周、鄭、交々悪し

 

(春秋左氏伝)

 {周は幽王の時、戎に攻め込まれて、一旦滅亡した。だが、鄭と晋が平王を擁立してこれを復興した。そこで、平王は鄭の武公を卿士(執政)とした。
 鄭の武公が崩じると、息子の荘公が、周の卿士となった。}
(以上、史書により捕捉。ちなみに、この、周の東遷以後を「東周」と呼ぶ。春秋時代の始まりである。)

 鄭の荘公は、周の平王の卿士(執政)だった。
 平王はこの職をかく公へ与えようとしたので、荘公は王を怨んだ。
 平王は、これがデマであると表明し、遂に、周と鄭は交々人質を取り交わし、盟約を交わした。
 やがて、平王が死ぬと、周はかく公を卿士としようとした。(魯の隠公の三年。)
 鄭の荘公は怒り、祭仲へ命じて温の麦を略奪させ、後には成周の稲を略奪させた。
 これ以来、周と鄭は交々憎みあった。
 君子はこれを評して言った。
「口先だけの約束ならば、例え人質を交わしあったとて意味がない。真心が込められていたら、儀式など無くても構わないのに。」

(博議)

 天子へ対する諸侯とゆうのは、諸侯へ対する大夫のようなものだ。
 昔、魯で李氏が羽振りを利かせ、まるで魯には二人の主君が居るように思えたことがあったが、その時、人々は「魯、季」と並べ称することはなかった。斉における陳氏も同様。「斉、陳」と並び称されることはなかったのである。
 季氏は、いくら強盛を誇っても、所詮、「魯の季氏」なのであり、陳氏も又、「斉の陳氏」に過ぎないのだ。君臣を同列に並べて名分を犯すような真似が、どうしてできようか!
 周は天子である。鄭は諸侯である。にもかかわらず、左氏は、「周と鄭と交々人質を交わしあった」だの、「周と鄭が、交々憎みあった」と記した。
 周と鄭を並称し、尊卑の区別をつけない。のみならず、鄭が周に造反したことを責めずに、周が鄭への信義に背いたことを嘆く。左氏の罪は実に大きい。
 だが、私は思うのだ。左氏の罪は確かに大きいが、周も又、無罪とは言えない。

 周が東遷した時、鄭の武公を卿士に任命した。この時は、まだ、君臣の分が保たれていた。
 主君が臣下へ対する時、賢人ならば抜擢し、不賢と見たら、斥ける。これをどうして隠す必要が有ろうか。だが、平王は鄭伯を斥けたかったのに実行できず、かく公を抜擢しようと思って、やはり実行できなかった。そして、虚言を以て臣下を欺いたのである。その暗愚惰弱、それだけでも天子の礼に背いているとゆうのに、御丁寧にも人質まで交わしあってしまった。
 人質を交わし合うとゆうのは、隣国同士の行為である。今、周は国王の尊位を自ら貶めして、鄭へ人質を下す。鄭はその卑しきを忘れて周へ人質を上げる。その勢いは均しく、その立場は同等。尊卑の分は完全に壊れてしまった。
 人質を交わし合う前は、周は天子だった。鄭は諸侯だった。しかし、人質を交わしてしまった以上、周も鄭と同じ一諸侯になってしまった。こうなれば、何を憚ろうか。温の麦、洛の稲、これらを略奪して恬然恥を知らなかったのも当然である。

 もしも、平王が鄭の荘公を憎んだ時、力づくで排斥したなら、鄭の荘公は、跋扈したとはいえ、一叛臣に過ぎなかった。周の天子の尊さは自若として保たれたのだ。それなのに、人質を交わし合ってしまった。平王は、天子の椅子を棄て、自ら列国の地位に降りたのだ。
 鄭の荘公は思っただろう。
「彼の子息が我が国へ人質としてやって来た。吾の子息が、人質として彼の国へ行った。彼は吾と同じ。どこも違わないではないか。」
 そして月を経て歳が移るに従い、周が主君とゆうことを忘れてしまった。そうなれば兵を挙げても忌まない。これは諸侯が天子に造反したのではない。諸侯同志の戦争なのだ。
 周が天子を自認し、毅然とした態度に出たならば、至尊至厳の分が屹然として横たわっている。鄭がどうして造反しようか。
 しかし、周は諸侯としての行動をとってしまった。それで、鄭の荘公も、周を諸侯として遇したのだ。そして、天下も又、周を諸侯として遇し、左氏も周を諸侯として遇したのだ。周が自ら伐たなければ、鄭も敢えて周を伐たなかっただろう。周が自分を卑しくしなければ、人々も周を卑しまなかっただろう。
 王を王扱いしなかった罪は、もちろん、左氏は言い逃れできない。しかし、周も又、その罪を分かち合わなければならないのである。

 さて、左氏が載せた「君子の批評」とゆうのは、勿論、左氏が書いた言葉である。しかしながら、これは当時の君子達の世論でもあった。この論文では、周と鄭を二国のように扱い、軽重を付けていない。これは、当時のいわゆる君子とゆう連中が、一人残らず、国王の存在を知らなかったとゆうことだ。
 戎狄が、王が居ることを知らなかったとしても、憂うるに足りない。盗賊が、王が居ることを知らなかったとしても、憂うるに足りない。諸侯が、王が居ることを知らなかったとしても、憂うるに足りない。しかし、君子と名付けられる連中まで、王が居ることを知らなかったとしたら、天下のうち、誰が王室の存在を知っているのか。
 これが、孔子の憂うる所以である。これが、孔子が春秋を作った所以である。そしてこれが、春秋が平王から始まる所以である。