石勒、趙を滅ぼす。

 元帝の太興元年(318年)。六月、漢の主君劉聡は病篤く、床へ就いた。そこで、大司馬の劉曜を丞相とし、石勒を大将軍として政治を補佐するよう遺言したが、劉曜も石勒も辞退した。
 結局、新人事は次のように決まった。
 丞相、劉曜。大将軍、石勒。太宰、劉景。大司馬、劉騎。太師、劉顯。太保、呼延晏。大司空、革(正確には、「革/斤」)準。革準は、劉聡の皇后や、皇太子妃の一族である。
 やがて劉聡は息を引き取り、息子の劉燦が即位した。劉聡のおくり名は昭武皇帝、廟号は烈宗。
 革太后達はまだ二十歳前だったので後宮の礼節は乱れ、劉燦にも無礼な振る舞いが多く、喪中なのに哀しみが顔に出ていなかった。

 革準は、密かに王朝簒奪を考え、劉燦へ私的に言った。
「諸将は朝廷を専断しようと企み、太保や私の暗殺計画を練っております。事が成就すれば、大司馬が摂政となって全てを取り仕切るとか。陛下、どうか早急に対策を。」
 劉燦は従わなかった。
 そこで革準は、一族である皇太后や皇后から同様に吹き込んで貰い、遂に劉燦もこれに従った。
 劉燦は、大司馬の劉騎、その同母弟の車騎大将軍劉逞、太師の劉顯、大司徒の劉勵らを収容すると、全員殺した。太傅の朱紀、尚書令の范隆は、どうにか脱出して、長安へ逃げた。

 八月、劉燦は上林で練兵をし、石勒討伐を企てた。又、劉曜を相国、都督中外諸軍事とし、長安を任せた。革準は大将軍、録尚書事に任命した。
 劉燦は、常に後宮で遊び耽っており、軍事も政治も革準に一任してしまった。そこで革準は詔を矯して、いとこの革明を車騎将軍に、同じく革康を衛将軍に抜擢した。
 簒奪の決行直前、革準は王延に謀った。王延は同意せず、その陰謀を暴露しようと駆け出した。しかし、たまたま革康に遭い、拉致されてしまった。
 革準は遂に決行した。兵を動かして光極殿へ昇り、武装兵に劉燦を捕らえさせると、彼の悪行を数え上げて、斬り殺した。劉燦は、隠帝と贈り名された。
 劉氏の一族は、幼長男女を問わず、市場にて斬罪とされた。又、革準は、永光、宣光両皇帝の墳墓を暴いた。そして劉聡の死体を引き出すとこれを斬り、その宗廟を焼いた。
 革準は、自ら大将軍・漢天王と号し、百官を設置した。
 革準は胡高に言った。
「胡人が天子なんかになれるものか。伝国の璽もここにある。今、お前に預けよう。なあ、まるで国璽が晋へ還ったようではないか。」
 しかし、胡高は受け取らなかったので、革準は怒り、彼を殺した。
 又、革準は使者を派遣して、東晋の司州刺史の李矩へ言った。
「劉淵とゆうのは、単なる犬殺し。晋の動乱につけこんで天子を偽称したが、たった二代で滅亡した。今、大勢の部下を率いて梓宮を扶養している。そのように陛下へ伝えて下さい。」
 李矩がこれを元帝へ伝えると、元帝は梓宮を迎え入れる為、太常の韓胤等を派遣した。
 漢の尚書の北宮純は、漢民族の官人をかき集めて東宮へ立て籠もったが、革康はこれを攻め滅ぼした。
 さて、革準が決行前に王延へ計画を語ったのは、彼を同志にしたかったからだった。ここに及んで左光禄大夫に任命したが、王延は革準を罵った。
「お前は逆賊だ。さっさと殺せ。ただな、俺の右目は西陽門に置け。そうすれば、劉相国がお前を滅ぼす様を見れるからな。そして左目は建春門へ置け。こっちは大将軍石勒が入城するのが見れるだろうて。」
 革準はこれを殺した。

 この動乱を聞いて、相国の劉曜は長安から駆けつけた。
 石勒は精鋭五万を率いて革準討伐軍を起こし、襄陵北原に陣取った。革準は何度も戦いを挑んだが、石勒は堅く陣を閉ざして防御した。
 十月、劉曜の軍が赤壁へ到着した。太保の呼延晏と太傅の朱紀がこの軍へ駆けつけ、劉曜へ尊号を奉った。そこで、劉曜は皇帝位へ即き、大赦を降した。ただし、革準一族のみは、この大赦から除外した。年号を光初と改元する。朱紀を司徒、呼延晏を司空へ任命し、太尉の范隆以下悉く元の官位を約束した。又、石勒は、大司馬、大将軍、加九錫の上、十郡を増封し、趙公へ進爵した。
 石勒は平陽まで進攻し、巴、きょう、けつ、等の降伏者は十万を越えた。石勒は彼等を自分の郡県へ移住させた。
 漢の主君劉曜は征北将軍の劉雅、鎮北将軍の劉策を汾陰へ駐屯させ、石勒と協力して革準を討つよう命じた。
 十一月、革準は侍中のト泰を使者として石勒のもとへ派遣し、乗輿と服御を送って講和を求めた。だが、石勒はト泰を捕らえて劉曜のもとへ送った。
 劉曜はト泰へ言った。
「先帝(劉燦)は、実に倫理が乱れきっていた。(劉燦は、父の側室達と交わっていた。)司空が、かつての伊 や霍光の役割を果たしたのなら、筋道が通っている。そして正統な皇帝として朕を選ぶとすれば、その功績は莫大である。もしも朕を迎え入れるのなら、死を免れるどころか、高い官位も待って居るぞ。お前は帰ってそう伝えるが良い。」
 ト泰は平陽へ却ってありのままを伝えたが、革準は既に劉曜の母や兄を殺していたので、躊躇して従えなかった。
 十二月、左右の車騎将軍、喬泰と王騰及び衛将軍の革康達が共謀して革準を殺した。彼等は尚書令の革明を主に据え、ト泰を使者として伝国六璽を劉曜へ献上し、漢へ降伏した。
 石勒は大怒し、進軍して革明を攻撃した。革明は出て戦ったが大敗し、籠城に切り替えた。
 石勒は、石虎を呼び寄せた。幽州・き州の兵を率いた石虎が石勒と合流して平陽を攻撃する。屡々敗北した革明は、漢へ救援を求めた。そこで、劉曜は劉雅と劉策を派遣して、彼等を迎えさせ、革明は平陽の士女一万五千人を率いて漢へ逃げた。
 劉曜は粟邑へ移動した。そして革氏の一族を収容すると、女子供の区別なしに皆殺しとした。又、平陽へ入って母親の喪を弔い、遺体は粟邑に埋葬した。その墳墓を陽陵と名付け、母親を宣明皇太后と諡した。
 石勒は平陽の宮室を焼き払った。そして裴憲と石曾に命じて永光、宣光の二陵を修復させた。又、劉燦以下百余人を埋葬し、墓守を置いて還った。

 太興二年、二月。石勒は、劉曜のもとへ左長史の王修を派遣し、麾下に入ることを伝えた。
 劉曜は、兼司徒の郭氾を派遣し、石勒に、太宰・領大将軍の官職を授け、爵位は趙王へ昇格させ、殊礼、出警入蹕の特典を加え、曹操が漢を補佐した故事に倣った。又、使者の王修と副使の劉茂も将軍とし、列候に封じた。
 王修の側近の曹平楽は、王修の従者として粟邑まで来たが、ここに留まって漢に仕えようと思い、劉曜へ言った。
「大司馬が王修等を派遣したのは、一見恭順を装ってはいますが、実は陛下の実状を探らせる為の間諜です。その報告を吟味してから、陛下を襲撃する計画です。」
 この時、漢の軍隊は疲弊していたので、劉曜はこれを信じ込んだ。そこで郭氾を追いかけて呼び戻すと、王修を市場にて斬罪に処した。
 三月、石勒は襄国へ還った。そこへ劉茂が逃げ込み、王修が殺されたことを伝えたので、石勒は激怒した。
「俺が劉氏へどれだけ忠実に仕えてきたか判っているのか!奴の基盤にしても、全て俺が築いてやったのではないか!それが皇帝になった途端、邪魔者扱いしおって。よし、趙王も趙帝も、俺が自分で成ってやる。あんな男に何を恃むか!」
 又、裏切り者曹平楽の三族を皆殺しとした。
 漢帝劉曜も、長安へ戻った。

 六月、劉曜は長安の南北に宗廟、社稷を建てた。詔して言う。
「我が先祖は北方で国を興していた。そして、光文は漢の宗廟を建て、民の衆望を集めた。今、国号を改め、単于を祖としようと思う。これについて意見をまとめよ。」
 すると、群臣は上奏した。
「光文が最初に封じられた土地は廬奴伯。陛下も、始めは中山王でした。中山は趙の領域。ですから、国号を改めるなら『趙』がよろしいと考えます。」
 これに従った。そして、冒とつ(屯/頁)単于を天に配し、光文帝を上帝に配した。

 十月、石勒の左、右長史の張敬と張賓、そして左、右司馬の張屈六と程遐達が、石勒へ皇帝を名乗るよう勧めたが、石勒は許さなかった。
 十一月、石勒へ将軍達が再び勧めた。
「『大将軍・大単于・領き州牧・趙王』を名乗り、漢の昭烈王(劉備玄徳)が蜀にあった時の故事に倣い、河内等二十四郡で趙国を築きますよう。又、太守達は内史と改称しますよう。」
 石勒はこれを裁可した。日を選んで趙王の位に即き、大赦、改元した。(この王朝は、「趙」と呼ばれる。劉曜も国号を「趙」と改めたので、劉曜の国を「前趙」、石勒の国を「後趙」と呼んで区別している。その名に「前」「後」とついているが、「後趙」は「前趙」を継承した国ではなく、二国は並立していたのである。)
 話は遡るが、世間が乱れ始めた頃、石勒は法令のあまりの煩雑さにうんざりして、法曹令史の貫志に、法律の要諦を集めるよう命じ、辛亥制五千文を制定していた。この辛亥制が施行されて十余年が経ったので、その補完則である律や令も増えてきた。そこで、理曹参軍の続感を律学祭酒に任命した。続感の用法が適宜だったので、皆は賞賛した。
 又、中塁将軍の支雄と遊撃将軍の王陽を門臣祭酒として、専ら胡人の訴訟に当たらせ、胡人が漢人官吏を凌辱することを厳禁し、胡人のことを国人と称した。
 更に、各地に勅使を派遣して、農業や養蚕を推奨した。
 朝廷にあっては、礼楽や衣冠、儀物を採用したので、見栄えがグンと良くなった。
 張賓には、大執法の官職を加え、朝政を総轄させた。石虎を単于元輔・都督禁衛諸軍事・尋加驃騎将軍・侍中・開府とし、中山公の爵位を賜下した。その他の群臣も、それぞれに官位を授け、或いは爵位を進級させた。
 群臣の中で、張賓は他に比類ないほど優遇された。張賓は検挙で慎み深く、部下を良く可愛がり、個人的な好悪を公に持ち込まず、朝廷での態度は規則に則り、外では礼儀正しかった。石勒は彼を敬い、毎朝彼に会う度に容貌を正した。又、彼のことを「右候」と呼び、決してその名を呼ばなかった。

 太興三年、二月。劉曜は、伊安、宋始、宋恕、趙慎の四将を洛陽に駐屯させていたが、この月、彼等は劉曜を裏切って後趙へ降伏した。
 後趙では、石生将軍を洛陽へ向かわせたが、この四人は今度は後趙を裏切って、東晋の司州刺史の李矩へ降伏した。李矩は穎川太守の郭黙を洛陽へ向かわせた。石生は宋始の一軍だけを捕虜として引き返した。
 ここに於いて、河南の民は、みんな連れ立って李矩の元へ赴き、遂に洛陽は空城となった。

 永昌元年(322年)、十二月。劉曜は父母を粟邑に埋葬し、大赦を降した。その墳墓は、陵下の周囲が二里、高さ百尺。のべ六万人の役夫を用い、百日の工期で完成した。役夫は、深夜でも松明の明かりで働かされ、民はこの労役に苦しんだ。そこで遊子遠が諫めたが、劉曜は聞かなかった。

 同月、後趙の右長大の張賓が没した。石勒は慟哭して言う。
「天は我が事を成就させないのか!どうしてこんなに早く右候を奪っていったのだ!」
 張賓の後がまとして、程遐が右長大となった。しかし、程遐が石勒の意に沿わない建議をする度に、石勒は嘆いて言った。
「右候は俺を見捨てて逝ってしまった。そして俺を、こんな男と一緒に働かさせるとは、何と残酷なことだ!」
 そして、終日涙することも屡々だった。

 明帝の太寧二年(324年)、正月。後趙の将兵都尉石瞻が下丕(丕/里)、彭城を荒らし回り、東芫、東海を占領した。劉遐は泗口まで退却した。
 又、後趙の司州刺史石生は、前趙の河南太守伊平を新安で攻撃した。石生は、伊平を斬り殺し、五千世帯の民を略奪して還った。
 これ以来、前趙と後趙は交戦状態へ入った。日々攻撃・略奪を繰り返したので、両国の国境付近にある河東や弘農の民は、「死んだ方がまし」と嘆いた。
 石生は、許昌・穎川へ入寇して一万人の民を捕虜とした。次いで郭誦で陽曜を攻撃したが、陽曜は奮戦して石生を撃破した。石生は退却して康城を守った。
 石生が敗北したと聞いて、後趙の汲郡内史石聡が救援に駆けた。彼等は合流すると更に進攻し、司州刺史の李矩、穎川太守の郭黙を続けざまに連破した。

 三年、三月。北きょう王の盆句除が前趙の傘下に入ったので、後趙の石佗が雁門から出撃して上郡を遅い、三千余世帯を捕虜とし、百万頭の牛・馬・羊を捕らえて還った。そこで、劉曜は中山王の劉岳に追撃を命じ、自身は劉岳の援護の為、富平へ駐屯した。 
 劉岳は石佗と河濱で戦い、これを撃破。石佗を斬り殺した。
 この戦いで後趙の兵卒は六千余人が戦死し、後趙が獲得した捕虜や家畜は、劉岳が悉く奪還した。

 五月、後趙の石生が洛陽へ駐屯し、河南を荒らし回った。李矩・郭黙が迎撃したが屡々敗北し、又、兵領が欠乏したこともあり、前趙の傘下へ入って救援を求めた。
 劉曜は劉岳に一万五千の兵を与えて孟津へ派遣し、又、鎮東将軍の呼延謨へ荊州・司州の兵を預けて東進させ、李矩・郭黙と合流して石生を攻撃させようと考えた。
 劉岳は孟津・石梁の二つの砦を陥し、五千余の首級を挙げ、更に進撃して金庸にて石生を包囲した。
 後趙は中山公の石虎に四万の兵を与え、救援に派遣した。石虎は洛西で劉岳と戦い、これを撃破。劉岳は流れ矢に当たって石梁まで退却した。石虎は石梁の周りを塹や柵で囲んで外界と遮断した。劉岳の兵卒は飢えに苦しみ、遂には軍馬を殺して食べた。
 又、石虎は呼延謨も撃破して、これを斬り殺した。
 遂に、劉岳救援の為、劉曜は親征の軍を起こした。これに対し、石虎は三万の騎兵で迎撃した。
 前趙の前軍の劉黒将軍が、石虎軍の石聡将軍を八特阪にて大破した。
 劉曜は金谷に陣を布いたが、夜、理由もないのに兵卒達が恐慌を起こし、陣は壊滅して蠅池まで退却した。しかし、その夜再び恐慌が起こり、遂に長安まで撤退した。
 六月、石虎は石梁を陥した。劉岳始めとする八十余人の将校と、てい・きょうの兵卒三千余人を捕虜として、襄国へ連行した。この時、九千人の兵卒を穴埋めにして殺した。
 次いで石虎は、へい州の王騰を攻撃。王騰を捕らえた後これを殺し、七千余人の兵卒を穴埋めとした。
 長安へ戻った劉曜は、素服にて長安城の近郊にて哭した。慟哭すること七日。その後、ようやく長安へ入城した。この一件で劉曜は憤怒の余り発病した。
 郭黙は再び石聡に破れ、妻子を棄てて建康へ逃げ帰った。李矩の兵卒達は、主人を裏切って後趙へ降伏しようと考えた。李矩はこれを察知したが止めることができず、兵を纏めて南へ戻った。
 この退却で、李矩の兵卒は散り散りに逃げて行ったが、ただ、郭誦など百余人だけが彼に従い、魯陽(南陽郡)まで退いた。
 李矩の長史の崔宣は、二千余の敗残兵を纏めて後趙へ降伏した。
 ここに於いて、司、預、徐、こん州は全て後趙の領土となり、後趙と東晋の国境線は淮河まで後退した。

 成帝の感和元年(326年)、三月。石勒は、夜、お忍びで出歩いた。諸々の門では金帛を賄賂にして通過したが、永昌門の王仮だけは賄賂を受け取らず、逮捕しようとした。従者が駆けつけて事なきを得たが、翌朝、石勒は王仮を召し出すと、振忠都尉に抜擢し、関内候(領土のない候爵)の爵位を授けた。
 ある時、石勒は記室参軍の徐光を呼んだが、徐光は酔っぱらっていて参内しなかったので、石勒は徐光を牙門へ左遷した。ところが、徐光はこの措置に不満で、勤務態度や顔色にありありと現れていたため、石勒は怒り、遂に、彼を妻子もろとも牢屋へぶち込んでしまった。

 成帝感和三年(328年)、七月。後趙の石虎が四万の軍勢で前趙の河東を攻撃した。これに応じた県は五十余。遂に蒲阪まで進攻した。劉曜は、涼の張駿への備えのため、河間王の劉述に、てい・きょうの軍勢を預けて秦州へ派遣し、自身は中外の水軍陸軍の精鋭を率いて蒲阪救援へ出向いた。この軍隊が衛関から渡河すると、石虎は懼れて退却した。
 劉曜はこれを追撃し、八月、高候にて石虎と戦い、これを大いに破った。敵将石瞻を斬り、二百余世帯を毒殺し、多くの器械を奪った。石虎は朝歌まで逃げた。
 劉曜の追撃は続く。金庸にて石生を攻撃し、千金堤を決壊して敵を水浸しとした。別働隊として派遣された諸将は汲郡と河内を攻撃し、後趙の栄陽太守伊矩と野王太守張進は降伏した。これによって、襄国は震え上がった。(この時前趙を攻撃しようとした張駿を策詢が諫めた。詳細は、「張氏據涼」に在る。)

 同年十一月、石勒は自ら洛陽救援へ出向こうとしたが、幕僚の程遐等が固く諫めた。
「劉曜は千里を馳せた軍団。その勢いは当たるべからざるものがあります。大王がむやみに動かれるのは良くありません。動くと無事には済みますまい。」
 石勒は激怒し、剣を握って退出を命じた。そして、牢獄にいる徐光(感和元年参照)を赦して召し出すと、言った。
「劉曜は、一戦の勝利に乗じて洛陽を包囲した。常人達は、その勢いには当たるべからざるものがあると言っておる。だがな、劉曜めは十万の武装兵でたった一城を百日も攻撃してまだ勝てない。兵卒達は疲れ、軍の志気も落ちている頃だ。わしが精鋭兵で攻撃すれば、一戦にして虜にできるだろう。
 もしも洛陽が陥落すれば、奴目は必ずき州を陥す。そして黄河以北を席巻して来襲し、我が国は滅びる。
 にも関わらず、程遐等は親征を諫めるのだ。そこで、卿の意見を聞きたい。」
 すると、徐光は答えた。
「劉曜は勝ちに乗じて襄国を攻めようとはせず、金庸を攻略しました。これで奴の無能さが判ります。大王の威力と知略で攻撃すれば、奴は必ず瓦解します。天下統一はこの一挙にあります。諫める者は斬りましょう。」
 石勒は笑った。
「その通りだ。」
 かくして、内外へ戒厳令を敷き、諫める者は斬ると宣言した。
 石堪、石聡、そして預州刺史の桃豹等に手勢を率いて栄陽へ合流するよう命じ、中山公の石虎には石門まで進軍させ、自身は四万の兵を率いて金庸を通って大堤から河を渡った。
 石勒は徐光へ言った。
「奴はどう動くかな?成皋関へ向かう。これが上策だ。洛水にて防御する。これは中策だ。もしも奴が洛陽を固守したら、必ず捕らえてみせる。」

 十二月、後趙の諸軍は成皋に集結した。歩兵六万、騎兵二万七千。前趙の兵卒は備えさえしていない。石勒は大いに喜び、手を挙げて天を指さし、その手をおし頂いた。
「天の御心だ!」
 そこで、馬に枚をくわえさせ、間道から敵へ迫った。
 一方、劉曜は嬖臣達と酒を飲んで暮らす毎日で、士卒を全く慰撫しなかった。側近がこれを諫めると劉曜は怒り、「妖言を為す。」と言い立て、斬り殺す始末だった。石勒が黄河を渡ったと聞いてから、ようやく、栄陽の守備を固めようと軍議を開いて、黄馬関を閉ざした。
 すると、突然、洛水の守備兵と後趙の先鋒との戦闘が始まった。急を告げる早馬へ劉曜は聞いた。
「大胡(石勒)が自身で乗り込んだのか?その軍勢はどれ程だ?」
「王の親征です。その勢いは甚だ盛ん。」
 劉曜は顔色を変え、金庸の包囲を撤廃すると洛西に陣取った。その兵卒は十余万。陣営は南北に十余里連なった。
 これを望み見て、石勒は益々喜んだ。
「祝賀の言葉を掛けてくれ!」
 石勒は四万の軍勢を率いて洛陽城へ入城した。
 己卯、石虎が歩兵三万を率いて城北から西進して、前趙の中軍を攻撃し、石堪、石聡は、各々精騎八千を率いて城西から北進して、前趙の先鋒を攻撃した。決戦の場所は西陽門(洛陽の西面の一番南にある門)。そして石勒は甲冑を纏い、洛陽西面の最北の門から突撃し、敵を挟撃した。
 劉曜は、幼い頃から酒を嗜み、年をとる毎に酒量が上がった。その末年では、戦闘の度に数斗の酒を飲んだと言われる。彼は常にお気に入りの赤馬に乗っていたが、その日に限って、馬がむずがって言うことを聞かない。そこで、普段よりもずっと小柄の馬に乗って出陣した。そして、馬上で、一斗余りの酒を飲んだ。西陽門に至ったときには、指揮はでたらめだった。石堪は、これに乗じて前趙の軍を大破した。
 劉曜は泥酔して敗走した。途中、馬が穴へ落ち、劉曜は氷の上へ放り出され、全身に傷を負い、とうとう石堪に捕らえられてしまった。
 この戦闘で石勒は大勝し、五万余の首級を挙げた。
 ここに至って、石勒は令を下した。
「欲しい首は一つだけ。そいつはもう手に入れた。兵卒は矛を収め、逃げる敵兵は助けてやれ。」
 捕まった劉曜は石勒へ言った。
「石王、重門の誓い(永嘉4年=310年に共同で河内を包囲した時に交わした誓い)を覚えているか?」
 すると、石勒の命令を受けて、徐光が答えた。
「今日のことは、天の御心。何を言おうが聞く耳持たぬ。」
 やがて、石勒達は帰路へ就いた。劉曜は傷が激しかったので、医者の李氷と共に馬輿へ載せた。襄国へ着くと、劉曜は妾達と共に永富城へ監禁された。そしてその城へ、劉岳や劉震達を派遣した。彼等に会って、劉曜は言った。
「お前達、生きていたのか!何と石勒の情け深いことか。それに比べて、わしは石佗を殺した。恥じるべき事だ。今日のこの様も、自業自得だ。」
 彼等は終日宴会を楽しんで、戻って行った。
 石勒は監禁している劉曜へ、劉煕(劉曜の子)への降伏勧告の手紙を書かせようとしたが、劉曜は、劉煕やその大臣達へ勅書を書いた。
「社稷を守れ。わしのことは気にするな。」
 これを見て、石勒は憎み、しばらくの後、劉曜を殺した。

 四年、正月。劉曜が捕らえられたと聞いて、前趙の皇太子劉煕は大いに懼れ、南陽王の劉胤と西方秦州への遷都を謀った。すると、尚書の胡勲が言った。
「今、主君を失ったとは言っても、領土は削減しておりませんし、将士も造反してはおりません。全力を挙げて防戦するべきです。それで敗れれば、それから逃げても遅くありません。」
 劉胤は怒り、部下をいたずらに傷つけると言い立て、胡勲を斬り殺した。こうして、前趙の朝廷は、百官を率いて上圭(圭/里)へ逃げた。
 そして諸々の砦も放棄し、守備兵達も引きつれたので、関中は大騒動になってしまった。
 将軍の蒋英と辛恕は数十万を擁して長安へ拠り、降伏の使者を後趙へ派遣した。後趙は石生へ洛陽の住民を預けて長安へ派遣した。

 八月。前趙の劉胤は数万の軍を率いて上圭から長安へ向かった。隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平諸郡のじゅう・夏が起兵してこれに応じた。
 劉胤は仲橋に陣取り、後趙の石生は籠城した。そして、石虎が二万の騎兵を率いて救援に駆けつけた。
 九月、石虎は前趙の軍を大いに破り、劉胤は上圭へ逃げ帰った。石虎は勝ちに乗じて追撃する。上圭は陥落し、劉煕、劉胤を始めとして将王公卿校以下三千余人を捕らえ、皆殺しとした。又、関東の流民、秦・ようの豪族九千余人を襄国へ移住させ、五郡屠各の五千余人を洛陽にて穴埋めとした。
 石虎は更に進撃した。集木且のきょう族を河西にて撃破、数万人を捕虜として秦・隴を悉く平定した。「てい」の王蒲洪と、「きょう」の酋長姚戈仲は、共に後趙へ降伏した。石虎は王蒲洪を六夷軍事、姚戈仲を六夷左都督とするよう上表し、「てい」、「きょう」の住民十五万世帯を司州やき州に移住させた。

 五年、二月。後趙の群臣は、皇帝位へ即くよう、石勒へ請願した。そこで石勒は「大趙天王、行皇帝事」と称することとした。妃の劉氏を立てて王后とし、世子の石弘を太子とした。又、他の諸子については、石宏を「驃騎大将軍、都督中外諸軍事、大単于」と為し、秦王へ封じた。石斌を左衛将軍として太原王に封じた。石恢を輔国将軍として南陽王に封じた。
 中山公石虎を、「太尉、尚書令」として中山王へ進爵した。石虎の子息については、石遂をき州刺史とし、斉王に封じた。石宣を左将軍とした。石挺を侍中とし、梁王へ封じた。 又、石生を封じて河東王とし、石堪を彭城王とした。左長史の郭傲を尚書左僕射、右長史の程遐を右僕射とした。その他、郭殷、李鳳、裴憲等が尚書に抜擢された。参軍事の徐光は中書令秘書監となり、自余の文武官もそれぞれ進級した。
 石虎は大単于にさえなれなかったので激怒し、息子の石遂へ不満を漏らした。
 程遐は石勒へ言った。
「天下は、ほぼ平定しました。今こそ、道義を明らかとするべきでございます。漢の高祖が李布を赦し、丁公を斬ったように、順逆の道理を天下へ示すべきでございます。
 翻って大王の軌跡を眺めれば、起兵以来、主君へ忠節を尽くす者を見ればこれを褒め、反逆者や不義の者はこれを誅殺して参られました。ですから、天下の人々は陛下を尊敬して参ったのです。
 しかしながら、東晋に反逆して亡命して来た祖約は、まだ生きております。臣はこの事実に、ひそかに疑惑を持っておるのです。」
 安西将軍の姚戈仲も同様の上奏をした。そこで、石勒は祖約を捕らえ、その親族縁者百余人を誅し、妻妾児女は諸胡へ賜下した。

 九月、趙王石勒は皇帝位へ即いた。大赦を降し、年号を建平と改元する。文武百官はそれぞれに進級し、劉氏は皇后、石弘は皇太子となった。
 石弘は文章が巧く儒教を貴ぶ人間だったので、石勒は徐光へ愚痴をこぼした。
「儒教など女々しくて、将軍の家には相応しくないぞ。」
 すると徐光は答えた。
「漢の皇祖は馬上で天下を取りましたが、文帝が儒教を貴んで盤石の礎を作ったのです。聖人が天下を統一した後には、必ず穏和な者がこれを継ぎ、残虐な風潮を改め、殺伐とした世の中を終わらせる。それが天の道でございます。」
 石勒は大いに喜んだ。そこで、徐光は言葉を続けた。
「皇太子は仁孝温恭なお人柄ですが、中山王(石虎)は戦に強く、偽りが多い人間です。陛下不諱(後崩御)の後は、社稷が皇太子の者でなくなることを恐れます。どうか中山王の権力を奪い、皇太子殿下には早めに朝政へ参与なさせますよう。」
 石勒は心で頷きながらも、実践ができなかった。

七年、正月。石勒が群臣を集め、盛大に宴会を開いた。その席で、石勒は徐光に言った。「朕は主君としてはどの程度かな?」
 すると、徐光は答えた。
「陛下の神武謀略は、漢の高祖以上。後世並ぶ者も出ないでしょう。」
 石勒は笑った。
「朕とて自分を知っている。それは言い過ぎだぞ。朕がもし漢の高祖に出会ったなら、その臣下となって韓信や彭越と肩を並べよう。しかし、後漢の光武帝と同時代だったなら、堂々と張り合ってみせる。天下はどっちに転ぶか判らんぞ。だが、大丈夫が事を行う時は、日月が皎々と輝いているように、堂々たる行動をとるべきだ。曹孟徳や司馬仲達のように、孤児や未亡人に媚びてまで天下を取るような真似だけは、朕は絶対行わんぞ。」
 これを聞いた群臣は、皆、頭を下げ、万歳を称した。
 石勒は学問を修めたことはなかったが、学者に書物を読ませてこれを聞くことは好きだった。時に、各々の事件へ対して評論することがあったが、その的を得た言葉は、聞く者を感服させた。
 ある時、「漢書」を読ませていた。麗(華/里)食其が六国の子孫を王に建てて漢の藩塀とするよう劉邦へ進言した件に至ると、石勒は驚いて言った。
「それは誤りだ。そんなことをして、どうして天下統一ができたのか?」
 その献策が張良の諫言で取りやめになったと聞き、石勒は納得した。
「それでこそだ。」