政治制度
 

  至徳元載(756年)六月、蕭宗即位。
 二年正月、安禄山が、子息の慶緒に殺された。 

  

 将軍王去栄が私怨で本県令を殺した。これは死罪に相当する。だが、彼はコウ(岩を飛ばす武器。)の名手だった。
 六月壬辰、上は死を赦免して一兵卒として陜郡にて力を尽くさせるよう命じた。だが、中書舎人賈至は即座には出発せず、上表した。
「去栄は無法にも本県の君を殺しました。易に言います。『臣が君を弑する。子が父を弑する。突発的な事件ではない。長い間に次第に積もった結果である。(坤卦、文言の辞)』もしも去栄を放免したら、それは次第に積もり始めたと言えます。『陜郡は奪回したばかりだから、有能な人間でなければ守れない』と、議者は言いますが、それならばいずれ去栄がいなくなってしまったら、どうやって堅守するのですか?陛下がもしも砲弾一つの為に死を免じられるとしましょう。しかし、今、諸郡の中で一芸に秀でた者は大勢居ります。彼等は必ずや自分の能力を恃み上を犯します。どうやって止めるのですか!もしも去栄一人だけを捨て置いてその他の者を誅殺するのならば、これは均一でない法令が、人々を罪に誘い込むのです。今、一去栄の能力を惜しんで殺さなければ、必ずや去栄のような能力を持った者十人を殺すことになります。なんと、更に多くの人を傷つけることではありませんか!それ去栄は逆乱の人間です。ここにては逆で、あそこでは順とゆうことがありましょうか。富平では乱で、陜郡では治とゆうことがありましょうか。県君へ対しては悖逆で、大君へ対しては不悖とゆうこがありましょうか!その遠きものを全うする明主こそが偉大です。そうすれば、禍乱など、すぐにでも平定できますぞ。」
 上は、これを百官へ下げ渡して議論させた。
 太子太師韋見素等は、次のように決議した。
「法は、天地の大典です。帝王でさえ、なお、勝手に人を殺したりしません。去栄を赦したら、それは臣下の権利が人主以上だとゆうことになります。去栄が人を殺したのに死ななければ、軍中にて技能を持つ者は、皆、『自分は何の憂いもない』と言って、横暴になります。それでは軍泰主や県令となるのが困難ではありませんか!陛下は天下の主人です。民への愛情に親疎があってはなりません。一人の去栄を得ても万姓を失うのでは、何の利益がありましょうか!律に於いて、本県令を殺すのは、十悪の一つに挙げられています。それなのに陛下がこれを赦せば、王法は行われず、人倫の道は屈し、臣等は詔を奉じてもどれに従って良いのか判りません。それ国は法を以て理とし、軍は法を以て勝ちます。恩あって威がなければ、慈母でさえ子供を育てられません。法があれば海内に勝てないとゆう憂いはありません。況や陜郡など!法がなければ、陜郡でさえも守れません。これを得ても何の益がありましょうか!ましてや去栄の末技など、陜郡の存亡に関わりません。王法の有無こそが、国家の軽重です。区々たる臣等が陛下へ貞観の法を守るよう請願いたしますのも、その為でございます。」
 上は、遂に去栄を捨てた。
 至は曾の子息である。 

 崔渙が江南で登用した人間には、無能な者が多かった。八月、渙をやめさせて、餘杭太守、江東采訪・防禦使とした。 

 十二月、左、右神武軍を設置し、馬蒐や霊武まで上へ随従した兵をこれに充てる。その制は皆、四軍と同じ。これを北牙六軍と総称する。また、騎射の巧い者千人を選び、殿前射生手と為し、左右の廂に分ける。号して英武軍と言う。
 河中防禦使を節度使に昇格し、蒲、絳等七州を領有させる。
 剣南を分けて東、西川節度とする。東川は梓、遂等十二州を領有する。
 また、荊豊(「水/豊」)節度を設置し、荊、豊等五州を領有させる。キ峡節度を設置し、キ、峡等五州を領有させる。安西を鎮西と改称する。 

 乾元元年(758)五月壬午、采訪使を廃止し、黜陟使を観察使と改称すると、制が降りた。 

 山人韓穎が新暦を改造した。六月丁巳、始めて穎暦を施行する。 

 七月丙戌、一枚で十銭に相当する大銭を初めて鋳造する。面には「乾元重寶」と書いてある。御史中丞第五gの謀に従ったのである。 

 十二月甲辰、浙江西道節度使を置き、蘇、潤等十州を領有させた。昇州刺史韋黄裳をこれに任命する。
 庚戌、浙江東道節度使を置き、越、睦等八州を領有させる。戸部尚書李亘(「山/亘」)をこれに任命し、淮南節度使を兼任させた。 

 平盧節度使王玄志が卒した。上は中使を派遣して将士を慰撫させると同時に、軍中の人々が主君に推したがっている者を察して旌節を授けるよう命じた。
 高麗の人李懐玉は、裨将だったが、玄志の子息を殺し、侯希逸を平盧軍使とした。希逸の母は、懐玉の姑である。だから懐玉はこれを立てたのだ。
 朝廷は、希逸を節度副使とした。節度使が、軍士から廃立されるのは、ここから始まった。
(臣光曰く。)
 民は生まれながらにして欲望があるので、君主が居て規制しなければ乱れる。だから聖人は礼を制定してこれを治めたのである。
 天子、諸侯から卿、大夫、士、庶人へ至るまで、尊卑にはそれぞれの本分があり、長幼には序列がある。それが、まるで太い綱と細い綱が助け合って網を作り、肱が手指を使うような有様で機能していたとしたなら、そのようであってこそ、民は上へ服従し、下の者が上の隙を窺うようなことがなくなるのである。周易で言う、「上天、下沢の履」の象だ。
 その象伝に言う。
「君子はこれによって上下を弁じ、民の志を定める。」と。
 およそ人君は、八柄がしっかり確立していればこそ、民を臣下とできるのである。これを棄ててしまって、諸侯をその陪臣達と同列に置く。これでどうやって下を使えるのか!
 粛宗は、唐の中衰の時代に即位して、幸いにも国を復した。だから、上下の礼を正して四方の綱紀を糺すべきだった。それなのに、永久の患いを思わずに一時の安穏を貪る。
 だいたい、将帥を任命し藩鎮を統べることは、国の大事である。それを一介の使者に委ね、軍士の情に盲従し、賢・不肖も問わずに、ただ彼等が望む者へこれを授けた。この後、いつしかこれが慣例となり、君臣共にこの方法に従い、実情にあった方策だと言われるようになった。こういうのを姑息と言うのである。
 挙げ句の果ては、部将や士卒が主将を殺害・放逐しても、その罪を糾明しないどころか、その地位や任務も彼等へ授けるようになってしまった。これは、爵禄、廃置、摂政、与奪が皆、主君からではなく臣下達から出されるとゆうことだ。これでは、乱は止めどなく生まれ続けて終わることがないぞ。
 それに、国家は善を賞し悪を誅する為に存在しているのだ。だからこそ、善を勧め悪は懲らす。下の者が上の者を殺逐するなど、悪の大なるものではないか!それなのに、旌を抱き鉞を執らせ、一方の師長とするのは、これを賞したのである。賞を以て悪を勧めたら、悪はどうして極まらずに済むのか!
 書経に言う。
「汝の計を遠大にせよ。」
 詩経に言う。
「計を立てるとき、遠くまで見通さない。これ故に、君を大いに諫める。」
 孔子は言う。
「人に遠き慮がなければ、必ず近き憂いがある。」と。
 天下の政治を執っているのに、姑息な手段にのみ専念する。その憂いはとても量りきれないぞ!
 これによって、下の者は眈々と上を窺い、少しでも隙を見たら即座にこれを攻めて一族を殲滅する。上の者は常に惴々と下を畏れ、つけ込む隙を見つけたら嵩に懸かって屠殺する。先手を打って思いを遂げようと争うばかりで、互いに保養しあって長久に栄えようとの計がない。このような有様で天下の安泰を求めても、なんで得られようか!
 この後、世の風潮はますます酷くなって行くが、その始まりはここにあるのだ。
 昔は、必ず礼を基本にして軍を治めた。だから晋の文公は、城濮の戦いで軍隊に序列が整然としているのを見て、その活躍が期待できるとした。
 今、唐は軍を治めるのに礼を顧みず、士卒へ部将を凌駕させ、部将へは将帥を凌駕させた。それならば、将帥が天子を凌駕するのも、自然の勢いである。
 こうして、禍乱は次々と起こり、兵乱の止む時もなく、民は塗炭の苦しみへ突き落とされても訴えるところのないままで二百余年が過ぎ、その後に大宋が天命を受けた。
 太祖が始めて軍法を定め、階級の秩序を正しくし、少しでも犯す者が居たら、皆、厳罰に伏した。ここを以て上下は厳格になり、禁令は施行され、四方を征伐して、服従しない者はなく、海内は安らかに、兆民は繁栄し、今へ至っている。
 これは皆、礼を以て軍を治めたおかげである。これこそ、謀を遠くまで遺すことではないか!
(訳者、曰く)
 主人の子息を殺して、勝手に別の人間を立てる。どう転んでも処刑するのが当然ではないか。それへ対して司馬光は、孔子の言葉を引用して非難した。わざわざ聖人の言葉を待つ必要があるのか!
 考えてみれば、孔子が生きていた時代には、このような事件は結構頻繁に起きていた。それならば、孔子が述べ立てて非難した悪行は、ここまで極まったレベルを指していたのだろうか?
 今の日本では、殺人をして褒められることなど絶対にあり得ない。それならば、孔子がこの様なことを念頭に置いて説いた言葉を、今の日本人が額面通りに受け取って良いのだろうか?
 そもそも儒教は中庸の徳を第一としている。「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うが、世の中に善悪はない。丁度善いところで留まれば善であり、それより行きすぎても少なすぎても悪である。それならば、貪、虐、暴のような俗に言う悪徳でも、今の日本で日常的に起こる些細なレベルで相手を非難するとするなら、これは行き過ぎになるのではないか?悪を憎む心が強すぎると、残忍な人間に成り下がるのだ。
 私は、今まで論語は何度も読んでいたが、いつも自分の日頃の行いを顧みながら考えていた。だが、孔子の生きた時代を背景にしてもう一度読み返し、その上で、今の日本に於いてはどのレベルまで適応させるべきか、もう一度考え直してみたくなった。 

 この年、振武軍節度使を設置し、鎮北大都護府と麟、勝二州を領有させる。
 又、陜、カク、華及び豫、許、汝に節度使を設置する。
 安南経略使を節度使とし、交、陸等十一州を領有させる。 

 二年九月戊辰、絳州へ、乾元重寶の大銭を改鋳させた。重輪を銜えて、一枚を五十銭とする。
 戦費を優先した為、在京の百官へは俸禄が出せなかった。そこで、新銭を造って冬料を給付したのである。
 十一月、第五gが乾元銭、重輪銭を造り、開元銭と併せて三種類の銭が流通した。
 民は争って偽造し、貨幣価値が下がって物価が上がった。穀物の価格は高騰し、餓死する者が相継いだ。上言する者は、皆、その罪をgになすりつけた。
 庚午、gを忠州長史へ降格する。御史大夫賀蘭進明は、gの党類として有罪になり、湊州員外司馬へ降格となった。
 第五gが任地へ出立した後、ある者が、「gは二百両の金を受け取った。」と告発した。そこで、御史の劉期光を派遣して、詮議させた。
 gは言った。
「gは宰相だった時、二百両の金は持ち歩けなかった。もしも金を受け取って依頼事を聞いたというのなら、律に準じて罰を与えてください。」
 期光は帰ると、”gは罪を認めた。”と上奏した。
 上元元年(760)二月庚戌、gは有罪となり、除名のうえ、夷州へ長く流された。
 三種類の銭が流通して久しい上、飢饉になった。米は一斗が七千銭となり、人々は人肉まで食べた。京兆尹鄭叔清は銭の偽造者を捕まえたが、数ヶ月の間に八百余人を処刑して曝しても、偽造をやめさせる事はできなかった。
 六月、京畿へ敕が降りた。”開元銭と乾元の小銭は十銭に相当し、その重輪銭は三十銭に相当する。”と。
 諸州へ対しては、様子を見て施行することとした。
 この時、史思明も又順天銭を鋳造した。これ一枚で、開元銭百枚に相当した。だから、賊の支配領域では、物価が最も高騰した。
 癸丑、天下の重稜銭も、畿内同様、三十銭とするよう敕した。
 寶應元年(762)五月、代宗皇帝は乾元の大小銭を全て一枚一銭とする。民は、始めて落ち着いた。 

 上元元年(760)三月甲申、蒲州を河中府と改称する。 

 閏月丁卯、河東節度使王思禮へ司空を加える。
 武徳年間以来、宰相にならないのに三公を拝受したのは思禮が始めてである。 

 九月甲午、荊州へ南都を置く。荊州を江陵府とし、永平団練兵三千人を置き、呉、蜀の抑えとする。
 十月丙子、青、斤(「水/斤」)等五州節度使を設置する。
 二年正月、江南の淡、岳、林(「林/里」)、邵、永、道、連、黔中をバイ州として、全て荊南へ隷属させるよう、荊南節度使呂煙が上奏して請うた。これに従う。 

 九月、江・淮が大飢饉で、人々は人肉を食い合った。 

  十一月壬午朔、この月を建子月として、年の初めとする。上は朝賀を受ける。これは、正月の儀に倣った。以後、元の月に戻すまで、一年が二ヶ月ずれることになる。 

 寶應元年(762)建卯月辛亥朔、天下へ恩赦を下す。京兆を上都、河南を東都、鳳翔を西都、江陵を南都、太原を北都と改称する。 

  

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