蕭宗反撃
 
 戊辰、霊武を出発する。
 内侍辺令誠が、賊中から逃げ帰ってきた。上は、これを斬る。
 丙子、上は順化へ到着した。
 韋見素等が成都から来て、上へ寶冊を献上する。上は、受け取らずに言った。
「これは、中原が戦乱に巻き込まれたので、百官を統率するための処置だ。危難に乗じてこれ幸いと即位するような真似が、どうしてできようか!」
 群臣も固く請うたが、上は許さない。寶冊は別殿へ移し、定められた礼の通りに朝夕拝礼する。
 韋見素はもともと楊国忠へ諂っていたので、上は、彼を蔑視していた。対して房官の名声をもともと耳にしていたので、上は虚心に彼を待った。官は上へ謁見すると時事を語った。その有様が悲憤慷慨していた為、上は居住まいを改めた。これによって、軍国の事の多くは官と謀った。官もまた、天下を自分の仕事と思い、知りて行わないことはなく、諸相は、手を拱ねいているだけだった。 
 上皇が、張良テイへ七宝の鞍を賜下した。李泌は上へ言った。
「今、四海は分崩しております。人々へ倹約を示さなければなりませんから、良テイがこれへ乗るのは、宜しくありません。その珠玉は撤廃して官庫へしまい、戦功を建てた者への褒賞に使うべきです。」
 良テイは閤の中から言った。
「同郷のよしみがあるのに、そんなことまで言いますか!」
 上は言った。
「先生は、社稷の為に計ってくれているのだ。」
 そして、これを撤廃するよう命じた。
 建寧王炎が廊下にて泣き、その声は上にまで聞こえた。上が驚いて呼び寄せると、対して言った。
「臣は禍乱が終わらないことを憂えていましたが、今、陛下は甘言へ流れるように従われました。陛下が長安にて上皇を迎え入れる日も遠くないでしょう。それを思えば、喜びが極まって悲しくなったのです。」
 良テイは、この一件で李泌と炎を憎んだ。
 上がかつて、くつろいだありさまで泌と李林甫の事を語った。諸将が長安を回復したら、彼の墳墓を暴いて骨を焼き、灰にして撒き散らしたいと語ると、泌は言った。
「陛下が天下を平定されたら、死んだ者へ復讐する必要がありましょうか!枯れ果てた骨は、何をされても感じません。ただ聖徳の狭量を示すだけです。それに、今、賊に従っている者は、皆、陛下の讐なのです。彼等がその話を聞いたら、改心しようとゆう心を阻んでしまいますぞ。」
 上は不機嫌になり、言った。
「あの賊は、昔、手を尽くして朕を危難へ落とし入らせ、朕は朝夕を保つことさえできなかった。朕が無事だったのは、天幸以外の何物でもない!それに林甫は、卿のことも憎んでいた。ただ、手を下す前に死んでしまっただけだ。なんで彼を不憫がるのか!」
「臣がどうして知らぬ訳がありましょうか!ただ、上皇は五十年間天下を統べて泰平を謳歌していましたのに、一朝にして失意し、遠く巴蜀まで疎開されているのです。南方は季候が悪く、上皇は御高齢。そんな中で陛下のその敕を聞けば、必ずや韋妃へのつらい仕打ちを思い出して、慚愧の想いに耐えきれなくなるでしょう。万一、その気鬱が高じて病気になったら、陛下はこの広い天下を手にしながらたったお一人の父親を安楽にさせることもできないとゆうことですぞ。」
 その言葉も終わらない内に、上は涙で顔を濡らし、階段から下りて天を仰いで言った。「朕はそこまで考えが及ばなかった。これは、天が先生の口を借りて伝えてくださったのだ!」
 遂に泌の首にしがみついて泣き濡れた。
 他日、上は又泌へ言った。
「良テイの祖母は昭成太后の妹で、上皇も忘れられないお方だ。朕は、立后して上皇の心を慰めようと思うが、どうかな?」
 対して言った。
「陛下は、寸尺の功績を建てたいとゆう群臣の望みを叶える為に、霊武にて即位なさったのです。これは、私利私欲ではありません。しかし、家事については、上皇の命令を待ってからにしても、わずかな歳月の違いではありませんか。」
 上は、これに従った。 

 十月、上が順化を出発した。癸未、彭原へ到着した。 

 李林甫が宰相だった頃、諫官は上言する前にまず宰相へ言い、退出した後にも上言したことを宰相へ語った。御史の言った事へは、大夫は全て同様に署名した。ここに至って、この弊を改めるよう敕が降りて、諫争の道が開けた。
 また、宰相は筆と承旨の二役を旬日おきに交互に務めるようにさせた。林甫や楊国忠の専権に懲りたのである。
 同月、第五gが、彭原にて上へ謁見した。江、淮の庸調を売って軽貨とし、江、漢を遡って洋川へ持って行き、そこから先は扶風まで漢中王禹へ陸送させて軍用とするよう請うた。上は、これへ従う。
 次いで、gへ山南等五道度支使を加えた。gは塩を専売にして国用にした。 

 房官は賓客を喜び、談論を好んだ。知名の士を多く引き抜き、無名の者を軽視したので、大勢の人が怨んだ。
 北海太守賀蘭進明が行在所へやって来ると、上は、南海太守、兼御史大夫として嶺南節度使に充てるよう官へ命じた。それなのに、官は摂御史大夫とした。進明が入って謝すると、上は摂御史大夫となったことを訝しんだ。そこで進明は、官への不満を語り、かつ言った。
「晋は王衍を三公として、浮虚を尊び、中原を失ってしまいました。今、房官は口先だけの美言で虚名を立て、浮華の党ばかりを引き立てています。まさしく、 衍の類です!陛下が彼を宰相として用いたのは、社稷の福にならないと恐れます。それに、官は南朝にて上皇の補佐をしておりましたが、彼の進言のせいで、陛下は諸王へ諸道を分掌させることになりました。これでは、陛下は沙塞空虚の地位へ祭り上げられます。そして奴は私党の人間を諸道へ配置してそれぞれに大権を握らせました。その本意は、上皇のどの子息が天下を得ても、自分は富貴を失わずにいようというものです。これがどうして忠臣の所業でしょうか!」
 これによって、上は官を疎むようになった。(ちなみに、この一件で房官が賀蘭進明を憎んだ為、進明は張巡の救援に出向けなかった。この話は「スイヨウの攻防」に詳記する。)
 房官は、自ら兵を率いて両京を回復することを上疏した。上はこれを許し、持節、招討西京兼防禦蒲・章(「水/章」)両関兵馬、節度等使を加えた。官は、自ら参佐を選ぶことを請い、御史中丞トウ景山を副、戸部侍郎李揖を行軍司馬、給事中劉秩を参謀とした。出発した後、また、兵部尚書王思禮を副とした。
 官は、軍務を全て李揖と劉秩へ任せたが、二人とも書生で軍事のことは素人だった。
 官は、人へ言った。
「川を渡った賊徒は数こそ多いけれども、どうして我が劉秩へかなおうか!」
 官は、全隊を三軍に分けた。裨将楊希文は南軍を率いて宜寿から入り、劉貴哲は中軍を率いて武功から入り、李光進は北軍を率いて奉天から入る。

 光進は、光弼の弟である。
 賀蘭進明を、河南節度使とする。
 房官は中軍、北軍を前鋒とした。庚子、便橋へ到着する。
 辛丑、二軍は咸陽の陳濤斜にて賊将安守忠と遭遇した。
 官は、古法に倣って車戦を用い、牛車二千乗を馬歩が挟むような陣立てをした。賊は、順風に乗って軍鼓を打ち鳴らす。牛は皆、震え上がった。そこで賊徒は火を放ったので、人畜共に大いに乱れた。官軍の死傷者は四万余人。生存者は数千人だけだった。
 癸卯、官は自ら南軍を率いて戦ったが、また敗れた。楊希文、劉貴哲は共に賊へ降伏する。
 上は官の敗北を聞いて大いに怒った。だが、李泌が取りなしたので、怒りもどうにか収まり、官とは従来通り接した。
 薛景仙を関内節度副使とする。
 上皇の命令で、穎王ゲキ、陳王珪、延王分が蜀から上の元へやって来た。その詳細は、「上皇西進」へ記載する。 

 敦煌王承采が、回乞の牙帳へやって来た。回乞可汗は、彼へ娘を娶せた。そして自分の貴臣と承采を僕固懐恩と共に遣り、彭原にて上へ謁見させた。上は、その使者を厚く礼遇して帰し、回乞の娘へ毘伽公主の称号を賜下した。
 于眞(「門/眞」)王勝は、安禄山の造反を聞くと、その弟の曜を摂国事として、自身は五千の兵を率い救援にやってきた。上はこれを嘉し、特進、兼殿中監を拝受する。 

 十二月、上は崔渙へ、江南の宣慰と人材の推挙を命じた。 

 上が李泌へ問うた。
「今、敵はこんなに強い。いつになったら平定できるのだ?」
 対して言った。
「臣の観るところ、賊は獲得した子女金帛を全て范陽へ送っています。これのどこに四海に雄據する志がありましょうか!今、虜将だけが働いており、彼等の為に動いている中国の人はただ高尚等数人だけで、他は皆脅されて従っているだけです。臣が料るに、二年を過ぎぬ内に天下から寇はいなくなるでしょう。」
「どうして?」
「賊の驍将は史思明、安守忠、田乾眞、張忠志、阿史那承慶等数人だけです。今、もし李光弼を太原から井ケイへ出し、郭子儀を鳳翔から川東へ入れれば、思明、忠志は范陽、常山を、守忠、乾眞は長安を離れられません。こうやって両軍で四将を縛り付けると、禄山に従うのは承慶だけです。ですから、子儀へは華陰を攻略しないように敕を降してください。賊軍が、長安と咸陽を自由に往来できるようにしておくのです。その上で、陛下は徴発した兵を扶風へ布陣してください。そして、子儀、光弼と共に、交互に出撃します。奴等が首を救ったら、こっちは尻尾を撃ち、尻尾を救ったら首を撃つ。賊軍を数千里往来させて、疲れさせるのです。我等は常に安逸で疲れ切った敵を待ち、賊軍が来たらその先鋒を避けて、去って行けばそれに乗じて後尾を撃ちます。城を攻めたり、道を遮断したりしてはいけません。来春になれば、再び建寧を范陽節度大使として、塞北へ出し、光弼と南北掎角の勢いで、范陽を奪取し、敵の巣穴を覆します。そうすれば、賊は退いても帰るところがなく、留まっても休めません。その後に大軍を四合させてこれを攻めれば、必ず擒にできます。」
 上は悦んだ。
 この頃、張良テイと李輔国が表裏となって、共に泌を譏っていた。
 建寧王炎が泌へ言った。
「先生が炎を上へ挙げてくださったので、炎は臣子の力を尽くせるようになりました。その御恩にまだ報いていません。どうか、先生のために害毒を除かせてください。」
 泌は言った。
「どうするのですか?」
 それで炎は良テイの事を語った。
 泌は言った。
「それは、人の子の言うことではありません。どうか王よ、しばらく放置して置いて、決して先走りなさいますな。」
 炎は従わなかった。 

 この年、北海節度使を設置し、北海等四郡を領有させる。上党節度使を設置し、上党等三郡を領有させる。興平節度使を設置し、上洛等四郡を領有させる。 

 至徳二載(丁酉、757年)春、正月、上皇が下誥した。憲部尚書李麟を同平章事とし、百司を統制させる。崔圓へ、誥を奉じて彭原へ赴くよう命じる。
 麟は懿祖(太祖の父)の後胤である。 

 同月、安禄山が、子息に殺された。 

 上がくつろいだ有様で、李泌へ言った。
「廣平を元帥として年を越した。今、建寧へ征伐を任せようと思うが、派閥が分裂することも恐い。廣平を太子に立てたいが、どうかな?」
 対して言った。
「臣は、いつかも言いました。戦争のことは危急ですから現場で即断しなければなりませんが、家事は上皇の意向を待ちましょう。そうでなければ、後になって陛下が霊武で即位したことを、どう言い訳できましょうか!これはきっと、臣と廣平の中へひびを入れようと画策している人が居るのです。臣へ、廣平と話をさせてください。廣平はまだ、必ずしも立ちたがってはおりません。」
 泌は退出すると、これを廣平王俶へ告げた。俶は言った。
「先生は、私の心を深く知って折られます。その美を曲げて完遂させてください。」
 すなわち、入って、立太子を固辞し、言った。
「陛下はまだ正式な即位もして居られません。臣がどうして儲副のことなど思いましょうか!どうか上皇が宮殿へ帰るのを待ってから、臣のことを考えてください。」
 上は、これを褒めて慰めた。
 李輔国は、もともと飛龍の小児だった。書計の仕事などをして、太子宮の給事となった。上は、これを委信する。輔国は、上辺は恭謙寡黙だが、内心は狡猾陰険だった。張良テイが寵愛されているのを見ると、密かに彼女と結託して、表裏一体を為した。
 建寧王炎は屡々上の前で二人の罪悪を譏った。すると、二人は上へ彼を讒言した。
「炎は元帥となれなかったことを恨み、廣平王殺害を謀っています。」
 上は怒り、炎へ自殺を命じた。
 ここにおいて、李泌も廣平王俶も内心懼れた。俶が、輔国と良テイを謀略で取り除こうとすると、泌は言った。
「いけません。王は建寧の禍を見なかったのですか?」
「ですが、先生の為に憂えているのです。」
「臣は主上と約束しました。京師が平定されるのを待って、山へ帰ります。そうすれば、患から免れます。」
「先生が去れば、俶はますます危険になります。」
「王はただ、人の子として孝を尽くしなさい。良テイは婦人です。王が彼女へお世辞でも使ったら、何もできません!」 

 上が泌へ言った。
「今、郭子儀、李光弼は既に宰相となっている。もし両京に勝って四海を平定したら、官職で賞することができない。どうしようか?」
 対して言った。
「古代では、官は能力のある者へ任せ、爵位で功績へ報いました。漢、魏以来、郡県で民を治めながらも功績のある者は諸侯へ封じて、領土は子孫へ伝えさせるようになり、周も隋もこれを踏襲しました。唐の初頭は、まだ関東を得ていなかったので、封爵は皆虚名で、封土の代わりに、繪布を給付するようになったのです。貞観年間に、太宗は古制を復活させようとしましたが、大臣の議論が纏まらずに流れました。これ以来、功績の多くは官職で賞されるようになったのです。
 ですが、官職で賞するのでは、二つの弊害があります。官職に相応しい才覚がなければ仕事が滞ります。そして権限が重ければ、制御しにくくなります。そうゆうわけで、大官となった功臣達は、子孫の為の遠図をなさず、一時の権力に乗じて利益を貪ることばかり考え、どんな事でもやるようになったのです。たとえば、禄山に百里の国でも与えていたならば、これを惜しんで、子孫へ伝えていこうと想い、造反しなかったでしょう。
 現在の政策としては、天下が平定された後は、爵位や領土で功臣を賞するのが一番です。大国といっても、二三百里に過ぎず、今の小郡に過ぎませんから、どうして制しがたい事がありましょうか!人臣へ対しても万世の利益です。」
「善し!」 

 上は、安西、北庭及び抜汗那、大食諸国の兵が涼、ゼンへ迫ったと聞き、甲子、保定へ御幸した。
 二月戊子、上が鳳翔へ到着した。それから旬日過ぎると、隴右、河西、安西、西域の兵が全て集結した。江、淮の庸調も洋川、漢中へ至る。上は、散関から成都へ表を出す。使者は通路に絶えなかった。
 長安の人間は、車駕が来ると聞き、賊中から逃げ出してやって来る者が日夜絶えなかった。
 西軍へ休息も取らせたので、李泌は、安西と西域の兵を派遣して前策のように東北を塞ぎ、檀から南下して范陽を取るよう請うた。上は言った。
「今、大軍が既に結集したし、庸調も集まってきている。この勢いに乗って敵の腹心を抉ればいい。それなのに兵を率いて東北へ数千里も進み、先に范陽を取るなど、迂遠ではないか?」
「今、この衆で直接両京を取れば、必ず奪取できます。しかし、賊は必ず再起して、我等は再び困窮します。長久の策ではありません。」
「何故かな?」
「今、我等が恃みとしているのは、西北の守塞と諸胡の兵です。彼等は寒さには強くとも暑さには耐えられません。もしも到着したばかりの鋭気で禄山の疲れ切った兵卒と戦えば、必ず勝てます。ですが、両京は既に春深く、賊が敗残兵を集めて巣穴へ逃げた後は、関東はうだるような暑さになり、官軍は必ず帰りたがり、留められなくなります。賊は兵を休め馬へ馬草を与えながら官軍の去るのを窺って、必ず再び南下します。そうなれば、戦争の帰趨は判りません。ここは、先に寒郷を攻撃して敵の巣穴を除くべきです。そうすれば賊は逃げ帰るところがなくなり、根本から永遠に断たれます。」
「朕は、はやく上皇を迎え入れたいのだ。そんなに待っていられない。」
(胡三省、注)果たして、泌の言った通りになった。
(訳者、曰く)「太平記」の中で、これと酷似したシチュエーションがあった。楠正成が、敵を京都へ封じ込めたままにして自ら困窮させるよう進言するのを、早く京都へ帰りたがった後醍醐天皇が却下する、とゆう内容だった。あれは、この故事を踏襲したのだろうか?
 まあ、都を早く回復したいとゆうのは当然の心情だと理解できる。この場合、「大局的に見て、賊軍にしばらく京都を占領させて置いた方がよい」とゆう判断が卓抜したものだと言える。李泌も正成も古今の名将だから、全く同じシチュエーションが出ても虚飾や盗作と断言はできない。
 しかし、ここまで似ていると、盗作のような気がしてならない。大体、前述したように資治通鑑そのものも、安史の乱の記述になると、どこぞの軍記物からそのまま取ってきたような気がするのだ。 

 関内節度使王思禮は武功に、兵馬使郭英乂は東原、王難得は西原に駐屯していた。
 丁酉、安守忠等が武功へ来寇した。郭英乂は戦況不利で、頤を矢に貫かれて逃げた。王難得は、これを見て、救わずに又逃げる。思禮は扶風まで退却した。 
 賊の遊兵は大和関まで進軍した。ここは鳳翔から五十里である。鳳翔は大いに震駭し、戒厳した。 

 三月辛酉、左相韋見素を左僕射、中書侍郎・同平章事裴免(「日/免」)を右僕射とし、共に政事をやめさせる。
 話は遡るが、楊国忠は憲部尚書苗晋卿を憎んでいた。安禄山が造反すると、晋卿を陜郡太守として出向させ、陜、弘農防禦使を兼務させるよう請うた。晋卿は老齢と病気を理由に固辞したので、上皇は不機嫌となり、退職させた。長安が陥落すると、晋卿はひそかに山谷へ隠れた。
 上は鳳翔へ到着すると、手敕で彼を招いて左相とし、軍国の大務は悉く彼へ諮問した。
 四月顔眞卿が荊、襄北から鳳翔へやってきた。上は、憲部尚書とした。
 同月、上は、郭子儀を司空、天下兵馬副元帥として、兵を率いて鳳翔へ赴かせた。敗北して武功を保つ。中外は戒厳した。その詳細は、「河北の戦況」に記載する。
 この時、府庫には余分な蓄えがなく、朝廷は官爵で功を賞した。諸将が出征する時、無記名の辞令を支給しておく。その官位は開府、特進、列卿、大将軍から下は中郎、郎将へ至るまで。そしてその辞令に、臨機に名前を書き込むのである。
 その後、辞令がない時には、先に牌を給付して証拠とするやり方で、官爵を授けることまで許可した。ついには、異姓の王まで生まれたのである。だから諸軍はただ職務で指揮系統を決め、官爵の高低など無視するようになった。
 清渠で敗戦すると、再び官爵で敗残兵をかき集めた。(胡三省、注。潰散の後、罪を畏れた将帥が賊軍に帰順することを懼れ、官爵を与えて呼び集めたのだ。)
 これによって官爵はますます軽く、貨はますます重く、大将軍任命は、辞令一枚とわずかに一酔の酒しか賜下されなかった。凡そ応募して軍へ入った者は全員が金紫を着た。朝士の童僕は金紫を着て大官と称しながら、賎しい仕事にこき使われた。名称の氾濫は、ここに至って極まった。 

 房官は高簡な性格。この時、国家は多難だったのに、官は病気と称して朝謁せず、職務など気にしていなかった。日長一日庶子の劉秩、諫議大夫李揖等と共に釈迦や老子を高談したり、あるいは門客の董庭蘭の鼓琴を聞いたりしていた。庭蘭は、これでたくさんの権利を得た。
 庭蘭が収賄したと、御史が上奏した。丁巳、官をやめさせて太子少師とする。諫議大夫張鎬を中書侍郎、同平章事とする。 

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