宗教
 

 上は内に道場を作り、いつも僧侶数百人に晨夜お経を読ませていた。張鎬は諫めて言った。
「帝王は徳を修めて乱を治め人を安んじるべきです。僧侶へ斎を施して泰平にしたとゆう話など、聞いたことがありません。」
 上は同意した。 

 乾元元年(758)三月辛卯、新主が太廟へ入る。
 甲寅、上が太廟で享し、遂に昊天上帝を祀る。
 乙卯、明鳳門へ御幸し、天下へ恩赦を下す。 

 同月乙未、崔圓を太子少師、李麟を少傅として、ともに政事をやめさせた。上は、鬼神をとても好み、太常少卿王與(「王/與」)は、専ら鬼神に依って媚びを求め、礼儀を協議する度に巫祝俚俗を多く交えた。上はこれを悦び、與を中書侍郎、同平章事とした。
 六月己酉、南郊の東へ太一檀を立てる。王與の請願にしたがったのだ。
 上がかつて危篤だった時、卜したら山川の祟りと出た。與は、中使と女巫を駅に乗せて派遣し、天下の名山大川を祈祷させるよう請うた。巫は勢いを恃み、通過する州県でやりたい放題に賄賂を貪った。
 黄州に巫女が居た。美人で女盛り。無頼の少年数十人を随従させ、巫蠱を頻繁に行った。黄州へ到着すると、駅舎へ泊まる。刺史の左震が早朝に駅へ到着すると、門へ鎖が懸かっていて、開かない。震は怒って、鎖を破って入り、巫女を曳きだして階下にて斬る。随従していた少年達も皆殺しにした。その所蔵する財産を調べたら、数十万にも及んだ。これを具に上聞し、その財産で貧民の租を贖うよう請い、中使は京師へ追い返した。上は、罪に問わなかった。
 二年正月戊寅、上が王與の言葉を用いて、九宮貴神を祀った。
 乙卯、籍田を耕す。 

 上元元年(760)正月、上が、九宮の貴神を祀る。 

 閏月、太公望を武威王と追諡し、歴代の名将を選んで亜聖、十哲とする。その中祀、下祀、雑祀は一切停止する。 

 二年九月甲申、天成地平節。上は、三殿へ道場を設置し、宮人を仏菩薩とし、武士を金剛神王とする。大臣を呼んで膜拝囲繞する。
 十一月壬午朔、この月を建子月として、年の初めとする。上は朝賀を受ける。これは、正月の儀に倣った。以後、元の月に戻すまで、一年が二ヶ月ずれることになる。
 己酉、上が太清宮にて献する。
 庚戌、太廟と元献廟で享する。
 建丑月辛亥朔、圜岡と太一檀を祀る。 

 寶應元年(762)建巳月壬子、楚州刺史崔先(「人/先」)が上表した。
「眞如とゆう尼がおります。彼女は恍惚として天へ登り、上帝へ拝謁しました。そして、寶玉十三万を賜り、言われました。『中国に災いが起これば、これで鎮めよ。』と。」
 群臣は賀を表した。

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