秦始皇帝論

 

 人類が始めて生まれた頃、彼等は生きて行く方法を知らなかった。禽獣と腕力を競いながら細々と生きて行く毎日では、いつ命を落とすかも判らない。これでは、明日のことを考えても全く意味がなかったことだろう。毎日毎日、ただただ生きて行くことのみに汲々と暮らしていた。これでは巧妙な偽りなど考えられるはずもなく、それ故に、人々は無知なままだった。

 この時、聖人はその無分別を憎み、かつ、人々がいつも命の危険に曝されていることを哀れんで、道具・弓矢・舟車の類を作った。こうして文明が生まれると至れり尽くせり。人々は便利な生活を安閑と楽しめるようになった。こうやって衣食が足りて、民は始めて贅沢を覚えた。便利な道具が巧妙な詐欺を生み、欲望を満たすことができたからこそ志が大きくなり、更に貪欲になっていった。 

 狡猾な民衆は統治することが困難である。ここに至って、聖人はこれを憂え、礼節を作って、民の心を素朴な物に戻そうとした。そう、礼節というのは、原始の素朴さに返る為に作られた物なのだ。

 土間に座って手掴みで物を食べるのは非常に楽であり、民衆は楽な生活を望んでいる。それは、聖人も知っていた。しかし、敢えて不便な生活を教えたのである。チャラチャラした着物を着てゴタゴタした装飾品でその身を飾りつける。それはチョコマカと動き回れないようにした物だ。上は朝廷から下は庶民まで、見る物聞く物の全てが煩雑で鬱陶しい。その衣には手の込んだ刺繍がしてあり、井田を耕すことで税金とし、人材の登用は学校から選挙させ、民の統治は諸侯に任せる。嫁取りから葬式まで、全てにきっちりとした作法があり、その作法は鬼神に託して威厳をつけ、理屈を付けて重々しくしている。これら全ては、奸悪なことを軽々しく行わないよう、民に誇りを持たせる為の物である。だから、人の欲望に近い物は上等の礼儀ではない。周公や孔子は、更に細かく作法を決めた。一歩一歩の歩き方から階段の上り下りまで、口うるさく注文を付けている。これは、庶民から見れば迂遠で不合理だろうが、それこそ聖人の目的だったのだ。

 この礼節は、三皇五帝の次代から連綿と受け継がれてきたが、秦の始皇帝に至って完全に粉砕された。

 秦の始皇帝は、詐術を使って天下を統一した。だから、彼は自分の知恵に自信を持ち、殷の湯王や周の文王武王でさえも自分の右には出ないと思い上がった。此処に置いて、諸侯を廃止し、井田を破り、民の統治法はただただ利便性を追求したやり方となった。礼節を無視したことを恥じず、聖人の作った防波堤を突き崩し、合理性こそが大切な物であるとと天下に明示した。

 だから、秦から後の世の中では、身を守り衣食を満たす方法のみが社会に流布し、礼儀節序は無用の長物で片づけられてられるようになってしまった。何故だろうか?彼等はこう思っているのだ。「礼儀なんか無くったって生きて行ける。」しかし、礼儀無しに生きて行くのならば、どのような悪事でも際限なく蔓延ってしまう。嗚呼!これは秦の弊害が今日まで続いているのだ。

 昔は、文字を残すだけで一苦労だった。秦以後になると簡便さを重視した為、だんだん略式の文字が横行するようになり、最後には紙が発明されて、文書の作成が非常に楽になってしまった。だからこそ、天下に雑多な文書が出回るようになったのだ。役人達が不逞な書物を取り締まろうとしても、どうしてできようか。しかし、これがもしも昔の煩雑な文字で竹札に書くようになったら、雑多な書物を流布させようとしても、とても無理なことであり、その手間暇に見合った、本当に価値のある物だけしか文書には残らなくなってしまう。これから見ても、便利性という物が、詐欺を広める原因であることが判る。

 嗚呼!秦のやったことは、既に過去のことだ。しかし、その後の君子達も天下を統治しようと思って利便性を流布し、その結果人々を詐へと押しやり続けているのだ。悲しいではないか!