薛延陀   
 
 突厥の頡利が滅亡してから、北方は空白地帯となったので、薛延陀の真珠可汗が部落を率いて移住し、都尉建(「牛/建」)山の北から獨邏水の南へ国を建てた。その兵力は二十万。二人の子息抜酌と頡利必(「草/必」)を南部と北部に立てた。
 貞観十二年(638)。太宗は、彼等が強盛なので、後々制しにくくなることを恐れ、癸亥、二人の子息を共に小可汗と為し、各々へ鼓纛を賜下した。これは、上辺は優祟しているようだが、実はその勢力を二分するのが狙いだった。 

 十五年、真珠可汗は、上が封禅すると聞いて臣下へ言った。
「天子が泰山で封禅を行えば、大勢の兵隊が随従するから、辺境の警備が薄くなる。この時なら思摩を取るなど、枯れ木をさらうようなものだ。」
 そして太子の大度設へ同羅、僕骨、廻乞(「糸/乞」)、靺鞨、習(「雨/習」)等の兵を動員させた。総勢二十万。漠南を渡り白道川へ屯営し、善陽嶺に據って突厥を攻撃した。
 俟利必可汗は防ぎきれず、部落を率いて長城へ入り朔州を保って、使者を派遣して急を告げた。
 十月癸酉、上は、営州都督張倹へ手勢及び奚、習、契丹の兵を率いてその東境を抑えるよう命じ、兵部尚書李世勣を朔州道行軍総管として、兵六万騎千二百で羽方へ屯営させ、右衞大将軍李大亮を霊州道行軍総管とし、兵四万騎五千で霊武へ屯営させ、右屯衞大将軍張士貴へ兵一万七千を与えて慶州道行軍総管として雲中へ出させ、涼州都督李襲誉を涼州道行軍総管として、西へ出させた。
 諸将が行軍の挨拶に来ると、上は言った。「薛延陀はその強盛を恃み、砂漠を突っ切って南下してきた。行軍距離は数千里、奴等の馬は、既に疲れ果てている。およそ用兵の要点は、利を見たら速やかに進み、不利と見たら速やかに退くことにある。薛延陀は、思摩の不備を衝いて急襲することが出来ず、思摩が長城へ入っても速やかに退却しなかった。我は既に思摩へ、秋草を焼き払うよう命じている。敵方の兵糧は、数日で尽き、野には奪うべき稔りもない。偵察の報告では、馬は林木の枝や皮を食べているとのことだ。卿等は思摩と共に掎角の象を造れ。速戦はするな。敵の退却を待ち、一時に奮撃すれば、必ずこれを破れる。」 十二月己亥、薛延陀が使者を派遣して、突厥との和親を請うた。
 甲辰、李世勣が諾真水にて薛延陀を敗った。その経緯は、以下の通り。
 初め、薛延陀は西突厥の沙鉢羅と阿史那社爾を攻撃し、皆、歩兵戦で勝ちを収めた。入寇する時、歩兵戦を大いに指導した。五人組で伍を造り、その中の一人が馬を執って、残りの四人が前で戦うとゆう戦法。歩兵が勝ったら、与えていた馬で追撃するのだ。ここにおいて大度設は三万騎を率いて長城へ迫り突厥を攻撃しようとしたが、思摩は既に逃げた。大度設は思摩を捕らえられないと知り、部下を城へ登らせてこれを罵った。そこへ李世勣が唐軍を率いて来た。砂煙が天地の間に充満する有様に、大度設は懼れ、部下を率いて赤柯楽(「水/楽」)から北へ逃げた。世勣は、麾下及び突厥から精騎六千を選び、真っ直ぐこれを追いかけた。白道川を越えて青山まで追及する。
 大度設は何日も逃続けた。諾真水まで来ると、兵を指揮して迎撃しようと、十里に亘って陣を布いた。突厥がまずこれと戦ったが、勝てずに退却する。大度設は勝ちに乗じて追撃して、唐軍と遭遇した。薛延陀軍は万の矢を一斉に放ち、唐の馬は多数死んだが、世勣は士卒に下馬させると、長ショウ(大きくて長い矛)を執って前進させた。この攻撃で薛延陀軍は潰滅した。唐の副総管薛萬徹が数千騎で馬を奪っていった。薛延陀は馬を失い為す術も知らない。そこへ唐兵が襲撃を掛け、三千の首を斬り五万余人を捕らえた。大度設は、体一つで脱出した。萬徹はこれを追撃したが、逃げられた。薛延陀の兵は、漠北へ逃げたが、大雪に遭い、八、九割が凍死した。
 李世勣は軍を定襄まで返した。ところで、五台にいた突厥の思結部の人々が、唐へ背いて逃げ出した。州兵はこれを追いかけたが、そこへ世勣軍が還ってきたので、挟撃して、これを悉く誅殺した。
 丙子、薛延陀の使者が、帰国の挨拶をした。上はこれへ言った。
「我は、汝と突厥の国境を大漠と定め、これを侵す者は我が討伐すると約束した。ところが汝は自らの盛強を恃み、漠を越えて突厥を攻撃したのだ。李世勣が率いたのは、わずか数千騎のみ。それなのに、汝等はこのように狼狽したではないか!帰国したら可汗へ伝えよ。挙措利害は、善い選択をせよ、とな。」 

 十六年、七月癸亥。真珠可汗が、その叔父の沙鉢羅泥熟俟斤を派遣して通婚を求め、馬三千匹、貂皮三万八千、瑪瑙の鏡一台を献上した。
 上は侍臣へ言った。
「薛延陀は漠北で盛強だ。今、これを制御する策は二つしかない。出兵して殲滅するか、通婚して慰撫するか。どちらが良いか?」
 房玄齢が対して言った。
「中国は平定されたばかりです。そして兵は凶器で戦争は国を危うくします。臣は和親が宜しいかと愚考いたします。」
「そうだ。朕は民の父母となったのだ。民の為になるのなら、なんで一女を惜しもうか!」
 話は前後するが、左領軍将軍契必(「草/必」)何力の母親の姑藏(ほんとうは草冠がない)夫人と、弟の賀蘭州都督沙門を、共に涼州に在住させた。そして、上は何力を故郷へ帰して、その部落を統治させた。
 この時、薛延陀が盛強だったので契必の部落は皆、これへ帰順したがった。何力は大いに驚いて言った。
「主上の御恩は、こんなに厚い。何で叛逆などできようか!」
 だが、反逆者達は言った。
「夫人と都督が、先に涼州へ行きましたが、どうして貴方は行かないのですか!」

「沙門は親孝行だし、私は忠義者。汝等へは絶対従わぬ。」
 造反者達は何力を捕らえて薛延陀へ詣で、真珠の牙帳の前に置いた。何力は足を前に投げ出して坐り、佩刀を抜くと東へ向かって大声で叫んだ。
「唐の烈士が、なんで虜庭に屈服しようか。天地日月よ、我が心を知れ!」
 そして、左耳を斬って誓いとした。真珠はこれを殺そうとしたが、妻から諫められて止めた。 上は、契必が造反したと聞き、言った。
「これは絶対、何力の本意ではない。」
 左右は言った。
「戎狄は精神が通じ合うもの。魚が水へ入るように、何力も薛延陀へ入ったのです。」
 やがて薛延陀から使者がやってくると、彼は実情を具に語った。上は何力の為に涙を零し、左右へ言った。
「何力はどうなるのだろうか?」
 十月、兵部侍郎崔敦礼を持節として派遣し、薛延陀へ新興公主を娶せる代わりに何力を返還させるよう諭させた。こうして何力は帰ることができ、右驍衞大将軍へ昇進した。 

 十七年、閏月。真珠可汗が、その姪の突利設を使者として納幤した。馬五万匹、牛、駱駝一万頭、羊十万口を献上する。
 庚申、突利設を饗応する。上が相思殿へ御し、群臣と友共に十部の楽を設ける大宴会が催された。突利設は再拝して上を寿いだ。下賜品は、甚だ厚い。
 契必何力が上言した。「薛延陀とは通婚してはいけません。」
 上は言った。
吾は、既にこれを許した。なんで天子が嘘をつけようか!」
「臣は、陛下にこれを拒絶して欲しいのではありません。ただ、少し時間を稼いで欲しいだけです。昔は親迎の礼があったと聞いています。もしも夷男へ親迎させるのなら、京師まで迎えに来させないまでも、霊州までは来させましょう。奴は絶対に来ません。そうすれば、破談にしても名分は立ちます。夷男は剛戻な性格ですから、通婚が破れれば、その臣下は二心を持ち、真珠可汗は一、二年の内に必ず病死します。そうすれば二人の子息が継承を争いますので、容易に制圧できますぞ!」
 上はこれに従い、真珠可汗が自ら出迎えるよう詔した。上自身も霊州まで御幸し、ここで会盟しようと言うのだ。真珠は大喜びで出かけようとしたが、その臣下が諫めて言った。
「抑留されたら、悔いても及びませんぞ!」
 真珠は言った。
「唐の天子は聖徳だと聞く。吾が出向いて謁見できるのならば、死んでも恨みはない。それに、漠北にも主人が必要だ。我は絶対決行する。もう何も言うな!」
 上は彼等が献上する雑畜を受け取る為、三道から使者を派遣した。薛延陀には庫厩がなかったので、真珠は諸部から雑畜を徴収した。その往還の旅程は一万里。道中は砂礫で水も草もなく、その半分は死んでしまい、期限に間に合わなかった。議者の中には、結納品も集まらないのに婚姻すると、戎狄が中国を軽視すると言い出す者も居た。上は婚姻の中止を下詔し、霊州に留まって三使を追い返した。
 猪遂良が上疏した。その大意は、
「薛延陀は、もともと一介の俟斤に過ぎませんでした。陛下が突厥を盪平したので、他の部族は強盛になりました。上はそれらの酋長へ璽書や鼓纛を賜って、可汗として立たせたのです。この時、降伏した者へ通婚を認めました。西は吐蕃に告げ、北は思靡を諭したことは、中国では幼い童子でも誰知らぬ者もおりません。陛下は自ら北門へ御幸し、その献食を受け、群臣と四夷は終日宴会を楽しみました。ですから、陛下は百姓の安楽の為なら、娘へ苦労させることも厭わないのだとの風評が立ち、民は皆、御厚恩に感激したのです。しかし、今、一朝にして私欲が生まれ、後悔なさいました。臣は、国家の恥を惜しむのです。得られる物は甚だ少ないのに、失う物は甚大です。嫌隙が生まれてしまったら、必ず辺境で抗争となります。敵方には欺かれた怒りがありますし、我が民には約束を破った負い目があります。これでは『遠人を服従させる戦いである、』と、兵卒達へ訓戒を垂れることもできません。陛下は君主として天下に君臨して十七年。その間、民へ仁恩を結び信義で戎夷を慰撫しましたので、喜ばない者はいませんでした。今回、それに背いて何の益がありましょう。ああ、始め慎みながら終わりまで続かないとは、惜しんでも余りあります!それ龍砂の以北には、多くの部落があります。中国がこれを誅しても、滅ぼし尽くすことは出来ません。徳義で懐けるしかないのです。夷に悪行を為させても華は悪事を働かず、奴等が信義を棄てても我等は守る。そうであれば、堯、舜、禹、湯も陛下には遠く及ばなくなるものを!」
 上は聞かなかった。
 この時、多くの群臣が言った。
「国家は既に通婚を許し、その結納まで受け取っているのです。戎狄へ信義を失い、辺患を再燃させてはなりません。」
 上は言った。
「卿等は皆、古を知っていて今を知らない。昔、漢の当初は匈奴が強く中国は弱かった。だから子女を飾り金絮を与えたのは、時宜に適ったことだった。今は、中国が強く戎狄は弱い。我等が歩兵一千で胡の騎兵数万を撃破できる。薛延陀がペコペコと頭を下げてすり寄り、我等の機嫌を取るのに汲々としてちっとも傲慢にならないのは、彼が君長になったばかりで、しかもその部下には異種族も沢山いて政権が不安定なので、中国の勢力を後ろ盾にして国内を巧く治めようと思っているだけなのだ。あの同羅、僕骨、回乞等十余部は各々数万の兵を擁している。彼等が力を合わせて薛延陀を攻撃すれば、あれは忽ち滅亡するぞ。だが、彼等がそうしないのは、中国から承認されているのを畏れているからなのだ。今、娘を娶せたら、彼は大国の婿となる。そうなれば、雑姓の誰が服従せずに済まされようか!戎狄は人面獣心だ。奴がそこまで強大になれば、後日ほんの少しでもムカついた時、必ず反噬の害を為す。今、吾がその婚姻を断ち、その礼を台無しにすれば、雑姓は我が薛延陀を棄てたと知り、そのうちに国は分裂してしまう。卿等、これをしっかり覚えておけよ!」 

 臣光、曰く、
 食を失い兵を失っても、信義だけは失ってはならない、とは孔子の言葉だ。唐の太宗皇帝は、薛延陀と通婚してはならないとゆう理由はつまびらかに知っていた。それならば、初めに通婚を許してはならなかった。既に通婚を許しながら、強さを恃み信義を棄てて国交を断つ。そんなことをしたら、薛延陀を滅ぼせたとしても、なお羞じるべきだ。王者が発言する時には、慎まずにはいられないのだ! 

 初め、上は突厥の俟利必可汗へ河を渡って北上させた。真珠可汗は、その部落が動揺することを懼れ、心中これを甚だ憎み、軽騎を漠北へ揃えてこれを攻撃しようとした。上は使者を派遣して敕を与え、戦争しないよう戒めた。対して、真珠可汗は言った。
「至尊の命令が出たのです。従いたいことやぶさかではありません!ですが、突厥は反覆常ない連中です。彼等が未だ破滅していなかった頃は、年中中国を犯し殺した人も千萬を数えました。ですから臣は、至尊がこれに克った時、彼等を全員奴隷にして中国の民への賜にするだろうと思っていたのです。ですが、却って彼等を我が子のように養いました。その恩徳は至れりと言えます。それなのに、結社率は遂には造反しました。これは獣の心です。どうして人の理でつきあえましょうか!臣は至尊から深く厚い御恩を蒙りました。至尊の為にこれを誅させてください。」
 これより、しばしば戦争が起こった。
 俟利必が黄河を渡った時には十万の民衆と四万の勝兵がいた。だが、俟利必は彼等を撫御することができず、衆は彼に服さなかった。十八年、十二月戊午、彼等は全員俟利必を棄てて河を渡って南下し、勝・夏の間に住ませて欲しいと嘆願した。上はこれを許す。 

 十九年、太宗は高麗へ親征した。この時、上は、右領軍大将軍執失思力を夏州の北へ配置し、突厥を麾下へ与えて薛延陀に備えさせた。
 上が高麗を討伐している時、薛延陀は使者を派遣して入貢した。上は、使者へ言った。
「汝の可汗へ伝えよ。今、我が親子は高麗を東征している。汝が来寇するなら今のうちだ。速やかに行え!」
 真珠可汗は恐惶し、使者を派遣して陳謝した上、援軍を申し出たが、上は許さなかった。
 高麗が駐畢山で敗北するに及んで、莫離支は靺鞨を使者として真珠の元へ派遣し、厚利を食らわせて説得した。真珠は敢えて動こうとしなかった。
 九月、壬申、真珠可汗が卒した。上は、彼の為に哀を発した。
 話は遡るが、真珠可汗はその庶長子曳莽を突利失可汗として東方に住まわせて雑種を統べさせ、嫡子の抜灼を肆葉護可汗として西方に住まわせて薛延陀を統べさせるよう、請願していた。この時、太宗は詔を降ろしてこれを許諾し、礼册を以て命じた。ところが、曳莽は躁乱な性格で軽々しく戦争をして、抜灼とは協調できなかった。
 真珠可汗が卒すると、彼等は会葬に来た。埋葬が済むと、曳莽は抜灼が自分を図ることを恐れ、先に領地へ帰った。抜灼はこれを追襲し、殺して自立した。これが頡利倶利薛沙多彌可汗である。
 多彌可汗は、即位した後、上が出征して未だ帰ってきていないので、兵を率いて河南へ来寇した。上は左武候中郎将の長安の田仁會と思力を合流させて迎撃させた。
 思力は弱そうに見せかけて偽って退却し、敵を深く誘い込んだ。そして夏州の州境にて、整然と陣を布いて待ち受けた。薛延陀は大敗し、思力はこれを六百余里追撃する。磧北へ武威を輝かせて帰還した。
 多彌は再び兵を率いて夏州へ来寇した。己未、礼部尚書江夏王道宗は朔、并、汾、箕、嵐、代、忻、尉(「草/尉」)、雲九州の兵を発して朔州を鎮守し、右衞大将軍代州都督薛萬徹と左驍衞大将軍阿史那社爾は勝、夏、銀、綵、丹、延、鹿(「鹿/里」)、坊、石、湿(ほんさうは小里偏)十州の兵を発して勝州を鎮守し、勝州都督宋公明と左武衞将軍薛孤呉は霊、原、鹽、慶五州の兵を発して霊州を鎮守するよう敕し、又、執失思力には霊、勝二州の突厥兵を発して道宗と呼応させた。薛延陀は塞下まで来て、備えがあるのを知り、敢えて進まなかった。
 二十年、正月辛未。夏州都督喬師望と右領軍大将軍執失思力等が薛延陀を撃ち、大勝利を得、二千余人を捕虜とする。多彌可汗は軽騎で逃げ去り、部内は騒然とした。 

多彌可汗は偏屈性急な性格で、猜疑心が強く恩を感じない人間。父の頃の貴臣は廃棄し、自分の親昵な者ばかりを寵用したので、国人は懐かなかった。また、多彌は大勢を誅殺したので、人々はビクビクした。
 回乞の酋長吐迷度が僕骨、同羅と共にこれを攻撃し、多彌は大敗した。
 六月乙亥、詔して江夏王道宗、左衞大将軍阿史那社爾を瀚海安撫大使と為した。また、右領衞大将軍執失思力へ突厥兵を、右驍衞大将軍契必何力へ涼州と胡兵を、代州都督薛萬徹と営州都督張倹へ各々の手勢を率いて派遣し、数道から薛延陀を攻撃させた。
 上は、校尉の宇文法を烏羅護、靺鞨へ行かせたが、彼は薛延陀の東境で薛延陀と遭遇した。そこで法は靺鞨を率いてこれを撃破した。薛延陀は国中大騒動となり、言った。
「唐軍が来た!」
 諸部は大いに乱れた。
 多彌は数千騎を率いて阿史徳時健の部落へ逃げた。回乞はこれを攻めて多彌を殺し、その宗族を殆ど殺し尽くして、遂にその土地へ據った。
 諸俟斤は互いに攻撃しあい、争うように唐へ使者を派遣し服従した。
 薛延陀の余衆は西へ逃げた。彼等はなお、七万口が残っており、共に真珠可汗の兄の子の咄摩支を立てて伊特勿失可汗とし、その故地へ帰った。ついで可汗の称号を取り下げ、唐へ使者を派遣して表を奉じ、鬱監軍山の北へ住むことを請願した。唐は、兵部尚書崔敦礼へ招安させて彼等を集めた。
 ところで、敕勒の九姓の酋長は、もともと部落を以て薛延陀の種に服属していた。彼等は咄摩支が来たと聞き、皆、恐惶した。朝議は、彼等が磧北の患いとなることをおそれ、更に李世勣を派遣して敕勒の九姓と共に咄摩支を図らせることにした。
 上は李世勣を戒めて言った。
「奴等が降伏したら慰撫し、造反したら討伐せよ。」
 己丑、上は手詔を下した。
「薛延陀は破滅し、その敕勒の諸部には来降した者も、まだしない者もいる。今、この機に乗じなければ後へ悔いを遺すこととなる。朕は自ら霊州へ詣で、招撫する。去年遼東へ出征した兵は、今回は徴発しない。」
 この時、大使が随従しようとすると、少・事張行成が上疏した。その大意は、
「皇太子を霊州へ従幸させるよりも、太子を監国とした方が宜しゅうございます。百寮へ接対させ庶政に明習させ、京師の重鎮と為らせて四方へ盛徳を示すのです。私愛を殺して公道へ従ってください。」
 上はこれを忠義と取り、官位を青光禄大夫へ進めた。
 李靖が鬱督軍山へ到着すると、その酋長の梯真の達官が衆を率いて来降した。薛延陀の咄摩支は、南の荒谷へ逃げた。
 世勣が、通事舎人蕭嗣業を派遣して招慰すると、咄摩支は世勣の元へ出向いて降伏した。だが、その部落はなおも二股を掛けていたので、世勣は兵を率いて追撃し、前後五千級の首を斬り、男女三万余人を捕らえる。
 秋、七月。咄摩支が京師へ来た。右武衞大将軍を拝受する。
 江夏王道宗の兵は、磧を渡った後、薛延陀の阿波の達官数万と遭遇した。彼等は拒戦したが、道宗はこれを撃破し、千余級の首を斬り、二百里追撃する。
 道宗と薛萬徹はおのおの使者を派遣して敕勒の諸部を招諭した。その酋長は皆喜び、頓首して入朝を請うた。
 庚午、車駕が浮陽へ至る。回乞、抜野古、同羅、僕骨、多監(「水/監」)葛、思結、阿跌、契必、跌結、渾、斛薛等十一姓が、各々使者を派遣して入貢した。
 彼等は称した。
「薛延陀は大国に仕えず、暴虐無道で奴等の主になることが出来ず、自ら敗死し、部落は逃散して行く場所もなくなりました。奴等には、各々領土を分かち、薛延陀に従って逃げたりしないで、天子へ帰命いたします。どうか哀憐を賜り、官司を置いて奴等を養育してくださいませ。」
 上は大いに喜んだ。
 辛未、回乞等の使者を宴会で持てなし、官位を拝受させ、その酋長へ璽書を賜し、右領軍中郎将安永壽を返報の使者とするよう詔が降りた。
 壬申、上は漢のもとの甘泉宮へ御幸して、詔した。
「戎、狄と天地を共にして、上皇は彼等と肩を並べていたが、彼等へは禍が相継ぎ、我等のみ運が良かった。朕は小部隊へ命じ、遂に頡利を捕らえた。これから廟略は広まり、既に延陀を滅ぼした。北冥(「水/冥」)へ散在している徹勒の百余萬戸へ遠く使者を派遣すると、彼等は身を委ねて内属し、我等の民と同列に扱われることを願い、みな、州郡となった。これらの事は、開闢以来前例のないことだ。よって礼を備えて廟へ告げ、普天へ頒示する。」
 庚辰、州へ到着した。
 丙戌、隴山を越えて西瓦亭へ至り、馬牧を観る。
 九月、上は霊州へ到着した。敕勒諸部の俟斤が派遣した使者が相継いで霊州へやって来た。その数は数千人。咸に言う、
「天の至尊、どうか奴等の天可汗となってください。我等が子々孫々、常に天至尊の奴隷でいれるならば、死んでも恨みはありません。」
 甲辰、上はこの事を詩序に造って言った。
「恥を雪いで百王へ酬い、凶を除いて千古に報いる。」
 公卿が霊州にて石に刻むよう請い、これに従った。
 丙戌、車駕が京師へ還った。
 冬、十月、己丑。上は霊州への往還で寒さにやられ疲労もし、今年いっぱいは保養に専念したくなった。
 二十二年、八月辛未。左領軍大将軍執失思力を金山道から出陣させ、薛延陀の余寇を撃たせた。 

 二十三年、六月、太宗皇帝が崩御した。
 永徽三年(652)六月、戊申、兵部尚書崔敦礼等へ并、汾の歩騎万人を率いさせて茂州へ派遣する。薛延陀の余衆を発して河を渡らせ、キ連州を設置してここへ住まわせた。 

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