薛挙  子息、薛仁果
 
 金城の住民薛挙は、驍勇絶倫。巨万の家財があったので豪傑と交わり、西辺の雄と呼ばれていた。それを見込まれて、金城府校尉となった。
 隋末の動乱で隴右に群盗が蜂起した時、金城令赫(「赤/里」)援は募兵して数千人を得た。そこで、薛挙を将として、群盗を討伐させる事にした。
 義寧元年(617年)、四月、薛挙へ兵を与える時、酒を出して兵卒達と宴会が開かれた。その時、薛挙は息子の薛仁果や同志十三名と共に赫援を脅しつけて、決起した。郡県の官吏を捕らえ、官庫を開いて民を救済する。
 薛挙は、西秦覇王と自称し、秦興と改元する。薛仁果を斉公、その弟の薛仁越を晋公として群盗を招き寄せ、官馬を掠奪した。
 賊帥の宗羅侯が部下を率いて帰属したので、義興公とした。将軍皇甫綰が一万の兵で枹罕に屯営していたが、薛挙は二千の精鋭でこれを襲撃し、撃破した。岷山キョウの酋長鍾利俗が、二万の民を擁して帰属した。
 こうして、薛挙の威名が轟いた。そこで、薛仁果を斉王、領東道行軍元帥、薛仁越を晋王兼河州刺史とした。宗羅侯は興王として薛仁果の副官とした。
 各地へ出兵して、西平、澆河の二郡を攻略する。それからいくらも経たないうちに、隴西全土を奪い取り、十三万の兵力となった。
 七月、薛挙は秦帝を名乗り、妻の鞠氏を皇后に、薛仁果を皇太子に立てた。
 薛仁果に兵を与えて天水を包囲させた。薛仁果がこれに勝ったので、薛挙は金城からここへ移った。
 薛仁果は力が強くて騎射が巧く、軍中では「万人敵」と号していた。しかし、性格は貪欲で殺人を好んだ。かつてユ信の子のユ立を捕らえた時は、彼が降伏しなかったことを怒り、磔にして焼き殺し、その肉は軍士達へ食わせた。今回天水で勝つや、天水の富豪達を集めて鼻を削ぎ落とし、財貨をかき集めたことを責めた。
 薛挙は、いつも薛仁果を戒めていた。
「汝の才略なら、ひとかどのことができる。しかし、そんなに苛烈で恩愛が少なければ、結局は我が国を滅ぼしてしまうぞ。」
 薛挙は、晋王薛仁越を剣口方面へ派遣した。彼等が河池郡まで来ると、太守の蕭禹がこれを拒んだ。また薛挙は、麾下の将常仲興へ李軌を攻撃させた。しかし、これは李軌の将李贇と戦って敗北した。 

 十二月、薛仁果が扶風を攻撃した。
 ところで大業十年に、扶風の賊帥唐弼が李弘芝を天子に立てていた。彼等には十万の軍勢があり、唐王と名乗る。唐弼がヘイ源県にて防戦したので、薛挙は使者を派遣して降伏を呼びかけた。すると唐弼は、李弘芝を殺して薛挙へ降伏を求めた。
 ところが薛仁果は、唐弼が防備を解いたのに乗じてこれを攻撃し、彼等の部下を併呑してしまった。唐弼は数百騎を率いて扶風へ降伏したが、扶風太守の竇進は、唐弼を殺した。
 薛挙はますます勢力を拡大し、兵力三十万と号して長安を窺った。だが、長安は既に李淵が平定している。そこで、矛先を扶風へ向け、これを包囲した。
 李淵は、李世民にこれを攻撃させた。また、姜誉、竇軌等を隴右へ向かわせる。
 癸巳、李世民は扶風にて薛仁果と戦い、大勝利を収めた。壟低まで追撃して、帰る。
 薛挙は大いに懼れて群臣へ言った。
「古から、天子が降伏したことがあったか?」
 すると、黄門侍郎の楮亮が言った。
「趙佗は漢の高祖へ帰順し、劉禅は晋へ仕えましたし、最近では蕭jが、今に至るも高貴な身分を保っています。禍を転じて福とした事例は、昔からいくらでもあります。」
 だが、衞尉卿赫援が進み出て言った。
「陛下の質問は間違っています!楮亮の返答も、何と悖ったことか!昔、漢の高祖は何度も敗北しましたし、蜀の先主も妻子を失いましたが、遂に大業を成し遂げました。陛下は一階の戦いで押されたからといって、はやばやと国を滅ぼす計画を立てられるのですか!」
 薛挙は恥じ入って言った。
「これは、ただ卿等の心様を試してみただけだ。」
 そして、赫援を厚く賞して謀主とした。
 姜誉、竇軌は、薛挙に撃退されて引き返した。そこで李淵は通議大夫劉世譲へ唐弼の残党を集めさせて薛挙と戦わせたが、敗北した。劉世譲は捕らえられた。 

 武徳元年(618年)、煬帝が弑逆された。五月、李淵が即位した。 

 七月、薛挙は高庶へ進軍し、北地、扶風へ迫った。秦王李世民は濠を深く壁を高くして防備を固め、戦わなかった。
 やがて李世民は病気になったので、軍事を長史、納言の劉文静と司馬の殷開山へ委ね、彼等を戒めて言った。
「薛挙軍は敵地へ深入りしている上、兵力は少なく、疲れ切っている。もしも挑戦してきても、応じるな。我が病が癒えるのを待って、共に撃退しよう。」
 殷開山は、退出した後、劉文静へ言った。
「王は、我等の能力を心配して、あのように言われたのだ。それに、奴等は王の発病を聞き、我等を軽んじている。ここは示威行動をするべきだ。」
 そして、高庶の西南へ陣取ったが、多数の兵力を恃んで、ろくに防備をしなかった。
 説挙は密かに唐軍の背後へ廻ってこれを襲撃、唐軍は大敗した、唐軍は、この戦いで半数以上の兵卒を失い、大将軍慕容羅侯、李安遠等が戦死した。
 李世民は長安へ引き上げ、薛挙は高庶を抜いた。劉文静等は、皆、除名となった。
 八月、薛挙は薛仁果へ寧州を攻撃させたが、寧州刺史の胡演がこれを撃退した。
 赫援が薛挙へ言った。
「今、唐軍は敗北したばかりで、関中は大騒ぎになっています。勝ちに乗じて長安を取りましょう。」
 薛挙も同意したが、発病して、中止になった。
 辛巳、卒する。太子の薛仁果が立ち、薛挙へ武帝と諡した。
 唐は、李世民を元帥として、薛仁果を攻撃させた。 

 九月、秦州総管竇軌が薛仁果を攻撃したが、押され気味だった。唐の驃騎将軍劉感が州を鎮守していたが、薛仁果はこれを包囲してしまった。城中では食料が欠乏した。そこで劉感は乗馬を殺して兵卒達へ分け与えて食べさたが、自身は一切れも食べず、ただ骨と木屑を煮込んだスープを飲んだだけだった。城は幾度も落ちそうになったが、唐の長平王叔良の軍が救援に来たので、薛仁果は食糧が尽きたと宣伝し撤退した。
 乙卯、高庶の人間が州へやって来て、城を挙げて降伏したいと申し出た。そこで長平王は、劉感へ兵を与えて高庶へ向かわせた。
 劉感が城へ着く前に、高庶の人間が劉感のもとへやって来て言った。
「賊は既に去りました。どうか城へお入りください。」
 劉感が城門を焼くと、城内の人間は水を濯いで消した。その有様を見て、劉感は言った。
「降伏は偽りだ。」
 とど、撤退を決め、歩兵を先頭にし、自身は精兵を率いて殿となった。城内から狼煙が上がると、薛仁果の軍が襲撃してきた。劉感はこれと戦ったが、唐軍が敗北し、劉感は捕らわれてしまった。
 薛仁果は、再び城を包囲した。そして、劉感へ言った。
「城内へ向かって、援軍は来ないと大呼し、降伏を勧めよ。」
 劉感が許諾したので、彼を城外へ引き出すと、劉感は城へ向かって叫んだ。
「敵は食糧が少ないぞ。数日でなくなってしまう。それに秦王が数十万の大軍で四面から駆けつけている。城内に憂いはないぞ。頑張れ!」
 薛仁果は怒り、劉感を城から見えるところに腰まで埋め、弓で射させた。劉感は、死ぬまで声を限りに城兵を励まし続けた。
 長平王は、城を固く守り、どうにか守り通した。 

 庚申、唐の隴州刺史常達が宜禄川にて薛仁果を攻撃し、首級千余を挙げた。
 薛仁果は、何度も常達を攻撃したが、どうしても勝てない。そこで、午士政とその手勢数百人に、偽の降伏を命じた。常達は、計略と気がつかず、午士政を手厚く持てなした。午士政は、隙を見て手勢と共に常達を捕らえ、城中の兵二千人を擁して薛仁果の元へ戻ってきた。
 常達は薛仁果を見ても顔色一つ変えず卑屈にもならなかったので、薛仁果はその剛毅を気に入って釈放してやった。この時、奴賊の首帥張貴が常達へ言った。
「お前は、俺を知っているか?」
「死に損ないの奴賊だろう。」
 張貴は怒って常達を殺そうとしたが、宥めてくれる人がいて、事なきを得た。 

 薛仁果は、皇太子となってから諸将と仲違いすることが多かった。だから、彼が即位すると、皆は懼れ、猜疑した。赫援は、薛挙が重傷になった時に慟哭が過ぎて、寝込んでしまった。こうして、国勢は次第に弱くなっていった。
 李世民が高庶へ進軍すると、薛仁果は宗羅侯へ拒戦させた。
 宗羅侯は何度も戦いを挑んだが、李世民は防備を固めるだけで戦わない。諸将が出撃を請うと、李世民は言った。
「我が軍は、敗北したばかりで志気も萎えている。賊軍は、勝利を恃んで驕り、我々を軽く見ている。だから今は、防備を固めて時を待つのだ。奴等が驕って我等が奮えば、連中を一戦で潰せるぞ。」
 そして、軍中へ命令した。
「敢えて戦おうと言う者は、斬る!」
 こうして対峙すること六十余日。薛仁果軍は食糧が尽き、将軍の梁胡郎羅が、手勢を率いて降伏した。
 李世民は、薛仁果が将士から見離されていることを知り、行軍総管梁実を浅水原へ宿営させ、敵を誘った。宗羅侯は大喜びで、精鋭を総動員して攻撃した。梁実は、険阻な地形で守戦に徹したが、陣営の中に水がなかったので、人馬は数日間何も飲めなかった。
 宗羅侯は、短兵急に攻めまくる。李世民は、賊軍が疲れ切った頃合を測って諸将へ言った。
「戦うぞ!」
 まず、右武候大将軍龍玉を浅水原へ布陣させた。宗羅侯がこれと戦っているうちに、李世民は大軍を率いて原の北から突撃した。宗羅侯軍は壊滅し、数千人が首を斬られた。
 李世民が二千余騎で追撃したので、竇軌が馬を叩いて苦諫した。
「薛仁果は、なおも堅城に據っています。宗羅侯を破っても、軽々しくは進めません。一旦兵を整えて、様子を見てください。」
「いや、我も考えた末だ。破竹の勢いを失ってはならぬ。舅御、何も言われるな!」
 そして、そのまま進んだ。
 薛仁果は城下へ布陣した。李世民は、水へ臨んで據った。すると、薛仁果の驍将渾幹等数人が降伏してきた。日が暮れる頃には唐の大軍が追いついてきたので、そのまま包囲した。夜半になると、城の守備兵が次々と唐へ降伏した。
 己酉、薛仁果は切羽詰まって降伏した。精鋭兵一万余と、男女五万人を得る。
 諸将は皆祝賀すると共に、訊ねた。
「代王は、たった一戦で薛仁挙を滅ぼしました。騎兵のみで城攻めの器械もなく、軽騎でサッサと城下へ向かわれましたので、皆、勝てると思わなかったのですが、遂にこれを取りました。どうしてでしょうか?」
 すると李世民は言った。
「宗羅侯が率いたのは、皆、隴外の人間だ。彼等は、将は驍勇で卒は剽悍。それを不意を衝いたからこそ撃破できたのだが、斬獲した敵兵は少なかった。ここでゆっくりと攻めたら、敵兵は皆入城しただろう。それを薛仁果が慰撫したら、その兵力は持ち直し、容易には勝てない。急追したからこそ、敵兵は隴外へ逃げ散ったのだ。薛仁果は敗残兵を招き寄せることもできずに兵力が弱いまま。だから、肝を潰して謀略も使えずに降伏したのだ。」
 衆人は皆、悦び服した。
 李世民は、降伏してきた将兵達を薛仁果兄弟や宗羅侯等へ指揮させ、彼等と共に狩猟をしたりして、何の猜疑もしなかった。賊徒達は、威厳を畏れ恩も感じ、李世民の為になら命さえ捨てようと慕った。
 李世民は、楮亮の高名を聞いていたので、彼を訪ねて行き、甚だ礼遇して王府文学に任命した。
 李淵の使者がやってきて、李世民へ言った。
「薛挙父子は我等の兵を大勢殺した。だから、必ず一族誅殺して死者の魂を鎮めよ。」
 だが、李密が諫めた。
「薛挙は無辜の民を虐殺しましたが、それこそが彼を滅したのです。陛下はどうしてこれを怨むのですか!懐いてきた民は慰撫しなければなりません!」
 そこで、首謀者だけを斬首として、残りは赦した。
 李世民が凱旋する時、李淵は、李密を幽州まで迎えに行かせた。李密は、自らの知略功名を誇っており、李淵へ対しても傲慢な態度が残っていたが、李世民を見ると驚いて伏した。そして、殷開山へ私的に言った。
「彼こそ真の英主だ。彼でなければ、この動乱は平定できないぞ!」
 員外散騎常侍姜暮が秦州刺史となって、派遣された。姜暮は恩愛で民と接したので、盗賊はことごとく帰順し、民は安らいだ。 

 李世民は、長安へ帰ると市場にて薛仁果を斬り、常達へ帛三百段を賜下した。劉感へは、平原郡公を追贈し、忠壮と諡する。午士政は殿庭にて撲殺し、最も淫乱暴虐だった張貴を腰斬とした。
 李淵は、将士をねぎらい、群臣へ言った。
「諸公は共に我を推戴して帝業を成した。もしも天下が平定したら、共に富貴な身分となろう。王世充が志を得たら、公等の子孫はどこに残ろうか!薛仁果の君臣如きは、どうして前鏡とせずにいられるだろうか!」
 己巳、薛挙との戦いで大敗して除名されていた劉文静を戸部尚書、左僕射へ復帰させ、殷開山の爵位も恢復した。 

  

 ところで、キョウの豪族旁企地は、もともと部落を挙げて薛挙へ帰属していたが、薛仁果が滅亡したので、李淵へ帰順し、長安へ留まった。だが、旁企地は不満だらけで、遂に手勢数千を率いて唐へ造反し、南山へ入り漢川へ出て、通過する道々掠奪して廻った。武候大将軍龍玉がこれを攻撃したが、敗北した。
 旁企地は、始州へ行き、ここで王氏とゆう女性を略奪して、彼女の酌で野外にて酔いつぶれた。すると王氏は、旁企地の佩刀を抜き放ち、その首を斬って梁州へ送った。主人を殺されて、部下達は壊滅した。
 王氏は、祟義夫人の称号を賜下された。 

  

(訳者、曰く)
「新唐書」薛挙伝には「薛仁果及び酋党数十人が全て斬罪となった。」と記されている。李密が李淵を諫めた一節は、「薛挙伝」にも、「李密伝」にも記載されていない。この李密の諫言は、事実なのだろうか?
 また、「新唐書」では、「薛挙親子は、隴西に割拠して五年で滅亡した。」と記されているが、これは二年の誤りだろう。 

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