晋の霊公の不君
 
(春秋左氏伝) 

 晋の霊公は、暴虐な君主だった。税を貪って宮殿を豪華に飾り立てたり、高殿から石を弾いて、人々が泡を食らって避けるのを見て喜んだりしていた。
 ある時、料理の出来が拙かったとして、料理人を殺した。趙盾と士季が、その死体を運ぶ現場を見て、子細を聞いて憂えた。趙盾が諫めようとすると、士季が言った。
「貴方が諫めて聞き入れられなければ、もう後がありません。まず、私が諫めます。」
 士会が入宮しても、霊公は無視していた。しかし、跪くことが三度に及ぶと、始めて気がついたふりをして、霊公は言った。
「孤がやりすぎたのだ。これから改める。」
「人には誰も過ちはあります。それに気がついて改められるのでしたら、これ以上の喜びはありません。」
 だが、霊公の行いは変わらなかった。趙盾は屡々諫めたので、霊公は煩わしくなり、ショゲイとゆう男へ、趙盾の暗殺を命じた。
 ショゲイが朝早く趙盾の家へ忍び込むと、居間が開け放してあった。趙盾は、礼服を着込んでいたが、まだ出仕するには時間があったので、端座して仮寝をしていた。その姿を見ているうち、ショゲイは荘厳さに心撃たれ、スゴスゴと引き返した。
「あの姿はどうだ。恭敬の意に満ちあふれている。あのようなお方こそ、民の主人というべき人だ。民の主人を殺すなど、不忠の極み。だが、主命に背くのも不信だ。こうなった以上、自殺して陛下へ申し開きするしかない。」
 彼は、槐へ頭をぶつけて死んだ。
 九月、霊公は趙盾を宴会に招き、伏せて置いた兵卒に殺させようとした。すると、趙盾の侍者の提彌明がその企てを知り、堂へ駆けつけてきて言った。
「主君の宴会にて、臣下が三杯以上酒を飲むのは非礼です。」
 そして、趙盾を引っ張って、堂から逃げ出した。霊公は猛犬をけしかけたが、提彌明は、これを殺した。趙盾は言った。
「人を大切にせずにおいて、犬をけしかけて何になろう。」
 襲いかかる兵卒へ対して、剣を奮って血路を開こうとする。提彌明は討ち死にしたが、この伏兵の中に趙盾から恩を受けた事のある兵士がおり、彼が裏切って趙盾を助けたので、趙盾は何とか窮地を脱した。
 趙盾はそのまま亡命しようとしたが、その途中、趙穿が霊公を弑逆し、それを聞いて、都へ戻って来た。 

  

(東莱博議) 

 天下の乱は、全てが微細なことから始まり、大きくなっていったものだ。その、始まりの兆しを知ることのできる人間を君子と言う。それに対して衆人は、事態が大きくなってからやっと判るものだ。
 殷が滅亡した後、荒れ果てた廃墟を見て心を悼ませる事は、匹夫凡婦といえども、誰でもできる。だが、栄耀栄華を極める権門の家に行き、そこが荊棘に覆われることを予見する事は、機微を知る人間にしかできないことだ。 

 晋の霊公は暴戻凶虐。趙盾へ杯を与える時、武装兵を伏せて、これを攻撃しようとした。ここに至って、人々は驚愕の余り魂を消し飛ばしたのである。君臣は敵国ではない。宮殿の大広間は戦場ではない。長戈大矛を前線ではなく宴席にて使用し、礼服が裂けご馳走が飛び散る。これ以上心を驚かすことがあるだろうか。
 だが、彼等は知らない。もともと、霊公は争臣を敵と見ていた。霊公が即位してからこの方、王宮は常に戦場だった。だが、大騒動が起こってはいなかったので、誰もそれを察することができなかっただけなのだ。
 霊公が放埒になり始めた頃から、彼は既に臣下を讐敵あつかいして、兵法を使って諫言を拒もうとしていた。
 随会が入って諫めようとした時、何度も平伏したが、これを悉く無視した。それは静を以て制するやり方であり、戦場で言うならば、溝を深く掘り塁を高くして敵の襲来を待つようなものである。兵法では、「形」と名付けている。随会が諫めようとしたら、自分の心を偽って後悔したふりをし、相手の言葉を塞いだ。これは弱を以て敵に示すやり方だ。甘言卑辞で敵を誘う。兵法では「声」と名付けている。
「形」で防げず、「声」で動かせない。兵法が尽きてしまったから、白兵戦に移った。随会の後に趙盾が諫めたので、人知れず刺客を放ったり、衆人の前で犬をけしかけたりした。そうやって精神的に威圧を与えても、まだまいらない。そしてとうとう、武装兵の投入となったのだ。
 武装兵が動員されたのを見て、人々はギョッとして恐れおののいた。だが、識者がこれを見れば、霊公はその胸の中で最初から兵を挙げ、宮廷では常に血を流し続けていた事が明白である。君臣が相接して、ああでもないこうでもないと言い合う時には、戦場にいることを認識し、心を戒めておくべきだったのだ。
 趙盾は、自分が讐敵として見られている事に気がつかないで、口やかましく諫めてやめず、とうとう伏兵を設けさせるまでに至らせた。何と、それを見ることの遅い事か。
 それでは、趙盾の立場にあったならどうすれば良いのか。
 二国に行き違いがあっても、一人の使節が巧く纏めることがある。二塁が対峙している時、一騎士が緊張を緩和させることがある。讐敵でさえ、和を通じることがあるというのに、君臣で判り合えないことがあろうか。心がすれ違ったら、君門も万里の遠きにあり、心が通い逢ったら、万里の遠きも君門に等しいのだ。 

 すると、ある者が言った。
”そりゃ、君の言いたいことは判る。君臣はもとより相通じあわなければいけない。だがな、相手は、暴虐無頼な霊公だ。常道で論じられる相手ではないぞ。それなのに、君臣で心が通じ合えなかったと言って、趙盾を責める。そりゃ無茶とゆうものだ。”
 いいや、そうではないぞ。
 霊公と趙盾は、もともと君臣である。ただ猜疑心によって阻まれて、互いに仇敵のように見るようになってしまっただけなのだ。
 それに対して、あの刺客は、もともと趙盾へ対して縁もゆかりもなかった人間だ。その上、刀を執ってやって来た。これこそが、趙盾の本当の讐敵である。彼が趙盾の家へ入って隙を窺った時、彼の全身どこを探しても、善意の欠片さえなかった筈だ。だが、趙盾の端座する姿を見つめる内に、精神は次第に萎縮して行き、毒を納め忿怒を除き、たとえ自分の命を失おうとも趙盾には毛一筋程の傷を負わせてはいけないのだと、思わせるに至ったではないか。
 誠敬は、こうも速やかに人の心を動かすのである。本物の讐敵でさえも真心で動かすことができるのである。ましてや、もともと君臣で、行き違いで仇敵となった人間の心なら、なおさら動かせない筈がない。
 もしも趙盾が、この敬虔の心をそのまま保持し、朝廷に立った時にも同じ様な想いで霊公に対峙することができたなら、霊公の心を動かすこともできた筈だ。
 人の心とゆうものは、早朝には、まるで波立たない水面のように、あたかも雲一つない空のように、まだ彫っていない珠玉のように、鳴らさない琴のように、真粋清明なものである。趙盾が朝廷へ出仕しようとして居住まいを正していた時には、その心境は往時の唐虞や孔子のように、清く澄み切っていた。ああ、春秋の乱世とは思えない程の清らかさだった。
 惜しいかな、家を出て人と接する時に、巧みに行おうとする邪心が生まれ、上は主君の失徳を救うことができず、下は悪名を逃れることができなかった。早朝の真粋清明の気を見れば、結局出奔逐電しなければならないくなった境遇は、取り返しのつかないものである。 

 ああ、春には繁り秋に枯れるのは衆木の性。早朝に充満しながら、昼になったら枯れ果ててしまうのが、衆人の気である。その中にあって、松や柏は四季を貫いて青々と繁る。春や秋の季節など、彼等へ対して何ができよう。そして本当に気を修養した人間も、早朝に満ちていた気が、昼になったからと言って枯れ果てるようなことはない。だから、木の中で秀でた物に春夏がないように、気を修養した人間にとっても、早朝や真昼など、関係ないのだ。 

(訳者、曰) 

 趙盾の姿を見ただけで、刺客が慚愧して自殺してしまった。中国史全編を通じて、このような事件はこれ一つだけである。だから私は、趙盾を仰ぎ見る。しかし、その彼にして、霊公の心を動かすことができなかった。
 早朝と真昼では、人の心はまるで違う。確かに、澄みきった心で物を見れるのは、早朝だ。君子は、早朝の趙盾のような心を、終日保持することができるのだろうか。