鄭の荘公と共叔段

(春秋左氏伝)

 鄭の武公の正室は姜氏の出身だったので、武姜と呼ばれていた。武公は、武姜との間に二人の息子をもうけた。長男は「寤生」、次男は「段」と名付けられた。
 寤生は逆子で、出産の時非常な難産だったので、武姜は彼を憎み、段ばかりを可愛がった。そこで武姜は、段を跡継ぎとするよう、事ある毎に武公へ頼み込んだ。だが、武公は頑としてこれを拒んだ。 
そういう訳で、武公が死去した後、寤生が爵位を継いだ。これが、鄭の荘公である。

 荘公が襲爵すると、武姜は、段へ制邑を与えるよう荘公へ頼んだ。荘公は言った。
「制邑は要害です。又、そこは、かつて 叔がその要害を頼んで造反し、敗死したという不祥な土地でもあります。他の都市なら、仰せのままに従いましょうが・・・。」
 そこで、武姜は改めて京邑を乞い、荘公はこれを受諾した。こうして段は京邑を領土としたが、ここは広大な都市だったので、人々は段のことを「京城の大叔」と呼び名した。
 すると、鄭の大夫(大臣)の李仲(祭仲)が荘公へ言った。
「地方の城が大きすぎるのは、国家の害です。最大でも首都の三分の一を越えてはならぬものです。これを以て考えますに、京城は大きすぎますぞ。『枝が太ければ幹を痛める』の喩え通り、いずれ国家の災いを招きましょう。」
「しかし、母君がお望みなのだ。」
「ご母堂の望みには際限がありません。今後、その望まれるままに全て従うおつもりですか?このままだと先が見えます。蔦でさえ蔓延らせては後々やっかいになると言うのに、ましてや威勢振るう御弟君ではありませんか。造反という事態に至ったら何となさいますか。」
「悪いことをすれば、必ず報いを受けるものだ。暫く様子を見てみよう。」
 そのうち、段は京邑の周辺の土地から貢物を徴収するようになった。そこで、公子の呂が荘公へ言った。
「租税の二重取りをやられては、住民は堪りません。我が君はどう思われているのですか?弟君へ国を譲るつもりでしたら、私は京邑へ参りましょう。しかし、その気がないのでしたら、我が君の手で御始末なさるしかありません。」
「悪辣な手段を行えば、必ず自滅する。もう暫く様子を見なさい。」
 放置されて増長した段は、とうとう周辺の土地を自分の領土へ編入してしまった。子封が言った。
「我慢できません!奴の勢力は大きくなりすぎました。」
「国君へ対しては不忠、兄へ対しては不敬。それでいて領土ばかり大きくなったのなら、却って崩れやすくなったと言うものだ。」
 とうとう、段は鎧甲や戦車を整え、首都を襲おうとした。そして、武姜が手引きをする手はずまで整ったが、それを知った荘公はとうとう兵を動かして、京を討った。段は敗れて国外へ逃亡した。
 この事件で、武姜は造反に荷担していた為、荘公は激怒して頴の城へ軟禁し、「黄泉へ行くまで顔を合わせない。」と誓いを立てた。(→「頴考叔、武姜を還す」)
 後、荘公は魯・斉と組んで許を撃ち、これを陥落させた。
 この時、先陣を切った鄭が一カ国の兵力で許を占領した為、魯と斉は、許の占領権を全て荘公へ委ねた(→「斉・魯・鄭、許へ入る」)が、荘公は辞退して言った。
「私はたった一人の弟さえ養えずに国外で居候させているような人間ですから。」云々と。

 

(博議)

 釣り人が魚を裏切るのだ。魚が釣り人を裏切ったのではない。罠を仕掛ける猟師が獣を裏切るのだ。獣が猟師を裏切るわけではない。そして、荘公が叔段に背いたのだ。叔段が荘公に背いたのではない。
 大体、釣り人は釣り餌で魚を誘い、猟師は落とし穴で獣を誘うものである。これに対して、釣り人を責めずに、餌を呑んだ魚を貪欲と責める。猟師を責めずに、罠に堕ちた獣を愚かだと責める。そんな道理が、天下に通用するはずがない。
 荘公は猜疑深くて陰険な男である。実の弟を寇讐のように考え、これを死地へ追いやろうと欲した。だから、その心を包み隠して段を狎れさせ、その欲望を放縦にさせ、彼の悪心を養わせ、遂に造反にまで至らせた。
 十分な兵力や、諸侯並の収入は、荘公が与えた餌である。広大な領地や堅固な城は荘公の掘った落とし穴である。叔段は冥頑不霊、魚や獣のように愚かな男だった。餌を見たら食らい付いたし、落とし穴に落っこちた。しかし、ただそれだけに過ぎない。荘公は、彼が悪逆になるように教育し、その悪逆さを指摘して誅した。段が造反するように環境を整え、造反をしたら討伐した。荘公のやり口は、なんとも陰険ではないか。
 荘公は多分こう思ったのだ。
”弟を、今、速やかに処罰したら、まだそれ程の悪行をしては居ないから、臣下や諸外国から傲然たる非難を浴びてしまうだろう。それよりも、しばらく放置しておけば、ますます増長して、遂には造反にまで至るだろう。その時、それを理由に弟を処罰すれば、誰も弁護できない筈だ。”
 段が他の臣下へ対して貢物を要求した時、荘公は何も言わなかった。それは、段に益々悪事を重ねさせ、人々から愛想を尽かさせ自滅させようとの謀略だったのである。

 だが、荘公は気がついていたのだろうか?叔段の悪と共に荘公自身の悪も日を追って育って行き、叔段が罪を重ねる毎に、荘公の罪も深くなって行ったのだ。
 人々は、荘公が兵を挙げて叔段を殺そうとした一事しか見ていない。しかし荘公は、叔段を京へ封じてから討伐するまでの間、思いを巡らす毎に片時も叔段の事を忘れては居なかった。事ごとに彼を殺そうと思い行動していた。
 いやしくも、一念を起こせば、これは一弟を殺すことに他ならない。百念を起こせば、これは百人の弟を殺したのである。その最初から最後に至るまでの間に、荘公は頭の中で叔段を一体何千回殺したのだろうか。その頭の中で何万人の弟を殺せば気が済んだのだろうか?
 血を分けた弟へ対して千万回の殺意を抱き、それを悉く実践してきた。その非道さは天も覆わず地も載せず、四海の波を全てひるがえすも、荘公の悪心を洗い流すにまだ足りまい。荘公の悪虐なこと、叔段などその足下にも及ばない。
 私はこの事件を何度も熟慮し、ハッキリと判った。荘公の心こそ、天下の至険である!
 祭仲などの輩はその真意を知らず、都城が大きすぎて制度を越えていると非難した。しかし、荘公はそれだけ大きい都城を与えたかったのだ。彼等は、叔段を余り優遇すると彼は軍事力を増強すると諫めた。しかし、荘公は叔段に軍事力を増強させたかったから、彼を優遇したのだ。ああ、鄭の臣下達は挙って荘公の罠へ陥ってしまった。
 この事件の後、鄭の詩人は、荘公が母親に逆らえない余り、遂には弟を誅罰したことを風刺し、詩を作った。だが、荘公は弟を誅罰したかったからこそ、母親に逆らえない振りをしていたのだ。詩人は、荘公が目先の情愛に流されて、結局大乱を呼び起こしたことを風刺した。だが、荘公は大乱を呼び起こしたかったからこそ、目先の情愛を重んじたのだ。ああ、鄭の国民達は、国を挙げてその罠へ陥ってしまった。
 朝廷の臣下達を一人残らずその罠へ飲み込み、国中の人々を一人残らずその罠へ飲み込み、それでも荘公の謀略は終わらなかった。
 魯の隠公の十一年、荘公は許へ攻め込んだが、そこで荘公は、ぬけぬけと口にした。
「私はたった一人の弟さえ養えずに国外で居候させているような人間ですから。」と。
 荘公は、この言葉で天下全てを欺こうと考えたのだ。
 その後、鄭では定叔が叔段の後を継いでいた。その定叔がある時衛に出奔したが、荘公は三年後に彼を呼び戻した。
「このままでは叔段に跡目がなくなり、菩提が弔われなくなるではないか。」
 こうして、叔段の血統は続いた。
 叔段の血統を続かせたのは、荘公が後世まで欺こうと考えたからだ。
 朝廷を欺き国中を欺いただけでは飽きたらず、天下を欺き後世まで欺く。嗚呼、荘公の心、岌々乎として険なるか!

 だが、もう一つ突っ込んで考えよう。
 そもそも、人を騙すためには、まず自分の心を欺かなければならない。荘公は自分の嘘に騙される人間が多いことを喜んだかも知れない。しかし、彼自身、自分の心を欺き続けなければならなかったのだ。
 心底では弟を憎んでいても、強いて弟を愛する想いを持たなければ寛恕ある言葉は出せない。弟を陥れて大喜びしても、強いて弟を悼む想いを持たなければ表情に現れない。彼は他人を騙す度に、自分自身を偽らなければならなかった。
 人から騙されても、ただ体を傷つけられるだけだ。しかし、人を騙す為には心を傷つけなければならない。心が死ぬのは、何より大きな哀しみではないか。体が死ぬ方が、まだましだ。
 騙される者は、身を害されるとは言っても、心は確固たる自分のものだ。他人を欺く者は確かに身は害されないが、その心は削り取られて跡形もなくなってしまう。彼が失う物は余りにも軽く、自分が失う物は余りにも大きい。
 最初、荘公は段を陥れようとしていた。しかし、結果として自分自身が自分の罠に陥ってしまった。釣り人は遂に自分の餌を呑み、猟師は遂に自分の落とし穴へ身を投じたのだ。
これ程稚屈な事が天下にあろうか!
 私は最初、荘公を指して「天下の至険」と称した。だが、今言い直そう。荘公こそ、天下の至屈である。

 

(訳者曰く)

 逆子で苦しんだ。そのような事が無くても、母親が末っ子を可愛がるのはよくあることだ。ともあれ、武姜は段を溺愛した。それに対して、荘公はどう思っていたのか?呂氏の言うように、段を陥れようと考えたとしたら、後の事件は解釈しやすい。
 そもそも、「母親が息子に甘く決して叱らなければ、息子は必ず無頼漢になる(韓非子)」ものである。荘公は叔段を無頼漢に育てたかった。だから、何をやっても認めていたのである。そして、彼の計略通り、段は武装決起をしてくれた。ここに至って、荘公は堂々と弟を攻撃できたのである。

 さて、ここで「覇道」について説明しておこう。
「覇道」とは、簡単に言えば、「正しいことをすれば大勢の人間から慕われて強くなるし、わがまま身勝手をすれば我が身を滅ぼす。」とゆうことである。だから、「強くなりたければ、決して悪いことをしてはいけない。」それが主旨である。
「人は石垣、人は城。情けは味方、仇は敵。」とは武田信玄の台詞だが、この言葉こそ「覇道」について余すところなく言い尽くしている。
 これ自体はそれなりに理屈が通っているし、道義的にも良いことであるから問題がないように思えるが、朱子学では強く否定している。
 何故だろうか?
 答は簡単だ。
「力」とゆうものは相対的なものだから、相手が弱くなれば、相対的に自分が強くなれる。だから、「強くなる為に良いことをしよう」と思っている人間は、同時に「自分の敵には悪いことをさせよう。」と謀略を巡らすからだ。そう、叔段へ対する荘公の態度こそ、覇道の真髄である。
 通常、「覇者」と言えば「斉の桓公」が有名である。そして、彼の行動を見ると、この「覇道」を裏から表から使いこなしている。それについては後述しよう。(斉侯、曹を守り荊を遷し衛を封ず。)
 斉は衛と比べて大国であるし、斉の桓公のやり方は、鄭の荘公と比べてより巧妙で洗練されていた。よって、斉の功績は燦然と輝き、斉の桓公は春秋五覇の筆頭として讃えられている。それに対して鄭の荘公は、周王の横暴をはねのけ、数々の戦争に勝利して鄭の国力を増強させ、春秋の一雄にこそ数えられてはいるが、覇者とまでは言われていない。これは、その功績が小さかったからだ。
 しかしながら、鄭の荘公は、斉の桓公に先立つこと五十年前の人間である。この二人のやり方が似ているとしたら、真似をしたのは桓公の方である。真似をしたのならば、下地を教わった分だけ更に巧妙になったとしても、それは当然だろう。
 斉の桓公は、確かに「覇道」を完成させた。しかし、その創始者は鄭の荘公である。
 ただ、自分が正しさに励むのは良いが、他人を陥れることは問題がある。それは一つには道義的なものだが、もう一つには「隠さなければならない。」とゆうことだ。
 この二つ目について、呂氏は「心を殺す」と称した。論文中の主旨は、「騙すことの苦痛」を訴えた物と理解したが、「心を殺す」苦しみはそれだけではない。これについて、少し補足しよう。

 荘公は弟を追放した後、何を思ったのだろうか?長年の計略がようやく稔り、大喜びだったとしようか?しかし、それを共に喜んでくれる人間は一人も居ないのだ。その真意を隠しているのだから当たり前である。
 仮に、「暴虐な叔段を討伐できた」として荘公の為に喜ぶ臣下や領民がいたとしよう。(彼が覇道を歩む以上、自分自身は仁慈溢れる行動をとるのだから、大勢の民から慕われていた筈である。彼の信望者は、かなり多数いたと思われる。)しかしながら、彼等はあくまで「段を排斥できた」ことを喜ぶのであり、「段を陥れられた」ことについて喜ぶのではない。
 ここで、誰かを陥れて得をしたとしてみよう。その時喜ぶ人間は、得をしたから喜ぶのか?それとも、自分の計略が図に当たったことを喜ぶのか?
 事の善悪は置くとして、計略が成功したら、それだけで嬉しいのが人情であるし、その喜びは、人生の中でもかなり大きいのが普通である。しかしながら、覇道を歩く限り、その一番の喜びを口にすることは絶対にできないのだ。だから共に喜んでくれる人間は一人も居らず、その喜びを自分の胸の中に秘めるしかない。これは果たして喜びだろうか?それとも苦痛だろうか?
 その時に当たって例え後悔しても、最早後戻りはできない。
 それは勿論当然のことで、「弟がクーデターを起こすように、わざと悪辣な人間に教育した。」とゆうことがばれたら大変である。領民からは嫌われ、臣下達からは疎んじられ、諸侯達からは憎まれ、荘公は天下に身の置き所が無くなるに違いない。一旦この悪事に手を染めたが最後、彼は死ぬまで周囲を騙し続けなければならないのである。そこまで考えると、なるほど、「心を殺す害は体を殺すよりも甚だしい」に違いない。
 私は呂氏ではないので、道義的な善悪で他人を責めるのは余り好きではないし、暴虐な人間はいる者と決めつけて用心して生きるようにしている。しかしながら、自ら覇道を歩くつもりもない。それはひとえに、共に喜ぶ相手を失いたくないしからであるし、無限地獄に陥ることが真平だからである。