東莱博議  鄭の申侯

(左氏伝)

 斉の桓公の二十九年。楚が鄭へ攻め込んだ。鄭伯は降伏しようとしたが、孔叔が言った。
「斉候は我が国に目をかけてくれております。それなのに、今、楚に服従したら義が廃ります。」
 結局、鄭は耐え抜いた。

 翌年、斉は諸侯を集めて蔡を伐ち、そのまま楚へ攻め込んだ。彼等は楚王と盟約を交わして引き返したが、その帰り道、陳の轅濤塗が鄭の申侯へ言った。
「このまま進軍すると、我が陳と、貴方の鄭を経由することになります。この大軍を饗応するのでは、費用が堪りません。そこで、東へ進路を取るよう勧めようではありませんか。『東夷の連中にこの偉容を見せつけて威圧しましょう。』と。」
 申侯が承諾したので、轅濤塗は桓公へこの策を提案した。桓公は承諾したが、この時、申侯が言った。
「我が軍は長征の直後で疲弊しきっております。もしも東夷が攻撃してきたら、多大な被害を受けましょう。それよりも、このまま進軍すれば我が鄭や陳を通過します。そこでゆっくりと骨休めをして兵糧の補給をした方が、余程宜しいではありませんか。」
 それを聞いて、桓公は轅濤塗の真意に気がつき、その不実を責めて、捕虜とした。又、申侯へ対しては、褒美として虎牢を与えた。
 同年、冬、斉は諸侯を集めて陳を攻撃した。陳が降伏したので、斉はこれを赦し、轅濤塗はようやく帰国を許された。
 この一件によって、轅濤塗は申侯を深く怨んだ。そこで、申侯の周りの人間を買収して、彼に吹き込んだ。
「褒美として土地を貰うなど、名誉なことではないか。これは、立派な城を築かなければならないよ。でないと、せっかくの手柄が語り継がれなくなってしまうからね。」
 申侯はウカウカ乗せられて、虎牢に立派な城を築いた。その傍ら、轅濤塗は鄭伯にも吹聴した。
「外国から貰った領土に立派な城を築くなど、主君をないがしろにした行為です。そんな男は、いずれ謀反でもやりかねませんよ。」
 鄭伯は申侯へ不審を抱いた。
 又、轅濤塗は斉の桓公にも吹聴した。
「申侯はもともと申の人間で、かつては楚の文王に寵愛されておりました。それが、文王が死んでから鄭へ来たのですよ。何かきな臭くありませんか?」
 そんな中で、斉が諸侯を集めて会盟を行った。その時、周王が鄭伯へ言った。
「楚が貴国を気に掛けている。口を利いてあげようか?」
 鄭伯は、斉候とご無沙汰続きだったので、喜んで許諾した。孔叔はこれを諫めたが、鄭伯は聞かず、結局会盟に参加せずに帰国した。
 翌年、斉が諸侯を集めて鄭を征伐した。会盟に参加せずに帰国した為である。すると、楚が鄭を助けようと、許を攻撃したので、斉軍は許を助けねばならず、鄭攻撃を一時断念した。しかし、結局援軍は間に合わず、許は降伏して楚の属国となった。
 そこで、斉の桓公の三十三年、(魯の僖公の七年)斉は軍を返して再び鄭を攻撃した。
 孔叔は言った。
「諺に言います、『心中恐れているのならば、なんで頭を下げるのを憚るのだ?』と。今は我が国存亡の時です。詰まらない面子にこだわられなさいますな。」
 すると、鄭伯は言った。
「私には、斉候の本心が判っている。」
 こうして、鄭伯は申侯を殺して斉候への申し開きとした。
 (この秋、斉は諸侯を集めて鄭の始末を相談した。この時、鄭は皇太子の華が列席したが、彼は故国を売って斉に媚びようとした。桓候は気乗りしたが管仲がこれをたしなめた為、不忠不孝の皇太子を告発し、鄭を赦すこととなった。
 「曹歳・社を観るを諫める」で付載した事件が、この時のものである。)

 

(博議)

 「時流に従う」とゆう説がある。人々の善行を怠らせ奸悪を増長させる事では、この理屈ほど甚だしい物はない。
 これは酷い邪説なのだが、世間に流布してから長い時間が経っているのに、尚も廃れずに支持されている。それとゆうのも、この説にはそれなりの根拠があり、実証も多く、しかも理論的に正しく思えるからだ。これでは天下を挙げてこの邪説に惑わされるのも無理はない。
 では、その理屈をここに紹介してみよう。

「そもそも、時流に従う者は栄達し、時節に逆らう者は行き詰まる。これこそが天下の理である。
 例えば、尭・舜の御代のような治まった社会の中にあって共や鯀のように奸悪なことをすれば、当然島流しの刑にあってしまう。同様に、桀・紂の時代のように不正がまかり通る世の中で湯王や文王のような正しさを貫き通せば、幽閉されるのが関の山だ。だから、共や鯀が追放されたのも、湯王や文王が囚人の憂き目にあったのも、当然の結果である。治世で悪事を働いてはいけないのと同様に、乱世では善行を積んではいけないのだ。
 君がもし、乱世に生きていて、しかも心の正しさを無くさずにいようと思うなら、まず自問自答してみるが良い。飢え凍えても耐えられるか?火炙りになっても構わないか?入れ墨を入れられても?ギロチンの下へ押しやられても?
 もしもそれらが平気なら、それは時節に逆らって志の正しさを貫き通すが良い。しかしそれができないと言うのなら、人々と同じように、賄賂にまみれ上役に諂い、社会から浮き上がらないように気を配らなければならない。そうすれば君の一生は安泰だ。」

 この邪説が流布してから、十人に九人までが悪行に染まるようになってしまった。嗚呼、これでは立派な人間が居てもどうやって世の中を治めることができるのだろうか!

 春秋時代は、詐術が横行する時代だった。その歴史書をひもとくと、悪辣な手段で栄達する者も居たし、正しさを無くさずに殺された者も居た。祭仲や潘崇は栄達し、洩冶や伯宗が殺戮に遭ったこと等はその好例である。これらは全て、世間が指さして証拠とするものである。
 しかし、斉と楚が鄭を巡って争った時のことを挙げてみよう。
 この時、孔叔は終始変わらずに斉に仕えた。対して申侯は利に走って斉へ楚へ反復常無かった。世俗の説に照らし合わせれば、孔叔のようなコチコチの石頭は悲惨な結果になった筈だし、申侯のようなC調の人間にとって、この時代なら稼ぎ時だった筈だ。しかし、結果はどうだ?孔叔には何の禍も降りかからなかったし、却って申侯こそ処刑されてしまったではないか。これでは俗説も真偽の程が疑わしいものである。
 昔、漢の哀帝の時、丁傅の威勢が甚だしかった。彼に媚び諂う者は皆出世したが、朱博は丁傅に媚びた為に処刑された。王奔が簒奪を企んだ時、王朝交代の瑞兆を献上した者は皆抜擢されたが、硬骨漢の陳崇がこれを告発した為、劉芬は誅殺された。
 そう、昔の君子は毅然として自分を守っており、時流に逆らっても後悔しなかったが、彼等は皆、ここの道理をわきまえていたのだ。

 嗚呼、治世とゆうのは、小人が志を失う時機であり、乱世は小人が志を得る時である。小人に加担する者は、賄賂が横行するような腐りきった社会を喜び、綱紀ある社会にならないよう願っていることだろう。しかし、深く考えるとそうではないのだ。
 綱紀ある社会の小人達は、法に迫られ、悪事を働かぬよう汲々と暮らしている。胸の中に毒を含み険を蓄えようとも、これを縦横無尽に働かせることができない。まことに志を得ない時代に見える。しかし、そうやって悪事を働かないからこそ、彼等は一生を全うすることができるのだ。小人を愛する者は、彼等が綱紀ある社会に生きることをこそ願うべきである。
 厳格な師匠は、弟子をきびしく教え、慈母は子供を叱りつける。しかし、これを傍から見ても、彼等の恩愛を感じこそすれ、憎しみなどは感じない。
 しかし、腐りきった世の中はそうではない。貪欲な者は家財を蓄え、詐術の巧い者は出世する。高位高官になる程互いに悪行を競い合い、結局は法に触れて我が身をめちゃめちゃにしてしまうまで止まらないのだ。まるで、餌を付けた釣針や罠ようではないか。そう、腐世は、目先の利益を餌にして小人を釣り上げ、死地へ追いやっているのだ。
 申侯は悪巧みが成功して領地を賜下されたけれども、結局は処刑されてしまった。その理由こそこれである。
 嗚呼、世の中の小人達よ、乱世に遇っても幸いと喜ぶことなかれ。

(訳者、曰く)

 「東莱博議」は、科挙の模範答案集として流布していた。そうすると、歴代の高級官僚達は、全てこの論文に精通していたわけだ。にもかかわらず、何と小人の多かったことか!宋も明も、高級官僚によって食いつぶされたとしか思えない。彼等は賄賂を貪っている時、自分の将来に危機を感じなかったのだろうか?
 もっとも、この論文に限らず、他のどの論文を読んでみても、「これが科挙の模範答案集として読まれていた」とゆう事実に疑問を感じてしまうのだが・・・・・。