蕭銑
 
 義寧元年(617年)、十月。巴陵校尉の董景珍、雷世猛、旅帥鄭文秀、許玄徹、萬賛、徐徳基、郭華等が軍に據って隋へ造反しようと謀った。彼等は董景珍を盟主に推したが、董景珍は言った。
「我は身分が賤しい。衆人は服従するまい。それよりも羅川令の蕭銑は、梁皇室の末裔。寛仁大度で、誰もが心服するだろう。」
 そこで、銑のもとへ使者を放った。銑は、蕭巖の孫である。銑は喜んでこれに従い、「盗賊達を討伐する」と標榜して募兵し、数千人の兵を得た。
 そんな時、穎川の賊帥沈柳生が羅川へ来寇した。銑はこれと戦ったが、戦況は不利だった。そこで衆人へ言った。
「今、天下は皆造反し、隋の政令は行き渡らない。巴陵では豪傑が決起して、我を盟主に推戴したがっている。この要請に従って江南に号令を掛ければ梁を再興できるし、それで沈柳生を召せば、きっと我等へ従うだろう。」
 衆人は皆悦んで銑へ従った。銑は梁公と自称し、それまで聞いていた隋の服や旌旗を全て梁の頃のものへ取り替えた。沈柳生は、即座に部下を率いて帰順した。そこで、沈柳生を車騎大将軍に任命した。
 起兵すると遠近から大勢の人間が帰順して、たった五日で数万の兵力となった。そこで蕭銑は、これを率いて巴陵へ向かった。
 董景珍は、徐徳基へ郡中の豪傑数百人を与えて、出迎えさせた。だが、彼が蕭銑へ謁見する前に、沈柳生が手下達と相談した。
「我等が、一番に梁公を奉じたのだ。こりゃ、勲功第一だぞ。だが、巴陵の諸将は位も高いし、兵だって多い。我等が入城したら、却ってその下風に立つことになる。ここは徐徳基を殺してその首領を人質にし、梁公を推戴して郡城を取れば、我等が主人になれるぜ。」
 遂に、徐徳基を殺した。そして銑へ報告すると、銑は驚いて言った。
「今、乱を正そうとして決起したのに、しょっぱなから仲間を殺す。我は、お前の主人にはなれないぞ!」
 そして軍門を歩いて出ていった。沈柳生は大いに懼れ、地面にはいつくばって謝罪した。銑はこれを責めた後に赦し、兵を率いて入城した。
 董景珍は、銑へ言った。
「徐徳基は建義の功臣です。それなのに沈柳生は理由もなしに殺しました。これを誅しなければ何を基盤にして政治を行うのですか!それに、沈柳生は盗賊となってから久しいのです。今でこそ義に従っていますが、凶悖な性格は変わっていません。必ず変事を起こします。今殺さないと、後に悔いても及びませんぞ!」
 銑は、これに従った。
 董景珍は沈柳生を捕らえ、斬った。すると、その部下達は散り散りになった。
 丙申、銑は祭壇を築いて梁王と自称し、鳴鳳と改元した。
 唐の武徳元年(618年)、蕭銑は皇帝位へ即いた。梁の制度に基づいて百官を設置する。従父の蕭jを孝靖皇帝、祖父の蕭巖を河間忠烈王、父の蕭睿(「王/睿」)を文憲王と諡する。董景珍等功臣七人を王とした。
 宋王楊道生が南郡を攻略したので、江陵へ遷都し、園廟を修復した。
 また、魯王張粛へ嶺南を攻撃させた。すると隋鎮周、王仁寿が防戦したが、煬帝が弑逆されると、彼等は皆蕭銑へ降伏した。欽州刺史ヨウ長真も、鬱林、始安の領土ごと銑へ帰順した。
 漢陽太守馮央は、林士弘へ帰順した。
 銑と林士弘は、共に交趾太守丘和を帰順させようと使者を派遣したが、丘和は、どちらも拒絶した。そこで銑は、ヨウ長真へ嶺南の兵を与え、海道から攻撃させた。丘和は畏れて出迎えようとしたが、司法書佐の高士廉が言った。
「ヨウ長真は兵力は多いのですが、遠征軍です。持久できません。城内の兵で撃退できます。」
 そこで高士廉を軍司馬として水陸から迎撃し、これを撃退した。ヨウ長真は体一つで逃げ出し、兵卒は大半が捕虜となった。
 しかし、やがて長安から逃げてきた驍果兵達が、煬帝が弑逆されたことを伝えたので、郡ごと蕭銑へ帰順した。
 始安郡丞李襲志は、隋末に家財を散らして士三千人を募り、郡城を保った。銑、林士弘、曹武徹らが攻撃してきたが、全て撃退した。
 やがて煬帝の弑逆事件を知ると、吏民を率いて三日間、喪に服した。
 ある者が、李襲志へ言った。
「公は中州の貴族ですが、長い間辺境に臨み、中華の民も夷狄も悦んで服しています。今、隋には主君が居ませんし、国中が動乱のまっただ中。公の意向を以て嶺表へ号令を掛ければ、この地方へ割拠できますぞ。」
 すると李襲志は怒って言った。
「我家は代々忠貞を旨としていた。今、江都は覆ったが、社稷はまだ存続しているぞ!」
 そして説客を斬ろうとしたが、誰も止めなかった。
 結局、李襲志は二年間堅守したが、とうとう城は陥落した。銑は、李襲志を工部尚書、検校桂州総管に任命した。
 これによって、東西は九江から三峽まで、南北は交趾から漢川まで、全て銑が領有し、兵力は四十余万を数えた。 

 九月、銑はその将楊道生へ、峽州を攻撃させた。唐の峽州刺史許紹が、これを撃破する。
 銑は、今度は将の陳普環へ水軍を与えて、水路から峽を上って、巴・蜀を窺った。許紹は、子息の許智仁と録事参軍李弘節等へ追いかけさせて、大いにこれを破った。陳普環を捕らえる。銑は、安蜀城と荊門城へ兵を送って守りを固めた。
 話は前後するが、李淵は銑を経略させる為、開府の李靖を?州へ派遣した。ところが李靖は峽州にて銑に阻まれ、暫く前進できなかった。李淵は、その遅留を怒り、李靖を斬るよう許紹へ命じた。許紹は、李靖の才覚を惜しんで弁護したので、李靖は粛清を免れた。   

 蕭銑は、偏狭な性格で猜疑心が強かった。
 諸将は功を恃み、横暴で勝手気儘になり、些細なことでも誅殺を乱用するようになった。銑はこれを患い、三年、十一月、兵を罷免して農民へ戻すと宣言したが、これは、実は諸将の権力を奪う為だった。
 大司馬董景珍の弟は将軍となっていたが、この政策に怨望して乱を起こそうと謀った。しかし、その陰謀は漏洩し、誅殺されてしまった。
 景珍は、その時長沙を鎮守していた。蕭銑は、詔を下して彼を赦し、江陵へ呼び戻した。しかし、景珍は懼れ、甲子、長沙を以て来降した。峡州刺史許紹へ、兵を出してこれを受け入れるよう詔が降った。 

 癸卯、峡州刺史許紹が蕭銑の荊門鎮を攻撃して、これを抜いた。紹の管轄地は梁、鄭と隣接していた。二国の国境警備兵は、紹の士卒を得たら皆殺したが、紹が二国の兵卒を捕らえたら、兵糧を与えて放してやった。すると、敵人は恥を知り、以来、侵掠しなくなった。こうして境内は安定した。 

 蕭銑が、その斉王張繍へ長沙を攻撃させた。董景珍が繍へ言った。
「『前年彭越を塩漬にして、往年は韓信を殺す』。卿はこれを見ながら、どうして臣下導師で相戦いあっているのだ!」
 繍は応じず、進攻してこれを包囲した。景珍は囲みを突破して逃げようとしたが、麾下に殺された。
 銑は、繍を尚書令とした。繍は功績を恃んで驕慢横暴になったので、銑はまた、これを殺した。これによって功臣諸将は、全て離心を持ち始め、軍隊は益々弱体化していった。 

 四年、正月。丙戌、黔州刺史田世康が、蕭銑の五州四鎮を攻撃し、全て勝った。
 李靖が趙郡王孝恭へ、蕭銑を取る十策を説いた。孝恭は、これを上へ伝えた。
 二月、信州を?州と改め、孝恭を総管として、舟艦を沢山造らせて水戦に習熟させた。孝恭は、今まで戦争に出たことがなかったので、靖を行軍総管として、孝恭の長史も兼任させ、軍事を委ねた。
 靖は、孝恭へ、巴・蜀の酋長の子弟を全て召集し、才覚に従って職務を授け、左右へ置くように説いた。これは、抜擢するように見えるが、その実人質としていたのである。 

 七月、辛巳、褒州道安撫使郭行方が蕭銑の若(「若/里」)州を攻撃して、これを抜いた。 

 九月、蕭銑討伐の詔が降った。巴、蜀の兵を徴発し、趙郡王孝恭を荊湘道行軍総管、李靖を摂行軍長史とし、十二総管を統べて?州から流れに沿って東下させる。盧江王援(本当は王偏)を荊郢道行軍元帥とし、黔州刺史田世康を辰州道から出し、黄州総管周法明を夏口道から出した。
 この月、孝恭が?州を出発した。その時、峡江は水を漫々と湛えていた。諸将は、水が落ちるのを待って進軍しようと言ったが、李靖は言った。
「兵は神速を尊ぶ。今は、我が兵が結集したばかりで、蕭銑も、まだ気がついていないだろう。揚子江が漲っているのに乗じて一気にその城下まで下れば、敵の不備を衝ける。そうすれば、必ず奴を擒にできるぞ。時機を失ってはいけない!」
 孝恭はこれに従った。 

 辛卯、蕭銑のガク州刺史雷長穎が魯山を以て来降した。 

  趙郡王孝恭が戦艦二千余艘を率いて東下した。揚子江の水が漲っているので、蕭銑は油断しきって防備をしていなかった。孝恭等は、敵の荊門、宣都の二鎮を抜き、夷陵まで進んだ。
 銑の将文士弘は、精鋭数万を率いて清江へ屯営していた。癸巳、孝恭はこれを攻撃して撃退した。戦艦三百余艘を捕獲する。戦死や溺死した敵兵は、一万を数えた。
 孝恭は百里洲まで追撃した。士弘は敗残兵をかき集めて再び戦った。孝恭はこれを再び破って北江へ入る。すると、銑の江州総管蓋彦挙が五州を以て来降した。 

 蕭銑は兵卒をクビにして農家へ戻しており、わずか数千人の宿衞を留めていただけだった。だから、唐軍が来て、文士弘が敗北したと聞くや、大いに懼れ、慌てふためいて全ての兵を都へ呼び戻した。しかし、彼等は江、嶺の外におり、道が遠い上に険しく、急に結集させることなどできなかった。そこで仕方なく、都近辺の兵を総動員して拒戦した。
 孝恭はこれを攻撃しようとしたが、李靖は止めて言った。
「奴が軍を出してきたのは、策があってのことではありませんし、戦意もすぐに萎えるでしょう。ここは、南岸へ泊まって、一日待ちましょう。そうすれば連中は必ず二手に分離します。我等と戦う隊と、都へ帰って守りを固める部隊です。敵の兵力が二分したら、我等はだれきった敵兵を攻撃すれば宜しいのです。何で負けることがありましょうか。今、急に攻めたら、彼等は力を合わせて死戦します。楚の兵卒は精強。簡単には済みません。」
 孝恭は従わず、李靖を陣営に留め、自ら精鋭を率いて出陣したが、果たして敗北し、南岸へ逃げ込んだ。
 蕭銑の兵卒は、棄てられた軍資を掠収したので、皆、重い荷物を背負った。李靖は、その有様を見るや、兵を指揮して奮戦し、敵を大いに破った。勝ちに乗じて江陵まで進み、その外郭へ入る。また、水城を攻め、これを抜いて多数の舟艦を入手した。
 孝恭は、李靖の発案に従い、その舟艦を悉く江中へ流した。諸将は皆、言った。
「敵を破って獲得したのだから、我が軍で使えばいいのに、何でこれを棄てて敵を助けるのだ?」
 すると、李靖は言った。
「蕭銑の領土は、南は嶺表へ出て、東は洞庭を距てている。我軍は敵領へ深入りした。もし、城を攻めて抜く前に、敵の援軍が四方から集まったら、我々は表裏に敵を受け、進退窮まってしまう。そうなれば、舟があってもどうやって使うのだ?今、舟艦を棄てて揚子江へ流した。援軍は流れてくる舟を見て、江陵は既に敗れたと思い、軽々しくは進まないで様子を窺うだろう。そうやって旬月遅れれば、我等はその間に江陵を落とせる。」
 蕭銑の援軍は、流された舟艦を見て、果たして疑い、進軍しなかった。敵の交州刺史丘和、長史高士廉、司馬杜之松は、江陵へ向かおうとしていたが、「蕭銑は既に敗北した」との風聞を聞いて、悉く孝恭のもとへ出向き、降伏した。
 孝恭は、兵を励まして江陵を包囲した。銑は、内外の連絡が途絶したので、中書侍郎岑文本へ方策を問うた。すると、文本は降伏を勧めた。蕭銑は、群下へ言った。
「天は、梁の復興を支えてくれなかった。もしも力屈するまで戦えば、百姓は被害を被る。なんで我一人のせいで、百姓を塗炭へ陥れられようか!」
 乙巳、銑は太牢を以て太廟へ告げ、城門を開いて降伏するよう命令を下した。城を守る者は、皆、泣いた。銑は、群臣を率いて軍門を詣で、言った。
「殺されるべきは、ただ銑一人だけだ。百姓に罪はない。どうか殺掠はしないでください。」
 孝恭は城へ入って占拠した。すると諸将が略奪したがったので、岑文本が孝恭へ説いた。
「江南の民は、隋末以来、虐政や群雄の虎争に苦しみました。今生きている者は、皆、困窮の中で首を伸ばして真の主を待ち望んでいたのです。ですから、江陵の父老は、蕭氏の君臣の元へ帰順しました。今、もしも兵卒へ略奪を許可したら、ここから以南は唐へ帰順しなくなるでしょう。」
 孝恭は、これを善しと称して、兵卒の掠奪を禁じた。
 諸将は、また、言った。
「梁の将帥と官軍に刃向かって戦死した者は、その罪は大きいですぞ。彼等の家財を没収して、将士を賞してください。」
 すると、李靖は言った。
「王者の軍隊は、まず義軍だとゆうことを宣伝しなければならない。彼等が主人の為に死戦したのならば、忠臣である。どうして反逆者のように家財を没収して良いものか!」
 ここにおいて城中を安堵し、秋毫も犯させなかった。南方の州県は、これを聞いて風に靡くように帰順してきた。
 銑が降伏して数日後、十余万の援軍が到着したが、江陵が陥落したと聞いて、皆、武装解除し、降伏した。
 孝恭が銑を長安へ送ると、上は彼の罪状を数え上げた。すると、銑は言った。
「隋がその鹿を失って、天下共にこれを逐いました。そして、銑には天命が無く、ここへ至ったのです。もしもそれを罪だというのなら、死から逃げることはできません!」
 ついに、都市にて斬った。
 詔が降りて、孝恭を荊州総管とした。李靖は上柱国となり、永康県公の爵位を賜った。また、李靖に嶺南を安撫させ、官職を与える権限を認めた。李靖は嶺へ対して、使者を派遣して諸州を招撫する方式を採ったが、使者が至るところ、全て降伏した。 

 話は前後するが、銑は、黄門侍郎江陵の劉自(「水/自」)へ嶺表を攻略させていた。彼は五十余の城を得たが、帰ってくる前に銑は滅亡した。自は、獲得した城を以て来降した。南康州都督府長史となる。 

 十一月、蕭銑の桂州総管李襲志が手勢を率いて来降した。趙郡王孝恭は、襲志を桂州総管として、年が明けてから入朝させた。
 李靖を嶺南撫慰大使、検校桂州総管とした。彼は兵を率いて九十六州を下し、六十余万戸を得た。 

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