朱粲
 

 城父の朱粲は、始めは県の佐史として従軍していたが、やがて亡命して衆人をかき集め盗賊となった。人々は「可達寒賊」と呼んだ。
 大業十二年(616年)朱粲は迦楼羅王と自称した。兵力は十万に登り、荊州から山南へかけて荒らし回った。彼が行き過ぎたところは、人っ子一人生きてはいなかったと言う。
 やがて中原が乱れると、朱粲はその時々に応じて李密や王世充へ忠誠を誓ったが、李淵とは常に戦い続けた。
 武徳元年(618年)、十月、トウ州刺史呂子蔵と撫慰使馬元規が、朱粲を討って、破った。呂子蔵は、馬元規へ言った。
「朱粲は敗北したばかり。将士共にビクビクものだ。ここで力を合わせてもう一撃したら、一気に滅ぼせるぞ。だが、時間を掛けたら、奴等の敗残兵が再び集まってくる。そうすれば兵力は増えるし、食糧が無くなるから死に物狂いになって戦いを挑んで来る。そうなれば我等の被害も甚大になる。」
 だが、馬元規は従わなかった。呂子蔵は、自分の手勢だけででも攻撃を掛けさせてくれ、と請願したが、馬元規はこれも許さなかった。
 やがて朱粲のもとへは敗残兵が集まってきて、その勢力は再び大きくなった。ここにおいて朱粲は皇帝と自称し、昌達と改元して、トウ州へ進攻した。
 呂子蔵は胸を撫でて馬元規へ言った。
「老夫は、公の巻き添えで殺される!」
 朱粲は、南陽を包囲した。折からの長雨で城壁が壊れたので、呂子蔵の友人達は降伏を勧めたが、呂子蔵は言った。
「天子の方伯が、なんで賊徒へ降伏できるか!」
 そして手勢を率いて敵へ突撃し、戦死した。城はすぐに陥落し、馬元規も死んだ。
 辛巳、太常卿鄭元寿が朱粲を撃ち、破った。 

  

 朱粲は二十万の兵力を率いて、漢、淮の間で略奪して廻った。彼等は定住地が無く、州県を破るたびにその土地の官庫の食料を食べ、食べ尽くさないうちに別の場所へ移る。そして去って行くときには、残った食糧を全て焼き払った。
 彼等は農耕などしないので、漢・淮には食糧が無くなり、民は大いに餓えた。こうなると、略奪することもできないので、朱粲の軍中も食糧が不足するようになった。そこで、士卒達へ婦人や子供を煮て食べることを教えた。
「人肉以上に美味い肉はない。他の国にも人が居るのだ。餓える心配など絶対ないぞ。」
 隋の著作佐郎陸従典と通事舎人顔愍楚は、もともと南陽にて仕官していたのだが、朱粲は賓客として迎え入れた。しかし、後に食糧が無くなると、彼等と彼等の一族全員を食べてしまった。
 又、朱粲は諸城堡へ税を掛けたので、城堡は次々と背いていった。
 二年、淮安の土豪楊士林と田賛が起兵して朱粲を攻撃した。すると、諸州が皆、これに応じた。朱粲は、淮源にてこれと戦い、大敗する。敗残兵数千を率いて菊沢へ逃げた。
 楊士林は、代々蛮の酋長の家系だった。隋の末期、楊士林は鷹揚府校尉となったが、やがて郡官を殺してその郡を占拠した。
 楊士林は、朱粲を追い出した後、漢東四郡を率いて唐の信州総管廬江王援へ帰順した。唐は、楊士林を顕州道行台とする。楊士林は、田賛を長史にした。
 閏月、朱粲は唐へ使者を派遣して降伏を請うた。そこで李淵は朱粲を楚王に封じ、官属を設置することを認めた。
 李淵は、前の御史大夫段確を使者として主粲の住む菊沢へ派遣した。
 この段確は、酒癖が悪い。辛丑、酔いに乗じて朱粲を侮辱して言った。
「卿は人肉が好きだと聞くが、どんな味がしたのかな?」
 すると朱粲は言った。
「酔っぱらいの肉は、豚の粕漬けのような味がした。」
 段確は怒って罵った。
「狂賊が入朝しても、奴隷が一人増えたようなものだ。もう二度と人肉は食えないぞ!」
 朱粲は段確とその従者数十人を即座に捕らえ、ことごとく煮て、近習達と食べた。
 遂に朱粲は菊沢で略奪の限りを尽くして王世充のもとへ逃げ込んだ。王世充は、彼を龍驤将軍とした。
 王世充が唐によって滅ぼされると、朱粲は捕らえられ、誅殺された。
 朱粲は残忍で、大勢の士民が苦しめられていた。彼等は朱粲の屍へ競って瓦や礫を投げつけたので、たちまちのうちに塚のようになってしまった。 

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