秦の穆公、子車氏の三子を以て殉となす。
 
(春秋左氏伝) 

 文公の六年。秦の穆公が死んだ。この時、穆公は、子車氏の三人の息子、奄息、仲行、鍼虎を殉死させるよう命令した。この三人は、皆、秦の良臣だった。
 秦の人々は、彼等を哀れんで、「黄鳥」という賦を作った。
 君子は言う、
「秦穆が覇者になれなかったのも、もっともだ。死ぬ時に、国民を見捨ててしまった。昔の立派な王様は、手本となるような立派な行いを遺して死んでいったものだが、秦穆はそれを遺さなかったばかりか、有能な臣下まで奪い去っていってしまった。」 

  

(博議) 

 三人の良臣が、主君の為に殉死した。これを是とする者と非とする者は半々くらいか。
 殉死した三人を褒める者は、言う。
「自分を棄てて命を擲つなど、立派なことではないか。まさしく壮士だ。」
 だが、非難する者は言う。
「自分を軽々しく棄ててはいけない。軽薄な行為だ。」
 この両者は、是非の評価は正反対だが、彼等が自分を棄てたと論ずる点では共通している。しかし、私はそうは思えない。彼等は自分を棄てることができなかった。だから殉死したのだ。もし、彼等が本当に自分を棄てていたのならば、どうして殉死などできただろうか。 

 身を殺して主君に殉じる。ちょっと考えると、自分を棄てた人間にしかできないように見える。しかし、それでも私は、敢えて言うのだ。
「彼等は自分を棄てることができなかったと。」 

 殉死者を出す埋葬とゆうのは、主君の徳を厚くするものではない。殉葬というものは、自分の主君を昏君へ陥れるものであり、自分の主君を邪悪へ陥れるものである。そして、主君の過ちを補弼もせずに完遂させるものである。そのようなこと、三良ほどの知恵者なら、判っていた筈ではないか!
 それを知りながら、なお、彼等は殉葬を行った。それは、命を惜しむ卑怯者と言われるのが嫌だったからである。命を惜しむと謗られるのが嫌だった。それでは、我が身を棄てているとは言えない。 

 本当に自分を棄てているとゆうのは、自分と他人と分け隔てなく考えることができるとゆう事である。他人のことでも、自分のことのように親身に考えることができ、自分のことでも他人事のように冷静に考えられる。そうなってこそ、始めて自分をなくせたと言えるのだ。
 もしも三良が、本当に自分を棄てており、自分のことも他人のことも分け隔てなく同様に考えることができたならば、どうなっただろうか?もしも主君が、「誰それを殉死させよ。」と命じたならば、必ずやそれを諫争したに違いない。
 ここで争うべきなのは、殉葬が愚かな風習だという点である。殺される人間の資質とは関係がない。だから、主人が「お前、殉死しろ」と命じたとしても、当然諫争するに決まっている。「殉死しろ」という命令に対しては、諫争しなければいけないのだ。その道理の前には、「自分が」という点は関係のない話ではないか。
「自分」というものに執着しなければ、臆病者と謗られても、正論にかこつけて自分を弁護する卑怯者と謗られても、なんで気になるものだろうか。 

 大体、身は天下の身であり、道理は天下の道理である。それなのに、「自分」という想いに執着し、事が我が身に及んだら、天下の道理を明知しながらも、他人から謗られることを懼れて、敢えて口にしない。これは、天下の身を私有し、天下の理を私蔵することに他ならない。我が主人が千載の先まで暴君の悪名を轟かせることを思うなら、どうして自分の名声になど構っておられようか!
 三子が、本当に自分の評判でさえも気にかけずにいられたならば、自分のことでさえも、他人のことのように論じることができる。自分を弁護していると自分自身を疑ったりせず、正論を堂々と恥じることなく口にできる。秦穆の命令を甘んじて受けたりは、決してしなかっただろう。
 結局彼等は、臆病者や卑怯者と罵られる方が、殺されるよりもよっぽど嫌だっただけだ。それを人々は、この三人が自らすすんで死んでいったのを見て、「身を忘れる」と言っている。だが、何ぞ知らん、彼等は、自分を棄てることができなかったから、死んでいったのだ。 

 すると、ある者が言った。
「三人が、自分を棄てることができなかったのは、まあ、それで良いとしておこう。だが、殉死までしたのだ。少なくとも、主人へ対しては忠義厚かったと言えるだろう。」
 だが、私は言おう。「そうではない」と。 

 主人の為に考える人間が、主君に忠実な人間なのだ。自分の為に考える者が、利己的な人間だ。
 もしもこの三人が、主君の為に思いを凝らしたのなら、必ずやこう言うだろう。
「殉葬などということを行っては、我が君は暴虐無頼な主君として後世に名を残してしまう。私は、我が身が惜しいわけではない。我が主君の名声を惜しむのだ。」と。
 彼等は、ただ自分の為だけに考えて、行動した。だから、秦穆から殉葬の命令が下った時、こう考えたのだ。
「この命令に従わなければ、我々は卑怯者よ臆病者よと非難される。従ったならば、我が君は、賢人を理由なく殺した暴君だと非難される。しかし、そんなこと知ったことか。私は、自分の名声さえ傷つかなければそれでよいのだ。我が主人が暴君と非難されても、私の罪ではない。」と。
 この心は、主君へ忠義なのか?それとも自分本位の身勝手なのか?
 つまり、三子は自分のことだけしか考えていなかったのに、結果として、忠義者のように見えただけなのだ。 

  

(訳者、曰) 

 三子へ対して、かなり手厳しい批評です。朱子学の本領とでも言うべきでしょうか。
 この三人は、「身を忘れ」られなかった。その理由として、私は勝手に「『卑怯者』とか『臆病者』の誹り」と補足しましたが、他にも理由はあったのかも知れません。たとえば、「父親へ対する猜疑」とか、或いは、「どうせ殺されてしまうのならば、せめて見苦しい真似はしたくない。」とか。ですが、それらをひっくるめても、やはり、「身を忘れることができなかった。」と評して、批判するのでしょう。
「どうせ死から逃れられないにしても、主君の昏迷へ対しては、最後まで諫争するのが臣下の道である。自分の名声が穢れることでさえも、気にしてはならない。」と。
 しかしながら、本当にこの論旨のように、「自分が非難されるくらいならば、主君が非難された方がまだマシだ。」と思って殉死したのかも知れません。人の心は判らないものですから。
 ですから、この批判も、そんなに的外れとは思えません。むしろ、「鋭い」「当たっている」と評価しても、構わないでしょう。 

 翻って考えるに、「自分さえ我慢すればよいのだ」と言って一歩譲る人間の中に、このような想いの人間が居ないとは限りません。いいえ、それどころか、他人の悪行へ対して一歩譲る時に、「自分に悪評が及ばない」とゆう想いを、心のどこにも持っていない人間の方が、却って少ないのではないでしょうか?
 ただ、現在には、これ程強い服従を強制するような主従関係はありません。基本的には、人間は皆平等なのです。「自分の評判を落とすくらいなら、あいつが悪人になった方がよい」と考えて一歩譲る人間が居たとしても、どうしてそれを非難できるでしょうか。
 所詮は人間、自分が一番可愛いものです。その類の人間に対しても、その心様を非難するより、むしろ一歩譲ったことを褒めなければ筋道が通りません。
 結局の所、その手に乗らないように、一人一人が自分自身を戒めるべきなのでしょう。 

 ちなみに、この事件で一番非難されなければならないのは、秦穆なのですが、それについて呂東莱は余り触れていません。それは、彼自身が皇帝ではなかったことに由来するのではないでしょうか?呂東莱は、三子のような立場になることはあっても、秦穆の立場になることはないのですから。
 ですから、呂東莱は、「自分が三子と同じ立場になった時には、どう対処しようか」と自分を戒めながら、この論文を書いたのかもしれません。そうだとすれば、立派なものです。
 おおよそ、朱子学系の論文というものは、他人へ押しつける為ではなく、自分を戒める為に読むべきなのでしょう。そうでなければ、「悪を憎むに行き過ぎ、残忍な人間に成り下がる」(蘇東坡)ことになってしまいます。