士会、秦へ逃れる
 
(春秋左氏伝) 

 文公の六年、晋の襄公が死んだ。世継の霊公は、まだ幼い。そこで、晋の人々はもっと年長の君を立てようとした。趙盾は秦で暮らしている公子ヨウを推し、賈季は陳で暮らしている公子楽を推した。趙盾は、公子楽を殺し、先蔑と士会を使者として秦へ派遣した。
 ところが、これを知った襄公の夫人は、太子を抱いて毎日朝廷へ現れ、泣きながら言う。
「亡くなった殿のどこがいけなくて、又、この太子のどこがいけなくて、この歴とした跡継を立てないのですか。」
 また、超盾のもとへも出向き、頭を下げて頼み込んだ。
「殿はこの子を貴方へお任せしたのです。そのお言葉は、まだ貴方の耳に残っているでしょうに。」
 超盾も諸大夫も閉口し、遂に太子を立てることにした。
 一方、秦では、公子ヨウを立てる為に、大軍を動員していた。晋から使者に立った先蔑がこれを率いる。対して、晋も大軍を繰り出し、先手を打ってこれを撃退した。結局、先蔑は秦へ亡命し、士会もこれに従った。
 また、賈季は狄へ亡命した。
 ところで、秦で暮らしている間、士会は先蔑に会いに行こうとしなかった。
 ある人が言った。
「一緒に亡命したのに、会いに行かないとゆう法はないでしょう。」
 すると、先蔑は言った。
「同罪だったから、共に逃げてきたに過ぎない。彼の人柄を慕って来たわけではない。何で会いに行く必要があるのだ?」
 途上に於いても道を避けて、遂に三年間、先蔑と顔を合わせなかった。

 文公の十二年、秦が晋へ出陣した。晋軍は、ユヘイの進言に従って、防御を固くして持久戦を取った。
 遠征軍にとって持久戦は不利なので、秦軍は決戦を挑みたかった。この時、秦王は士会へ良案を求めた。すると、士会は言った。
「これはユヘイの提案でしょう。ところで、晋の大臣の趙氏には趙穿とゆう庶子がおります。彼は晋君の婿で、晋君から寵愛されていますが、その人柄たるや、勇気を好むだけの猪武者。しかも傲慢な性格で、ユヘイが自分の上官になったことに不平を持っています。彼の軍を徴発したら、必ず乗ってくるでしょうし、そうなれば、晋軍は趙穿を見捨てることができず、決戦をせざるを得なくなりましょう。」
 秦王がこれを採用すると、この作戦は図に当たり、晋は大敗した。 

 秦へ亡命した士会が秦の為に働き、狄へ亡命した賈季が狄の為に働くので、晋の人々は大変困った。
 荀林父は言った。
「賈季を呼び戻そう。外交の才があり、功臣の子息だ。」
 すると、郤成子(郤缺)が言った。
「賈季は乱を起こした張本人だ。士会を呼び戻す方が良いな。彼は賤しくなっても恥をなくさない。人当たりは柔らかいが気骨がある。その知謀は役に立つし、もともと罪もない。」
 そこで、士会を晋へ呼び戻すこととなった。
 まず、魏寿余が、造反したふりをして領土へ帰り、秦へ救援を求めた。秦王はこれを受諾した。魏寿余は機会を見つけて朝廷で士会の足を踏み、それだけで士会は全てを理解した。
 秦軍は魏寿余の領土を併呑しようと、河西へ出兵した。これに対し、魏の領民は対岸に陣取った。この時、魏寿余は秦王へ言った。
「晋で育って、魏の長老達と話が通じる者を派遣してください。私が一緒に先発して、彼等を説得させますので。」
 そこで、晋王は士会を選んだが、士会は辞退した。
「晋の連中は虎や狼のような人間ばかり。やつらが我等を謀っているのなら、私は晋で殺され、私の家族はこちらで罰されてしまいます。」
 だが、秦王は言った。
「いや、もしも晋の詭計だとしても、卿の家族は晋へ送り返してあげよう。黄河の神に誓って。」
 そこで士会は出発したが、繞朝が彼へ笞を賜った。
「秦が盲揃いだと思いなさんな。ただ、私などの意見が通らなかっただけです。」
 士会が魏寿余と共に黄河を渡ると、魏の人々は歓声を挙げて連れ去った。
 秦王は、誓約通り士会の家族を晋へ送り届けた。
  

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