子魚、宋公の曹を囲むを諫む。

 

(春秋左氏伝)

 僖公の十九年。曹が服従しなかったので、宋の襄公は出兵してこれを包囲した。
 すると、子魚が襄公へ言った。
「昔、周の文王が祟侯の暴虐を聞き、討伐軍を起こしました。しかし、軍を出してから一月経っても、敵は降伏しませんでした。そこで、文王は一旦軍を退き、我が身の徳を修めなおしてから再び出陣したところ、今度は砦へ入っただけで敵は降伏したと言います。
 今、我が君の徳にも欠けた所がございますのに、他国を討伐なさっておられます。それでどうしてうまく行きましょうか。今は一旦兵を退き、我が身の徳を修め、天地神明に恥じなくなってから、再び出陣するべきでございます。」

 

(博議)

 ボロ儲けする者を見れば、地道な仕事が馬鹿らしくなる。それが人間の心情だ。
 蚕を養い、これが吐いた繭を紡いで糸とし、その糸を織り、凡そ数ヶ月の努力を経て帛を手にすることができる。養蚕家は皆、それが当然と思い、その手間暇を馬鹿らしいと思ったりはしない。田畑を耕し、種を播き、雑草を取り除いて収穫し、凡そ終歳の努力の果てに穀物を手にする。農家は皆、それが当然と思って何の疑問も抱かない。
 さて、君子の道は、身を修めてから家を整え、家を整えてから国を治め、国を治めてから天下を平らげる。それはあたかも、養蚕家が繭を養ってから一連の手順を経て帛を手にし、農家が田畑を耕してから一連の手順を経て穀物を手にするようなものである。どの一つの手順でさえ、妄らに飛ばせるものではない。三代以前の君子達は、この手間暇を厭うたりはしなかったものである。

 だが、ここに権力者に媚びへつらう太鼓持ちが居たとしよう。洒落た一言で権門の意に適い、たちまち、山のような帛を褒美に貰う。蚕婦がそれを見れば、自身の三ヶ月の努力を振り返り、煩雑な手順が馬鹿らしくなるに決まっている。一日の売買で大儲けし、山のような穀物を手に入れた商人を見れば、農夫は自分の終歳の努力を顧みて、煩雑な手順を馬鹿らしく思うに決まっている。
 同様に、功利の説が興り、詐術が横行するようになると、為政者達は基盤を築くことを棄てて結果だけを追い求め、仁慈や内政を顧みずに外交や戦争ばかりを事とするようになった。巧妙な機転さえあれば、一朝にして富強の功績が手に入るのだ。どうして、王道のように回りくどい手順を踏まなければならぬのか?
 成る程、子魚が文王の事績を挙げても、襄公は聞き入れなかった筈だ。

 儒学者は言う。
「養蚕して帛を得、農耕して穀物を得、身を修めて国を治めるのが正道である。養蚕せず、農耕せず、身を修めなければ、たとえ利益を得たとしても、その不正を憚らずに居られるだろうか。」
 しかし、小人とゆう者は、ただ利益ばかりを追い求める。そして反論するのだ。
「既に絹を着ているのだ。いまさら、養蚕などする必要はない。」
「既に穀物が手に入っているのだから、農耕しなくてもどうあるか。」
「国が治まりさえすれば、身を修めなくても構わない。」
 このような考えが横行し、小人達の行動に忌憚が無くなってしまい、かれらは本へ返ることを忘れてしまった。
 しかし、これは大きな心得違いだ。

 これを織り上げた蚕婦が居るからこそ、あの太鼓持ち達は、何かの僥倖で帛を手にすることができるのだ。これを収穫した農夫達の努力が有ればこそ、商人は穀物を手に入れることができるのだ。もし、天下の人々が悉く養蚕や農耕を厭うたなら、巧術や巧計があっても、どうして帛や穀が手に入るのか?そのようになったら、全ての民が冬に凍え路に飢えることになってしまうではないか。
 だから、覇者や詐者が僥倖で成果を挙げることができるのも、実は、彼等の力ではない。聖人の遺沢や三綱五常が滅びずに残っているのは、密かにこれを扶持する者がいるおかげなのだ。

 もしも、あの聖人達が、後世の人々のように功績を建てることだけを尊び、人倫の大本を修めもしないで旦暮の利を争っていたならば、今の大経大法は殲滅して一つも残らず、中国は君子の国ではなくなってしまっていた。
 そうなってしまえば、全ての城は戎狄の城である。全ての土地は禽獣の土地である。そんなものを争って奪い取ったところで、何になろうか。功績を建てたいと思っても、どうやって功績が建てられるのか。
 後世の人々は、王道を指して遅鈍迂遠と謗っている。しかし、これがあったからこそ、今の彼等が存立することができているのだ。賢者なしに、不肖者が一人で立つことはできない。知者なしに、愚者が独り存ることはできない。

 そもそも、礼義智信が完全になくなれば、目先の欲が全てとなる。その場限りの欲に従い、お互いが欺き合い傷つけ合い殺し合ったなら、社会はどうなってしまうのか?
 世の小人達が、互いに戦いあい傷つけ合いながらも、なお、人間は滅んでいない。それは、人倫が残っているからだ。
 人倫が残っているからこそ、社会は保たれ、人間は滅びずに済んでいる。そして、人間が居るからこそ、覇者となり、帝王となることもできるのではないか。

 それでは、その人倫は、一握りの聖人達がいればそれで残るものだろうか?いいや、とんでもない!大勢の人間がそれを慕ってこそ、始めて人倫は残り風俗は糺されるのだ。