突厥   車鼻可汗、沙鉢羅可汗
 
 貞観二十一年、正月丙申、詔して、回乞部を瀚海府、僕骨を金微府、多監葛を燕然府、抜野古を幽陵府、同羅を亀林賦、思結を盧山府、渾を皋蘭州、解薛を高闕州、奚結を鶏鹿州、阿跌を鶏田州、契必を楡渓州、思結別部を帯(「足/帯」)林州、白習を眞(「宀/眞」)顔州とした。各々その酋長を都督、刺史として、それぞれへ金銀曾(「糸/曾」)帛及び錦袍を賜下した。敕勒は大いに喜び、戴を捧げて歓呼して拝舞し、塵の中を転げ回った。
 彼等が帰るに及んで、上は天成殿へ出向いて宴会を催し、十部の楽を設けてこれを遣った。諸酋長は、奏称した。
「臣等は既に唐の民になりました。天至尊の所へ往来するのは、父母の元へ詣でるようなものです。どうか回乞以南、突厥以北に一道を開き、これを参天可汗道と名付け、六十八駅を設置し、各々馬と酒肉を準備して通過する使者を持てなし、毎年租賦として貂皮を献上し、有能な文人を派遣してくださいますよう、表疏して請願いたします。」
 上はこれを全て許した。
 ここに於いて北荒は全て平定された。しかし、回乞の吐迷度は既に可汗を自称していたので、官号は全て突厥の故事に倣った。 

 二月丙寅、燕然都護府を設置し、瀚海等六都督と皋蘭等七州を統べさせ、揚州都督府司馬の李素立をこれに抜擢した。素立は恩と信で民を慰撫したので、夷の人々は彼に懐き、共に馬牛を率いて献上した。素立は、ただ酒の一杯を受けただけで、残りは全て返した。 

 五月丁丑、詔した。その大意は、
「隋末の騒乱で、辺境の民が大勢戎・狄へ掠奪された。今、鐵勒が帰化した。使者を燕然等の州へ派遣して、都督と相談させ、没落の人を捜し求めて貨財で贖い求め、本国へ帰国させよ。その室韋、烏羅護、靺鞨三部の人で、薛延陀から掠められた者もまた、贖い還せ。」 

 十月庚辰。奴刺の啜匐俟友が、その部落万余人を率いて帰順した。
 十一月。突厥の車鼻可汗が使者を派遣して入貢した。
 車鼻の名は斛勃。もとは突厥と同族で、代々小可汗だった。頡利が敗北したので、突厥の余衆は彼を大可汗に奉じたがった。しかし当時は薛延陀が盛強で、車鼻はとても対抗できないと考え、衆を率いて薛延陀へ帰順した。
 ある者が、薛延陀へ説いた。
「車鼻は名門で、勇略があるし、衆から推戴されています。いずれ後患となるでしょう。今のうちに殺しましょう。」
 車鼻はこれを知り、逃げ去った。薛延陀は数千騎で追撃させたが、車鼻は兵を指揮して迎撃し、大いにこれを破った。そして金山の北へ牙帳を建て、乙注車鼻可汗と自称した。すると、突厥の余衆達が徐々に集まってきて、数年後には勝兵三万を数えたので、時々薛延陀から掠奪するようになった。薛延陀が敗北するに及んで、車鼻の勢力は益々強くなった。
 今回、子息の沙鉢羅特勒を派遣して、入見させ、自身も又入朝を請願した。そこで詔して将軍郭廣敬を派遣して徴したが、車鼻はお世辞を言っただけで、来朝する気持ちなど最初から無かった。遂に、唐へは来なかった。 

 二十二年、三月己丑。瀚海都督倶羅勃部を二つに分け、燭龍州を設置した。 

 回乞吐迷度の兄の子烏乞は、その叔母と姦淫していた。
 烏乞と倶陸莫賀の高官倶羅勃は、共に突厥の車鼻可汗の婿である。彼等は、共に吐迷度を殺して車鼻へ帰順しようと謀った。
 烏乞が、夜、十余騎を率いて吐迷度を襲撃し、これを殺した。燕然の副都護元礼臣が烏乞を誘い込もうと、使者を派遣し、彼を瀚海都督とするよう上奏しようともちかけた。烏乞は軽騎を率いて礼臣のもとへ謝礼に赴いたので、礼臣はこれを捕らえて斬り、上聞した。
 上は、回乞部落が離散することを恐れ、兵部尚書崔敦礼を派遣して安撫した。
 しばらくして、倶羅勃が入見したので、上はこれを唐に留めて帰さなかった。
 十月甲戌、回乞の吐土度の子の、前の左屯衞大将軍、翊左郎将婆閏を左驍衞大将軍、大俟利發、瀚海都督とする。 

 初め、西突厥の乙毘咄陸可汗は阿史那賀魯を葉護としていた。彼は西州の北千五百里の多邏斯水に住み、處月、處密、始蘇、歌邏禄、失畢の五姓の衆を統治していた。
 乙毘咄陸が吐火羅へ逃げると、乙毘射匱可汗が兵を派遣して賀魯を追い散らしたので、部落は亡散した。
 二十二年四月乙亥、賀魯はその余衆数千帳を率いて、唐へ帰順した。詔がおり、彼等を庭州の莫賀城へ住まわせ、賀魯は左驍衞将軍を拝受した。
 賀魯は、唐軍がクシャを討つと聞くと道案内を申し出、数十騎を率いて入朝した。上は、崑丘道行軍総管として、厚く宴賜して帰してやった。
 十二月戊寅、阿史那賀魯を泥伏沙鉢羅葉護として、鼓纛を賜下し、西突厥のまだ服従しないものを招討させた。 

 突厥の車鼻可汗が入朝しない。
 二十三年正月、上は、右驍衞郎将高侃へ回乞、僕骨等の兵を徴発させて、これを攻撃させた。
 兵が突厥国内へ入ると、諸部落が相継いで降伏してきた。抜悉密の吐屯肥羅察が降伏したので、その地へ新黎州を設置した。
 二月、丙戌。瑶池都督府を設置し、安西都護へ隷属させた。阿史那賀魯を瑶池都督とする。
 三月、丙辰。豊州都督府を設置し、燕然都護李素立へ都督を兼務させた。
 六月、太宗皇帝崩御。
 十月。突厥の諸部を州とする。新設された舎利等五州を雲中都督府に隷属させ、蘇農等六州を定襄都督府へ隷属させた。
 永徽元年(650年)六月、高侃が突厥を攻撃して阿息山へ至った。車鼻可汗は諸部の兵を召集したが、誰もやってこない。とうとう、数百騎で逃げ出した。侃は精騎を率いて金山まで追撃し、これを捕らえて帰った。その民は全て降伏した。
 九月、庚子、高侃が車鼻可汗を捕らえて京師へ帰った。これを赦し、左武衞将軍とし、その余衆は鬱督軍山へ住ませ、狼山都督府を設置して、これを統治させた。高侃を衞将軍とする。(唐に衞将軍はない。衞の前に一字脱落していると思われる。)
 ここにおいて、突厥は全て封内の臣となった(唐の領土となった)。単于、瀚海の二都護府を分置する。
 単于は狼山、雲中、桑乾の三都督、蘇農等十四州を領する。瀚海は瀚海、金徽、新黎等七都督、仙萼等八州を領する。各々、その酋長を刺史、都督とした。 

 左驍衞将軍、瑤池都督阿史那賀魯が離散した民を招集したので、廬帳も次第に人が増えていた。そんな折に太宗の崩御を聞いたので、賀廬は西、庭二州を襲取しようと謀った。庭州刺史駱弘義がその謀略を知り、上表して知らせた。上は通事舎人橋寶明を派遣して、慰撫させた。寶明は賀魯を説得し、長子の咥運を宿衞へ入れさせた。咥運へ右驍衞中郎将を授けて、帰国させる。
 咥運は父へ説き、衆を擁して西へ走った。
 二年、阿史那賀魯は乙毘射匱可汗を撃破してその衆を併呑し、雙河及び千泉へ牙帳を建てて沙鉢羅可汗と号した。咄陸の五啜や努失畢の五俟斤が皆、これへ帰順し、勝兵は数十万を数えた。乙毘咄陸可汗と連合すると、處月、處密や西域諸国が多く彼等へ帰属した。咥運を莫賀咄葉護とした。
 七月。沙鉢羅可汗が庭州へ来寇し、金嶺城と蒲類県を攻め落とし、数千人を殺略した。左武候大将軍梁建方と右驍衞大将軍契必何力を弓月道行軍総管として、右驍衞将軍高徳逸と右武候将軍薛孤呉仁を副官とし、秦、成、岐、ヨウの府兵三万人及び回乞五万騎を徴発してこれを討伐するよう詔が降りた。
 十二月、壬子、處月の朱邪孤注が招慰使の単道恵を殺し、突厥の沙鉢羅と結託した。三年正月癸亥、梁建方、契必何力等が牢山にて處月の朱邪孤注を大いに破り、孤注を生け捕った。 

 四年、乙毘咄陸可汗が卒した。その子の頡必(「草/必」)達度設が眞珠葉護と号した。沙鉢羅可汗と仲が悪くなり、五弩失畢と共に沙鉢羅を攻撃して、これを破る。千余の首級を斬った。 

 六年、五月癸未。右屯衞大将軍程知節を葱山道行軍大総管として、沙鉢羅可汗を討伐させた。 

 十二月、頡必達度設が、屡々使者を派遣して、沙鉢羅可汗討伐を請願した。
 甲戌、頡必達度設へ冊を与え可汗としようと、豊州都元礼臣を派遣した。
 礼臣が砕葉城まで至ると、沙鉢羅が兵を発して拒んだので、先へ進めなかった。頡必達度設は、部落の大半を沙鉢羅へ併呑されて勢力が弱くなり、諸姓から服従されていない。礼臣は、遂に冊を与えずに帰った。 

 顕慶元年(656年)八月辛丑、程知節が西突厥を撃った。楡慕谷にて歌邏、處月と戦い、大いにこれを破り、千余の首級を挙げる。
 副総管周智度が咽城にて突騎施、處木昆等を攻めて、これを抜き、三万の首級を挙げる。
 十二月、程知節は軍を鷹婆川まで引いた。ここで西突厥の二万騎と遭遇する。更に、敵方には別部の鼠尼施等の二万騎が後続となっている。前軍総管蘇定方が五百騎を率いてこれを攻撃する。西突厥は大敗した。唐軍は二十里追撃し、千五百余人を殺獲する。山野に広がった馬や器械を獲得したが、その数は数えきれなかった。
 副大総管王文度がその功績を邪魔しようと、知節へ言った。
「今、賊軍を破ったとは言え、官軍にも死傷者が多い。危い時にはすぐに逃げる。それが戦争の常道だ。何で急に進軍するのか!それよりも、方陣を布いて輜重をその中へ置き、敵に遭遇したら戦う。これこそ万全の策だ。」
 また、別に旨を得たとでっちあげた。
”知節は勇猛を頼んで敵を侮っている。文度へ、これの節制を委ねる。”と。
 そして文度は、深入りを許さなかった。
 士卒は終日馬に跨り、武装して陣を結ぶ。その疲れは大変なものだった。多くの馬が、やせ衰えて死んだ。
 定方が知節へ言った。
「出陣して賊を討ちましょう。今、守りに専念し、自ら苦しんでいます。これでは、もしも敵に遭遇したら必ず敗北します。こんなに懦怯で、どうして功績が立てられますか!それに、主上が公を大将としたのに、更に軍副を派遣して号令を専任させることが、どうしてありましょうか。これは絶対変です。どうか文度を捕らえ、飛表を出して真偽を質してください。」
 知節は従わなかった。
 恒篤城まで進軍すると、群胡が帰属した。文度は言った。
「こいつらは、今は我等が帰国するのを待って、再び賊へ帰順するつもりだ。皆殺しにして、資財は奪ってしまえ。」
 定方は言った。
「そんなことをしたら、我等が賊になってしまいます。どんな名分で討伐できますか!」
 文度はついにこれを殺し、その資財を皆で山分けしたが、定方だけは受け取らなかった。軍が帰国すると、文度は詔をでっち上げた件が有罪となった。死罪となるべき所を、特に除名で済ませる。知節は逗留して敵を追わなかったことで有罪となり、死を減じて免官となった。 

 二年閏月庚戌、左屯衞将軍蘇定方を伊麗道行軍総管とし、燕然都護渭南の任雅相と副都護蕭嗣業を率いて回乞等の兵を徴発して北道から西突厥の沙鉢羅可汗を討つよう命じた。
 嗣業は鉅の子息である。
 右衞大将軍阿史那彌射と族兄左屯衞大将軍歩眞は、皆、もとは西突厥の酋長だったが、太宗の時代に衆を率いて来降した。ここに至って詔が降り、彌射、歩眞を流沙安撫大使として、南道から旧衆を招集させた。
 蘇定方は、金山の北にて、まず處木昆部を撃ち、大いにこれを破る。その俟斤頼(「女/頼」)獨禄等が万余帳を率いて来降した。定方はこれを慰撫し、そのうちに千騎を徴発して同行した。
 右領軍郎将薛仁貴が上言した。
「泥孰部はもともと賀魯へ服従していませんでしたが、賀魯がこれを撃破して、その妻子を捕らえたのです。今、唐軍が賀魯の諸部を破って孰の妻子を得ました。これを孰部へ帰してやり、更に恩賞を賜下すれば、彼等は賀魯は賊で大唐は父母だと思い知ります。そうすれば、彼等は命懸けで戦ってくれます。」
 上はこれに従った。孰は喜び、従軍して共に沙鉢羅を攻撃したいと請願した。
 定方が曳咥河西へ至ると、沙鉢羅は十姓の兵十万を率いて拒戦した。定方は唐兵と回乞万余人を率いてこれを攻撃した。沙鉢羅は、定方の兵が少ないので軽く見て、直進して包囲した。定方は歩兵を南原へ據らせ、矛先を外へ向けて構えさせた。自身は、騎兵を率いて北原に陣を布く。沙鉢羅は、まず歩兵を攻めたが、三度ぶつかっても唐軍は動かなかった。そこへ定方が、騎兵を率いて突撃する。沙鉢羅は大敗した。唐軍は三十里追撃し、数万人を斬獲した。
 翌日、定方は再び進軍した。ここにおいて胡禄屋等五弩失畢がことごとく来降した。沙鉢羅ひとり處木昆屈律啜と数百騎で西へ逃げた。
 この時、阿史那歩眞が南道から出てきた。五咄陸部落は、沙鉢羅が敗北したと聞き、皆、歩眞のもとへやって来て、降伏した。
 定方は蕭嗣業、回乞婆閏へ胡兵を率いて邪羅斯川へ向って沙鉢羅を追撃するよう命じた。定方と任雅相は降伏してきた者達を率いて後続となった。
 ここで、大雪が降った。平地で二尺積もる。軍中の将兵は、あるいは晴れるまで待とうと言ったが、定方は言った。
「虜は、雪の深さを恃みとして、我等は進軍しないと多寡を括り、必ずや士馬を休めている。ここは速やかに追撃するべきだ。もしももたついて奴等を逃がしてしまったら、もう追いつくことができない。今こそ功績を建てるのだ!」
 こうして、雪を掻き分け昼夜兼行した。
 通過する部落で衆を収めて行く。雙河へ至って、彌射、歩眞と合流した。沙鉢羅の居所まで二百里。布陣長躯して、その牙帳へ迫った。
 沙鉢羅は、部下達と狩猟をしていた。定方はその不備を衝いて襲撃した。数万人を斬獲し、その鼓纛を得る。沙鉢羅は、その子息の咥運、婿の閻啜羅と脱走し、石國へ逃げた。
 定方は兵を休め、諸部は各々居所へ帰し、通行の封鎖を解き郵駅を設置し、死体を収容し疾苦を問い、国境を定め、生業を復活させた。およそ沙鉢羅に掠められたものは、悉く元へ戻し、十姓を従来のように安堵した。更に蕭嗣業へ沙鉢羅の追撃を命じて、定方は軍を返した。
 沙鉢羅は、石國の東北の蘇咄城へ到着した時には人馬が飢えきっていた。そこで人を城内へ派遣して、珍宝で馬などを購入させた。城主の伊沮達は、偽って酒食を用意して出迎え、彼等を城内へ誘い入れた。そして、門を閉じて捕らえ、石國へ送る。蕭嗣業が石国へ到着すると、石国の人は沙鉢羅を彼等へ引き渡した。
 八月乙丑、西突厥の土地を二分して濠池と崑陵の二都護府を設置した。阿史那彌射を左衞大将軍、崑陵都護、興昔亡可汗として五咄陸部落を支配させ、阿史那歩眞を右衞大将軍、濠池都護、継往絶可汗として五弩失畢部落を支配させた。光六卿盧承慶を時節冊命として派遣し、彌射、歩眞と承慶の降伏した諸姓へ刺史以下の官を授けさせた。その高低は、部落の大小や位望の高下に準拠させる。
 阿史那賀魯は、捕らわれた後、蕭嗣業へ言った。
「我は元々滅亡した虜なのに、先帝から擁立していただいた。先帝は我を厚く遇したのに、我はこれに背いた。今回の敗北は、天の怒りだ。中国では、市場で処刑すると聞いているが、どうか昭陵の前で処刑して欲しい。先帝へ謝りたいのだ。」
 上は、これを聞いて憐れんだ。
 三年十一月、賀魯は京師に到着し、甲午、昭陵へ献じた。敕が降りて、彼の死は免除された。その種落は六都督府に分け、彼へ服属していた諸国には、皆、州府を置いた。その領土は、西はペルシャへ接した。全て安西都督府の麾下へ入れる。
 賀魯が死ぬと、頡利の墓の側へ葬った。 

四年三月壬午。西突厥の興昔亡可汗が真珠葉護(頡必達度設)と雙河にて戦い、真珠葉護を斬った 

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