浙江の乱
 
留異の二心 

 もともと、高祖は娘の豊安公主を留異の子の貞臣へ娶らせ、留異を南徐州刺史として本拠地から移動させようとしたが、留異は、なんやかやと理由を付けて、本拠地から動かなかった。
 文帝が即位すると、留異を縉州刺史、領東陽太守とした。
 留異は、その長史の王斯をしばしば朝廷へ派遣したが、王斯は、戻ってくるたびに陳朝廷が弱体であると報告していた。留異は、これを信じ込み、上辺は臣下としてかしこまっていたが、内心では日和って、王林へ内通もしていた。
 王林が敗北すると、文帝は左衛将軍沈恪を留異と交代させたが、その実、これの襲撃を命じていた。留異は、下淮まで軍を出し、これを防いだ。沈恪は、これと戦って敗北し、銭塘まで退却した。留異もまた、上表して陳謝した。
 この頃、北周が侵入しており、陳朝廷は湘・郢地方へ主力を向けており、淮へ廻す兵力がなかったので、詔を下して、慰撫した。
 留異は、いずれ朝廷が自分を攻撃すると考え、下淮や建徳の防備を固めた。
 天嘉二年(561年)、十二月、文帝は、司空・南徐州刺史侯安都に、留異攻撃を命じた。 

  

  

周迪 

 三年、文帝は、江州刺史周迪へ命じた。
「盆城へ移住して鎮守せよ。また、子息は朝廷へ出仕させよ。」
 これは、周迪を本拠地から離れさせ、子息を人質として取るとゆうことである。周迪は、二つながら却下した。江南の他の軍閥達も、人事権などは放棄せず、朝廷の命令に従わない。これは、朝廷からの半独立の象である。
 陳の朝廷には、まだ討伐するだけの力がなかったので、これを追求しなかった。ただ、豫章太守周敷は、真っ先に入朝した。文帝は、周敷を安西将軍へ進級し、女妓や金帛を賜下して、豫章へ帰した。
 周迪は、周敷を自分より格下と見下していたので、この処置に不平を抱き、密かに留異と結託した。そして、弟の周方興に周敷を襲撃させた。周敷は、これを撃破する。
 また、甥を商人に偽装させ、船の中へ武装兵を隠し、盆城を襲撃しようとした。しかし、これは未然に発覚する。尋陽太守監江州事の華皎が兵を出して、船ごと捕らえた。 

  

  

陳宝応 

 文帝は、越州刺史陳宝応の父を光禄大夫として、子女の全てへ爵位を与えて諸侯に封じた。しかし陳宝応は、留異の娘を娶っていたので、密かに留異と結託した。
 虞茘の弟の虞寄は、流れ流れて越中に仕官していた。虞茘が、虞寄のことを、発病するほど気にしていたので、文帝は彼の為に一肌脱ごうと、虞寄を建康へ呼び寄せたが、陳宝応は手元に留めて遣らなかった。
 虞寄は、かつて陳寶応へ順逆の理を説いたことがあるが、陳応宝は、他のことを引き合いに出して言い返した。
 虞寄は、陳寶応を諫めても無駄だと判り、我が身まで巻き添えを食らうことを恐れ、出家した。           

  

  

台軍進攻 

 二月。安右将軍呉明徹を江州刺史とし、督高州刺史黄法毛、豫章太守周敷と共に周迪を攻撃させた。 

 留異は、当初考えていた。
「台軍(朝廷軍)は、必ず銭塘から攻めてくる。」
 しかし、侯安都は、諸既(「既/旦」)から永康へ出た。留異は大いに驚き、桃枝嶺へ逃げ、厳重に柵を作って防戦した。
 侯安都は、流れ矢に当たった。くるぶしまで朱に染まるほどの出血だったが、輿に乗って指揮を続けた。
 この山は、周りが堰になっていたが、その時期、水を満々と湛えていた。そこで侯安都は堰の中へ船を引き入れた。そして、その船に楼閣を造ると、留異の城と殆ど同じ高さになった。そこから石を投じて、城を壊す。
 留異は、子息の留忠臣と共に、陳寶応を頼って晋安へ逃げた。侯安都は、留異の妻と他の子息を捕まえ、鎖に繋いで帰った。
 留異の一党の向文政は新安に據って抗戦した。文帝は、貞毅将軍程文季を新安太守として、武装兵三百人で攻撃させた。向文政は敗北し、降伏した。程文政は、程霊洗の子息である。 

 呉明徹は周迪を攻撃したが、なかなか勝てない。九月、安成王項(本当は、王偏)に交代させた。
 戦争が続いて費用がかさみ、百姓は疲弊しきっていた。十月、乗輿・飲食・衣服及び宮中の調度を悉く減削するよう詔が降りた。また、併せて百司へも節約を命じた。 

 四年、正月。周迪軍は壊滅した。周迪は何とか脱出して、晋安の陳寶応のもとへ逃げ込んだ。官軍は、周迪の妻子を捕らえる。陳寶応は、周迪へ兵を貸し、留異も子息の留忠臣を従軍させた。
 虞寄が、陳寶応へ手紙を書いて諫めた。
「天が梁を見離してから英雄が並び起き、皆は『自分こそ平和を築く』と息巻いていましたが、結局、悪逆な野蛮人共を駆逐して平和を招いたのは、陳氏だけでした。これこそ、『どんな国にも寿命があり、ただ、天から授かった者が受ける。』とゆうものです。これが一つ。
 王林の強さ、侯真の力、それらは進撃すれば中原を動揺させ、本拠地へ籠もれば割拠することができました。しかし、彼等のような屈強でさえ、ただの一戦で壊滅し、ただの一説客から説得されてしまったのです。これは、天が陳氏の手を借りて、悪逆を亡ぼしたとしか言えません。これが二つ。
 今、将軍は藩戚の重みを以て東南の衆をとりまとめ、御上へ対して忠義を尽くして勤王へ全力を挙げました。その功績は、竇融(河西ごと漢へ帰順して、代々貴盛を保った。)に並び、陛下からの寵遇はピカイチですのに、これを棄ててまで自立なさいますのか!これが三つ。
 聖朝は、臣下の欠点や過去の過失を咎めず、寛大な思いで人材を集めています。余孝頃や潘純陀、李孝欽などは、腹心となり爪牙と頼まれ、権勢は飛ぶ鳥を落としております。ましてや将軍の罪や過など知れた物。何を思い詰めて暴発し、富貴の全てを失いますのか。これが四つ。
 今、わが朝は周や斉と和睦して、国境は平穏無事。全ての兵力を国内の鎮圧へ使えます。このような時期に漁夫の利を得ようとして、叶いましょうか!これが五つ。
 留将軍は、実力もなくて落ちぶれ果てた人間。しかも、その人柄は利益優先で、二股掛けも恥としません。そんな人間に、敵陣深く攻め入って、我が身も惜しまずに兵を指揮することなど、どうしてできましょうか!これが六つ。
 将軍と侯景と、どちらが強いでしょうか?将軍の兵力は、王林以上ですか?以前、武帝は侯景を亡ぼし、今回、陛下は王林を亡ぼしました。これこそ、天命。人力の及ぶところではありません。こうして兵乱は終わり、人々は安楽な生活を求めています。このような時に、万死が待ち受ける戦場へ、妻子も棄てて旅立てと命じても、だれが従いましょうか!これが七つ。
 過去の歴史を俯瞰しても、公孫述も隗ゴウ相継いで滅び、百越も漢の武帝に亡ぼされました。天命畏るべし。山川の倹など恃むに足りません。ましてや将軍は、たった数郡で天下と戦い、諸侯の資産で天子の命令を拒んでおられます。強弱順逆、どこに理がありましょうか!これが八つ。
 一族でなければ、心映えも違うもの。それでは頼りになりません。親を愛さない者が、どうして他を愛せましょうか!留将軍は国から爵位を貰った身の上で、子息は王姫を娶っております。それでいながら、家族を見捨てて顧みず、明君に背いて孤立しております。いずれ将軍が危急に陥った時、そんな人間がどうして背かすにおりましょうか!これが九つ。
 北軍は、万里を遠征する者。その様な人間は、背後を顧みず、決死の想いを持ちますので、当たるべからざる勢いがあります。対して将軍の兵は、本拠地で戦うのですから、兵卒は向後に憂いを持ちます。ましてや、衆寡敵せず。それに、我等には大義名分さえない。我等の軍には、有利な点がありません。これが十。
 将軍の為に謀るのです。留氏と絶縁して詔旨を遵守してください。今、陳には頼りになる藩塀がなく、皇族達は皆幼い。そんな時に将軍が、将軍の領土と将軍の才覚と将軍の名声と将軍の勢力を以て北面して臣と称せば、どれほどの恩寵を蒙るでしょうか。」
 書を読んで、陳寶応は激怒した。すると、ある者が言った。
「虞公は重病で、錯乱しているのです。」
 それを聞いて、陳寶応の機嫌もいくらか直った。また、虞寄に民望が集まっていることもあり、お咎めなしとした。 

 二月、高州刺史黄法毛を南徐州刺史とし、南徐州刺史の侯安都を江州刺史とした。又、臨川太守の周敷を南豫州刺史とする。
 三月、日食があった。 

 九月、周迪が東興嶺を越えて侵略した。朝廷は、護軍の章昭達に迎撃を命じた。
 十一月、章昭達が、周迪を大破した。周迪は体一つで逃げ出して、山谷へ隠れた。民間人は、力を合わせて彼を匿い、どれだけ誅殺されても、周迪の居場所を白状しなかった。
 章昭達は更に嶺を越えて進軍して、陳寶応を攻撃した。
 益州刺史余頃へは、会稽、東陽、臨海、永嘉の諸軍を率いて進軍し、章昭達と合流するよう詔が下った。 

 五年、八月、日食があった。
 十月。周迪が再び東興へ出た。宣城太守銭粛は、城ごと周迪へ降伏した。呉州刺史陳詳は迎撃したが、大敗北を喫した。これによって、周迪は再び勢力を盛り返した。
 南豫州刺史周敷が、手勢を率いて周迪と対峙した。すると、周迪は周敷へ言った。
「吾と弟とは、昔から力を合わせて戦ってきた仲ではないか。どうして戦わねばならぬのだ!今、吾は罪を認めて朝廷へ戻る。弟よ、どうかこちらへやって来て、吾と誓いを結んではくれぬか。」
 周敷は許諾した。だが、彼が壇へ登ろうとした時、周迪は彼を殺した。 

 陳寶応は、晋安、建安の二郡に據り、水陸には柵を作って章昭達を防いでいた。
 戦況は、章昭達に不利だった。そこで章昭達は一計を案じ、上流へ回って、兵士達へ筏を造るよう命じた。やがて、大雨が降って川の水が膨れ上がると、章昭達は筏を放って陳寶応の水柵へぶつけ、悉く破壊した。その上で、兵を出して攻撃する。
 いざ合戦とゆう時、文帝は余孝頃を援軍に派遣した。
 十一月、陳寶応は大敗し、蒲口まで逃げた。この時、彼は子息へ言った。
「虞公の言うとおりにしていたら、こんな羽目にはならなかったものを。」
 章昭達は追撃して、これを捕らえた。又、留異やその党類も捕らえ、全て建康へ送って、斬罪とした。陳寶応の賓客も、皆殺しとした。
 文帝は、虞寄が陳寶応を諫めたことを知り、礼を以て招くと衡陽王の掌書記とした。 

 六年、七月。文帝は程霊洗に周迪を攻撃させた。程霊洗は、これを撃破する。
 周迪は十余人の部下と共に、山の中へ逃げ込んで、鼠のように隠れて回った。やがて月日が経つと、従者達は、その苦しみに耐えられなくなった。彼等の密告で、臨川太守駱牙が周迪を捕らえ、首を斬って建康へ届けた。 

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