武帝の英武
 
親政開始 

 大赦が降り、改元される。
 宇文孝伯が車騎大将軍となり、王軌が開府儀同三司となる。
 宇文孝伯は、武帝と同日に生まれた。太租が大のお気に入りで、第中へ引き取って養った。幼い頃から、武帝の御学友である。
 為人は、沈静忠諒。政治の得失は大小に関わらず、聞いたことを全て武帝へ伝えた。
 尉遅迥は太師、李穆は太保、斉公は大冢宰、衛孝は大司徒となる。 

 これ以来、武帝は始めて親政を行った。法を犯す者が居れば、骨肉と雖も容赦しない。斉公を冢宰としたが、その実実権は奪っていた。又、斉公の侍讀の裴文挙へ言った。
「昔、北魏の末期に大綱が緩み、太祖が政権を握った。そして、北周の建国時に当たっては、晋公が政権を握っていた。習いは常となり、愚者達は、それが当然だと言っていたが、三十を過ぎた天子が他人の言うままになるなど、なんであり得ようか!
 詩経にも言うではないか。『夙夜怠らず、ただ一人に仕える。』と。『一人』とは、天子のことだ。卿は斉公の陪侍だが、正道で補弼し、我が君臣を睦み合わせ、我が兄弟を協力させ、人から疑われることのないようにせよ。」
 裴文挙がこれを斉公へ伝えると、斉公は言った。
「吾が心を尽くしていることは、卿も知っているだろう!ただ、忠節を尽くすのみ。」 

 衛公は、浮薄で貪欲な性格。本当は大冢宰を望んでいたのに叶えられず、怏々としていた。そこで兵権を握ろうと、大司馬を請願した。武帝はその心中を察して言った。
「汝兄弟には長幼の序列がある。どうして下列へ置けようか!」
 こうして、大司徒になったのである。 

 四月、略陽公を孝閔皇帝と追尊する。
 同月、魯公贇を皇太子に立てた。 

 五年、三月。皇太子が岐州から二匹の白鹿を献上した。すると、武帝は言った。
「大切なのは徳だ。瑞兆ではない。」 

  

皇太子贇 

 八月、皇太子の贇が、楊氏を妃に納めた。彼女は大将軍随公堅の娘である。
 皇太子は、小人と狎れ親しんでいたので、左宮正宇文孝伯が武帝へ言った。
「皇太子は、いずれ四海を統べるお方ですが、まだ、立派な行いの一つも聞いたことがありません。臣は、この職務にありますので、黙って見て居れません。それに、殿下は未だお若く、どのように変わるかも判らないのです。どうか、師や友人を厳選して、立派な人間に育ててください。そうでなければ、悔いても及びませんぞ。」
 武帝は言った。
「卿の家系は、代々硬骨で聞こえており、いつも誠意を尽くしてくれていた。卿のこの言葉を観るに、卿も、その血を受け継いでおるな。」
 宇文孝伯は拝謝して言った。
「言うのが難しくありません。その結果を受け止めるのが難しいのです。」
 武帝は、宇文孝伯の進言に従って、尉遅運を右宮正とした。尉遅運は、尉遅迥の甥である。
 武帝は、かつて万年県丞の楽運へ言った。
「太子はどうゆう人間かな。」
 すると、楽運は言った。
「中人です。」
 すると、武帝は斉公護へ言った。
「百官は、皆、我へ諂って、太子は聡明だと言っている。ただ、楽運だけが忠直と言えよう。ところで、楽運よ。重ねて問うが、中人とはどのような人間か?」
「斉の桓公のような人間です。彼は、管仲が傍らにいれば覇者となり、豎貂のような宦官が傍らに居れば、国を乱しました。導く人間次第で、善人にも悪人にもなれる人間です。」
 そこで武帝は、太子の補弼を厳格に選び、楽運を京兆尹とした。
 これを聞いて、太子は不愉快になった。 

訳者、曰く。班固は言った。「共に善を行うことはできるが、悪を行うことはできない。これを上智と言う。共に悪を行うことはできるが、善を行うことはできない。これを下愚と言う。善人と共にいれば善人となり、悪人と共にいれば悪人となる。これを中人と言う。」(漢書、古今人表、序文)中人は、この台詞を踏まえて言ったのだろう。) 

  

衛王造反 

 六年、三月。叱奴太后が崩御した。
 衛王直が、武帝へ言った。
「斉王護は、平日と同じように酒肉をたしなんでおります。」
 すると、武帝は言った。
「我と斉王は、異母兄弟で、共に正室の子息ではない。だから、我が母の為に喪に服す必要はないと、言っておいたのだ。お前こそ、密告したことを恥じるが良い!自らの行いを正すことに務め、他人を論じるでないぞ。」
 四月、北斉から弔問の使者が来た。
 七月、武帝が雲陽へ御幸した。その間、長安の守りは太子へ委ねたが、右宮正尉遅運と薛公長孫覧を補佐役とした。
 ところで、かつて武帝は、衛王直の屋敷を取り上げて東宮とした。その時、衛王直へは代わりの屋敷を選ばせた。そこで衛王は、あちこちの府署を検討したが、どうも意にそぐわない。結局、まだ廃されていなかった陟己寺を所望した。すると、斉公護が言った。
「京には子孫が多い。あの寺では、少し狭すぎはしないか。」
 対して、衛公は言った。
「我が身一つさえ、容れられないのだ。子孫のことなど、考えておられない。」
 また、ある時、衛王は武帝と共に狩猟をした。その時、衛王へ乱行があったので、武帝は皆の目の前で衛王を打った。
 それやこれやで衛王は怒りが溜まって行った。そんな折、武帝が留守にしたので、衛王は遂に造反した。
 乙酉、衛王は部下達を率いて蕭章門を急襲した。長孫覧は恐れ、武帝の御幸先へ逃げ出してしまった。
 尉遅運はたまたま門の中におり、衛王が急襲してきた時、彼は自身の手で門を閉めようとした。衛の部下は、尉遅運と戦った。尉遅運は指を砕かれながらも、なんとか城門を閉めることができた。衛王は入城できなかったので、城門へ火を放った。
 尉遅運が火を恐れて撤退したので、衛王軍は進軍できた。彼等は宮中の材木や調度品を火中へ放り込んで炎を大きくした。更に、油などを掛けて煽り立てる。
 だが、しばらくすると、衛王軍は進むことができずに退き始めた。尉遅運は、これに乗じて留守兵を率いて追撃する。衛王軍は大敗し、衛王は百余騎を率いて荊州へ逃げた。
 戊子、武帝が長安へ戻った。
 八月、衛王が捕らえられた。衛王は、まず庶民へ落とされ、別宮へ監禁された後、殺された。尉遅運は、大将軍となり、多くの褒賞を賜下された。 

  

不肖の息子達 

 八年、二月。武帝は、皇太子へ西方の巡撫と、吐谷渾討伐を命じた。上開府儀同大将軍王軌と宮正宇文孝伯が随行する。軍中の節度は、全てこの二人へ委任され、皇太子は単なる飾り者に過ぎなかった。
 八月、皇太子は吐谷渾を討ち、伏俟城まで戻ってきた。
 宮尹の鄭譯や王端等は、皆、皇太子から寵用されていた。軍中で皇太子が起こした不祥事は、その大半に彼等が絡んでいた。王軌等は、この事を武帝へ報告した。武帝は怒り、太子や鄭譯等を杖で打った。
 鄭譯等は、一旦罷免されたが、やがて太子は再び登用して、彼等と狎れ戯れた。
 宣帝は、皇太子へ対しては厳しかった。朝廷では他の臣下達と区別しなかったし、極寒盛暑でも休ませなかった。又、皇太子は酒が好きだったので、東宮以外では絶対に飲ませなかった。皇太子に過があればすぐに鞭打った。そして、武帝はいつも言っていた。
「昔から、廃立された皇太子は多いぞ。他の子息達が立てないとでも思うのか!」
 また、東宮の官属へは、皇太子の言動を毎月報告するよう命じた。皇太子は武帝を畏れ、無理して上辺を飾るようになった。以来、過失は宣帝の耳へ届かなくなった。
 王軌は、かつて小内史賀若弼へ言った。
「皇太子では、皇帝は務まるまい。」
 賀若弼も心底同意して、それを上奏するよう王軌へ勧めた。そこで、王軌は機会を待って宣帝へ言った。
「皇太子殿下の孝仁の評判など、聞いたこともございません。このままでは陛下の家事では済まなくなるでしょう。愚暗な私の言うことでは信じられないかも知れませんが、陛下が文武の奇才とかっておられます賀若弼も、同じように憂えているのでございます。」
 そこで、宣帝が賀若弼を読んで尋ねると、賀若弼は言った。
「皇太子は東宮にて、人格修練に勤しんでおられ、過失の一つも聞きません。」
 賀若弼が退出すると、王軌が詰ったが、賀若弼は言った。
「これは公の過だ。皇太子は、次代の皇帝だぞ。どうして軽々しく口が出せようか。まかり間違えば、一族皆殺しになってしまうではないか。もともと、公には密かに上奏して欲しかったのに、ああも大々的に公表されては、立つ瀬がないではないか!」
 王軌はしばらく黙り込んでいたが、やがて言った。
「我は国家のことばかり考えており、私計など念頭になかった。衆人へ対しては、不適切だったようだ。」
 後、王軌は内宴の時に武帝を寿ぎ、言った。
「気がかりはただ、お世継ぎの事ばかりでございます。」
 ところで、武帝が宇文孝伯へ皇太子のことを尋ねると、宇文孝伯はいつも答えていた。
「殿下は完璧で、過失の一つもございません。」
 宴会が終わった後、武帝は宇文孝伯へ言った。
「公は、いつも太子を褒めるが、今、王軌はこのように言ったぞ。公は朕を誑かしていたのか。」
 すると、宇文孝伯は再拝して言った。
「親子のことです。他の人間はなかなか口出しできません。臣は、陛下が慈愛を断ち切れないと知っておりますので、真実を言えなかったのでございます。」
 武帝は、しばらく黙りこくってから言った。
「皇太子のことは、既に公へ委ねたのだ。公はそれを勉めてくれ!」
 武帝は、王軌の言うことが正しいと判っていた。しかし、次男も又不才で、他の子息達は未だ幼かったので、廃立できなかったのだ。 

  

勝って驕るな 

 九年、北周は北斉を滅ぼした。
 五月、武帝は詔した。
「会義、祟信、含仁、雲和、思斉などの諸殿は、皆、晋公護が専政している時に造ったもので、壮麗を極めている。これらは全て毀撤せよ。彫刻などは貧民へ与えるように。また、旧北斉のヘイ、業などの壮麗な建物も、これに準じる。」
(司馬光、曰く)北周の高祖は、よく戦勝に処したと言えよう!並の人間なら、勝てば益々驕るものなのに、彼一人、勝って益々倹約を強めた。 

  

 八月、鄭州で、九尾の狐が捕らえられたが、死んでしまったので、その骨が朝廷へ献上された。武帝は言った。
「瑞兆が顕れとゆうのは、それ相応の徳があってこそだ。例えば、四海が和平したならば、瑞兆も顕れよう。しかし、今はまだその時ではない。」
 そして、その骨を焼き捨てさせた。 

  

武帝崩御 

 太建十年(578年)、四月。突厥が北周の幽州へ来寇し、吏民を殺戮・略奪した。
 五月、北周の武帝は、突厥へ親征した。まず、先発として柱国原公姫願と東平公神挙を出陣させる。
 しかし、肝腎の武帝は病気にかかって重態となったので、雲陽宮に留まった。やがて、諸軍へ停止命令を出す。そして、駅伝を使って宇文孝伯を呼び寄せると、彼の手を執って言った。
「朕はもう助かるまい。後のことは、君へ委ねる。」
 その夜、宇文孝伯を司衛上大夫として、宿衛兵を全て委ねた。また、駅伝を京へ飛ばし、非常に備えさせた。
 六月、武帝の病状はひどく重くなり、長安へ帰った。その夜、崩御する。享年、三十六。
 太子の贇が即位した。これが宣帝である。(当時の陳帝も宣帝だった。少し、紛らわしい。)皇后の阿史那氏を尊んで皇太后とする。 

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