陳併合   1.宣戦布告
 
嵐の前 

 太建十三年(581年)、二月。隋が受禅して、北周は滅んだ。
 陳併合の志に燃える文帝は、潁に人材を尋ねた。すると、彼は開府儀同三司賀若弼と、和州刺史韓擒虎を推挙した。
 同月、晋王の楊廣がヘイ州総管となった。 

 九月、陳の将軍周羅候が、隋の故墅を攻めて、抜いた。蕭摩訶は、江北を攻撃した。
 隋は、上柱国の長孫覧と元景山を行軍元帥として、陳を攻撃した。高潁を節度諸軍とする。 

 十四年、一月。陳の宣帝が崩御した。すると、都にて始興王が造反したので、これの鎮圧の為に蕭摩訶が呼び戻された。始興王の乱が鎮圧されて後主が立つと、蕭摩訶は綏遠公に封じられた。
 同月、隋の元景山が漢口へ進軍した。彼は、上開府儀同三司の登孝儒へ四千の兵を与え、曾(「曾/瓦」)山を攻撃させた。陳は、鎮将軍の陸綸が迎撃したが、敗北した。曾山、員口、屯陽の守備兵達は、皆、城を棄てて逃げた。
 陳は、隋へ使者を派遣し、故墅の返還を条件に、講和を請うた。又、隋では高潁が、文帝を諫めた。
「敵国の喪につけ込むのは礼にもとります。」
 二月、隋の文帝は停戦を命じた。
 六月、隋は、陳へ弔問の使者を派遣した。 

 至徳元年(583年)、二月。陳の後主は、散騎常侍賀徹を修好の使者として隋へ派遣した。
 四月、陳の郢州城主張子譏が、隋へ降伏の使者を派遣した。しかし隋の文帝は、陳と修好を結んでいるので、これを却下した。
 同月、隋の文帝は兼散騎常侍の薛舒と王劭を使者として陳へ派遣した。
 八月、日食があった。
 十一月、散騎常侍の周墳と、通直散騎常侍の袁彦を使者として隋へ派遣した。
 隋の文帝は容貌魁偉との評判を聞いていた後主は、袁彦へ、文帝の肖像画を持って帰るよう命じていた。やがて彼等が帰ってきて件の画を見ると、後主は驚愕した。
「こんな男は見たくもない。」
 そして、その絵を即座に片づけさせた。
 十二月、隋から散騎常侍の曹令則と通直散騎常侍の魏澹を使者として派遣した。
 二年、陳の将軍夏侯苗が隋へ降伏を願い出たが、隋の文帝は、陳と修好を結んでいることを理由に、これを断った。 

 三年、九月。陳の将軍湛文徹が、隋の和州を攻撃したが、隋の儀同三司費宝首が迎撃して、これを捕らえた。
 十月、隋の文帝は、上柱国の楊素を信州総管とした。 

  

発端 

 禎明元年(587年)、八月。後梁の太傅安平王蕭巖と、弟の荊州刺史義興王蕭献が男女十万人を率いて陳へ降伏した。隋の文帝は、後梁を滅ぼした。その詳細は「後梁」に記載する。(この事件が、討陳の、直接の契機となった。) 

 もともと、文帝は受禅以来、陳とは隣好が甚だ厚く、陳の間諜を捕らえる度に、衣馬を与えて陳へ送り返して遣っていたほどだった。にも関わらず、陳の高宗は隋攻撃を続けていた。だから、太建の晩年には、隋軍が陳を攻撃したのである。
 高宗が崩御すると、文帝は弔問の使者を出した。その時与えた書に、文帝は自分の姓名を記載し、「頓首」と記していた。それなのに、陳からの返書は驕慢なものだった。文帝は気分を害し、その返書を朝廷で示した。すると、楊素は、「主君が辱められたら臣下は死ぬべきだ」と云い、再拝して罪を請うた。
 文帝が、陳攻略について、高潁へ訊ねると、高潁は言った。
「江南は温暖な気候で、我が国よりも早く穀物が実ります。ですから、あの国で収穫が始まった頃、我が国で士馬を徴発し、「陳を攻撃するぞ」と宣伝します。そうすれば連中は、兵卒を徴発して守備を固め、農事どころではなくなるでしょう。彼等が防備を固めたら、我等は兵卒を解散させます。このような事を再三行うと、やがて奴等はいつものことと思って、我等が士馬を集めても、兵卒の徴発をしなくなります。それを見計らって、我等は揚子江を渡ります。敵地へ上陸して戦えば、我等は背後を大河に阻まれているのですから必死の想いで戦い、戦意は倍増します。又、江南は土層が薄く、多量の茅や竹を捨てる時、土へ埋めるのではなく、山積みにしております。そのような茅や竹の山鹿あちこちにありますので、密かに人を遣って風の強い日に放火させれば、奴等の被害は甚大です。このようにして、陳の財力を枯渇させましょう。」
 文帝は、この策を用いた。以来、陳の人々は困窮するようになった。
 此処に於いて、楊素や賀若弼、カク州刺史崔仲方等が陳平定の策を献上した。
 後梁の太傅安平王蕭巖等が陳へ降伏すると、文帝は益々怒り、高潁へ言った。
「我は民の父母となった。たかが一衣帯水の為にあの国の民を救えないとゆうことが、あって良いものか!」(一衣帯水=揚子江を指して、「一本の衣の帯のような川」と称した。これから、「皆で力を合わせれば、大きな障害も乗れ越えられる」とゆう意味で、「一衣帯水」とゆう熟語になりました。今、「一衣、帯水」と思っている人が多いのですが、実際には、「一、衣帯水」です。)
 そして、船艦を多量に造らせた。ある人が、軍事行動は隠密に行うように請うと、文帝は言った。
「我は天誅を顕かに行うのだ。なんで隠密にせねばならんのか!」
 そして、木札を揚子江へ投げ入れて言った。
「もしも奴等が恐れて態度を改めるなら、我はそれ以上何を求めようか!」
 楊素は、永安にて大船艦を建造した。最大の軍艦は、「五牙」。船の上には五層の楼閣があり、その高さは百余尺。戦士八百人が搭乗できた。次に大きい船は、「黄龍」。これは百人乗り。その他、様々な大きさの軍艦が造られた。
 十一月、隋の文帝は、馮翊へ行き、自ら氏神へ参った。戊戌、長安へ帰る。
 李徳林は病気だったので、この御幸には参加しなかった。だが、文帝は同州から敕書を出して彼を召し、共に陳討伐の計略を練った。帰路の途上、文帝は馬の上で鞭を挙げて南を指し、言った。
「陳を平定した暁には、公を山東一番の身分にしてやる。」
 李徳林は、山東の出身である。 

 この頃、江南では怪異なことが相継いだ。例えば、臨平湖は、いつもは草で覆われているのに、忽然として開いてしまった。後主はこれを憎み、厄払いのため、自ら寺の下働きとなった。又、建康に大皇寺を建設し、七つの仏像を建立したが、これは落成前に出火して灰になった。
 呉興の章華は学問好きで文章が巧かったが、派閥に加わっていなかった。だから朝臣達は競って彼を讒言し、遂に左遷された。章華は鬱々として、遂に上書して極諫した。
「昔、高祖は南は百越を平定し、北は逆賊を誅しました(陳覇先は盧子略、蘭裕、蕭勃を滅ぼし、侯景を誅した)。世祖は東は呉會を定め西は王林を破り、高宗は淮南に克って領土を千里広げました。三祖の功勤は至れりと言えます。それなのに陛下は、即位されて五年、先帝の艱難を思わず天命の畏るべきを知らず、奸臣や寵姫に溺れ酒食に浸って織られます。老臣や宿将は草むらへ捨て、讒言をして回る佞臣ばかりが朝廷に満ち溢れています。隋軍は既に国境にまで現れているのに、陛下は音楽の楽しみを改めない。これでは臣は、姑蘇台にて鹿や麋が遊ぶ有様(呉が滅亡した後、荒涼とした姑蘇台を人々が悼んだ故事による。)を見ることになりますぞ。」
 公主は激怒し、章華を即日処刑した。 

  

宣戦布告 

 二年、三月。隋の文帝は下詔した。
「陳叔宝は、掌ほどの土地に據り、勝手放題やりまくっている。自身が贅沢を窮め尽くすために、官庫は使い果たし、民衆の労役は止むことがない。直言の士は殺し、無罪の家を族滅させる。かく、天を欺いて悪行を為しているとゆうのに、鬼を祀って福を求める。そして後宮は飾り立てた女性達で満ち溢れる。この昏虐は、古今に比類ない。挙げ句の果て、君子は逃げ隠れ、小人が志を得、天災や怪異が並び興る。衣冠の士は口を閉ざし、互いに目くばせをして訴え合う。それなのにあの男は、昼夜を分かたず遊び呆けているのだ。朕の臣下ではないとは言え、話を聞く度、我が胸は痛む。よって我等は出兵して彼等へ律を教えなければならない。この一挙にて、永く呉越を清めるのだ。」
 また、陳へ璽書を送り、後主の悪業二十を暴き、詔の写し三十万枚をばらまいて江外の民を諭した。 

 十月、文帝は寿春に淮南行台を置き、晋王廣を尚書令とした。
 陳の後主は兼散騎常侍の王宛と兼通直散騎常侍の許善心を隋へ使者として派遣したが、文帝はこれを抑留した。
 甲子、隋は出兵した。晋王廣、秦王俊、清河公楊素を行軍元帥とする。晋王は六合から、秦王は襄陽から、楊素は永安から出陣する。その他、荊州刺史劉仁恩、廬州総管韓擒虎、呉州総管賀若弼、青州総管燕栄等がそれぞれに出陣した。総管は凡そ九十名。総勢五十一万八千の大軍である。彼等は皆、晋王の節度を受けた。その軍は、東は滄海に接し、西は巴、蜀を拒み、旌旗や船は横に数千里も連なった。
 左僕射高潁が晋王の元帥長史となり、右僕射王韶が司馬となり、郡中のことは全て采配した。彼等の手腕で、戦争準備は凝滞無く進んだ。
 十一月、文帝は自ら将士を見送った。乙亥、定城へ到着し、ここで出陣式が行われた。
 十二月、文帝は長安へ戻った。 

  

両軍の内幕 

 隋軍が揚子江へ臨むと、高潁が行台吏部郎中薛道衡へ言った。
「今、このように大挙したが、江南に必ず勝てるだろうか?」
 すると、薛道衡は言った。
「勝てます。かつて、有名な占術師の郭璞が言いました。『江南は三百年王として割拠した後、中国に併合される。』と。今がその時です。これが一つ。陛下は恭倹勤労で、後主は荒淫驕侈です。これが二つ。国の安危は、宰輔にかかっていますが、奴等の宰相の江総はただ詩と酒に浸るだけで、小人の施文慶を抜擢して政治を委ねています。蕭摩訶と任忠が大将ですが、彼等は一夫の勇士に過ぎません。これが三つ。我等は有道の太国ですが、奴等は無徳の小国。その兵力も武装兵十万がせいぜい。西は巫峽から東は滄海までまんべんなく守れば兵力を分散させることになりますし、集中させれば守備の弱い場所ができます。これが四つ。大勝利は間違い有りません。」
 高潁は喜んで言った。
「君の成敗の理は、腑に落ちる。もともと、君は宰相の才学で抜擢したのだが、武略もあるとは思わなかった。」
 秦王俊は、諸軍を監督して漢口へ屯営し、それよりも上流の諸軍を指揮した。陳軍は、散騎常侍周羅候へ巴峽の揚子江周辺の軍を与えて防がせた。
 楊素は水軍を率いて、三峽を下り、流頭灘へ出た。陳の将軍戚斤が青龍百余艘で狼尾灘を守った。ここは地形が険阻なので、隋軍は攻めあぐねた。すると、楊素は言った。
「勝敗の要はこの一戦にある。」
 そして、青龍数千艘の軍勢で夜襲を掛けた。開府儀同三司の王長襲には、戚斤の別柵を攻撃させた。戚斤は敗走した。その部下は全員捕らえたが、解放してやり、秋毫も犯さなかった。
 楊素の水軍は、更に川を下る。容貌魁偉な楊素本人が大船に乗っており、その旌甲は日に輝く。これを見た陳の人間は、皆、恐れて言った。
「清河公は揚子江の神だ!」
 揚子江沿岸の鎮戍は、隋軍の進軍を次々と報告したが、施文慶と沈客卿が全て握りつぶした。
 ところで後主は、後梁の蕭巖と蕭献が降伏してきた時、後梁の宗室でありながら国を裏切り民を連れて来奔してきたその態度に、むかついていた。だから、彼等を部下から引き離して東揚州刺史と呉州刺史にし、領軍任忠へ呉興郡を守らせて二州を指揮させた。そして、二人の本拠地である江州と南徐州は、それぞれ南平王巖と永嘉王彦に鎮守させていた。南平王巖と永嘉王彦は、来年の正月の慶賀の為に上京したが、その折、軍艦を全て率いてくるように命じられていた。これは、人々に梁の来降を強く印象づけるためのものである。だが、その為、丁度この時、江州と南徐州には一艘の軍艦もなかったので、沿岸の守備兵達は隋の水軍を看過するしかなかったのだ。
 湘州刺史の晋煕王叔文は、在職して久しく、領民の心を掴んでいた。だが後主は、都の上流に大きな力を持っている王がいるので、心中穏やかではなかった。又、自分自身群臣へ大した恩沢を与えてないことを自覚しており、いざとゆう時に役に立たないことも恐れていた。それやこれやで晋煕王に湘州を任せきれず、施文慶を都督、湘州刺史へ抜擢し、精鋭兵二千を与えて西行させた。晋煕王は朝廷へ呼び戻す。
 施文慶は、大喜びではあったけれども、自分が朝廷からいなくなれば、皆が讒言するのではないかと恐れた。そこで、自分の後がまには党類の沈客卿を推薦した。
 施文慶は、出発する前まで沈客卿と共に機密を占有していた。そんな時、護軍将軍樊毅が僕射の袁憲へ言った。
「京口と采石は共に要地です。各々五千の精鋭を屯営させ、金翅不、二百艘で揚子江を上下に行き来するようにすれば、防備は堅固になりますぞ。」
 袁憲も、驃騎将軍蕭摩訶も、この柵に賛同した。そこで文武の群臣と共に議論した後、樊毅の柵を採用するよう請願することにした。だが、施文慶は、自分に従う兵が無くなることを恐れ、この案を潰したかった。沈客卿も又、施文慶が出発すれば機密を独占できると思い、施文慶を湘州へ行かせるためにも、この案を潰すべきだと考えた。そこで、二人は言った。
「このような議論は、口頭で言うのは良くない。文書にしてくれれば、我々が陛下へお見せしよう。」
 袁憲は納得して文書にしたが、二人はこれを握りつぶし、後主へ言った。
「これはいつもの小競り合い。辺城の常備軍で対処できます。もしも増援などすれば、かえって人心を動揺させますぞ。」
 やがて隋軍が揚子江へ臨み、間諜からの報告が矢継ぎ早に到着するようになると、袁憲は増援軍の出動を屡々上奏したが、施文慶は言った。
「もうすぐ元旦で、諸将も慶賀に集まってきております。この時期に出兵したら、行事が巧く進みません。」
 すると、後主は言った。
「とりあえず出兵し、北辺が無事だったら、ついでに水軍の謁見をすればよい。何の不都合があるのか!」
 だが、施文慶は言った。
「その様なことが外へ聞こえますと、我が国が軽く見られます。」
 そして、江総へ厚く賄賂を贈り、自分の援護を頼んだ。そこで江総もまた、施文慶の為に遊説した。そんなこんなで、議論は長いこと決定しなかった。
 後主はくつろいだ有様で侍臣へ言った。
「王気はここにある。北斉軍が三度、北周軍が二度来襲したが、全て撃退した。連中になにができるか!」
 都官尚書の孔範が言った。
「揚子江は天険で、古来から南北の国境となっていました。今日、虜軍が空を飛んで揚子江を渡れるとでも言うのですかね?辺域の将軍達が手柄を建てたくて、大袈裟に騒いでいるだけです。それに臣は、官位が低うございます。もしも虜軍が揚子江を渡ったなら、きっと手柄を建ててもっと高い官位を貰いましょう。」
 そんな中、北軍の軍馬が全部死んでしまったとの流言が流れた。すると、孔範は言った。
「あの馬は、いずれは全部我等のものになるのだ。死んでしまったなど、デマに決まっている。」
 後主は笑って頷いた。それ故、厳重な防備などせず、酒色や詩賦に耽っていた。 

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