周公閲、王孫蘇を晋へ訴える。
 
(春秋左氏伝) 

 周で、周公閲と王孫蘇が権力争いをしていた。
 魯の文公の十四年、周公は王孫蘇を相手取って晋へ訴えようとした。この時、周の匡王は、それまで王孫蘇の味方だったが、急に裏切って、晋侯のもとへ使者を派遣し、周公が正しいと申し出た。
 晋の趙盾は、王家のゴタゴタを裁いて、匡王の位を確固たるものとした。 

  

(東莱博議) 

  

 昔、虞とゼイ(「艸/内」)が争った時、両君は周の文王のもとへ訴え出て、白黒をつけて貰った。そして、この事件をきっかけに、殷の国威が衰えたのである。
 文王が、両者の諍いを裁定したがったわけではない。だが、東に氷があり、西に炭があったら、凍える者は西へ行かざるを得ないだろう。左が海で右が陸だったなら、溺れる者は右へ向かわなければなるまい。同様に、虞とゼイの訴訟は、文王が招いて呼び寄せたのではない。彼等の方で裁定して欲しがっており、文王は振り払うことができなかったのである。
 文王が望んでもいないのに、虞とゼイがやって来た。識者は、その事実を見て、殷の滅亡を予見した。 

 堯は、天下を舜へ譲ろうと思ったが、舜は、堯の息子の朱を憚って、政界から身を退いた。同じように、禹は舜の息子の均を憚り、益は禹の息子の啓を憚って、政界から身を退いた。この三人は、同じように身を退いたのだが、舜と禹は結局天下の主となり、益は隠居したままで天下は啓へ継承された。
 彼等が、結果として天下を受け取るのか、それとも最後まで辞退するのか、その違いを見分ける方法はあるのだろうか?
 ある。
 諍いを起こした民が、誰へ訴訟を持っていったのかを見れば良いのだ。
 堯・舜・禹は三人とも、天下を賢人へ譲ろうと思い、自分の息子をさておいて、舜・禹・益を後継とした。そして、舜・禹・益は、皆、これを辞退した。ところが、朱や均は出来が良くなかったので、民は、諍いが起こった時、舜や禹に裁いて貰いたくて、彼等の許へ訪れた。だが、啓はそれほど出来が悪くなかったので、民は啓のもとへ集まり、天下は啓へと流れて行ったのである。 

 虞とゼイは、朝歌(殷の首都)の近くにある国である。それなのに、わざわざ遠くの豊鎬(周の首都)まで赴いたのだ。既に、殷はそこまで見放されていた。あの紂王が、権力に飽かせて酒池肉林の強盛を誇っても、それはただ、民衆の上に寄生していたに過ぎない。
 私はこの視点から後の世の移り変わりを見てみたが、結局、権を握った者は栄え、権を失えば滅んでいった。権を失った後、それに従って国が滅びなかった例など、一度としてなかったのだ。 

 やがて、周の国威は衰えていった。暗弱な主君と下僕のような臣下達は、中国のリーダーシップを執ることができず、周は、まるで列国の一つのようになってしまったが、それは匡王の時代になって一段と甚だしくなった。
 周公は周の大臣である。そして王孫蘇は周の卿士である。この二臣が諍いを起こした時、彼等は周王のもとへ出かけずに、晋侯のもとへ出向いたのだ。
 天下の主君となった以上、万国に君臨し、善悪を分明に指し示し、その国威を蛮地まで推し広めて、その臣下達を職務に喜び就かせるようにしなければならない。それなのに、些少な訴訟事さえ裁定できないのならば、何の為の国王か!
 虞やゼイは、遠方とはいえ、れっきとした一国だった。それでも、その諍いを周に裁定して貰った時、識者は殷の行く末を危ぶんだのだ。ましてや、もしも悪来や飛簾(共に紂王の寵臣)が諍いを起こし、その裁定を周王へ頼んだとしたら、いくら紂王が無道とはいっても、必ずや自分の将来を危ぶまずにはいられまい。
 だが、匡王はこれを安閑と座視して驚かなかったばかりか、晋侯のもとへ使者を派遣して、自分の寵愛する臣下へ対して有利な結果を出して貰うように頼み込んだのである。
 巍然としてコン(天子の服)を着、天子と称しながら、つま先だって伸び上がり、晋の与奪を待って軽重を決める。何と衰えきったことか!周の危機は殷より甚だしく、匡王は紂王よりも恥知らずだ。
 この時の周の頽弊は殷の末期よりも甚だしい。何で、この滅びて当然の時に滅びなかった?晋の文公は、周の文王ほど慎重ではなかった。どうして、この取れる時に取らなかったのだ?
 私は、その理由を考えてみた。 

 紂王の末期、殷は天下の三分の二を失ってこそいたものの、境内では紂王の威令は絶対であり、紂王は凶暴残虐の限りを尽くしていた。だから、民はその残暴に耐えきれず、力を合わせてこれを滅ぼしたのだ。
 しかし、この頃の周では、臣下の諍いさえ裁定することができなかった。そんな周王が淫侈に耽ろうと思っても、誰が税の苛酷な徴収に従っただろうか。残酷を行おうとしても、誰がその命令に従っただろうか。そんな国が滅びようが存続しようが、そんなことは、国民にとって関係なかったし、遠国にとっては、尚更知ったことではなかった。
 晋は、上辺こそ国王として奉っていたが、本心では朱(「朱/里」)や呂(艸/呂)のような小国として遇していたに過ぎないのだ。そんな小国へ対して、何を疑う?何を怖がる?わざわざ廃墟にしようなどと、どうして考えるだろうか。
 だから、周は滅ぼされなかったのではない。滅ぼされる理由がなかったのだ。晋は周を取らなかったのではない。周は取るに足らなかったのだ。 

 だいたい、他人を害する事ができる人間は、他人を利する事もできるのものだ。人を殺せる人間は、人を生かす事もできるのだ。
 紂は下愚移らず(最低の人間は、どんなに手を尽くしても、立派な人格にすることはできない)、とゆう人間だったが、権力を操ることはできた。もしも彼が、比干ではなくて崇侯を殺戮し、崇侯ではなく比干を寵用し、朝に鹿台の財宝を臣下へばらまき、夕べに鉅橋の粟を庶民へ解放したら、殷の国運は長引き、彼の名は稀代の名君として長く讃えられることになっただろう。
 これに対して匡王は、ぼけっとして、虚名を六服(諸侯には、都からの距離によって、畿服、旬服など六種類に分類されていた。六服で諸侯を意味する。)の上に建ててこそいたが、礼楽刑政は全て他人の手に握られていた。自分の腕を振るおうと思ってもどんな手だてがあっただろうか。
 つまり、滅亡寸前の殷は、まだ再起の可能性があった。だが、まだ滅亡から遠かった春秋時代の周は、最早手の施しようもなかったのだ。
 左に廃し右に緩み、ぜいぜいと余息を吐きながら、百世に綿して千歳を閲しても、何の楽しみが在ろうか?歴史家は、周のことを予言以上に続いたと言うが、(成王が遷都する時占ったところ、その卦には、「三十世代、七百年続く」と出た。実際には、三十七代、八百六十年で滅んだ。)そんなことは絵空事だ。 

  

(訳者、曰) 

 朱や呂とゆうのは、小国も小国。春秋時代の全てを通じて、一度も歴史の主役になれなかったばかりか、人材の一人も生み出せなかった。「完璧なおまけ」の国である。その二ヶ国と周を並べるとゆうのは物凄い喩えだが、言い過ぎとは思えない。 

 ところで、この匡王と、日本の天皇家を比べてみると、応仁の乱の頃や江戸時代など、ピッタリと当てはまると断言できる。それでも、天皇家は復活した。戦国時代末期には、それなりに祭り上げる武将が居たし、日本の近代化を推し進めたのは、明治天皇と其のブレーン達ではなかったか?
「権を失った後、それに従って国が滅びなかった例など、一度としてなかったのだ。」と言うが、ここに完璧な例外がある。
 これは、中国人と日本人の気質の違いとしか思えない。