蕭宗即位
 
 
 安禄山の乱で都を逃げ出した玄宗の一行は、馬蒐にて民衆に取り囲まれた。玄宗は、民を説得させるため、太子を留めて先へ進んだ。ここで田宮部下から説得されて、太子は玄宗の後を追うことを断念し、賊徒戦うことを決めた。その詳細は「玄宗西進」へ記載する。
 太子は留まったけれども、どこへ行けば良いか判らなかった。
 廣平王叔は言った。
「日が遅くなってきました。ここに駐留してはいけません。衆人は何を望んでいるでしょう?」
 だが、誰も答えない。
 建寧王炎が言った。
「殿下はかつて朔方節度大使でした。将吏は歳時に挨拶に来ましたが、炎はその姓名をほぼ覚えています。今、河西、隴右の衆は皆敗北して賊へ降伏ましたので、父兄子弟が大勢賊の中にいます。これでは異図が生まれるかも知れません。朔方は道も近く、士馬も全盛ですし、裴免(「日/免」)は衣冠の名族です。絶対二心はありません。族が長安へ入れば、掠奪に励むでしょうから、他の土地へ回る閑がなくなります。この機会に速やかにあそこへ赴いて、ゆっくり大挙を図る。これが上策です。」
 衆は皆言った。
「善し。」
 渭浜へ到着すると、潼関の敗残兵と遭遇した。誤って彼等と戦い、大勢が死傷する。戦後、余兵を収容し、渭水の浅い所を選んで乗馬のまま渡る。馬を持たぬ者は、涕泣して帰った。
 太子は奉天から北上し、新平へ至る。夜通しで三百里を駆ける。士卒は器械を大半失い、兵数も数百に過ぎなかった。新平太守薛羽は、郡を棄てて逃げる。太子はこれを斬った。同日、安定へ到着する。ここの太守もまた逃げていた。これも斬る。
 太子が烏氏へ到着すると、彭原太守李遵が出迎えた。衣と乾飯を献上する。彭原にて士を募り、数百人を得た。同日、平涼へ到着する。牧馬を閲監して数万匹を得る。又、募兵して五百余人を得た。軍勢が少しは振るった。
 王思禮が平涼へ到着した。河西の諸胡が乱を起こしたと聞いて引き返し、行在を詣でる。
 初め、河西の諸胡部落は、その都護が皆哥舒翰へ従って潼関で戦死したと聞いた。だから、争って自立して互いに攻撃したのだ。しかし、都護は実は翰に従って北岸におり、戦死していなかった。また、火抜帰仁と共に賊に降伏したわけでもなかった。
 上は、河西兵馬使周泌を河西節、隴右兵馬使彭元耀を隴右節度使として、都護思結進明等と共に、これを鎮めて部落を招かせる。
 思禮を行在都知兵馬使とする。
(ここの上は、玄宗を指す説と、蕭宗を指す説と二つある。私は蕭宗説を採った。)
 賊軍は、長安に勝つと、既に大願が成就したと思い、日夜酒に溺れる。女漁りや財宝集めに精を出して、西進の意欲などなかった。だから上は危険な目にも会わずに蜀へ入れたし、太子も追撃の憂き目に会わずに北行できた。
 太子が平涼へ到達して数日、朔方留後杜鴻漸、六城水陸運使魏少遊、節度判官崔キ、支度判官盧簡金、鹽池判官李涵等が相談して言った。
「平涼は散地で、屯営する場所ではない。霊武は兵力も兵糧も豊富だ。もしも太子をここへ迎え入れ、北は諸城兵を収め、西は河、隴の勁騎を発し、南下して中原を平定したならば、これは万世の功績だ。」
 そこで涵を使者として、太子へ牋(幅の狭い紙)を奉った。かつ、朔方の士馬、甲兵、穀帛、軍須の数を献上する。涵が平涼へ到着すると、太子は大いに悦ぶ。
 やがて、河西司馬裴免が入って御史中丞となり、平涼へ到着して太子へ謁見すると、彼も玉太子へ朔方へ向かう事を進めた。太子はこれに従う。
 鴻漸は、進(「日/進」)の族子、涵は道の曾孫である。
 鴻漸とキは、少遊を後へ残して宿舎や資儲を整備させ、自身は平涼の北境まで太子を出迎えて、太子を説いた。
「朔方には、天下の精兵がいます。今、吐蕃とは講和し、回乞は帰順し、四方の軍県は大抵堅守して族を拒み、復興を待っています。殿下が今霊武の兵を管理し、轡を抑えて長躯し、四方へ檄を飛ばして忠義の士を収めれば、逆賊など物の数ではありません。」
 少遊は、宮室を盛大に飾り付け、帷帳は全部禁中を模倣し、膳には山海の珍味を揃えた。秋、七月辛酉、太子が霊武へ到着すると、これらを悉く片づけさせる。 

 六月戊申、扶風の民康景龍等の義勇軍が、賊の宣慰使薛総を撃ち、二百余級の首を斬る。
 庚戌、陳倉令薛景仙が賊の守将を殺し、扶風に勝って、これを守る。
 蜀や霊武へ貢献に行く江、淮の使者は、襄陽から上津の道を通り、扶風へ行くと、途中遮る者がいなかった。これは、皆、薛景仙の功績である。 

 裴免、杜鴻漸等は太子へを献上し、馬蒐での命令を遵守して皇帝位へ即くよう請うた。太子は許さない。
 免等は言った。
「将士は皆、関中の人間です。日夜故郷へ帰ることを思っているのに、殿下に従って険しい山道を遠くまでやって来たのは、尺寸の功をこいねがっているからです。もしも彼等が一旦離散したら、再び集めることはできません。どうか殿下、つとめて衆心へ従い、社稷の為に計ってください!」
 牋は五度献上され、太子はこれを許した。
 この日、霊武城の南楼に於いて、蕭宗が即位した。群臣は躍り上がって喜び、上は流涕して啜り泣いた。(これ以後、「上」とゆうのは蕭宗を指す。)
 玄宗を尊んで上皇天帝とし、天下へ恩赦を下して改元する。
 鴻漸、崔キを共に知中書舎人事とし、裴免を中書侍郎、同平章事とする。関内采訪使を節度使と改め安化を治めさせ、前の蒲関防禦使盧祟賁をこれに任命する。陳倉令薛景仙を扶風太守として防禦使を兼務させる。隴右節度使郭英乂を天水太守として防禦使を兼務させる。
 この時、塞上の精鋭兵は、皆、討賊に出ており、余った老弱の兵が辺境を守っていた。文武官は三十人に満たず、草をかぶせて朝廷を立てた。制度はできたばかりで、武人が驕慢だった。大将の管祟嗣は朝堂にあって、闕へ背を向けて坐り、気ままに言笑した。監察御史李勉がこれを上奏して弾劾し、役人へ下げ渡した。上は特にこれを赦し、感嘆して言った。
「吾に李勉があって、始めて朝廷が尊くなった!」
 勉は元懿の曾孫である。
 旬日の間に、帰順する人間が少しずつ増えていった。
 張良弟(「女/弟」)は知恵が回り、上意を汲み取るのが巧かった。上に随従して朔方まで来た。その頃は従軍兵が少なかったので、良弟は毎晩上の前にいた。上は言った。
「敵を防ぐのは婦人の仕事ではないぞ。」
 良弟は言った。
「危急の際には、妾が身を以て盾となります。陛下はその間にお逃げください。」
 霊武へ到着すると出産したが、産後三日で床を離れ、戦士の衣を縫った。上がこれを止めると、対して言った。
「今は、妾が養生できるような時ではありません。」
 これによって上は、益々愛おしがった。 

 丁卯、上皇が制を下した。
「太子の亨を天下兵馬元帥に充て、朔方、河北、平盧節度都使として、長安、洛陽を奪取させる。御史中丞裴免は左庶子を兼務させる。隴西郡司馬劉秩は試守右庶子とする。永王リンは山南東道、嶺南・黔中・江南西道節度都使とし、少府監竇紹をこれの傅とし、長沙太守李見(「山/見」)を都副大使とする。盛王gを廣陵大都督に充て、領江南東路及び淮南、河南等路節度都使とし、前の江陵都督府長史劉彙をこれの傅とし、廣陵郡長史李成式を都副大使とする。豊王共(「王/共」)を武威都督に充て、領河西、隴右、安西、北庭等路節度都使とし、隴西太守の済陰のトウ景山をこれの傅とし、都副大使とする。これらの士馬、甲仗、兵糧や兵士への給料は、全て各路にて工面せよ。その諸路の本の節度使カク王巨等は、従来通り節度使とする。官属及び本路の郡県官は各々で選び、奏聞せよ。」
 この時、gも共も共に閣を出ず、ただリンだけが鎮へ赴いた。山南東道節度使を設置し、襄陽等九郡を領有させる。 

 京兆の李泌は幼い頃から才敏で評判だったので、玄宗は彼を忠王の学友としていた。忠王が太子となった時、泌は既に長じていた。玄宗は彼を官へ就かせたかったが、できなかった。彼は、太子とは友達づきあいをして、太子は彼をいつも「先生」と呼んでいた。
 楊国忠は彼を憎み、地方へ移すよう上奏した。後、隠居することができて、穎陽に住んだ。
 上が馬蒐から北行すると、使者を派遣してこれを呼び、霊武にて謁見する。上は大いに喜び、出るときには轡を並べ、寝るときにはベットを並べる。太子だった頃のように、事は大小となく全て相談し、彼の発言には従わないことがなかった。将相の進退でさえ、彼と共に議論した。
 上は泌を右相としたがったが、彼は固辞して言った。
「陛下が賓友として接してくれれば、宰相のように貴くなれるのです。何で志を屈する必要がありましょうか!」
 上は、思い止まった。 

 安禄山に従って造反した同羅、突厥は、長安苑中に駐屯していた。甲戌、その酋長阿史那従禮が五千騎を率いて厩馬二千匹を盗み、朔方へ逃げ帰った。諸胡と結託して辺地を占領しようと謀る。
 上は使者を派遣して宣撫したので、降伏する者が非常に多かった。
 長安は、同羅、突厥が逃げ帰ったので大騒動になった。官吏が逃げ隠れたので、囚人達は逃げ出した。京兆尹崔光遠は賊から逃れるために、孫孝哲の宅へ吏卒を派遣して守った。孝哲は書状で禄山へ知らせる。光遠と長安令蘇震は府、県官十余人を率いて来奔した。己卯、霊武へ到着する。
 上は光遠を御史大夫兼京兆尹として、彼へ渭北の吏民を集めさせた。震は中丞とする。震はカイの孫である。
 禄山は、田乾眞を京兆尹とする。
 侍禦史呂煙、右捨遣楊綰、奉天令の安平の崔器が相継いで霊武へやって来た。煙、器を御史中丞、綰を起居舎人、知制誥とする。
 上は、河西節度使李嗣業へ兵五千を率いて行在へ来るよう命じた。嗣業は節度使梁宰と謀って、ゆっくり行軍して状況を観望した。すると、綵徳府折衝段秀実が、嗣業を詰って言った。
「君父の危急の時に、晏然として駆けつけない臣子がどこにいますか!特進はいつも大丈夫を以て自認していましたが、今日の行いは女子と変わりませんぞ!」
 嗣業は大いに慙愧し、即座に数通り兵を発するよう宰へ言った。秀実は自ら副となってこれを率いて行在へ赴く。
 上はまた、安西の兵も徴発する。行軍司馬李栖均(「竹/均」)は精兵七千を発し、忠義で励まして派遣した。
 回乞可汗と吐蕃贊普が相継いで使者を派遣し、国を助けて賊を討とうと言ってきた。宴を賜って、これを遣る。 

 敕がおり、扶風を鳳翔郡と改称した。 

 建寧王炎は、果敢な性格で才略があった。上に随従して馬蒐から北行した時、兵力が少なかったので、しばしば寇盗に遭遇した。炎は自ら驍勇を選び、上の前後にいて、上を守って血戦した。時には、上は食事時になっても食べられないことがあった。そんな時、炎は悲しみに耐えられないように泣いた。だから、軍中の皆は、彼を崇拝していた。
 上は、炎を天下兵馬元帥にして、諸将を統べて東征させようと思った。すると、李泌は言った。
「たしかに、建寧には元帥の才覚があります。ですが、廣平は兄です。もしも建寧が功績を建てたら、廣平を呉の太伯になさるのですか!」
「廣平は世継ぎだ。元帥の位を与えなくても、重みが有るぞ!」
「廣平は、まだ正式に太子となったわけではありません。今、天下は艱難の最中で、元帥は民の希望の的なのです。もしも建寧が大功を建ててしまえば、陛下が世継ぎにしたくなくても、彼に従って功績を建てた者達がおとなしく引き下がるでしょうか!太宗や上皇の時がそうだったではありませんか!」
 そこで上は廣平王俶を天下兵馬元帥とし、諸将は全てその指揮下へ入れた。
 炎は、これを聞いて泌へ感謝し、言った。
「これこそ、炎の想いだ!」
 上が泌と共に行軍すると、軍士はこれを指さしてヒソヒソと言った。
「黄色い衣は聖人。白衣など庶民ではないか。」
 上は、これを聞いて泌へ告げた。
「艱難の際だ。膝を屈して宮仕えしてくれとは言わないが、民へ疑念を持たせない為、しばらくの間だけでも紫袍を着けてくれ。」
 泌はやむを得ず、これを受けた。
 身につけて挨拶に行くと、上は笑って言った。
「既にこれを来たのだから、官職がないとゆうわけにはいかんな。」
 懐から敕を取りだして、侍謀軍国、元帥府行軍長史とした。泌が固辞すると、上は言った。
「朕は、どうしても臣下にしようとしているのではない。艱難を救いたいだけだ。賊が平定されたら、高志に任せるぞ。」
 泌は、これを受けた。
 禁中に元帥府を置いた。俶が府へ入れば、泌も府へ入った。泌が入れば、俶も同行した。
 泌はまた、上へ言った。
「諸将は天威を畏れ憚っています。もしも陛下の前にて軍事を陳情させれば、あるいは陛下の態度に落胆することがあるかも知れません。万一の小さい蹉跌でもその害は甚大です。まず、臣と廣平へ熟議させてください。臣と廣平でゆっくりと相聞し、陛下はそれを聞いて裁可してください。」
 上はこれを許す。
 この頃は軍事多端で、暮れから暁へ至るまで、四方からひっきりなしに奏報が届いた。上は、これを悉く府へ送らせる。泌が先に目を通し、緊急な物や烽火、重封だけは門を隔てて上へ通達した、その他は夜が明けるのを待ってから通達した。禁門の鍵は、全て俶と泌へ委ねた。 

 阿史那従禮が九姓府、六胡州の諸胡へ結集するよう説得した。数万人が集まり、経略軍の北へ布陣して朔方を襲撃しようとする。上は、天徳軍の兵を発してこれを討つよう郭子儀へ命じる。
 左武鋒使僕固懐恩の子息の分(「王/分」)が別に兵を率いて虜と戦い、敗北して降伏した。どうにか逃げ帰ったが、懐恩はこれを叱りつけて斬った。将士は慄然として、一人あたま百人と戦う。遂に、同羅を破った。
 上は、朔方の衆を入手したけれども、それ以外にも外夷の兵を借りて軍勢を張ろうと思い、タク王守禮の子息承采(「ウ/采」)を敦煌王として、僕固懐恩と共に回乞へ使者として兵を請うた。また、抜汗那の兵を発して西域のオアシス諸国を巡回させ、重賞を餌に出兵を諭した。この兵は安西兵と合流させ救援軍とする。
 李泌は上へ進めた。
「しばらく彭原へ御幸して西北の兵が到着するのを待ち、扶風まで進んでこれに呼応しましょう。その頃には庸調も集まるでしょうから、それを軍へ振る舞えます。」
 上はこれに従う。
 戊辰、霊武を出発する。 

(王陽明、論じて曰く)
 蕭宗は、霊武にて自分の意志で即位した。君臣父子の大倫を以て律するならば、その罪は逃げられない。
 裴免、杜鴻漸等がこれを勧めたのは、社稷の為と名分を唱えたが、実は推戴の功績によって宰相の地位に坐ろうとの心だった。その心様は、誅殺に値する。
 史書は記する。
「顔魯卿が赦書を諸軍へ頒布すると、河南、江淮は蕭宗の即位を知り、国へ殉じようとの心が益々強くなった。」と。
 これではまるで、この一挙を人心収拾の大計と評しているようだ。だが、それがどうして正しかろうか。
 玄宗は徳を失って乱を招いたとはいえ、まだ道を失うまでには至っていなかった。
 後宮では淫荒が満ち、朝廷の人事は乱れ、賊へ権限を授けた。寇の力を養い、人倫を破り明教を傷つける。まことに、君帥となって下民を助ける能力などない。
 しかしながら、誅殺を妄りに行ってはいなかった。かつて、後漢の桓帝や霊帝が傍掠し宋の哲宗や徽宗が鼠逐したのとは、訳が違う。賦役も、頻繁には行わなかった。秦が長城や阿房宮を築き、隋が高麗を出征し大運河を開いたような真似はしなかった。天は玄宗を助けなかったが、人々は、唐の徳を厭うてはいなかったのだ。
 対して安禄山は凶淫狂躁な雑胡の分際で挙兵して闕へ逆らった。その上、志を得るとすぐに驕り、目先の謀略ばかりで国家の基礎を固めようともせず、民へは何の恩恵も施さない。
 これはかげろうが春秋を知らないような物。人々はその勢力もすぐに失落する事を知っていた。どうして霊武の詔を待って、始めて天下が動いて逆を去り順に従ったりするものか。
 とはいうものの、蕭宗が立たなければ、天下の行方が判らなくなるような要因も、確かにあった。幸いにしてそうはならなかったとはいうものの、それは人々がその変事が起こる可能性に気が付かなかっただけに過ぎない。
 国が確固としていなくても、君主が不善だと言っても、一寇が立って速やかに国が滅んだとゆう試しなど、いまだかって一度もなかった。秦のように無道でも、陳渉がこれに代わって興ることはできなかったではないか。ましてや唐は建国して百年、その間民への荼毒はなく、天寶の豊かな生活に至っては古今未曾有だったのだ。どうして容易に滅ぼせようか。
 だが、それでも先行きの判らない要因があった。
 乱は、新たな乱を招く原因である。乱を平定した者は、乱によって権力を増大させる。袁紹や曹操は董卓を討伐したが、後漢は袁・曹によって滅ぼされた。劉裕は桓玄を誅殺したが、晋は劉裕に滅ぼされた。
 禍が発生して、それだけで収まらなければ、その極みはどうなってしまうだろうか。これを速やかに平定することができなければ、慮外の変事が相継いで、天下は分崩してしまうだろう。つまり、安史が滅んでも、唐は汲々と喘ぐ羽目に陥ってしまったに違いない。
 今、当時のことを考えてみよう。玄宗は東京陥落を聞くと、すぐに太子を監国にしようと欲した。馬嵬を出発する時には、帝位を伝えることを宣言した。だが、それから幾ばくも経たないうちに、太子を元帥とし、諸王へ天下の節制を分統させ、太子の権威を分断した。
 すぐに与えて、すぐに奪い、天下の人々へ疑いを持たせ、結果として紛争を招く。いわゆる、「一言にして邦を滅ぼすことのできる物」が、ここにあるのだ。
 盛王g、豊王共は、共に駕に随従して蜀へ行った。呉王祗、カク王巨は、共に専征の命令を受けた。永王リンが江南へ出て行った時には、既に心中に異志を抱いていた。これは、蕭梁で骨肉が分かれ争った勢である。
 河北や隹陽の義兵は、帰順する相手が判らず、河西の李嗣業は自領を守って形勢を観望しようとした。安西の李栖均はますます遠くへ行って、動こうともしない。李光弼、郭子儀は勤皇の志がありながらも一旦兵を納めて井へ入り、主君を求めようとして得られず、誰に従うか迷った。同羅は叛き帰って諸胡と結んで隙を窺った。僕固分は敗れて賊へ降伏し、道案内となって河東・朔方を掣肘した。これは、後漢末の三国分立の形である。
 一路を奮起させて賊を討伐させても、諸方がその指揮下へ入らなければ、結局は争競が起こってしまう。これは、李克用、朱全忠が共に降らなかった形だ。
 諸王が各々一鎮に據って自立し、諸鎮が各々これを差し挟んで名分とする。それは西晋の八王の禍だ。
 今になって当時の情勢を考えてみれば、安史が滅びないなどと憂う必要はない。だが、安史を滅ぼした者が唐を滅ぼすことを憂うるのだ。
 玄宗が思いつきで発した二、三の命令を名分として、諸王が四方に割拠して自立する。そうなれば、太子に元帥の虚名があったとしても、どうやって統一して戦うことができるのか。
 玄宗が躊躇して決断できず、天下を太子へ授けるのをおしんだのは、全て楊国忠の万死の罪である。その父子の間を離間して、乱を招く下地を作ったのは、一朝一夕のことではないのだから。
 このような状況にあって、蕭宗が速やかに即位したからこそ、天下は挙って一つに帰順したのだ。そうして、西方は涼隴を収め、北は朔夏を撫し、身を以て賊に当たり、討伐の功績を他人へ分かたなかった。こうして諸王や諸帥は、乱を起こせるような名分を手にすることができなかったのだ。
 天がまだ唐を厭わずに、裴杜の欲心を開き、その私心を以て公を救わせたのは、唐にとっては無常の幸いだった。
 けだし、蕭宗はそこまで考えを巡らせたからこそ即位したのだ。免や鴻漸などの考え及ぶところではない。
 だから蕭宗は、勝手に即位した罪を逃れることはできないけれども、まだ赦される。対して免や鴻漸が、大倫を破って推戴の功績を求めた事に冠しては、そのおかげで唐が安泰になったとは言っても、名教の罪人である。心の中に悪があるのだ。どうして仮借できようか。 

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