廃帝の乱   晋安王の乱
 
振り上げた斧 

 凶悖な廃帝は殺され、明帝が即位した。その頃、江州の晋安王子員は、既に廃帝打倒の為、決起していた。(「廃帝の昏虐」参照・・・子員は廃帝の弟。当時十歳だった。)
 朝廷の使者が江州へ到着すると、明帝即位の報告を受け、江州の佐吏は皆喜んだ。又、子員が開府儀同三司となったこともあり、慶事が重なったので、皆は言い合った。
「暴乱の主君が廃され、殿下も幕府を開く事が出来た。実に、公私の大慶です。」
 だが、登宛は言った。
「殿下は三男。そして宋では、代々三男が継承してきました。これこそ天の符合。挙兵すれば、必ず成功します。」
 そして、朝廷の令書を地面に投げつけて言った。
「殿下は皇帝にこそなられるお方。開府儀同三司など、我々が求める地位ですぞ!」
 皆は驚愕してしまった。
 登宛は、陶亮と共に、器械を造り武器を整備し、四方から徴兵した。
 袁豈は、襄陽に到着してから、諮議参軍の劉胡と共に兵器を修繕し、兵卒を集めていた。そして、太皇太后の命令と詐称して起兵すると、各地へ檄を飛ばし、子員を帝位へ即けることを表明した。
 檄文は建康へも回された。最初は、「昏迷の主君を廃して名君を立てる」と称したが、その後、別の檄文も回した。その檄文は、明帝が太皇太后の命令を詐称して豫章王子尚を殺した事を、激烈に非難していた。
 安陸王子綏は、子員の最初の檄文を受け取った時、これに応じて廃帝を攻撃しようと思った。やがて廃帝が殺されたと聞き武装を解いたが、子員が武装解除していないことを知ると、臣下達は大いに懼れ、子員のもとへ使者を派遣して軍糧を送った。
 荊州の臨海王子項や会稽の尋陽王子房は、部下から突き上げられる形で、子員の挙兵へ応じた。 

  

呼応続出 

 泰始二年、正月。明帝は、会稽の尋陽王子房へ、都へ戻るよう命じた。彼の後任は、巴陵王休若。
 やがて、都に戒厳令を布いた。建安王休仁を都督征討諸軍事、車騎将軍に任命。江州刺史王玄謨を副官とした。
 対して子員は、尋陽にて帝位に即いた。義嘉と改元する。安陸王子綏を司徒、揚州刺史とし、臨海王子項と尋陽王子房を、共に開府儀同三司とする。登宛は尚書右僕射、張悦は吏部尚書、袁豈は尚書左僕射。その他の将佐や諸州郡もそれぞれ官位や爵位が昇進した。
 徐州刺史薛安都、冀州刺史崔道固なども皆、尋陽へ呼応した。 

 済陰太守の申闡は、隹(「目/隹」)陵(下丕県の東南にある)に據って、建康へ応じた。薛安都は、義子の薛索児と太原太守傅霊越を派遣して、これを攻撃した。
 明帝が青州刺史沈文秀の軍を徴発すると、沈文秀は麾下の将軍劉彌之へ兵を与えて建康へ向かわせた。だが、薛安都の使者から説得されて沈文秀は変節し、薛安都と合流するよう劉彌之への命令を変更した。ところが、劉彌之は下丕まで行くと、建康の命令を遵守した。下丕を守るのは、薛安都の娘婿の裴祖隆。劉彌之は、これを襲撃した。裴祖隆は敗北し、征北将軍の垣祟祖と共に彭城へ逃げた。
 劉彌之が下丕をおとすと、彼の一族の北海太守劉懐恭や、その義子の劉善明等が、挙兵して劉彌之へ呼応した。これを聞いた薛索児は、隹陵攻撃を中断して劉彌之を攻撃した。劉彌之は敗北し、北海まで退いた。
 晋安王の挙兵を聞いた明帝は、征虜将軍申令孫を徐州刺史に、義陽内史の龍(「广/龍」)孟蚪を司州刺史に任命した。だが、申令孫は淮陽まで進んだところで薛索児に降伏した。龍孟蚪は勅命を拒否して尋陽へ呼応して挙兵した。
 この後、一ヶ月ほどしても、隹陵が陥落しなかったので、薛索児は申令孫を使者として申闡を説得させた。申闡は、これに応じて降伏した。すると、薛索児は申令孫と申闡を殺した。 

 会稽郡事の孔豈は、東揚州中に檄を飛ばし、尋陽へ駆けつけた。この檄を受けて、呉郡太守の顧深、呉興太守王曇生、義興太守劉延煕、晋陵太守袁標が、郡を挙げてこれに呼応した。 

 益州刺史の蕭恵開は、将佐を集めて言った。
「湘東王は文帝の子息、晋安王は孝武帝の子息。血筋から言ったら、両者に遜色はない。だが、廃帝は昏明とはいえ、嫡子だった。彼に社稷を任せられないのなら、その兄弟が継ぐべきだ。よって、我は晋安王子員へ加担しようと思う。」
 そして、巴郡太守費欣寿へ五千の兵を与えて東へ向かわせた。
 此処に於いて、湘州行事何恵文、廣州刺史袁曇遠、梁州刺史柳元怙、山陽太守程天祚等が、皆、晋安王へ附いた。 

  

官軍振るわず 

 この年、四方からの貢物の大半は尋陽の方へ行ってしまい、朝廷は僅かに丹楊、淮南など数郡を保つだけだった。東方からの軍は永世まで進んでおり、朝廷の危機だった。
 明帝が群臣を集めて対策を練ると、蔡興宗が言った。
「いま、天下挙って造反しております。これは静を以て鎮め、信義で人を待つべきです。造反者の親類は、宮省に大勢居りますが、もしも法を厳重に適用して彼等を捕らえれば、天下はたちどころに崩壊してしまいます。連座・縁座は一切及ばないことを明白にするべきでございます。(胡三省、曰く。父、子、兄、弟、彼等の罪が相及ばないのは、古の義である。)物情が安定しましたら、人々に闘志も湧いてきます。我が方には、六軍の精鋭勇士があり、器甲も鋭利。ろくに演習もしていない烏合の衆が相手なら、一夫が万兵へ当たれます。どうか陛下、憂慮なさらないで下さい。」
 明帝は、これを嘉した。 

 建武司馬の劉順が、尋陽へ加担するよう、豫州刺史の殷淡へ説いた。だが、殷淡の家族は建康に住んでいた為、彼はこれを許さなかった。この頃、右衛将軍の柳世光が省内から出奔して彭城へ逃げ込んだが、その途中、寿陽を通りかかった時、言った。
「建康は、とても守りきれんよ。」
 殷淡は、その言葉を信じ込んでしまった。それに、領内の土豪の杜叔宝等がつきあげたので、とうとう制しきれず、やむを得ずにこれに従った。殷淡は杜叔宝を長史としたが、内外の軍事は全て杜叔宝が専制してしまった。
 明帝は蔡興宗へ言った。
「まだ一郡も平定できないのに、殷淡まで寝返りおった。人情はどうなるだろうか?ほんとうに賊軍を平定することができるのか?」
 すると、蔡興宗は言った。
「どちらが正統などゆう順逆の理については、臣は敢えて申しますまい。ただ、凶暴な主君の下に居た為、民は寛大な政治を求めております。ですから、賊軍を必ず掃討できると申し上げるのです。臣が心配しますのは、その後正しい政ができるか否かでございます。」
「まこと、卿の言う通りだ。」
 明帝は、この造反が殷淡の本意ではないことを知っていたので、彼の家族を厚く慰撫して彼を招安した。 

 汝南・新蔡二郡太守の周矜が懸瓠で起兵して、建康へ呼応した。すると、周矜の司馬の常珍奇が袁豈の誘いに乗り、周矜を捕らえて斬った。袁豈は、常珍奇を太守とした。
 明帝は、垣栄祖を徐州へ派遣して、薛安都を説得させた。すると、薛安都は言った。
「今、京都の支配地は百里四方もないぞ。包囲殲滅など容易いこと。それに、我は孝武帝へ背けないのだ。」
「孝武帝の行いは不善が多く、余殃が必ずやって来ます。今、天下が雷同していますが、これは滅亡を早めるだけです。晋安王を奉じても、何もできません。」
 しかし、薛安都は従わず、垣栄祖を抑留して将軍にしようとした。ちなみに、垣栄祖は垣祟祖のいとこである。 

  

殷孝祖、義へ赴く 

 司法参軍の葛僧韶は、コン州刺史殷孝祖の甥だった。彼が、叔父の殷孝祖を京師へ呼ぶよう明帝へ請うたので、明帝は彼をコン州へ派遣した。道中に薛索児が陣を布いていたが、葛僧韶は間道を通ってコン州へたどり着き、殷孝祖へ言った。
「廃帝は、開闢以来類を見ない程、凶狂な方でした。あの頃は、朝野こぞって命の危険に怯えていたのです。陛下は、凶を夷い暴を除きました。それに、古今未曾有の危乱の後ですから、年長の主君を立てるべきです。それなのに、理の見えない連中が寄ってたかって、幼弱な主君を押し立てています。 これは、幼弱な主君の方が放埒に利権を貪れるという私利私欲に他なりません。その志がこうである以上、幼君を立てれば皆が権力を争って戦うことになってしまいます。そうして動乱が起これば、我が身一つでさえ守れませんぞ!舅御は、幼い頃から武功を建て志も持たれておりました。今、朝廷へ帰順したら、ただ国を保つだけではなく、その功績を長く青史に遺せるのですぞ。」
 殷孝祖は、朝廷の兵力について尋ねた。それに対して葛僧韶は、精鋭兵が揃っていると答え、又、主上が先鋒を探しているとも伝えた。殷孝祖は、即日、二千の兵を率いて建康へ向かった。
 この頃、天下は挙げて尋陽へ帰順し、朝廷の支配領域は、丹陽ただ一郡だけだった。しかも永世令孔景宣が叛徒へ就き、義興の軍は延陵まで進軍していたので、内外は憂危し、奔散寸前だった。そこへ、 殷孝祖が駆けつけたのだ。兵力も多いし、楚の勇兵揃い。人情は大いに落ち着いた。殷孝祖は、撫軍将軍・仮節・都督前鋒諸軍事となった。 

  

反撃開始 

 明帝は、自ら閲兵を行った。そして、休裕を豫州刺史とし、輔国将軍劉面や寧朔将軍呂安国等を麾下へ配して、西方の殷淡討伐を命じた。休若には建威将軍沈懐明、尚書張永、輔国将軍蕭道成を都督させ、東方の孔豈を討伐させた。この時、将士の大半は東方出身で、彼等の父兄子弟は、皆、孔豈に帰順していた。そこで明帝は軍へ使者を送って言った。
「朕は徳を第一とし、刑罰は薄くする。父兄子弟の罪状は、相及ばない。卿等、この想いを知り、親戚のことで我が身を憂えることなかれ。」
 皆は大いに喜んだ。およそ、造反した人間の親戚でも、建康に居住する者には、従来通りの官職を与えた。
 これに対して孔豈は孫曇灌等を九里へ進軍させた。その軍も又、士気旺盛だった。
 沈懐明は、奔牛まで進軍すると、塁を築いて守備を固めた。張永は曲阿まで進軍したが、この時彼等は沈懐明軍の安否が判らず、兵卒達が不安がった。そこで、張永は延陵まで退却し、休若軍と合流した。諸将帥は、破岡まで退却するよう休若へ勧めた。その日は凄く寒く風雪が激しくて、兵卒達が動揺していたのだ。だが、休若は言った。
「退却を口にする者は、斬る!」
 確固たる態度に動揺はやや落ち着き、兵卒達は塁を築いて休息した。そこへ、沈懐明から書が届き、敵が進軍していないことを伝えた。更に、軍主の劉亮が援軍に駆けつけて兵力が増大し、人情は落ち着いた。 

  

呉喜の登場 

 さて、殿中御史の呉喜は、文筆で世祖に仕えていたが、その功績で河東太守となっていた。ここに至って、彼は精鋭三百をかき集め、建康へ駆けつけてきた。明帝は呉喜を建武将軍として羽林軍の勇士を彼の麾下へ配置した。すると、皆は言った。
「呉喜は文官で、将軍となったことがありません。そんな軍隊を派遣しては敗北します。」
 だが、中書舎人の巣尚之は言った。
「呉喜は、かつて沈慶之のもとで戦争に出たことがあります。その性格は勇気があり、決断力に富んでいますし、兵法も学びました。必ずや功績を建てます。皆が紛々と言うのは、彼の才覚を知らないのです。」
 そこで、彼の軍を東方へ派遣した。
 呉喜は、しばしば朝使として東呉へ出向いていたが、寛大温厚な性格で、大勢の人間から慕われていた。だから、彼の軍が来ると聞くだけで敵軍は逃げ散り、向かうところ敵なしの状態だった。
 永世の人徐祟之が、孔景宣を攻撃して、これを斬った。呉喜は、徐祟之に永世県を委任した。
 国山にて、呉喜軍は敵軍と遭遇し、これを大破した。更に進軍して呉城に屯営する。すると、劉延煕は、楊玄を派遣して防戦した。呉喜の兵力は少なく、楊玄は大軍。だが、呉喜は奮戦して楊玄を斬り、義興まで駒を進めた。劉延煕は橋を切り落として、籠城の構えを取った。そこで呉喜は塁を造り、これと対峙した。 

 ユ業が、長塘湖の両岸に城を築き、七千の兵を集めて劉延煕と呼応した。その頃、外監の朱幼が司徒参軍督護の任農夫を推挙した。彼は驍勇で胆力があったので、明帝は四百人を彼に預け、援軍として東へ派遣した。任農夫は延陵から長塘へ出た。ユ業の城はまだ完成していなかったので、任農夫はこれへ猛攻を加え、大破した。ユ業は城を棄てて義興へ逃げた。任農夫は、敵が棄てて行った舟を入手すると、水路で義興へ向かい、呉喜と合流した。舟を手に入れた呉喜軍は川を渡り、敵方の塁を片っ端から落として行った。義興軍はパニックになり、劉延煕は逃げ場なくして溺死した。こうして、義興は陥落した。 

 沈懐明、張永、蕭道成は、九里の西に陣を布いて、賊軍と対峙していた。そこへ、義興陥落の報が入ったので、賊兵は皆、震え上がった。明帝は、状況視察の為、積弩将軍江方興と御史王道隆を派遣した。
 賊将の孔豈は、孫曇灌、程扞宗等を率いて五城を連ね、相互に連携を執っていた。だが、程扞宗の城が堅固ではなかったので、王道隆は言った。
「程扞宗の城が堅固に完成する前に攻撃しよう。」
 そして猛攻を加えてこれを抜き、程扞宗の首を斬った。
 張永は、勝利に乗じて孫曇灌等を攻撃した。賊軍は敗北し、城を棄てて逃げる。こうして官軍は晋陵を攻略した。 

 呉喜軍は義郷へ進んだ。
 賊将孔操は、呉興の南亭に屯営していた。呉興太守の王曇生が彼のもとへ出向いて軍略を練っていると、呉喜軍が迫っているとの報告が入った。孔操は大いに懼れて椅子から滑り落ちた。
「官軍は俺一人を狙っている。逃げなければ捕らわれる!」
 ついに、王曇生と共に銭唐へ逃げた。
 呉喜は呉興へ入り、任農夫は兵を率いて呉郡へ向かった。顧深は郡を棄てて会稽へ逃げた。
 四郡が陥落したので、明帝は、沈懐明を呉喜の麾下に入れて会稽を攻撃させ、張永等へは彭城攻略を、江方興等には尋陽攻略を命じた。
 呉喜軍が銭唐へ進軍すると、孔操と王曇生は浙東へ逃げた。王喜は、積弩将軍任農夫を黄山浦へ差し向けた。賊軍は岸に沿っていくつもの塞を並べていたが、任農夫はこれを撃破した。王喜は柳浦から川を渡り、西陵を取った。この戦いで、ユ業を斬り殺した。
 会稽は大パニックに陥り、大勢の将士が逃げ出した。孔豈はこれを制止できない。そんな中で、上虞令の王晏が挙兵して会稽郡を攻撃し、孔豈は逃げ出した。車騎従事中郎の張綏は、府庫を封印して呉喜の入城を待った。だが、呉喜より先に王晏が入城し、張綏を殺し、尋陽王子房を捕らえて幽閉した。王晏軍は大略奪を働いたので、府庫はたちまち空になった。孔操は捕まって殺された。やがて、孔豈が捕まって、王晏のもとへ届けられた。
 王晏は言った。
「首謀者は孔操。卿の預かったことではあるまい?」
 すると、孔豈は言った。
「江東の事件は、全て私が起こしたことだ。他人へ罪をなすりつけてまで生き恥を曝したくはない。」
 王晏は孔豈を斬った。
 顧深、王曇生、袁標等は呉喜のもとへ自首し、呉喜は彼等を赦した。この地方の賊軍には、七十六人の士官がいたが、王晏は、そのうち十七人を殺し、残りは赦した。
 やがて、尋陽王子房は、建康へ護送された。明帝は彼を宥め、松滋侯へ貶爵した。 

 片や、西進した山陽王休裕は歴陽に屯営した。輔国将軍劉面は小見(「山/見」)まで進んだすると、南汝陰太守裴季之が合肥ごと降伏した。 

  

殷孝祖と沈悠之 

 登宛は、吝嗇で貪欲。それが大権を執ったものだから、親子して売官に余念がなかった。爵位や官位を欲しがる人間は、彼等に大金を積み、その類の人間が後を斬らずに押し寄せて、門前に市を為す有様。歌姫や賭博の声は終日絶えなかった。政治のことは楮霊嗣等三人に任せきり。それやこれやで士民は憤怒し、内外の人心は離間した。
 登宛は、孫沖之に龍驤将軍薛常宝、陳紹宗、焦度等を指揮させて、南陵へ派遣した。孫沖之は、道中、晋安王子員へ手紙を書いた。
「舟も兵糧も整いました。三軍は血気盛んにして、流れに任せて白下まで攻め込もうと意気込んでおります。そこでお願いいたしますが、どうか、陶亮も派遣して下さい。我々と陶亮で新亭と南州へ進軍すれば、一気にけりが付きます。」
 子員は、孫沖之に左衛将軍を加えた。そして、陶亮を右衛将軍に任命し、五州の兵を与え、併せて二万の兵力として共に下らせた。
 だが、陶亮は、もともと幹略がない人間だった。建安王休仁と殷孝祖が進軍していると聞くと、鵲洲に逗留したまま進軍しなかった。 

 殷孝祖は、誠節を与えられたので傲慢になり、諸将を見下した。又、親子兄弟が賊軍にいる将兵を事毎に差別したので、人情が次第に離間していった。それに対して寧朔将軍の沈悠之は、将士を慰撫し群帥をよく指揮したので、皆は彼を頼みとした。
 殷孝祖は、戦闘の度に先頭に立って戦い軍鼓は鳴らしっ放しだったので、兵卒達は言った。
「殷統軍は死将だ!あんな目立つ格好で先頭に立っている。もしも賊軍が弓の巧い人間を十人ほども並べたなら、生き延びることはできんぞ!」
 三月、官軍は水陸同時に進んで赭圻を攻撃した。賊軍の陶亮が救援に駆けつけ乱戦となり、その最中、殷孝祖は流れ矢に当たって戦死した。軍主の范潜は、五百人の部下と共に陶亮へ降伏した。官軍は動揺し、口々に言った。
「殷孝祖の後任として、沈悠之を統軍とするべきだ。」
 この時、虎檻に屯営していた建安王休仁は、援軍を派遣した。江方興と劉霊遺。兵力は各々三千である。
 沈悠之は思った。
”殷孝祖が戦死した。敵軍は、この勝利に乗じて嵩に掛かって攻め懸けるだろう。明日、こちらから攻撃しないと弱味を見せることになる。時に、江方興は名声も位も、私とトントン。私の指揮下に入ることは承知するまい。この大事な時に軍政が対立したら、敗北する。”
 そこで、諸軍主を率いて江方興へ挨拶に出向き、言った。
「今、四方が造反し、国家が保有する土地は僅か百里に過ぎません。ただ、殷孝祖だけが、朝廷の頼みの綱であり、率先して戦っていましたが、遂に戦死してしまいました。おかげで文武は意気消沈してしまい、まさしく国家の危機でございます。事の成否は、ただ、明日の一戦にこそ掛かっております。これで勝てなければ、大事は去ります。その全軍の指揮を私に執ってくれと願う声もありますが、自ら考えますに、幹略では卿に敵いません。ですから、互いに尊重しあいながら全軍を指揮し、共に力を合わせて敵を殲滅しようではありませんか。」
 江方興は大いに喜び、許諾した。
 沈悠之が退出すると、諸軍主は不満げだったが、沈悠之は言った。
「私は、国を救い家を保つことしか考えてない。立場の上下など、問題ではないのだ!それに、私は彼の下風に立てるが、彼は我が下風には立てない。どうしてそんなことを気にしていられようか!」 

 孫沖之が陶亮へ言った。
「殷孝祖は梟将でした。彼が戦死した以上、天下は定まったも同然。これ以上戦わず、一気に京都を攻略するべきです。」
 だが、陶亮は従わなかった。
 翌日、江方興は諸将を率いて進戦した。建安王休仁は、更に三万の援軍を派遣した。彼等は寅の刻から午の刻まで戦い、敵を大いに破った。そのまま姥山まで追撃し、引き返した。
 孫沖之は、巣湖口と白水口に二城を築いたが、軍主の張興世が、これを攻撃して抜いた。
 翌日、この戦いの功績で、沈悠之は輔国将軍・仮節となり、殷孝祖の後任として督前鋒諸軍事となった。
 巣湖口と白水口の二城が陥落したと聞き、陶亮は大いに懼れた。急いで孫沖之を鵲尾まで呼び戻し、薛常宝等は赭圻に留めて、これを守備させた。これより先、賊軍は姥山及び諸岡に幾つもの砦を分立させていたが、これらの守備兵も呼び戻して、共に濃湖を守らせた。
 この時、戦争続きで国庫が不足していた。そこで、民間から銭や穀物を募り、応募した者には五品から三品の官位を与えた。軍中にも食糧が不足していたが、建安王休仁は、これを平等に振り分けて自ら倹約し、死者や負傷兵を自ら弔問したので、十万の兵卒達には離心が起こらなかった。 

  

賊将劉胡 

 登宛は、豫州刺史劉胡に三万の兵と二千の鉄騎を与えて、鵲尾へ派遣した。これで賊軍は、新旧併せて十余万の兵力となった。劉胡は宿将で、勇猛な上に権略が多く、屡々軍功も立てており、将士達から畏れられていた。彼は、襄陽に住んでいる司徒中兵参軍の蔡那の子弟達を人質として進軍した。
 この頃、呉喜は既に三呉を平定し、五千人の兵卒と多くの兵糧物資を携えて、赭圻まで進軍した。
 沈悠之は諸軍を率いて赭圻を包囲した。薛常宝等は食糧が尽きたので、その実情を劉胡へ告げて助けを求めた。そこで劉胡は、袋に入れた米を舟にくくりつけ、その舟を転覆させて川に流した。だが、沈悠之はこれを不審に思い、人夫を出して舟を調べさせ、多くの米を押収した。そこで劉胡は山を開いて道を造り、赭圻へ米を運んだが、沈悠之はこれを阻み、両軍は激しく戦った。劉胡軍は大敗して兵糧も武具も棄てて逃げ出し、大勢の死者を出した。懼れた薛常宝は、四月、城を開いて囲みを破り、劉胡のもとへ逃げ込んだ。
 沈悠之は赭圻城を抜き、敵の寧朔将軍沈懐宝等を斬り、降伏した敵兵数千人を指揮下へ入れた。陳紹宗は、単舸で鵲尾へ逃げた。建安王休仁は、虎檻から赭圻へ進んだ。だが、劉胡軍の勢力は、まだまだ侮れなかった。 

  

殷淡の敗北 

 明帝は、劉懐珍と王敬則に五千の兵力を与えて、劉面への援軍として、共に尋陽を攻撃させた。劉懐珍は、廬江を攻略し、太守の劉道慰を斬った。
 殷淡麾下の将軍劉順、柳倫、皇甫道烈、龍天生等は八千の兵力で宛唐に據った。これに対して、劉面は進軍し、劉順の陣から数里の場所に陣営を立てた。
 この時、殷淡の派遣した諸軍は、全て劉順の指揮下にあった。ただし、柳倫は晋安王の直参で、皇甫道烈は土豪。劉順は出身が賤しかったので、この二部隊だけは、その指揮下に入らなかった。劉面は進軍してきたばかりで、塹壕もまだ完成していない。劉順は攻撃しようとしたが、柳倫と皇甫道烈が承知しない。劉順の軍だけで攻撃することもできず、中止した。劉面の陣営が完成すると、もう、攻撃できない。結局、両軍は睨み合った。 

 杜叔宝は、官軍が進軍できるわけはないとたかを括っていたので、劉面軍が進軍して来て、大騒動となった。ところで、劉順軍は一ヶ月分の糧食しか携行していなかったので、持久戦になると兵糧が尽きてしまった。そこで、杜叔宝は車千五百乗に兵糧を満載し、自ら精鋭五千を率いて、劉順軍のもとへ護送した。
 これを聞いた呂安国は劉面へ言った。
「劉順軍は武装兵が八千。我等にはその半分の兵力しか在りません。敵の兵糧が少ないことだけが頼みだったのですが、杜叔宝の兵糧が届いたら、撃破できないどころか、却って我が軍の方が撃退されてしまいます。ここは、間道を通って、これを襲撃するべきです。不意うちすれば、敵はきっと算を乱して逃げ出します。」
 劉面は頷くと、弱兵に陣を守らせ、千人の精鋭兵を呂安国と軍主の黄回へ与え、間道を通って杜叔宝軍を背後から襲撃するよう命じた。
 安国軍は二日分の食糧を携行したが、これを食べ尽くしても杜叔宝軍は現れなかった。兵卒達が帰りたがったので、呂安国は言った。
「卿等は食事を済ませたばかりだ。今晩まで敵を待とう。それで現れなかったら、引き返そうではないか。」
 その晩、果たして杜叔宝軍はやって来た。米車を箱陣に組み、杜叔宝はその外で遊軍となっていた。箱陣の前を守るのは、幢主の楊仲懐。その兵力は五百。安国と黄回がこれを襲撃して楊仲懐を斬ると、士卒はたちまち逃げ出した。
 騒ぎを聞きつけて杜叔宝が駆けつけてきた。黄回が勝ちに乗じて迎撃しようとすると、呂安国は言った。
「奴は逃げ出す。攻撃する必要はない。」
 そして、三十里退いて宿営した。明ける前に斥候を出すと、果たして杜叔宝は米車を置いて逃げ去っていた。呂安国は米を焼き払い、牛二千余頭を駆り立てて帰営した。
 五月。劉順の軍は壊滅し、淮西の常珍奇のもとへ走った。劉面は、寿楊へ進軍する。杜叔宝は住民や逃げ込んできた兵を集めて籠城した。劉面は城外に分散して陣を布いた。
 山陽王休裕は、殷淡へ書をやって、利害を説いた。明帝も又、御史王道隆を派遣して、罪を宥める旨、詔を発した。劉面も甥の殷淡の甥の殷貌も手紙を書いて説得する。殷淡も杜叔宝も降伏する気になっていったが、皆の心は一つではなく、相談が纏まらないままに、籠城は続いた。 

  

沈文秀 

 四月、散騎侍郎の明僧嵩が起兵し、建康に呼応して沈文秀を攻撃した。明帝は、明僧嵩を青州刺史に任命した。平原・楽安二郡太守王玄黙は琅邪で、清河・廣川二郡太守王玄貌(王玄謨の義子)は盤陽で、高陽・渤海二郡太守劉乗民(劉彌之の義子)は臨済にて起兵し、建康に呼応した。
 沈文秀は軍主解彦士に北海を攻撃させ、劉彌之を殺した。劉乗民と、従兄弟の王伯宗は義勇軍を率いて北海を恢復し、余勢をかって東陽城まで攻め込んだ。だが、沈文秀はこれを迎撃し、王伯宗は戦死した。
 明僧嵩、王玄黙、王玄貌、劉乗民は合流して東陽城を攻撃したが、沈文秀はそのたびに相手を撃破し、遂に攻略できなかった。 

  

薛索児の最期 

 三月、薛索児は、万余の兵力で隹陵から渡河して、張永の屯営へ迫った。明帝は、桂陽王休範を統北討諸軍事に任命し、廣陵まで進出させた。又、蕭道成へ、張永救援を命じた。
 五月、張永と蕭道成等は薛索児と戦い、大勝利を収めた。薛索児は退却して石梁を保った。だが、兵糧が尽きて壊滅し、楽平へ向かって逃げるところを、申令孫の息子の申孝叔に斬り殺された。
 薛安都の息子の薛道智は、合肥へ逃げ、裴季之へ降伏した。
 傅令越は淮西へ逃げたが、武衛将軍王廣之に捕まり、劉面のもとへ送られた。劉面が彼を詰ると、傅令越は言った。
「九州が義を唱えたのだ。俺一人ではないぞ!だが、薛公は知勇の士に任せることができずに身内ばかりを用いた。その挙げ句がこのていたらくよ。どうせいつかは死ぬのだ。オメオメと生を貪る気はない。」
 劉面は、彼を建康へ送った。明帝は彼を赦したがったが、傅令越は、改心しなかった。遂に、これを殺した。 

 四月、晋安王は、袁豈を徴召した。袁豈は、ヨウ州の全兵力を率いて駆けつけてきた。
 劉胡と沈悠之が対峙した勝敗が決しなかったので、五月、登宛は袁豈に督征討諸軍事を加えた。
 六月、袁豈は楼舟千艘、戦士二万人を率いて鵲尾へ入った。
 袁豈は、もともと将略がなく、ぐずついた性格で、軍中にあっても戎服を着なかった。戦陣の事など話もせず、ただ詩や賦を談じるだけ。諸将を慰撫せず、劉胡が戦略を論じても簡単なことしか言わない。それで、しっかり人望を失ってしまい、劉胡は常に歯がみして恨んだ。
 やがて、兵糧が乏しくなり、軍士の食事にも事欠くようになったので、劉胡は襄陽の兵糧を借り受けようと袁豈へ頼んだが、袁豈は、これを断って言った。
「わしの屋敷が未だ未完成なのでな。あの兵糧はその為に使うのだ。それに、確かな情報だと、建康も米不足。一斗の米が数百銭もするそうじゃ。この分なら、攻撃しなくても敵軍は自滅する。それをゆっくり待てばよい。」 

 話は前後するが、五月、弋陽の西山蛮の田益之が起兵して建康に呼応した。明帝は彼を輔国将軍・督弋陽西蛮事とした。六月、田益之は、蛮人万余の軍を率いて義陽を包囲した。登宛は、司州刺史龍孟蚪へ精鋭五千を与えて救援に派遣した。すると田益之軍は、戦わずに壊滅した。 

 同月、安成太守劉襲、始安内史王識之、建安内史趙道生が郡を挙げて降伏した。劉襲は、劉道憐の孫である。 

 蕭道成の世子の蕭責(「臣/責」)が、南康郡の一県令となった。南康郡は登宛の息が掛かっていたので、登宛は、蕭責を捕らえさせた。蕭責の門客の桓康が蕭責の妻の裴氏と子息の長懋と子良を山中へ逃がした。そして、蕭責の一族の蕭欣祖等と門客百人余りをかき集めて郡を襲い、牢獄を破って蕭責を助け出した。
 南康相の沈粛之は兵を率いて追撃したが、桓康は、これと戦って沈粛之を捕らえた。蕭責は自ら寧朔将軍と号して郡に據って起兵した。すると、劉襲等が呼応した。登宛は、中護軍殷孚を豫章太守に任命し、上流の五郡を都督させて、劉襲等を防がせた。 

 衡陽内史の王応之が起兵して建康へ呼応し、湘州行事何恵文を襲撃した。この戦いで、王応之と何恵文は大将同士で一騎討ちした。何恵文は体の数カ所に傷を負いながらも、王応之の足を斬って殺した。 

 始興で、劉嗣祖らが起兵して、郡に據って建康へ呼応した。これへ対して廣州刺史袁曇遠は、麾下の将軍李万周を差し向けて、討伐させた。すると、劉嗣祖は李万周を誑かした。
「尋陽は、既に平定されたぞ。」
 李万周は軍を返すと袁曇遠を襲撃し、これを捕らえて斬った。 

  

銭渓を拠点に 

 諸軍と袁豈は、濃湖を挟んで長い間睨み合っていたが、勝敗がつかない。
 ある時、龍驤将軍将軍張興世が建議した。
「敵は川の上流によっています。その兵力は強く、地形も有利なのです。我等はこれを防ぐ事は出来ますが、制圧するには力が足りません。その打開策として、奇兵数千を敵の上流へ回し、険阻な地形を選んで陣を敷きましょう。そして、敵の動きを牽制すると共に、その糧道を断つのです。銭渓は、揚子江の岸では最も狭くなっており、敵陣からそんなに遠くはありません。しかも、そこの流れは渦巻いていますから、舟で動く時は必ず川岸付近を通らなければならないとゆう場所です。又、横浦には舟を置く事も出来ます。まさしく、千人で守れば万夫が通れないとゆう、衝要の地です。ここへ出るのが一番です。」
 沈悠之も呉喜も、この策に賛成した。
 やがて、龍孟蚪が殷淡の救援に駆けつけた時、劉面は救援を求めてきた。建安王休仁は、張興世を派遣しようとしたが、沈悠之は言った。
「龍孟蚪なんかが出張っても、どうせ何も出来ません。別将へ数千の兵を与えて派遣すれば、十分牽制する事が出来ます。張興世の行軍は、戦争の勝敗を決める重要なもの。軽軽しく変更してはいけません。」
 そこで、劉面のもとへは、段仏栄が派遣された。そして張興世へは、七千の精鋭と、軽舸二百が与えられた。
 張興世は流れを遡って上流へ行き、やがて下ってくる。そうやって毎日数往復したが、これを聞いて劉胡は笑った。
「この俺でさえも、奴等を飛び越えて直接建康を叩こうとはしない。張興世とは何者だ?軽々しく我が上に據れるつもりか!」
 そして、対策を講じなかった。
 だが、ある夕、強風が吹いた時、張興世は大きく帆を上げると、一気に湖、白を渡り抜け、鵲尾をも通過した。劉胡は敵の策を悟り、胡霊秀へ兵を与えて東岸から追撃させた。
 夕方、張興世が景洪浦に宿営すると、胡霊秀も又、留まった。だが、張興世は、黄道標へ七十艘を与えると、密かに銭渓へ派遣して、これを占拠させていた。翌日、張興世は兵を率いて銭渓へ進軍するのを、胡霊秀は阻止できなかった。
 その翌日、劉胡は自ら水軍や歩兵二十六軍を率いて銭渓を攻撃した。官兵達は迎撃したがったが、張興世はこれを禁じた。
「賊軍は、まだ遠い。今、気勢を挙げて矢を放っては、敵が近づいた時、気力が尽きてしまう。今は、じっと待つべき時だ。」
 そして、将士へは城を築かさせた。
 やがて劉胡は近づき、その舟が渦巻に入った。張興世はそれを見計らい、寿寂之と任農夫へ壮士数百を与えて迎撃させた。その後に、全軍が続く。劉胡は敗北し、数百人の戦死者を出して退却した。
 この時、張興世の築いた城は、まだ堅固ではなかった。袁豈が劉胡と力を併せてこれを攻撃する事を、建安王は懸念し、なんとか敵の兵力を二分させようと考えた。そこで、沈悠之と呉喜に、皮艦で濃湖を攻撃させ、敵兵に千余の打撃を与えた。これは、銭渓城の攻防の翌日の事である。
 この日、劉胡は銭渓を落とすべく、二万の歩兵と鉄騎二千を率いて進軍していた。ところが、銭渓へ到着する前に、袁豈が濃湖の急を告げて来たので、引き返した。こうして、銭渓城は完成した。
 だが、濃湖へ戻って来た劉胡は言いふらした。
「銭渓は、既に陥落したぞ。」
 その流言に惑わされて官兵は懼れたが、沈悠之は言った。
「それは嘘だ。もしも銭渓が陥落したのなら、落ち延びて逃げ出した者が帰ってくる筈。だが、落武者の一人も居ないではないか。奴等は戦いに利がなかったので、我等を惑わそうと、はったりかましているだけだ。」
 そして、妄りに動かないよう、陣中へふれまわった。すると程なく、銭渓から勝報が届いた。
 沈悠之は、銭渓から送られて来た劉胡軍の兵卒達の耳や鼻を見せつけたので、袁豈は驚愕した。
 日暮れになって、沈悠之は引き上げた。
 ちなみに、龍孟蚪は、弋陽まで進軍した。劉面は呂安国を派遣して迎撃し、大勝利を収めた。龍孟蚪は義陽へ向かって逃げた。だが、王玄謨の息子の王曇善が、義陽で決起して、建康へ呼応した。龍孟蚪は蛮地へ逃げ込んで、客死した。
 龍孟蚪が敗北したと聞いて、皇甫道烈等は城門を開き、降伏してきた。 

 龍驤将軍劉道符が山陽を攻撃し、程天祚が降伏を請うた。
 淮西の住民鄭叔挙が起兵して常珍奇を攻撃した。明帝は、鄭叔挙を北豫州刺史とした。
 賊軍の崔道固が、土人に攻撃されて、籠城した。明帝が、使者を派遣して宣撫すると、彼は降伏を申し出た。そこで、明帝は崔道固を徐州刺史とした。 

  

袁豈の最期 

 劉胡は、輔国将軍薛道標に、合肥を襲撃させた。薛道標は、汝陰太守の裴季之を殺した。すると、劉面が輔国将軍垣宏を派遣して、これを攻撃させた。薛道標は、薛安都の息子である。
 張興世が銭渓に據ってから、濃湖の賊軍は食料が欠乏した。登宛は資財や食糧を多量に送ったが、輜重隊は張興世を畏れて、進軍しない。
 八月、劉胡は軽舸四百艘で、鵲頭の内路経由で銭渓を攻撃しようと考えたが、長史の王念叔が言った。
「我は幼い頃から歩兵戦には習熟している。だが、水戦の経験はない。歩兵戦は数万人を率いて戦うのだが、水戦では一艘の船しか意のままにできない。僅か三十人だ。各舟がてんでに進んで連携が取れなければどうすればよい?これは万全の計略ではない。そんなものに俺は従わんぞ。」
 そして、持病が出たと言い立てて、鵲頭から進軍しなかった。すると、三百艘の舟を率いて銭渓へ向かう龍驤将軍陳慶と出会ったので、彼に戦闘を控えるよう戒めた。
「張興世は、この大軍を見たら勝手に逃げ出すさ。」
 そこで陳慶は、銭渓へ到着すると、梅根に陣取った。
 劉胡は、別将の王起に百艘の舸で攻撃させたが、張興国はこれを撃破した。劉胡は、その他の舟を纏めて引き返し、袁豈へ言った。
「張興世の要塞は、堅固に仕上がって手が出せない。小戦を仕掛けても意味がない。だが、陳慶は南陵や大雷の軍と共に奴等の上流に陣を構え、我々は奴等の下流にいる。銭渓は既に袋の中だ。もう、心配はいらん。」
 袁豈は、劉胡が戦闘を放棄したと怒り、言った。
「兵糧の欠乏はどうするのだ。」
「奴等は、流れを遡って我等の上流に陣取ったのだ。我等が流れを下って奴等の陣を通過できない筈がない!」
 そして、安北府司馬の沈仲玉へ、千人の兵を与えて、南陵の兵糧を受け取りに行かせた。
 沈仲玉は、南陵へ到着すると、米三十万斗を舟に乗せ、武装して銭渓を突破しようとした。だが、貴口まで到着するとそれ以上は前進せず、劉胡へ援軍を要請した。張興世は、寿寂之と任農夫を派遣して、貴口を攻撃し、これを撃破した。沈仲玉は袁豈の陣へ逃げ帰り、兵糧は全て奪われた。
 この報告を受けて、劉胡軍は驚愕し、将軍の張喜は降伏してきた。
 官軍の鎮東中兵参軍劉亮が劉胡の陣へ迫ったが、劉胡は迎撃できなかった。袁豈は懼れて言った。
「ここまで入り込まれては、どうしようもないぞ!」
 劉胡は、密かに逃げ出そうと考え、袁豈を誑かして言った。
「歩騎二万で銭渓を落とす。そして、そのまま大雷へ行って兵糧を運んでくる。」
 そして、袁豈軍の良馬を選び抜いて自軍へ配った。そのまま、後を袁豈へ委ねて、劉胡は濃湖を去り、梅根へ赴いた。
 到着に先んじて、舟を選んで南陵へ出発しておくよう大雷の薛常宝へ命じておき、大雷の諸城は焼き払わせた。
 夜になって、袁豈は報告を受け、激怒した。
「小僧めが!一杯食わせおったな!」
 そして愛馬を呼び寄せると皆へ言った。
「追いかけてくる!」
 そのまま、彼も逃げ出した。
 建安王休仁が袁豈の陣へ入ると、降伏して来た十万の兵を受け入れ。沈悠之へ袁豈等の追撃を命じた。
 袁豈は鵲頭へ逃げ込むと、守将の薛伯珍と兵卒数千を率いて尋陽へ向かった。その夜、袁豈は馬を殺して将士をねぎらい、薛伯珍へ言った。
「死ぬのが怖いのではない。尋陽へ行って主上へ謝罪し、その上で自刎するつもりだ。」
 そして、左右を見回したが、応える者は誰もいなかった。
 明け方になって、薛伯珍は腹心と相談し、袁豈の首を斬って銭渓軍へ降伏した。銭渓軍主の愉湛之は、薛伯珍を斬り、その首を明帝へ送って、自分の手柄とした。 

  

尋陽陥落 

 劉胡は二万人を率いて尋陽へ戻ると、晋安王子員へ言った。
「袁豈が降伏し、軍は散り散りになってしまいました。ただ、我が軍だけが逃げ延びることができたのです。この上は、盆城を守りましょう。陛下へ対して、誓って二心は懐きません。」
 劉胡が出発すると、登宛は震え上がり、為す術もなかった。そこで中書舎人の者霊嗣等を呼び出して計略を練ったが、良い智恵は浮かばなかった。
 張悦は病気と言い立てたが、今後の協議をすると言って登宛を呼んだ。そして、帳の後ろへ兵卒を隠し、命じた。
「もし、『酒を持て』と言われたら、飛び出すのだ。」
 やがて、登宛がやって来ると、張悦は言った。
「卿が今回の事件の首謀者だが、このようになってしまった。どう始末を付けるつもりか!」
「こうなれば、晋安王を斬り、府庫に封印をして謝罪するしかない。」
「この上、殿下を売ってまで生き恥を曝すか!」
 そして、張悦は呼んだ。
「酒を持て!」
 途端、息子の張洵が抜刀して飛び出すと、袁宛を斬った。
 登宛が殺されたと聞いて、中書舎人の潘欣が兵を率いて駆けつけてきたが、張悦は彼の許へ使者を派遣して言った。
「登宛が謀反を企んだから殺したのだ。」
 潘欣は、そのまま引き返した。賊軍は、登宛の息子を捕らえ、これも殺した。張悦は、登宛の首を持って、単舸、建安王休仁のもとへ赴き、降伏した。
 尋陽では動乱が起こった。蔡那の息子の蔡道淵は、尋陽城外に捕らえられていたが、鎖を断ち切って脱出し、子員を捕らえて幽閉した。やがて、沈悠之の諸軍が尋陽へ入城して、晋安王子員の首を斬り、建康へ送った。享年十一。
 廃帝の時代には、衣冠の人々は禍を懼れ、地方へ出ることを望んでいた。だが、この大乱が終結してみると、そのような官人の大半が殺されてしまっていた。人々は、蔡興宗の先見の明に感服した。 

  

乱の始末 

 九月、山陽王休裕が荊州刺史に任命された。
 同月、戒厳令が解かれ、大赦が降った。
 建安王休仁は、尋陽へ入城した。そして、呉喜と張興世を荊州へ、沈懐明をテイ州へ、劉亮と張敬児をヨウ州へ、孫超を湘州へ、沈思仁と任農夫を豫章へ派遣して、賊軍の余党を平定させた。
 逃げ出した劉胡は、石頭で捕らわれて斬られた。
 テイ州行事の張沈は、僧形になって逃げ回っていたが、捕まって殺された。
 濃湖での敗戦が伝わると、荊州の兵卒は散り散りに逃げ出したので、荊州行事の劉道憲は、官軍へ使者を派遣し、自首を申し出た。すると、荊州治中の宗景が、兵を率いて荊州城へ入城して劉道憲を殺し、臨海王子項を捕らえて降伏した。
 孔道存は、尋陽が平定したと聞き、降伏を申し出た。だが、柳世隆と劉亮が進軍してくると聞き、三人の息子共々自殺した。
 何恵文には、将才と吏才を兼備していたので、明帝はこれを惜しみ、呉喜を使者として、降伏を呼びかけた。すると、何恵文は言った。
「既に逆節へ陥り、忠義の士(王応之)を殺してしまった。どの面下げて天下の人々にまみえようか!」
 そして、遂に自殺した。
 安陸王子綏、臨海王子項、召陵王子元等は、皆、死を賜った。
 劉順と、荊州に居た彼の余党は、皆、誅に伏した。
 死節の臣には追賜し、功績を建てた人間は各々封賞された。 

 賞罰が済んでから後、明帝は、世祖の息子達を、今まで通りに遇していた。すると、尋陽から帰って来た建安王休仁が、明帝へ言った。
「松滋侯兄弟がいる限り、将来禍を呼びます。早めに処分しましょう。」
 十月、松滋侯子房、永嘉王子仁、始安王子眞、南平王子産、廬陵王子輿、子趨、子期、東平王子嗣、子悦へ死を賜った。鎮北諮議参軍路休之、司徒従事中郎路茂之、コン州刺史劉祇、中書舎人厳龍は、誅殺された。
 こうして、世祖の二十八子は死に絶えた。なお、劉祇は劉義欣の子息である。 

  

掃討 

 劉面は寿陽を包囲し、垣宏は合肥を攻撃したが、共に落とせない。劉面はこれを患い、諸将を召して軍議を開いた。
 馬隊主の王廣之が言った。
「将軍の乗馬を賜れば、合肥を平定して見せます。」
 すると、幢主の皇甫粛が怒鳴りつけた。
「こいつ、節下の馬を奪うつもりか!斬り殺してやる!」
 だが、劉面は笑って言った。
「その意気ならば、必ずや功績を建ててくれるに違いない。」
 そして、下馬すると馬を与えた。
 王廣之は、合肥を攻撃し、三日でこれを落した。 薛道標は包囲を突破し、淮西の常珍奇のもとへ逃げた。劉面は、王廣之を軍主へ抜擢した。
 王廣之は皇甫粛へ言った。
「もしも節下が卿の言葉を採ったら。どうやって賊を平定した?卿は才覚のある部下を使いこなせないぞ!」
 皇甫粛には学術があり、劉面が死んだ後、王廣之の許で働いた。王廣之は、斉の世祖の時に皇甫粛を推薦したので、彼は東海太守に任命された。 

 徐州刺史薛安都、益州刺史蕭恵開、梁州刺史柳元怙、コン州刺史畢衆敬、豫章太守殷孚、汝南太守常珍奇等が、降伏の使者を派遣してきた。明帝は、南方が既に平定したので、今度は淮北へ武威を張ろうと考え、張永と沈悠之に武装兵五万を与えて薛安都を迎えにやった。
 蔡興宗は言った。
「薛安都の帰順は本心です。ですから、一人の軍使を派遣すれば済むことですのに、こんなに仰々しく大軍を派遣する。これでは彼は疑い懼れます。」
 果たして、薛安都は北魏へ使者を派遣した。(詳細は、「明帝の北伐」に記載) 

 蕭恵開が益州を治めていた頃、刑罰を勝手気ままに乱用していたので、蜀の民は怨んでいた。やがて費寿が敗北し、程法度が前進できなくなると、晋原が郡ごと蜂起した。すると、諸郡が皆、これに呼応し、合流して成都を包囲した。
 この時、蕭恵開の子飼いの部下は二千にも足りなかったが、蕭恵開は蜀生まれの兵卒達を全て城外へ出して、手勢だけで城を守った。
 尋陽が陥落したと聞くと、蜀の民は城兵を皆殺しにしようと群がり寄って来て、その兵力は十余万人となった。しかし、蕭恵開は出撃する度に敵兵を蹴散らした。
 明帝は、彼の罪を赦そうと思い、その使者として弟の蕭恵基を派遣した。だが、蜀の民は蕭恵基を行かせまいと、その進路を妨害した。蕭恵基は、手勢を率いてその民を蹴散らし、成都へ到着した。
 蕭恵開は詔を受けて降伏したので、民は包囲を解いた。
 明帝は、益州の民を慰労しようと、蕭恵開の一族の寶首を派遣した。だが、寶首は、蜀平定の功績を独占しようと考え、蜀の民をそそのかして蕭恵開を攻撃させた。ここにおいて、蜀の民は再び蜂起した。既に離散していた兵卒達も再び集合し、寶首を擁立して成都へ迫った。その兵力は、号して二十万。
 蕭開恵が迎撃しようとすると、将佐は皆、言った。
「今、慰労使が来ましたのに、これを拒まれるのなら、どうやって身の証を立てましょうか?」
 すると、蕭恵開は言った。
「既に都との連絡が取れない。戦わなければ、どうやって京師へ使者を派遣するのか?」
 そして、宋寧太守蕭恵訓へ一万の兵を与えて迎撃させ、これに大勝した。寶首を生け捕り、成都に幽閉する。そして、使者を派遣して、明帝へ実情を伝えた。明帝は寶首を護送させ、蕭開恵を建康へ呼び戻した。
 明帝が、挙兵した状況を尋ねると、蕭恵開は言った。
「臣は、ただ順逆だけを知り、天命を知りませんでした。又、臣でなければ乱は起こせませんでしたし、臣でなければこれを平定する事も出来ませんでした。」
 明帝は、蕭開恵を赦した。 

 劉面は、一年に亘って寿陽の包囲を続けた。戦う度に勝ち、将士の心も掴んでいる。
 尋陽が陥落すると、明帝は中書に詔を書かせて殷淡を諭した。この時、蔡興宗は言った。
「天下は既に平定しましたので、殷淡は恐れおののいています。ですから、陛下自ら詔を書いて与えるべきでございます。今、中書に書かせていますが、これでは奴は真偽を疑い、降伏を肯らないでしょう。」
 だが、明帝は従わなかったのだ。
 殷淡は詔を受け取ったが、劉面が作った偽物と考え、降伏しなかった。
 杜叔宝は、尋陽陥落については報道管制を敷き、これを伝える者がいれば即座に殺して守備を固め続けた。これに対して明帝は、降伏した者は片端から寿陽城下へ送り込んで、城中の人々へ語りかけさせた。これによって、寿陽城の人心は離間し始めた。
 殷淡は北魏へ降伏しようと考えた。すると、主簿の夏侯詳が言った。
「今回の挙兵は、もともと忠節から出たものです。社稷に仕える者ならば、朝廷へこそ赴くべきです。どうして北面して左衽なさるのですか!それに、今は北魏が淮河まで進軍しており、官軍も我等の去就を図りかねているのです。もしも朝廷へ降伏したならば、必ずや厚く遇されるでしょう。罪を赦されるだけではありませんぞ!」
 そこで、殷淡は夏侯詳を使者として、劉面のもとへ派遣した。夏侯詳は、劉面へ言った。
「今、城中の民が苦しみながらも城を固守しているのは、将軍から誅殺されることを畏れているのです。それならばいっそ、魏へ帰順しようとさえ考えております。どうか将軍、攻撃の手を緩め、我等の罪を赦して下さい。そうすれば、我々はすぐにでも降伏いたします。」
 劉面は許諾して、夏侯詳を城下へ連れて行くと、城中の人間に劉面の意向を伝えさせた。
 丙寅、殷淡は将佐を率いて面縛して降伏して来た。劉面はこれを慰撫し、一人として殺さなかった。入城の時も、兵卒達へ略奪を厳禁したので、劉面軍は秋毫も犯さなかった。寿陽の人々は、皆、大いに喜んだ。
 この時、北魏軍は寿陽救出の為師水まで進軍していたが、寿陽が降伏したと聞くや、義陽で略奪して帰った。
 しばらくして、殷淡は少府へ復職し、卒した。