恩賞と遼討伐停止の詔を降ろすことを勧めたので、煬帝はこれに従った。
 煬帝は、自ら将士を巡回し、言った。
「ここで奮戦して賊を撃退し、身を全うすることができたなら、ここにいる全員が、死ぬまで左うちわで暮らせるぞ。役人達へ、功労を記録させる必要もない。」
 また、下令した。
「城を守って功績のあった者は、無官なら六品の官位と百段の物を賜下する。官位を持つ者は、恩賞は更に重いぞ。」
 更に、彼等を慰労する者がゾロゾロとやって来た。将士達は躍り上がって喜び、昼夜防戦したので、死傷者も大勢出た。
 甲申、天下へ募兵した。郡太守や県令が、競って救援へ駆けつける。
 李淵の子息の李世民は、まだ十六才だったが、募兵に応じて屯衞将軍雲定興の麾下へ入った。李世民は、雲定興へ言った。
「始畢可汗が、敢えて国を挙げて天子を包囲したのは、我等が救援に駆けつけないと多寡を括ってのことに決まっています。ここは、見せかけの旌旗を数十里も並べて行軍させ、夜になれば鉦や軍鼓を鳴らして互いに合図をしているように見せかける。そうやって、さも大軍が来たように装えば、奴等は風を望んで逃げ出しますぞ。そうでなければ、奴等は大軍で、我等は兵力が少ないのです。まともに戦えば勝てません。」
 雲定興は、この献策に従った。
 煬帝は、義成公主へ死者を出して、反間工作を頼んだ。そこで公主は始畢可汗のもとへ使者を派遣して伝えた。
「北辺に緊急事態が起こりました。」
 洛陽や諸郡からの援兵も忻口までやって来た。
 九月、始畢可汗は包囲を解いて去った。煬帝が偵察を放つと、山や谷は無人で、胡馬は見あたらなかった。そこで、二千騎に追撃させた。馬邑にて、突厥の老弱二千人を捕らえて帰る。
 丁未、車駕が太原へ戻った。
 蘇威が煬帝へ言った。
「今は盗賊が暴れ回っておりますし、士馬も疲れ果てております。どうか、すみやかに長安へお帰りください。根本を深く固めることこそ、社稷安寧の計略です。」
 始めは、煬帝もこれに同意していた。しかし、宇文述が言った。
「随員の妻子は、大半が洛陽に住んでおります。まず、洛陽へ向かい、潼関から関中へ入りましょう。」
 煬帝はこれに従った。
 十月、煬帝は洛陽へ到着した。そこで町をゆっくりと見渡して言った。
「まだ、人が多すぎるな。」
 かつて、楊玄感の乱を平定した時、人民を殺し尽くすくらいの気持ちで事件を糾明させた。それでもなお人が大勢残っていると言いたかったのだ。(詳細は、「楊玄感の乱」へ記載)
 ところで、今回提示した褒賞は、余りにも重すぎた。そこで蘇威はもう一度考え直して適切な褒賞へするよう進言した。樊子蓋は、信頼をなくさないよう、当初の約束を履行するよう固く請うたが、煬帝は言った。
「お前が賜を貪りたいだけだろうか!」
 樊子蓋は懼れて、それ以上言わなかった。
 煬帝は官賞に対してはけちんぼな性格だった。楊玄感を平定した時も、功績に応じて大勢の人間へ勲等を授けた。そこで、後に軍人の秩序を変更した。以来、建節は正六品となり、奮武、宣恵、綏徳、懐仁などの尉は、すべて一階降格となった。
 今回も、雁門を守った一万七千人の将士の内、勲等を得た者は、わずか千五百人に過ぎなかった。更に、高麗討伐についても討議されていた。これによって、将士は一人残らず憤怨した。
 蕭禹(「王/禹」)は、外戚の上に才覚もあった。煬帝には、その皇太子時代から仕え、次第に出世して内史侍郎となり、重要事項へ参与するようになった。蕭禹は硬骨漢で、しばしば煬帝の意向へ逆らったので、煬帝は次第に彼を疎み始めた。
 雁門の包囲が解かれると、煬帝は群臣へ言った。
「突厥は頭がおかしいだけ。あんな連中には、もともと何もできなかったのだ!それなのに蕭禹は、高麗討伐中止とゆうかねてからの自説を通す為に、さも大層に騒ぎ立てて朕を脅しつけた。絶対に赦すことはできない。」
 そして、河池郡守へ左遷し、即日出発させた。
 候衞将軍楊子祟は、煬帝に随従して汾陽宮へ行った時に突厥の来寇を確信し、早く帰京するよう屡々請願した。煬帝は怒って言った。
「楊子祟は臆病者だ。ビクついて衆人を動揺させる。爪牙の官にはできぬ!」
 そして、離石郡守へ左遷した。
 楊子祟は、煬帝の一族である。 

 十二年、突厥は屡々北辺を荒らした。そこで、李淵がこれを牽制した。詳細は「李淵」に記載する。
 中国で群盗が蜂起するようになると、始畢可汗は、北辺の群盗達へ次々に可汗の称号を贈った。詳細は各々の伝に記載する。
 また、李淵とも手を結んだ。 

 唐の武徳元年(618年)、五原通守張長遜が、郡ごと突厥へ帰順した。突厥は、張長遜を割利特勒とした。
 薛挙の軍師の赫援は、梁師都や突厥と組んで長安を攻撃しようと考えた。これを薛挙へ説くと、薛挙も同意した。ところで、この時、啓民可汗の子の咄必が、莫賀咄設と号し、五原の北に拠点を置いた。そこで薛挙は、彼の元へ使者を派遣して、共に兵を挙げて李淵を攻撃しようと持ちかけると、莫賀咄設は同意した。
 これに対して李淵は、都水監宇文欠を莫賀咄設のもとへ派遣して、利害を説き、出兵をやめさせた。更に莫賀咄設は、張長遜を説得して唐へ帰順させた。
 こうして、五原は突厥に奪われずに済み、莫賀咄設も唐へ帰順した。
 李淵は張長遜を五原太守に任命した。莫賀咄設は、薛挙や梁師都等との交遊を断った。 

 この頃、中国は動乱の最中だったので、大勢の人々が突厥へ疎開した。おかげで突厥の国力は増大し、東は契丹、室韋から西は吐谷渾、高昌へ至るまで、諸国は全て突厥へ臣従した。
 この為、突厥は傲慢になり、唐へ派遣した使者達は長安で横暴にふるまったが、李淵はこれを寛大に赦した。 

 煬帝が弑逆されると、李淵は受禅して、皇帝を名乗った。これが唐の高祖である。
 九月、高祖は従子の襄武公深と太常卿鄭元寿を使者として、始畢可汗へ女妓を贈った。始畢可汗は、返礼の使者として骨咄禄特勒を派遣した。
 十月、高祖は骨咄禄特勒の為に宴会を開いた。この時、高祖は骨咄禄特勒を御坐へ昇らせた。 

 西突厥の葛婆那可汗は、煬帝に随従して江都へ行っていたが、宇文化及が造反すると、彼に従って北上した。やがて宇文化及は李密に敗北し、更に北へ逃げた。
 十二月、葛婆那可汗は長安へ行き、李淵へ帰順した。李淵は、葛婆那可汗を帰義王とした。そこで葛婆那可汗は大珠を献上したが、李淵は言った。
「珠は確かに至宝だ。だが、朕は王の赤心こそを宝と思うぞ。珠など無用だ。」
 そして、これを返してやった。 

 大業二年、始畢可汗は、部下を率いて黄河を渡り、夏州へ出た。
 梁師都も兵を出してこれに合流し、その中の五百騎を劉武周へ授け、句注から太原へ入寇しようと考えた。
 しかし、二月、始畢可汗が卒してしまった。
 始畢可汗の子息の什鉢必はまだ幼かったので、弟の俟利弗設を立てる。これが、處羅可汗である。處羅可汗は什鉢必を尼歩設として、東端へ住ませた。そこは、幽州の北である。 

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