晋の成公、公族を為す。
 
(春秋左氏伝) 

 晋で驪姫の乱が起こってから、晋では諸公子を全て国外へ追放するとゆう法律が制定された。以来、晋には公族がなかった。成公が即位するに及んで、卿の嫡子へ領地を与えて公族とし、その同母弟を余子とし、庶出の子息を公行とした。こうして、晋に公族、余子、公行が復活した。 

  

(東莱博議) 

 模範とされるべき良い法律は、治世に制定されて乱世に廃止される。弊害ばかりを生み出す悪い法律は、乱世に制定されて治世に廃止される。 

 殷の紂王が暴虐な苛政で天下を侈毒した時、炮烙や体の皮剥ぎなどの残虐な刑罰が制定され、鹿台などの豪奢な宮殿の為に重税が課された。だが、周の武王が牧野の戦役で殷を滅ぼすと、これらの法律は全て撤廃され、成湯や太甲、武丁時代の善き法典が復活したのである。かつての淫虐な法典は、それを醸成させた土台がひっくり返り、根本となった源がなくなったのだ。どうしてその害毒をいつまでも遺して、後々の人間を苦しめようか。
 だから、成王や康王の時代に紂王時代の悪弊を取り除こうと考えても、そんなものは武王の時代にとっくに除かれ、手を施すべき事が残っていなかったのである。逆に言うなら、後の時代に除くべき悪弊があったとゆう事は、前の時代にその悪弊を除ききっていなかったとゆうことに他ならない。
 秦の始皇帝が、詩書百家の書物の私蔵を禁止した。漢の二世皇帝の恵帝が、この法律を廃止したが、その事実を見て、劉邦が儒教をないがしろにしていたことが判るのである。文帝が誹謗の禁止を解除したのを見ると、劉邦が忠言を厭うていたことが判るのである。
 それは確かに、劉邦は秦を滅ぼすことに汲々としていた。しかし、他のことに手をつける隙がなかったというのなら判るが、事もあろうに儒教の廃止と忠言の禁止を座視していたとは。幸いにして、恵帝がこれを廃止したから良かったが、もしも恵帝が劉邦のような人間で、漢の四百年に亘って挟書の禁が続いていたとしたなら、国号こそ「漢」であるが、その実質は「秦」と何ら変わらなかったではないか。
 後世の人々は、恵帝の善政を見て、劉邦の失策を知れるのだ。そして同様に、晋の成公の挙を見て、私は文公の闕を知った。 

 晋は驪姫の難の時、群公が排除された。以来、晋には公族がなかった。そして、成公が即位して、始めて公族が復活したのである。
 ところで、成公から逆算して驪姫へ遡るまで、一体何人の主君が居たのだろうか。文公に先だって即位した恵公や懐公のような連中は、言うに足らない。そして、文公の後に即位した襄公や霊公のような人間も、語るに足りない。彼等は皆、暴君、もしくはせいぜい庸君に過ぎなかったのだから。ただ、文公一人、そうではない。
 文公は春秋五覇の一人であり、明君の誉れ高い。春秋賢者としての責務をその身に負いながら、驪姫の乱の時の法律を遵守して宗族を迫害し、憐れみの心を全く持たなかった。他の何を改革するよりも先に、まずこれを改めなければならなかった筈だ。
 ましてや文公は、彼自身驪姫の危難を蒙った身の上ではないか。彼が転々流浪して、狄へ行き、衛へ行き、斉へ行き、曹へ行き、鄭へ行き、楚へ行き、腰を落ち着けることもできないままに髪が白くなってしまったのは、まさに驪姫のせいではないか。それが、幸いにして国へ戻ることができて即位もできた。どうしてこの禍を我が身に顧みて思いを巡らせることができなかったのだろうか。
 晋の公族達は、散り散りになって僻地へ行き、幾星霜を重ねてきた。その彼等は今、かつての自分のように刺客に追われて命辛々逃げ回っているかも知れない。かつての自分のように、空腹に耐えかねて食を乞い、土塊を与えられているかも知れない。かつての自分のように、嘲られ馬鹿にされ、沐浴をのぞき見られているかも知れない。
 自分自身のかつての艱難を思い出して、他人の今の艱難を推し量る。そしたら速やかに号令を発して公族をかき集めて親族に親しむの義を実践せずにはいられない筈だ。 

 ところが、文公は功利ばかりを追い求め、改革しようともしなかった。時が経ち、旧習は次々と改まって行くのに、彼の親族は、陳や秦に居候している有様。皆、流離の患を免れなかった。
 ようやく正しいあり方へ戻ったのは、文公の後、更に三度代が変わった後だった。この事を思い、私は文公の為に惜しむのだ。
 天下の弊法の中には、もとより千年経っても変えられなかったものもある。商鞅の租税(従来は井田法。主君の田を耕すとゆう労役以外には、税は取られなかった。これが、儒教の理想の世界とされている。)や、漢の武帝の塩鉄専売、唐の張ボウの茶税(唐の貞観年間に制定された)、劉守光の割譲、(五代時代、劉守光は燕雲十六州を契丹へ割譲した。この失地回復は、宋時代全般を通じての悲願だったが、結局達成できなかった。)等がそれである。
 これらの悪弊は、改正しようと思っても、既に抜き差しならないものとなっており、なかなか実践が困難である。だが、公族の制度の復活など、どんな障害があるだろうか。一言命令すれば、たちまち官吏達が法律を制定してくれる。それなのに、どうして文公は猶予して実行しなかったのか。世間には、文公を評価する人間が大勢居る。そんな輩に、私は尋ねたいのだ。 

  

(訳者、曰) 

 中国では、一人の人間が出世すれば、一族全員を引き立てるのが当然とされているそうだ。呂東莱は宋の時代の人間で、この頃は、科挙の制度が定着していた。「志を得たら、親類縁者を庇護するのが当然」とゆう発想だろうか?勿論、儒教思想として「親に親しむ」とゆう観念はあるのだが・・・。
 まあ、専制君主時代の人間に、「一族を封じるのが適宜か否か?」などと問いかけても始まるまい。それよりもむしろ、「そのような時代に育ちながら、公族を無視した文公は、人間として欠陥があった。」とゆう、この論文の主旨にそのまま賛同した方が、自然だと思う。