楚の太子商臣、成王を弑す。
 
(春秋左氏伝) 

 楚の成王は、商臣を皇太子として立てようと思い、令尹の子上に相談した。すると、子上は言った。
 「我が君はまだお若く、しかも寵妃が大勢居ます。今、皇太子を立て、後に廃嫡する事が在れば、きっと乱が起こります。又、我が国では、いつも末子が相続してきました。それに、あのお方は蜂のような目つきで山犬のような声。残忍な人柄です。お立てになってはなりません。」
 しかし、成王は聞き入れなかった。
 後、成王は王子職を立てたくなった。成王はこれを隠していたが、やがて商臣は気がつき、挙兵して成王を包囲した。成王は、死ぬ前に「熊の掌を食べたい」と望んだが商臣は許さない。遂に、成王は首をくくって死んだ。 

  

(東莱博議) 

 利害得失の言葉について、「事件が起こる前に推察することは難しく、事件が終わってから推察することは易しい、」と、人々は考えている。
 堯の四人の大臣は、黄河の治水工事の責任者として、鯀を推薦した。堯は、鯀では無理だと思ったが、四大臣が強く請願したので、遂に鯀に工事を任せた。だが、案の定、それは失敗した。鯀には、大工事を完遂するような能力はなかったのだ。治水工事をする前には、四大臣はそれに気がつかなかったが、工事が終わってしまえば、庶民でさえそれと判った。これは庶民が四大臣よりも頭が良かったのではない。治水工事の失敗で彼の人格が暴露される前と後とでは、正しい評価を下す事の難易が変わっただけなのだ。
 同様に、少正卯は、子貢から立派な人間だと評価されていたが、両観で誅殺された。誅殺された後は、庶民でさえ彼が悪人であると評価したに違いない。庶民が子貢より頭が良かったのではない。結果が出る前と出た後では、正しい評価を下す事の難易が変わっただけなのだ。
 治水工事に失敗する前に鯀の能力を看破できるようならば、天下の人間はみんな堯のような聖人である。偽りが暴露される前に少正卯の本性が看破できるのならば、天下の人間は、皆、孔子のような聖人である。だが、既に事件が起こった後に「ああだったこうだった」と考察するのでは、一般大衆の智恵でしかない。
 だから、南巣へ追放された後の桀王は伊尹を用いなかったことを後悔しただろうし、牧野で敗北した後の紂王は比干を殺したことを後悔しただろうし、夫差は姑蘇にて伍子胥を殺したことを後悔したのである。
 結果が既に出てしまった後に振り返れば、至愚極暴の人間とは言っても、何に従えば良かったかが判り、そうしなかったことを後悔するのである。
 以上から考察すると、天下諸々の言葉を、事前に察するのは何と難しい事だろうか。結果が出た後に察するのは、何と簡単なことだろうか。 

 だが、私はそうは思わない。
 まだ結果が出ていない言葉に関して察するのは、難しいようでいて実は容易く、結果が出たことを察するのは、容易いようでいて実は難しいことなのだ。
 私は別に、ひねくれて言っているのではない。これはいわゆる、「正言は反に似る」とゆうものなのだ。
 結果が未だ出ていないうちは、利益も見えず、害毒も判らない。利害が全く不明である以上、これを察する時に決め手となるのは、心の正しさしかない。偏見のない心の正しさを基にして天下のことを察すれば、その善その悪、その正その邪、ことごとく目の前に並んで一つも逃さない。難しいようでいて、簡単ではないか。
 結果が既に出てしまった後ではこうではない。良い結果を出した言葉を聞けば、その言葉に従うべきだと思ってしまう。これは、現実の事件があるからその言葉を信じているだけで、心を以てこれを信じているのではない。同様に、悪い結果を出した言葉を聞けば、その言葉に従ってはならないと思ってしまう。これは、現実の事件があるからその言葉を疑っているだけで、心を以てこれを疑っているのではない。信じるも疑うも、心からのものではなく、ただ現実を追認しているだけ。その弊害は実に大きいのだ。 

 臣下が、正しいことを言って主君の非を諫めた時、主君がこれに従えば利益があり、従わなければ弊害がある。このような場合は、後世の人間が、「結果を出した」とゆう理由でその言葉を信じても、問題はない。だが、天下には、間違ったことを言って主君の非を諫める場合もあるのだ。
 主君の過失を知った臣下が、これを諫める。だが、その諫めた言葉もまた過ちだった。臣下が、主君の失策を挙げてこれを諫める。だが、その諫めた言葉も、又、失策だった。このような場合、主君がその言葉に従わなければ、勿論弊害があるが、その言葉に従っても弊害があるのだ。
 歴史に「if」はない。だから、後世の人々は、主君がその言葉に従わなかった害だけを見て、その言葉に従った時の害を見なかった。それなのに、人々はその言葉に験があったと考え、理に違うことを考えず、その遺説を拾い集めてこれを踏襲する。その結果、乱亡相い継ぐが、それでもまだ悟らない。これこそ、私の言う、「簡単なようでいて、実は難しい。」とゆうものである。
 そして、楚の子上の事件は、まさしくそれである。 

 子上は、楚の成王が商臣を皇太子として立てた時、これを諫めた。それは確かに、楚王の非を指摘していた。だが、子上がそれを指摘した理由も又、正しくはなかったのだ。
 彼は言った。
「我が君はまだお若く、しかも寵妃が大勢居ます。今、皇太子を立て、後に廃嫡する事が在れば、きっと乱が起こります。」
 又、言う。
「我が国では、いつも末子が相続してきました。」
 寵妃が大勢居ることと、末子相続。この二つは、万世に亘って国を乱す大本である。それを既に是認してしまった。もしも成王が最初の言葉に従ったなら、国の大本が立たない。皇太子の座は長い間空席のままであり、諸々の姦謀が並び興ったに違いない。次の言葉に従ったならば、嫡庶の区別がつかず、長幼の序列が乱れ、簒奪の萌芽が遺ってしまう。この二つの禍は、今回の禍と比べてどちらが大きいか判らないではないか。
 ところが、子上は、商臣の人物鑑定を見事にやってのけた。だから、後世の人間は彼の言葉を信じて禍に陥ってしまったのだ。
 唐の宣帝は、皇太子を立てることを忌んでいた。これは、子上が言った、「我が君は未だお若い。」の言葉に誤らされたのである。随の文帝は、嫡子と庶子の区別を付けなかった。これは子上の「末子が相続しております。」の言葉に誤らされたのである。この他にも、この言葉を信じて命を落とし乱を巻き起こした者は枚挙に暇がない。これこそ、「既に験のある言葉を喜んで、未だ見ない禍を踏む」というものである。
 商臣の悪行は、豺狠の心を持つ者でなければ、足早に駆け出して遠ざかる。だから、後世に及ぼす害毒も知れた物である。だが、子上の言葉は真実のように思えるから皆が踏襲し、その挙げ句、同じ様な災厄が何度も起こるのである。どちらの害毒の方が壮烈だろうか。 

 張角は、後漢へ禍を起こすことができなかったが、これを討伐した曹操は後漢を滅ぼした。廬循が晋へ与えた禍など知れた物だったが、廬循を滅ぼした劉裕は晋を滅ぼした。そして、商臣は万世の禍となれなかったが、商臣を排斥した子上は万世の禍となったのである。
 天下の禍の中には、ここに芽生えて遙か彼方で発動するものがある。これは、目先だけの浅知恵で判るものではない。