士会、先蔑を見ず。
 
 艱難に居る時ほど、人が共鳴しあえる時はない。
 魚が川を泳いでいる時、鯉と鮒は互いに知らぬ顔をして互いに顧みない。だが、水が無くなってしまったら、少ない水を求めて互いに口をパクパクさせながらすり寄ってくる。水が有れば不仁なのに、なくなった途端に仁の心が芽生えたわけではない。艱難の境遇に投げ入れられたので、集まって来ざるを得なかったのだ。
 胡人と越人は、同じ舟に乗っていても互いに話もしない。だが、一度嵐に遭ってしまえば、まるで左右の手のように救けあい、力を合わせる。嵐でなければ不義だが、嵐が起こった途端に義心が勃然と芽生えたわけではない。艱難の境遇に投げ入れられたので、力を合わせざるを得なかったのだ。
 随会と先蔑は、共に晋の朝廷に並び立っていた。彼等は長い間共に働き、生活してきたのだ。この二人の間柄は、胡人と越人のように縁遠いものではなかった。やがて、公子ヨウの冊立の件で、共に亡命する羽目に陥った。これは、涸沢の魚が集まってくるような事態である。それなのに、士会は先蔑を他人のように見て、三年経っても一度の往来もなかった。もともと知らない間ではないのに、艱難に陥って、却って共鳴しあえない。これは一体どうしてだろうか?
 答えましょう。 

 人々は、艱難の時には力を協せやすい事を知っているが、なぜそうなるのかを知らない。
 彼等は何故力を合わせるのか?それは、同じ事を憂えていれば心が通いやすく、同じ相手を怨んでいれば心が通いやすく、同じ怒りを持っていれば心が通いやすいからなのだ。
 同憂が相遭えば、必ず相親しんでその憂いを謀り、同怨が相遭えば、必ず相親しんでその怨みを晴らそうとし、同怒が相遭えば、必ず相親しんでその怒りを遂げようとする。朝に夕に集まって、手を握って語り膝をあわせて議論するが、それがどうして善意から出る行為だろうか。人を咎めているのか、そうでなければ人を謗っているのだ。私利の為の計略を巡らしているか、そうでなければ人を陥れる為の計略を巡らせているのだ。
 憂いを持つ者同志その傷を舐めあい、怨みを持つ者同志その傷を舐めあい、怒りを持つ者同志その傷を舐めあう。彼等の交わりは日々深くなり、それに伴って悪心は日々長じてゆく。彼等が団結しやすい理由は、果たして正なのか不正なのか。
 竇嬰と灌夫は(共に漢代の文帝の頃の家臣)、失脚した後、親子のように親しんだ。淮南王と衡山王は(共に漢の武帝の頃の諸侯。)、恨み辛みを語り合った。そして、彼等はどのような末路を辿ったのか?士会は、このようなことを行うに忍びなかったのだ。 

 私はかつて、艱難に対処する時の君子の態度について聞いたことがある。彼等は、心の内に顧みて、やましいことがないか考えるのだ(中庸)。彼等は、自分に落ち度がなかったか、諸々を己に反求するのだ(孟子)。彼等は、その時の地位にて行うべき事を行うのだ(中庸)。
 そう、君子は憂えたりしない。なんで他人と憂いを共にしようか。君子は怨んだりしない。なんで他人と怨みを共にしようか。君子は怒ったりしない。なんで他人と怒りを共にしようか。
 もしも相手に、慕うべき道義があったり、友とするべき忠信があったり、親しめる楽易があったり、近づきたくなる慈仁があったりしたのならば、艱難に陥る前から親しくつきあっている。どうして、交際するのに、ワザワザ禍が降りかかるのを待たなければならないのか。艱難に遭うのを待って始めてつき合ったとゆうのなら、それは我が本心ではない。艱難に駆られ、それを乗り越える為に一時的に協定したに過ぎない。これは、士会が行うに忍びなかったことだ。
 貧しい人間は、富豪とつきあわずに、貧民とつき合う。何故か?貧民は富豪を忌み嫌っている。共に貧しければ忌むものがないのだ。 愚者は、賢人とつき合わずに、愚者とつき合う。何故か?愚者は賢人を忌み嫌っている。共に馬鹿だったら忌むものがないのだ。 艱難に陥った人間は、自分が辛い思いをしているので、他人が苦しんでいないことを嫉き、苦難が無く楽しんでいる人間を見てかつは憎みかつは忌み、望々然(怨んでいる有様)として、そのような人間から離れて行く。そして、同じように艱難の中にある者と昵懇になるのだ。その心は、なんとも憐れなものではないか。これは、士会が行うに忍びなかったことだ。 

 すると、ある者が言った。
「趙盾は趙の実権を握り、先蔑の意向に背いて霊公を立てた。してみると、趙盾が報復するべき政敵は先蔑だけである。士会は、縁座で共に追放の憂き目にあったが、もともと彼個人が趙盾の怒りに触れたわけではない。秦へ行った後の士会が先蔑との交遊を断ったのは、密かに趙盾と好を通じていたのだ。どうにかして国へ帰ろうと、『友を売った』とゆう汚名を着てまで媚びへつらう。陰険軽薄の極みではないか。」
 だが、私は言おう。それは後世の人間の心で、士会の思いではない。
 後世の人間の私心で君子の公心を見れば、その挙措語黙、どれを取っても、「利益の為にやった」とこじつけることができる。それは、ただ士会だけに限ったことではないではないか。
 もしも、士会が利心で行動しているとしても、一人の人間を騙すことはできるだろう。だが、それが限界だ。士会が乗り出せば、声色を動かさないのに群盗が自ら逃げ出した。これが利心で動かせることだろうか?士会は五人の主君に仕えて、その名声は諸侯の間に鳴り響いた。これが利心で動かせることだろうか?
 後世の人間の利心などでは、君子の公心は計り知ることができないのだ。 

 しかしながら、士会の公心については遺憾もある。彼は、同じ禍を蒙ったからといって、先蔑と親しんだりはしなかった。それは宜しい。しかし、「途上に於いても道を避けて、顔を合わせようともしなかった」のは、行き過ぎではないか。いわゆる、「曲がった物を矯正し過ぎて、却って逆に曲げてしまった。」とゆうものだ。それとも、士会は晋で暮らしていた時も、朝廷で、官府で、あるいは街角で、いつも先蔑を避けていたのだろうか? 晋にいた時は彼に会い、秦へ亡命したら会おうとしない。これでは、「世間から取り沙汰されるのを嫌がっていた」と評価されても仕方がない。「公心を尽くしていた」とは言えないぞ。
「私欲を棄てて公心を持つ」とゆうのは、国を去っても自分の国にいた時と同じ態度を貫く事である。艱難にあっても、平常と変わらないとゆうことだ。殊更に親しむ事もないし、殊更に遠ざけることもない。晋に居ようが秦に居ようが、どうしてその心を変えたりするだろうか。
 私は、士会が公心を尽くさなかったのではないかと疑っている。しかし、それは公心を以て彼を責めているのであり、世間の私欲の感覚をもとに彼の心を疑っているわけではないのだ。 

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