皇太子の乱
 
 貞観九年(635)五月庚子、高祖李淵が垂拱殿にて崩御した。
 甲辰、群臣は遺に準じて軍国の大事を見るよう太宗へ請うたが、上は許さなかった。
 乙巳、太子の承乾が東宮にて庶政を平決すると詔が降りた。
 六月己丑、群臣が、政治を執るよう再び請うた。上はこれを許したが、細々としたことは太子へ委ねた。太子はよく聴断した。これ以後、上は御幸するたびに、太子を監国とするようになった。 

 十年正月癸丑、趙王元景を荊王とし、魯王元昌を漢王とし、鄭王元礼を徐王とし、徐王元嘉を韓王とし、荊王元則を彭王とし、滕王元懿を鄭王とし、呉王元軌を霍王とし、タク王元鳳をカク王とし、陳王元慶を道王とし、魏王霊?を燕王とし、蜀王恪を呉王とし、越王泰を魏王とし、燕王祐を斉王とし、梁王音(「心/音」)を蜀王とし、炎(「炎/里」)王ツを蒋王とし、漢王貞を越王とし、申王慎を紀王とする。
 二月、乙丑。元景を荊州都督、元昌を梁州都督、元礼を徐州都督、元嘉を路(「水/路」)州都督、元則を遂州都督、霊?を幽州都督、恪を澤州都督、泰を相州都督、祐を斉州都督、音を益州都督、ツを安州都督、貞を揚州都督とした。
 ただ、泰は任地へ行かず、金紫光禄大夫張亮を代理として下向させた。上は、泰が文学好きで士大夫へ腰が低いので、特に彼の府へ別に文学館を設置させ、自由に学士を召し出す事を許した。
 三月癸丑、諸王を藩へ行かせた。上は彼等との別れの時に言った。
「兄弟の情として、どうして離ればなれになりたかろうか!ただ、天下への責任は重く、ゆるがせにはできない。それに、諸子達よ、お前達はいずれはまた会えるのだ。我は兄弟と二度と会えない。」
 そして流涕嗚咽を止めることができなかった。 

 魏王泰は上から寵愛されていた。ある時、三品以上は魏王を軽く扱う者が多いと聞き、上は怒って三品以上を集め、顔色を変えて叱咤した。
「隋の文帝の時、一品以下、皆が諸王へ対して跪いたものだ。彼は天子の児ではないか!朕は諸子の放縦な噂を聞かないが、却って三品以上が彼等を軽んじていると聞く。我がもし彼等を好き勝手にさせたら、公輩はどれ程の恥辱にまみれると思っているのだ!」
 房玄齢等は皆、震え上がり、汗だくになって拝謝した。だが、魏徴一人毅然として言った。
「臣が今の群臣を見ますに、決して魏王を軽んじているわけではありません。礼においては、臣も子も一つです。春秋では、王の家来は微賎でも序列として諸侯の上です。三品以上は皆、公卿で、陛下から尊礼される者です。もし、綱紀が崩れたのなら、何も言いません。ですが、聖明が上に居られるのなら、魏王が群臣を辱めるとゆう理はありません。隋の文帝はその諸子を驕慢にさせ、多くの無礼を行わせ、ついに国を滅ぼしたのです。なんで手本にできましょうか!」
 上は悦んで言った。
「理に沿った言葉には、なんで服せずにいられようか。朕は私愛に眩まされ公義を忘れていた。さきほどの怒りは、自分ではもっとものことだと思っていたが、魏徴の言葉を聞いてようやく理屈をわきまえた。人主は、軽々しく言葉を出せぬものだなあ!」 

 十一年三月、礼部尚書王珪を魏王泰の師とし、上は泰へ言った。
「汝は、我へ仕えるように珪へ仕えよ。」
 泰は珪を見るとすぐに拝礼し、珪もまた、師匠としての態度をとっていた。 

 十三年、太子承乾は、狩猟に夢中で学問をしない。右庶子張玄素が諫めたが、聞かない。 

 十五年正月、上が洛陽へ御幸した。皇太子を監国とし、右僕射高士廉を補佐として、留めた。車駕は、同年十月の壬申に長安へ帰った。 

 五月、太子・事于志寧が母の喪で職を去ったが、復職した。
 太子は宮室で遊びに耽り、農功を妨害した。また、鄭、衛の音楽を好んだので、志寧は諫めたが、聞かない。また、宦官と昵懇で、いつも左右に置いていた。
 志寧は、上書した。その大意は、
「易牙以来、宦官が滅ぼした国家は、一つではありません。今、殿下はこれらの連中を寵遇し、衣冠を凌駕させています。この風潮は、増長させてはいけません。」
 太子は司馭を使役し、半年経っても交代を許さない。また、突厥の厥達哥友を私的に入宮させた。志寧は上書して切諫したので、太子は大いに怒り、刺客の張思政と乞(「糸/乞」)干承基を派遣してこれを殺そうとした。二人は第へ入ったが、志寧が粗末な苫のベッドに寝ているのを見、遂に殺すに忍びなく、止めた。 

 十六年、正月乙丑。魏王泰が括地志を上納した。
 泰は学問を好んでいた。司馬の蘇勗が、「昔の賢王は皆、士を招いて書を著していた」と、泰へ説いたので、泰は上奏してこれの作成を請うたのだ。
 ここにおいて館舎を大いに開き、時の俊才を廣く招いたので、人物が集まり、門前に市を為す有様だった。
 泰が一ヶ月に遣う金は太子よりも多くなったので、諫議大夫猪遂良が上疎した。
「聖人が制定した礼では、嫡子を尊び庶子を卑しみ、世子は膳以外は全て王と同じものを服用します。庶子を愛しても、嫡子を越えません。そうやって嫌疑が増長するのを防ぎ、禍乱の源を除くのです。もしも親しむべき相手を疎んじ尊ぶべき相手を卑しめば、佞巧の姦人達が、その機に乗じて動きます。昔、漢の竇太后が梁孝王を寵愛した為、孝王は憂死する羽目に陥りましたし、宣帝が淮陽憲王を寵愛したので、敗れる寸前まで行ってしまいました。今、魏王は閣へ出たばかりですから、これに礼則を示し謙倹を訓諭して良器に育ててください。これこそ、『聖人の教えは厳正でないのに、成る。』とゆうものです。」
 上は、これに従った。
 上は又、泰を武徳殿へ引っ越させた。すると魏徴が上書した。その大意は、
「陛下が魏王を愛し、彼の安全を望まれているのならば、王が驕慢になるたびにこれを抑え、人から疑われるような場所には王を置かないことです。今、王をこの殿へ引っ越させました。これは東宮の西にあり、昔、海陵(李元吉のこと。彼は、海陵刺王へ追封された)がここに住んでいた頃、時の人々は『そんな所へ住まわせるべきではない』と評していました。今はあの頃とは時も事情も変わったとは言え、魏王の心が安まらないのではないかと恐れます。」
 上は言った。
「これは誤りだった。」
 そして、すみやかに泰をもとの邸宅へ帰した。 

 六月甲辰、今後皇太子が官庫の物を使う時には、所司が制限を加えてはならない、と詔する。これによって、太子は無制限に物を浪費するようになったので、左庶子張玄素が上書した。その大意は、
「北周の武帝は山東を平定し、隋の文帝は江南を併呑しました。彼等は、倹約して民を愛したので皆が主と仰ぎましたが、不肖の子息が遂に社稷を滅ぼしました。聖上が殿下を見るとき、情としては親子ですし、殿下の職務は家国に関わっておりますので、どんな物も無制限に使わせることにしました。しかし、この恩旨が降りてから六旬にもなりませんのに、使った物は七万を越えています。驕奢の極み、これに越えるものはありません!況や、宮臣や正士は太子の側に居らず、大勢の邪悪な者と共に深宮にてべったりと遊んでいるのです。顕わになっているものでさえこれだけの過失があります。隠しているものまで加えたら、どれほどの悪行がありましょうか!『良薬は口に苦けれども病に利あり、苦言は心に逆らえども行いに利あり』と申します。安楽な時に危亡を思って、一日一日を慎んでください。」
 太子はこの書を憎み、門番に玄素の様子を窺わせて、密かに大馬でこれを踏みつけ、瀕死の重傷を負わせた。 

 八月、丁酉。上は言った。
「当今の、国家の急務は何かな?」
 諫議大夫猪遂良が言った。
「今、四方は無事です。ただ、太子と諸王の身分を定めることが急務です。」
「そのとおりだ。」
 この頃、太子の承乾には悪行が多く、魏王泰は寵愛されていた。だから群臣からは毎日疑議が揚がっており、上は聞くたびにムカついていた。そこで、上は侍臣へ言った。
「今の群臣の中で、その忠直さでは魏徴以上の者はない。我は彼を太子の傅として、天下の嫌疑を断とう。」
 九月、丁巳、魏徴を太子太師とした。魏徴は、病状が少し癒えると、朝堂へ詣って辞退したが、上は自ら詔を書いて諭した。その大意は、
「周の幽王や晋の献公は、嫡子を廃して庶子を立て、国の危機となって家は亡んだ。漢の高祖は太子を廃立しようとしたが、四皓が後ろ盾となったので、その地位を保てた。我が今公へ頼むのは、これだ。公が病気なのは知っているが、伏していても良いから、これを護ってくれ。」
 徴は、詔を受けた。
 十七年、正月丙寅。上が群臣へ言った。
「太子には足の病があり、魏王は穎悟で大勢の士人と交遊しているので、いずれ廃立が起こるかも知れない、と、外間の士人達が考え、僥倖を求める連中はすでに魏王の派閥を作っていると聞く。だが、太子に足の病があるとは言え、歩行できないほどではない。それに、礼では、嫡子が死んだら嫡孫を立てることになっている。太子には、既に五人の息子が居る。嫡子をさておいて庶子を立てれば、隙を窺う者達が乗じる源となる。朕は絶対に行わないぞ!」 

 二月壬辰、太子・事張亮を洛州都督とした。
 さて、侯君集が高昌を滅ぼした時(貞観十四年)、君集は、自分では功績があると思っていたのに獄吏の尋問を受けた(詳細は、「高昌へ記載」)。これ以来、君集は怨望して叛心を持っていた。亮が洛州へ出ると、君集は、彼を煽動して言った。
「誰が卿を追い出したのだ?」
 亮は言った。
「公以外に誰がいる!」
「我は一国を平定して帰ってきたのに、山のような怒りに遭ったのだ。なんで他人を追い出したり出来ようか!」
 そして、袂を払って言った。
「今では鬱々として、生きていても楽しくない。公は造反するか?手を組もうぞ!」
 亮は、これを密かに上聞した。すると、上は言った。
「卿も君集も功臣だ。それを語った時、周りには誰もいなかったのだろう。もしも獄吏へ引き渡しても、君集は必ずしらばっくれる。そうなれば、どうなるか判らない。卿も、他言するな。」
 そして、君集は従来通り遇した。 

 初め、太子承乾は声色と狩猟が好きで、非常に贅沢だったが、上から知られることを畏れて、宮臣へ対しては常に忠孝を論じ、あるいは泣き崩れることもあった。しかし、退出して宮中へ帰ると、群小と狎れ遊ぶのだ。宮臣が諫めようとすると、太子はそれを目聡く察知して即座に迎え入れ、非常に反省した顔をしてその咎を口にし自らを責めた。その言葉は美しく、宮臣は拝答にあくせくした。宮省では秘密にして外人は誰も知らなかったので、人々は太子を賢人だと称していた。
 太子は八尺の銅炉を造って、六隔の大鼎を造った。そして、亡命した官奴を募って民間の牛馬を盗ませ、自らの目の前で煮炊きさせて寵用している者達と共に食べた。また、突厥の言葉や服装を真似るのが好きで、左右から突厥に似た顔立ちの物を選び、五人を一組にして弁髪に羊の革衣を着せ、羊を放牧させた。また、五狼頭の大旗や幡旗を作り、穹盧を設けて太子自らその中へ入り、羊を屠って煮、佩刀で肉を斬って食べた。
 太子は、かつて左右へ言った。
「我は、可汗になって死んだ振りをしよう。汝等は葬儀を行うのだ。」
 そして、地面に横たわった。衆人は皆、慟哭し、馬に跨ってグルグル走り、太子に近づき顔を覆った。しばらくして、太子はザザッと起きて、言った。
「やがて天下の主になったら、数万騎を率いて金城西にて猟をし、その後髪を解いて突厥となり、思摩にて典兵すれば、これも天下の快事。人後に落ちんぞ。」
 左庶子于志寧と右庶子孔穎達が、屡々太子を諫めた。上はこれを嘉し、二人へ金帛を賜り、太子への励みとさせた。また、志寧を・事とする。(前述で、志寧は既に・事だったので、年代的に前後しているようです。)
 漢王元昌は不法な振る舞いが多く、上は屡々彼を譴責していた。これによって、元昌は怨望した。太子は、彼と仲が善く、朝に夕に遊び戯れていた。臣下を左右二隊に分け、太子と元昌と各々一つを指揮し、布の鎧と竹の槍で模擬戦を行わせる。両軍布陣したら大声で叫んで交戦し、撃刺のたびに流血する。それが彼等の遊びだった。命令を聞かない者は、その手足を樹木に掛けて叩き、中には死んでしまう者も居た。そして、太子は言う。
「我が今日天子となったら、明日にでも苑中に万人の陣営を置き、漢王と二人で率いて、その戦闘を見るのだ。なんと楽しいではないか!」
 また、言った。
「我が天子となれば、情欲のまま勝手放題に行い、諫める者はすぐにでも殺す。数百人も殺したら、誰もが何も言わなくなるさ。」
 魏王泰は多芸で、上から寵愛されていた。彼は、太子の足が悪いのを見て、密かに太子の地位を奪ってやろうと考えるようになり、腰を低くして下士へ接し、名声を博した。上は、黄門侍郎韋挺を摂泰府事としたが、後に工部尚書杜楚客と交代させた。二人とも、泰の為に、朝士との人脈を作った。楚客はある時は懐に金を持って権貴へ贈賄し、魏王が聡明だと説き、世継ぎに相応しいと語った。文武の臣は各々結託し、密かに朋党が出来ていった。
 太子は、魏王が迫ってくることを畏れ、泰の府の典籖の上封事を偽造させた。その書の中では、皆が泰の罪悪を言い立てており、敕にてこれを捕らえようとしたが、できなかった。
 太子は、太常楽童の称心を私的に寵用しており、共に寝起きするほどだった。道士の秦英と韋霊符は左道(邪道の呪術)の技で太子に引き立てられていた。上はこれを聞いて激怒し、称心等を捕らえて殺した。連座で数人の死者が出て、太子もひどく叱責された。太子は、泰の密告と思い、怨怒はますます酷くなった。心中では称心が忘れられず、宮中の講室にその像を立てて朝に夕に祭り、涙を零して徘徊する。また、苑中に塚を作り、私的に官位を贈って碑を立てた。
 上は次第に不愉快になって行った。太子もそれに気がつき、病気と称してややもすれば数ヶ月も朝廷へ顔を出さなくなった。刺客の乞干承基等や壮士百余人を密かに養い、魏王泰の暗殺を謀った。
 吏部尚書侯君集の婿の賀蘭楚石が東宮の千牛となった。太子は君集の怨望を知ると、屡々楚石を通じて君集を東宮へ引き入れ、自分の地位を安泰にする方法を尋ねた。君集は、太子の暗劣を知り、これに乗じて不軌を謀ろうと、太子へ造反を勧めた。
 彼は、手を挙げると太子へ言った。
「この好き手を、殿下の為に用いましょう。」
 又、言う。
「魏王が上から愛されると、殿下へ庶人勇(煬帝の兄)の禍が降りかかることを恐れます。敕召があることを想い密かに備えを為すべきであります。」
 太子は、深く同意した。
 太子は、君集や左屯衞中郎将の頓丘の李安儼へ厚く贈賄し、上意を窺わせてその動静を共に語った。
 安儼は、最初は隠太子へ仕えていた。隠太子が敗れた時には、彼は隠太子の為に力戦した。上は、これを忠義と思って親任し、宿衞としていたのである。だが、安儼は、太子と深く結びついた。
 漢王元昌もまた、太子へ造反を勧め、且つ言った。
「最近、上の側に侍っている美人は、琵琶の名手です。事が成就したら、彼女を賜下してください。」
 太子は、これを許した。
 洋州刺史開化公趙節は、慈景の子息である。母は、長廣公主。フバ都尉の杜荷は、杜如晦の子息で、城陽公主を娶っていた。二人とも、太子と親しく、造反計画に関与していた。 彼等同盟者は、肘を傷つけて、その血を帛で拭い、それを焼いた灰を酒に入れて飲み、生死を共にすると誓った。そして兵を率いて西宮(大内)へ入る陰謀を巡らせた。
 杜荷が太子へ言った。
「天文に変事がありました。急いで事を起こして、これに応じましょう。殿下が、突然病気になって危篤状態だと言えば、主上は必ず自ら見舞いに来ます。そうすれば成功しますぞ。」
 三月、斉王祐が斉州で造反した(詳細は「造反」へ記載)。これを聞いて、太子は乞干承基等へ言った。
「我が宮の西のひめがきは、大内から二十歩しか離れていない。卿等と大事を起こせば、なんで斉王と比べられようか!」
 やがて祐の造反事件で取り調べが進むと、承基まで飛び火した。承基は連座で牢獄へぶち込まれ、死刑が確定した。
 四月、庚辰朔。承基は、少しでも罪を軽くして貰おうと、太子の造反を告発した。長孫無忌、房玄齢、蕭禹、李世勣と大理、中書、門下へ敕して検分させたところ、造反の証拠は歴然としていた。
 上は侍臣へ言った。
「承乾をどうすればよいか?」
 群臣は誰も口を開かない。すると、通事舎人来済が進み出て言った。
「陛下が慈父であり続けて、太子の天寿を全うさせるならば、何と素晴らしいではありませんか!」
 上はこれに従った。済は、護児の子息である。
 乙酉、太子承乾を廃立して庶人とし、右領軍府へ幽閉すると詔した。
 上は、漢王元昌も殺さずに済ませたかったが、群臣が固く争ったので、家にて自殺させた。しかし、その母や妻子は赦した。侯君集、李安儼、趙節、杜荷は皆、誅殺された。左庶子張玄素、右庶子趙弘智、令狐徳芬(「芬/木」)等は諫争できなかった罪で、庶人へ落とした。その他の連座されるべき者は、全て赦す。・事の于志寧だけは屡々諫めていたので、慰労された。乞干承基は祐川府折衝都尉となし、平棘県公の爵位を与えた。
 侯君集が牢獄へぶち込まれると、賀蘭楚石が闕を詣でて、その事を告発した。上は君集を引き出して言った。
「朕は、公へ詰問の恥辱を与えたくない。ここで自白してくれ。」
 君集は、初めは否認していたが、楚石を引き出してその顛末を陳情させ、又、承乾とやり取りした文書を突きつけられると、君集は返答に窮し、服した。
 上は侍臣へ言った。
「君集には大功がある。殺したくないが、どうか?」
 だが、群臣は不可とした。上は君集へ言った。
「公と、永久の別れだ!」
 そして、泣き崩れた。君集も地面に身を投げ出した。遂に、市にて斬る。
 君集は、刑に臨んで監刑将軍へ言った。
「君集はここまで道を踏み外した。だが、陛下へは藩邸の頃からお仕えし、二ヶ国を征服した。どうか一子だけは命を助け、我が祭祀を継がせてください。」
 上はその妻子の命を助け、嶺南への流罪とした。その家は全て没収し、二人の美人を得た。彼女達は幼い頃から人乳を飲むだけで、何も食べなかった。
 話は前後するが、李靖が上の命令で君集へ兵法を教えた。すると君集は上へ言った。
「李靖は、やがて造反します。」
 上が理由を問うと、対して言った。
「靖は臣へ大雑把なことしか教えず、精妙な術を隠しております。ですから判りました。」
 そこで上は、靖を呼び出して尋ねた。すると、靖は答えた。
「それは、君集が造反したがっているのです。臣が教えた兵法で、四夷を制圧するのには充分です。しかし君集は臣の術の全てを固く求めました。造反以外に何故必要でしょうか!」
 江南王道宗が、くつろいだ折に上へ言った。
「君集は志は大きいのに智恵が小さい。自ら微功を誇り房玄齢や李靖の下にいるのを恥じております。吏部尚書となっても、まだ満足していません。必ず乱を起こします。」
 上は言った。
「君集は人物だ。何で取り立てては為らぬのか!朕は重位を惜しんでいるのではない。ただ、順次出世させてやろうと思っているだけだ。まだ形も顕れていないのに、妄りに猜疑してはならぬ!」
 君集が造反して誅殺されるに及んで、上は道宗へ謝った。
「果たして、卿の言うとおりだった。」
 初め、長廣公主は趙慈景へ嫁いで節を生んだ。慈景が死ぬと、楊師道と再婚した。師道と長孫無忌等は、共に承乾の疑獄を尋問し、密かに趙節に有利に計らったので、譴責を蒙った。上が公主の所へ行くと、公主は首を地面へ叩きつけ、泣いて子の罪を謝った。上も又泣き濡れて言った。
「賞は仇敵を避けず、罰は親戚に阿らず。これが天下の至公の道なのだ。これに敢えて違わなかったが、それ故に姉上へ背いてしまった。」
 李安儼の父は九十余歳。上はこれを憐れみ、奴婢を賜って養った。 

 太子承乾が罪を得てからは、魏王は毎日上の側へ侍った。上は面と向かって太子に立てることを許し、岑文本と劉自もまた、これを勧めた。だが、長孫無忌は、晋王治を立てるよう固く請うた。上は侍臣へ言った。
「先日、青雀(泰の幼名)が我が懐へ飛び込んできて言った。『臣は今日、はじめて陛下の息子になることができました。生まれ変わったのです。臣には息子が一人居ますが、臣が死ぬ時には、陛下の為に彼を殺して、帝位を晋王へ譲りましょう。』と。世の中に、息子を愛さない者が居るだろうか。朕はこれを見ると、哀れでならなかったのだ。」
 すると、諫議大夫猪遂良が言った。
「陛下の言葉は、大失言です。どうか熟慮して、誤ちを犯さないでください!陛下万歳の後、魏王が天下に據ったなら、どうしてその愛子を殺して晋王へ位を伝えたりするものですか!陛下はかつて承乾を太子に立てたのに、後に魏王を寵愛し、その礼秩は承乾を凌ぎました。それが今日の禍を招いたのです。前事はまだ遠い過去ではありません。鏡としてください。陛下が今魏王を立てるなら、どうかその前に晋王の始末をつけてください。そうして始めて安全になります。」
 上は涙を流して言った。
「我は、その様なことはできぬ。」
 そして立ち上がり、後宮へ入った。
 魏王は、上が晋王治を立てることを恐れ、彼へ言った。
「汝は元昌と仲が善かった。元昌が敗れた今、心配でなるまいな?」
 治は、これによって憂えが顔に現れた。上が怪しんで屡々理由を問うたので、治はようやく実状を告げた。上は憮然とし、泰を立てると言ったことを始めて後悔した。
 上が承乾を面と向かって責めると、承乾は言った。
「臣は太子となったのです。これ以上、何を求めたでしょうか!ただ、泰が小細工を弄するので、我が地位を守る術を朝臣達と謀ったところ、不逞の人が臣へ不軌を教えたのです。今、もし泰を太子にするなら、いわゆる、『その手に乗った』とゆうものです。」
 承乾が廃立されると、上は両儀殿へ出向いた。群臣が退出すると、上は、長孫無忌、房玄齢、李世勣、猪遂良のみを留めて、言った。
「我が三人の子(祐、承乾、泰)と一人の弟(元昌)は、こんな事をしてしまった。本当に、何に縋って良いのか判らない。」
 そして、長椅子へ身を投げ出した。無忌等が争って抱え上げる。上はまた、佩刀を引き抜いて自刺しようとしたが、遂良が刀を奪って晋王治へ渡した。
 無忌等が、上の思うままにするよう請うと、上は言った。
「我は、晋王を立てたい。」
 無忌は言った。
「慎んで詔を奉じます。異議がある者は、臣に斬らせてください!」
 上は、治へ言った。
「汝の舅が、汝を許した。拝謝するがよい。」
 そこで、治は拝礼した。
 上は無忌等へ言った。
「公等は、既に我へ同意した。だが、他の者は何と言うかな?」
 対して言った。
「晋王の仁と孝は天下の人々から慕われ続けていました。どうか陛下、試みに百官を召して問うてください。同意しないものがあれば、臣は陛下へ背いた者、その罪は万死に値します。」
 上は、太極殿へ出向くと、文武の六品以上を召して、言った。
「承乾は悖逆、泰は凶険、どちらも立てられない。朕は諸子から世嗣を選びたいが、誰がよいかな?卿等、明言せよ。」
 すると衆は皆で叫んだ。
「晋王は仁孝、世嗣とするべきです。」
 上は悦んだ。
 この日、泰は百余騎を率いて永安門へ至った。上は、門司へ、その騎兵を悉く取り上げるよう敕し、泰を粛章門へ引き入れ、北苑へ幽閉した。
 丙戌、晋王治を皇太子へ立てると詔する。承天門楼へ出向いて天下へ恩赦を下し、三日間宴会を開いた。
 上は、侍臣へ言った。
「我がもし泰を立てれば、これは太子の位が謀略で得られることになる。今後は、太子が不徳の時、藩王にこれを窺う者が出れば、共に棄てることとする。これは諸子孫へ伝えて、永く後法とせよ。それに泰が立てば、承乾も治も殺される。治が立てば、承乾も泰も恙なく生きて行ける。」
 司馬光が言った。
 唐の太宗は天下の大器を以てその愛する者へ私的に渡したりしなかった。そうして、禍乱の源を断ったのである。遠謀があったと言える! 

 癸巳、魏王泰を雍州牧、相州都督、左武衞大将軍から解任し、東莱郡王へ降爵した。泰の府の僚属の中で、特に泰から親しまれていた者は皆、嶺表へ左遷された。杜楚客は、兄の如晦に功績があったので、死を免れたが、庶人へ落とされた。給事中崔仁師は、かつて魏王泰を太子に立てるよう密かに請願した事があったので、鴻臚少卿へ左遷された。 

 五月、癸酉、太子が上表した。
「承乾と泰の生活は、衣は身に纏うだけ、飲食はただ口に入れるだけとゆう有様。幽閉の憂とは言え、とても可哀相です。どうか役人へ敕を下し、もう少し楽にさせてやってください。」
 上は、これに従った。
 閏月丙子、東莱王泰を順陽王とした。
 九月癸未、承乾を黔州へ流す。甲午、順陽王泰を均州へ下向させる。
 上は言った。
「親子の情は自然に出るもの。朕は今、泰と生き別れるのだ。なんとやるせないことか!しかし、朕が天下の主となったのは、ただただ百姓を安寧にする為なのだ。私情は棄てなければならない。」
 又、泰の上表を近臣へ示し、言った。
「泰は、誠に俊才だ。朕がいつも心に思っているのは、卿等も知っているだろう。だが、社稷の為に義を以てこれを断ち切らざるを得ない。彼を地方へ下向させるのは、二つながら全うする為なのだ。」 

 十八年、十一月壬寅、もとの太子承乾が黔州で卒した。上はこれの為に朝議を中止し、国公の礼で埋葬した。
 二十一年、十一月癸卯、順陽王泰を濮王とした。
 二十三年、四月、太宗崩御。都督や刺史となっている諸王が喪へ駆けつけてきたが、濮王泰だけが期限に間に合わなかった。
 十二月。高宗は、濮王泰へ府を開かせて幕僚を設置し、車服珍膳は特別扱いするよう詔した。
 永徽三年(652年)、十一月癸巳、濮王泰は均州にて卒した。

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